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以前から時間がとれたら長期滞在をしたかった沖縄。音楽関連の仕事で米国黒人グループ ”ミラクルズ” と同行し沖縄米軍キャンプを訪れたのがただ一度の沖縄訪問だった。しかもたった4日間ほどの短い出張で記憶が薄れるほど年数が経過しているが、なぜか当時の記憶風景は色あせすることもなく鮮やかな色彩が残っている。 旅行後 妙に頭から離れなかったものがもうひとつある。仕事のため猛烈な勢いで過ぎた "時間の感覚" だった。まるで一泊二日の旅行だったような記憶しかないのである。

そのためか、まず1週間や10日ほどではない ”長期滞在” と ”急がない旅” という2点が沖縄再訪の条件になってしまっていた。今回その機会に恵まれた時、当然のようにラフな計画が自然に出来上がった。長期のため経済的にも荷物でもすべて軽くすること、そして旅のスタイルは車ではあわただしく通過して見過ごしてしまうものをできる限り自分の足で味わうこと、のふたつである。

滞在プランはいたってシンプル。宿泊はマンスリーレートの宿舎、足は車(タクシー、レンタカー)・バス・ゆいれーる(モノレール)の交通手段しかない本島なので基本はバスというルールに挑戦。宿所候補の中から相当迷った結果、那覇市北部に位置する「ナムラレジデンス/NAMURA RESIDENCE OKINAWA」という家具付き(冷蔵庫・洗濯機・食器一式にDVDプレイヤーまで常備)マンションに決定した。

[海を一望でき、リゾートライフが満喫できる] のキャッチコピー通りなら嬉しいのだが...宿の良否は実際に訪問するまでわからないので早速予約を入れる。8階建のマンションなので最上階を希望したが、4階以上は予約でいっぱいとのこと、しかも海が一望できるのは7階以上らしい。宿泊費が多少でも安いと自分を納得させながら4階の予約を決定させる。

窓外下方に那覇の地形が現れた。機はまもなく軽いバンピングを交え地上に着陸し、空港施設ビルへと滑るように近づき止まった。那覇と久々の再会だ。2008年6月11日 水曜日、午後3時35分、くもり。機外に一歩踏み出すとまとわり付くような湿度が暑さを増幅させる。

1階到着ロビーで水槽の熱帯魚の出迎え受けたあと、「ゆいレール」へ急ぐ。ゆいレール乗り場は那覇空港施設ビルの2階から連絡しているので、ワンフロア昇ることになる。やや小型のかわいい2連モノレールに乗り込み、エアコンの冷風で一息いれる。

今回の長期滞在のベースキャンプ宿舎として予約したのは 「ウィークリー&マンスリー ナムラレジデンス」。所在地は那覇市北部の ”おもろまち” に隣接する ”天久(あめく)”というとこころである。乗り込んだゆいレールが空港から ”おもろまち駅” を一本線で結んでくれる。米国なみの車社会の沖縄で、この那覇市街だけを走るモノレール。のんびり走行する風情がなんともいい味をだしている。

川の上や沖縄本島の大動脈である58号線に沿って走ったりで、景色の変化にみとれているうちに”おもろまち駅”に着いた。今回の旅行ルール急がない旅(可能なかぎり車を使用しない)を実践するため、また荷物が少ないこともあり、歩きで 「ナムラ レジデンス」 に向かう。

駅の前の巨大な建物が 「DFSギャラリア」 という日本初の空港外免税店になる。この「おもろまち」は新開発された町のようで、道路は広く整備され建ちならぶビルも新しい。通りをぶらぶら歩くだけでシネコンなどが入る大型の複合ショッピング・モールや移設された県立博物館の現代建築などが見て取れる。

20分ほど歩いたあたりに 「ナムラ レジデンス」 を発見。小ぶりだがスマートなビルだ。外観は悪くない、さて内部のつくりはどうかな。早速入ろうとするがドアは沈黙したままでびくりともしない。ガラス越しに内部をうかがうが、小さなエレベーターホールにはフロントもなく無人のようだ。セキュリティがしっかり機能しているだけに...さあ、困ったぞ。

長期滞在旅行にはマンスリーやウィークリー単位で決める方が格段に経済的になるのは道理。2週間以内は少々高額でもフロントのオーシャンビュー、2週間以上は週単位のコンドミニアムと決めている。そんな信条から決めた今回のナムラ レジデンスに着いたのだが、中に入れない、だから最初のチェックインもできない。電話で予約確認した時、到着時間を聞かれたのでおおよその時間を答え、担当の詳細な説明を遮るように慌ただしく電話をきったような気がする。過去の経験から予約宿舎現地でチェックインできないことなど想定していないからだ。

ナムラ レジデンスの室内

携帯で連絡先を探していると1台の車がアプローチに入ってきた。車の中から声をかけてくれたのは、やはりナムラ レジデンスのスタッフだった。伝えておいた到着時間より早めに来てくれたのだが、こちらの到着が早すぎたようだ。スタッフが常勤しているオフィスは別の場所にあるとのことで、ゲストがチェックインする時にはフロントアプローチでスタッフが迎え入れるシステムだった。今後こちらを利用される場合、到着時間の打ち合せだけは正確を期すようお勧めする。

8階建てのマンションなのだが、周りにはあまり高いビルもなく、バルコニーからの視界を遮るものはない。室内も天井が高いせいか圧迫感は皆無。室内上部がロフトになっており、そこがベッドスペースだ。生活まわりのものはすべて完備されているから、チェックイン手続きさえ済ませてしまえばすぐにリゾート地でのアーバンライフのスタートだ。

”ナムラ レジデンス オキナワ” の詳細を知りたい方はガイドページへ。

長期滞在のベースになるマンションホテルにチェックイン。ひと休みしたら、生活行動半径となる周辺の探索を始めよう。このあたりは”おもろまち”を含め新都心と呼ばれている。米軍基地だった土地で返還後再開発されたところのようだ。

それでは早速出かけて見よう。表に出て右を見ると天久交差点、左方面はゆいレール ”おもろまち” 駅方面。すぐにでも天久交差点から泊港へ行きたかったが、時間も夕刻に近くなっていることや、長期滞在には不可欠のスーパーなどのチェックのため ”おもろまち” 方面の左に向かう。

歩いて1分のところに「天久りうぼう楽市」、そこから2分で「コープあっぷるタウン」、ふたつの大型スーパーが並ぶ。この間に「無印良品」「スポーツショップDEPO」「ベスト電器」「ユニクロ」「トイザらス」に加え100円ショップまで顔を揃え、マックなど飲食店もそこそこ入ったモールショップ広場になっている。長期旅行者には願ってもないシチュエーションである。

ショップモールを出て、なおも”おもろまち”方面に歩いて行くと左側にモダン建築の沖縄県立博物館が現れる。思わず入館したくなり入口の係員に質問。鑑賞に要する時間や閉館時間を尋ねたが,後日鑑賞が賢明なようだ。”急がない旅”の言葉が頭をよぎる。入館を諦めたあと、未練がましく中を覗くとパティオに野外展示されている古建築の穀物倉庫 「高倉」 が見える。後日の訪問が楽しみだ。

博物館と信号ひとつを挟み、県下最大規模のショッピングセンター 「那覇メインプレイス」 がある。シネコンQの施設を含む複合商業ビルになっている。

この「那覇メインプレイス」の先は、”おもろまち”駅になる。空が真っ赤に染まってきた。沖縄第1日目が暮れようとしている。そろそろスーパーで買出しをしながらベースキャンプに帰るとしよう。

那覇に来て2日経った。長期滞在ながら他の所用を兼ねての旅行なので、自由気ままな時間割りにはならない。しかし許される範囲の時間は「ちょぼちょぼ旅」にすべて使うつもりである。そんな背景で迎えた探索第1日目は、歩きだけで行ける領域に決定してみた。まずは1264年に正式国港として開設されたという泊港を見たくて、その所在地の前島をめざしスタート。

プルメリア

マンションホテル ”ナムラ レジデンス” を出て右に1、2分歩くと国道58号線にぶつかる。交通量も多く、さすがに本島一の幹線道路だ。そこが上之屋の交差点になる。交差点を那覇市街の方へ左折し、500mほど続く緩やかな坂を下ってゆく。

道沿いに植栽されたプルメリアが花を付けていた。小枝の先で綺麗に白く縁取りされた黄色い花が花束のように咲いている。普通プルメリアは中木だが、ここ沖縄では見上げるほどの樹木に成長しているため通行人の頭上よりかなり上に花が付くことになる。そのためか通行人は見上げもしないで足早に通り過ぎてゆく。

坂を降りきった左手に泊高橋という橋がある。一見なんの変哲もない平橋である。後日知ったのだが、昔日にはこの泊高橋が名勝のひとつであったらしい。1699年に架けられた時は、名前のとおり船を通すため太鼓橋ような高い橋であったそうな。しかも総石造りのためかなりの人手とコストと日数をかけたようである。その名勝となった橋は残念ながら太平洋戦争時戦略のため取り壊されている


その泊高橋の前に国道58号線をはさんで泊港があった。今では泊港の顔になっているターミナルビル ”とまりん” が船客を迎えるように前面に建っている。ビルの周りはこざっぱりとした小公園だ。埠頭に出てやっと海との対面がかなった。陽光が跳ねる海面がどこまでも続いている。岸壁沿いに北側を歩いてゆくと、空から覆いかぶさるような泊大橋が現れた。歩いて巨大な橋脚の根元まで行き、しばらく海の声に耳を傾ける。

港は国港だったのかと思うほど簡素で質実な風貌をしており、今は離島への玄関口として重要な役務を黙々とこなしている。世界にも誇れる珊瑚礁の美しい慶良間諸島へも高速船なら35分で運んでくれる。ターミナルビルには各離島村役場からの出張船舶課があり、発券所も並んでいる。2階は高い吹き抜けになったトワイライトコートが船待ち時間をゆったり過ごせるように造られているし、そこから一歩外部ウッドデッキに出るとフェリーの発着はもちろん、東シナ海を一望できるベイサイドテラスがある。

少々湿度は高めだが撫でる風が快く、このベイサイドデッキにいると徐々に時間感覚が遠のいて行く。 ...まだ陽は高い、次は海岸線に近いところを南に向かってみよう。


「泊港」のガイドページへ

泊港を後にし、目標地を定めないまま市街地に向かった。海岸線からあまり離れたくなくて、西サイドへ寄りながら歩いていると 「夫婦瀬公園」 という緑地にぶつかった。迷わず中に入ると、いきなり石造りのミニチュアの家が現れた。この建造物が沖縄特有のお墓だと分かるのだが、沖縄では民家わきや町中にもお墓がある。生活する風景に違和感なく溶け込んでいる。だから公園の片隅に建てられていてもなんの不思議もないのである。しかもこの箱庭のようなお墓を見ていると、今まで見慣れてきた本土のものに比べはるかに優しい印象を受ける。

緑のアーチがかかる若狭の通り

公園を通り抜けると潮渡川という川が公園の周りを取り囲むように流れていた。橋を渡り若狭という町に入ると、豊かな緑や花のある静かな町並みが見て取れる。交通量の激しい繁華な国道58号線から少し西に入ったところとは思えないほど物静かで、古い民家と現代的な住宅が混ざりあい長い通りをおおうように樹木がかぶさる風景は心地よい佇まいなのだ。

再び海岸線に突き当たるとまた公園である。石柱には若狭海浜公園とある。公園には整備をしている係員が数名いるだけで、細長く伸びる公園内は静まりかえっていた。園内には ”サンダンカ”、”ゲンペイクサギ” などの花が精一杯咲いている。

公園の西側が海岸に面している。また東シナ海を見たくて西の縁まで行くと、海から生えたような橋脚が並んでいる。海面上の中空を走る泊港からの泊大橋である。大橋を通る 「波之上臨港道路」 が 「波之上ビーチ」 方面へと続いている。

腹へった....何か食べよう。


写真左:若狭海浜公園 写真右:公園から望む波之上臨港道路

若狭海浜公園でうろうろしていると、空腹を覚えたので時計を見るとすでに午後2時を回っている。今朝は2杯のコーヒーしか飲んでいなかったことを思い出し、早速燃料補給のため食べ物探しに出発することにした。

市街方面へ少し戻り若狭大通りを歩くうち ”沖縄そば”の 文字が目にとまり、お店の場所を地図で確認すると2ブロックほど西にある 「波之上宮」 という神社の前とのこと。ウエストサイド・ウォークが続行できる上、燃料補給もできる絶好のお店と、そこへ急行した。

大鳥居の前で ”沖縄そば” の幟(のぼり)を風にはためかせているお店の名は 「琉球麺屋シーサー」。入れ込みの座敷、テーブル、カウンターを備え、こじんまりとした清潔そうなお店である。

メニューにはシーサーそば(550円)、ソーキそば(煮込んだ骨付きあばら肉 650円)、カレーそば、もずく麺のそば...けっこうな品数が書かれている。

”沖縄そば” は初体験なので、まるで想像がつかない。イメージできるのは ”カレーそば” くらいのものだ。もっともスタンダードな”シーサーそば”を注文。待つ間に地図を確認すると、正面にある 「波之上宮」 の裏が 「波之上ビーチ」 だ。ウエストサイドをぶらついているうち、かなり南まできてしまった。 「波之上ビーチ」 は那覇からもっとも近い綺麗な遊泳ビーチと聞いている。是非とも立ち寄りたいビーチのひとつである。

沖縄そばが湯気をたてながらやって来た。どう見てもそばには見えない。食感もうどんに近い。ひと口食べての感想は正直に表現するなら、可もなく不可もないと云ったところか。しかし食べ終わる頃には薄味なのにあとをひく深みある味と ”うどん” には無いもったりとした麺の歯ごたえが馴染んでくるから不思議である。加えて煮込んだ三枚肉が旨い。これだけ”日本そば”や”うどん”と違うから”沖縄そば”のジャンルが成立するのだろう。県民食になっているのがうっすらと判るような気がする。

琉球麺屋シーサー

住所 那覇市辻2−23−10
電話 098−800−7660
営業時間 11:00〜17:00
        火曜定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩20分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車5分
 車 那覇空港より 15分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点を
    直進し左手)

青黒い大鳥居をくぐり、ゆっくりと石段を上る。「波之上宮」の鳥居は石造りや木材ではなく鉄製のため、黒色の重厚な顔をしている。戦争で社殿などほとんどが焼失したが、完全に復旧できたのは50年後の平成6年とある。くろがねの鳥居も比較的新しいに違いない。

沖縄総鎮守で正月などには人出で溢れかえるほど人気のある神社らしいが、社殿も境内もそれほど大きくはない。

本殿に詣でたあと、境内を巡り裏側に回りこむと、断崖の上に建つ神社だとわかる。かつては並ぶものがないほどの景勝地という案内に、ようやく納得することができた。振り返り神社を背にすると目の前には「波の上ビーチ」が広がっていた。

しかし、浜辺は目一杯のクレーンや機械で占拠され、大がかりな何かの工事の真っ最中だ。このあと行こうと思っていたが、今日は止めてルート変更をしよう。


ルート変更し隣接する 「護国寺」 を訪問した。 「波之上宮」 の別当寺として建てられた沖縄最古の寺である。このあたり一帯は旭ヶ丘公園となっており、寺の周りには碑が多く、高低差のある変化に富んだ緑地になっている。風の音や野鳥の鳴き声だけが聞こえる心地よい静けさだった。

さらに南に下ると、孔子廟と書かれた自然石が通り沿いに置かれていた。正面の門は固く閉じられており、門の上に 「至聖廟」 と大書された扁額がかけられている。

儒教の祖である孔子を祀った霊廟は日本各地に点在し、東京の湯島聖堂もその一例である。中国のものが日本にできたのは、徳川幕府が存続安泰に有効な ”論語” の儒家思想を正統な学問として奨励したことに始まった。

至聖廟(久米孔子廟)の大成殿

本門わきに小さな扉が開いているのを発見したが、勝手に入るのも憚りがあり、また去りがたくもあり、うろうろ躊躇していると、中から談笑する大きな声が聞こえてきた。2つの観光グループが鑑賞回遊中に発した声であることを確認し、意気軒昂に入場。

中はパティオ風の敷地内に堂や廟の建物が4つ、孔子を祀った大成殿を正面に据え両翼に並んでいた。

案内図

[写真をクリックすると大型に]

天尊廟の中に三国志で広く知られる関羽が祀られていた。学問の象徴が孔子であるのに対し武の象徴が義に生きた関羽である。しかし孔子廟はともかく、この関帝廟(中国人は関羽を祀る霊廟をそう呼んでいる)は中国ではポピュラーでも日本では馴染みもなく、横浜中華街のような中国人街にあるだけである。早速訊いてみることに....

やはりこちらの至聖廟は日本人が学問所のそばに建てたような孔子廟ではなかった。現在地より南に2ブロックくらい下がった場所に久米という地区があり、昔は中国皇帝からの正使や派遣された中国人がそこに居留し、時代が下るにしたがい自然に住み着いていったとのこと。そこで建てられた孔子廟だったが、太平洋戦争で全焼失し、1975年に現在のところに復元したようである。孔子廟ひとつの背景でも歴史の永さと戦火の大きさを感じさせられる話であった。

孔子廟を後にし、そろそろ探索も終わりにしようとまっすぐ国道58号線の方へと足を向けた。夕暮れが近いというのに暑さはいっこうに衰えない。久米南の交差点を渡ると右側に「かき氷」の文字を見つけた。店の名は ”千日” という。躊躇なく店に飛び込む。

やや広めの食堂といった感じで丸テーブルに真っ白な椅子が涼しげに並ぶ。扇風機がゆるゆると回っていて、気さくでのんびりとした雰囲気だ。セルフサービスなので厨房カウンターに行き、数種類あるかき氷のメニューから「氷いちご(300円)」をオーダーする。創業は50年以上も前でぜんざい中心のお店らしい。

氷の掻く音が心地よく、あたりの暑気をはらってくれる。「できました!」の声に誘われ、カウンターまで取りに行くと大きな山のようなかき氷が待っていてくれた。口の中でほどけて溶けてゆくその冷たさは、なによりの御馳走だった。
泊港から始まった「ちょぼちょぼ旅」も本日は店じまいにしよう。


「波之上宮」のガイドページへ


千 日

住所 那覇市久米1−7−14
電話 098−868−5387
営業時間 11:30〜20:00
        月曜定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩15分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車1分
 車 那覇空港より 15分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点の
    手前左手)

本日は午後から時間ができたので、那覇バスターミナルを訪ねることにした。急がない沖縄本島の旅 「ちょぼちょぼ旅」に必要不可欠のバス。そのベースとなるバスのルートやタイムテーブルの情報集めである。ゆいレールの旭橋駅からすぐとの案内に従い、早速ゆいれーるのおもろまち駅へと出掛けた。

おもろまち駅に着いてから、目の前の大きなビル ”DFSギャラリア 沖縄” に一度も入っていなことを思い出し、ランチがてら立ち寄ることにした。かなり大きなビルなのに、3層しかない。たっぷり空間をとった贅沢な造りである。さすがに日本唯一の空港外免税店らしい構えだ。

2階南側の端が正面出入り口になっており、そこを入ると左側一列に大手レンタカー8社のレセプションカウンターがズラリ。その右手からショッピングゾーンが始まる。高級コスメがところ狭しとディスプレイされたエリアを抜けると一流ブランドが軒を並べたブティックゾーンになる。その中央にはシャンパンバーなる洒落たブレイクスポットが設けられていた。その後もラグジュアリー(時計・宝石)、レザー(バッグ・靴)と延々と続く。反対側の端に3階のフードコロシアムへ上るエスカレーターがあった。とにかく横に長〜いビルなのである。

フードコロシアムはオープンキッチン、フードコートスタイルのやたらに広い飲食スペース。中央部に集められた8つのブースではアジアンフードからイタリアンまで世界各地の料理が目の前に並ぶ。

入口で手渡されるカードを持ち、ブースを回りながら好みのものをオーダーし、カードに記入してもらう。帰りにそのカードを レジに渡し勘定する便利システム。ランチに選んだのは”ガパオライス”と云う名前のアジアンフードで、ミンチが香ばしく スパイスが軽く利いたけっこうイケる一品だった。

昼食後、一路那覇バスターミナルへと始動。那覇空港に到着した日以来の”ゆいレール” との再会だ。乗り込んだ2輌編成の小さなモノレールが旭橋に向かって動き出す。

第一印象から好感を持ったこのモノレールだったが、やはり乗り心地は良い。車内はモノレールより電車に近いレイアウトである。沖縄滞在が終わる頃にはすっかり好きになっているかもしれない。

時速50km前後で滑走する6輌編成の東京モノレールに比べ、どう測っても時速30kmくらいで走行している2輌編成のゆいレール。どことなく東京下町を行く都電荒川線の1輌電車を思わせる風情なのである。これは懐古趣味の贔屓目(ひいきめ)ではない。懐古するほど都電に乗ってもいないし年齢でもないことをお断りしておく。

ゆいレール旭橋駅から那覇バスターミナルまで歩いて数分の距離であった。まったく飾り気のない実用優先のターミナルだ。以前この場所には沖縄県営鉄道の那覇駅舎があったが、やはり戦争で全焼したらしい。敷地内の乗り場の数は多く、乗り入れているバス会社も4社あり、バスの運行経路などはかなり複雑なルートマップになっている。事前にネットで調べた時の疑問点メモを片手にターミナルオフィスに飛び込む。必要な情報を入手するのに40分ほどかかってしまったが、これで 「ちょぼ旅」 のルートスケジュールが組み上げられる。

オフィスを出ると陽はまだまだ高い。さてどこへ行こうか....旭橋から距離も近いので、3日前の孔子廟の続きをやろう。工事中だった波の上ビーチも近くで見学してみたい。 よし! 「続・ウエストサイドを歩く」 だ。


「DFSギャラリア 沖縄」のガイドページへ

とにかく暑い。 まだ6月中旬だというのに強い陽射しに焼かれた道路から暑さが這い上がってくる。那覇バスターミナルのある旭橋から国道390号線を西へ西へと歩いている。この道路を左に行けばすぐに那覇港に出るはずだが、今は前回行けなかった”波の上ビーチ”の海をめざそう。

同じウエストサイドでも、若狭とは町の様子が一変する。ここの町名はシンプルに 「西」 とだけ付けられた町で、閑散としている。昼間から開いている BAR、見るからに木賃宿のような宿泊所など、地色のままの表情には味がある。

道をまっすぐ歩いていると ”ロワジールホテル” にぶつかってしまった。歩いて来た道以外には北へ向かっている道が一本だけある。 波の上ビーチの方向をベルキャプテンスタッフに尋ねると、もう少し北にあるとのことだったので休まずその道を北上することにした。

流れ落ちる汗をふきながら、北上する露地をだらだらと歩く。歩くうちに波の上ビーチに着く手前を左折し、先に海岸線に出てから再び北上するよう進路変更をした。しばらく行くと右側に、コンクリート造りの校舎のような沖縄少年鑑別所の建物が出現。名前の持つイメージには遠く、門内にはゴミひとつ無く静かで落ち着いた佇まいを見せていた。屋上に高く掲げられたTVアンテナが抜けるような青い空を背景に浮かび上がっていたのがとても印象的だった。

やや込み入った路地を抜けると、またもや大きなホテルの前に出てしまった。今度のホテルの名は”那覇ビーチサイドホテル”という。まだ海が見えない。しかしビーチサイドというからには海が近いはずだ。そう見当をつけホテルを回り込んでみたら、思わく通りにありました! 海が。

しかし海辺の際(きわ)は砂ではなく打ち放しのようなコンクリートで、しかもその上にドミノゲームで使用する牌のような形をした大きなコンクリート・パイルが行儀よく並んでいる。波之上宮から見た波の上ビーチも工事中だったが、この一帯まで工事領域になっているようだ。いずれにせよ波の上ビーチまで行ってみよう。

波の上ビーチに着いたが、工事の大型機械に占拠されていて潜り込むスキがない。そこで高見の見物を決めこみ、波の上橋を渡ることにした。 橋へ行くにはホテル前面を回り込まなくてはならない。その前に工事関係者を捕まえて何の工事か尋ねてみよう。

若狭から那覇空港へ直行できる”西道路”の新設工事で、まだ2年もかかるという。その期間ふたつの入口を持つビーチエリアの辻側(南西区域)は閉鎖されるが、若狭側(北東区域)のビーチは通常通り利用可能とのことだった。

波の上橋は高度も橋幅もたっぷりある大きな橋だった。目の前には海岸線に沿ってクレーンや組まれた鋼材などが広がっている。最初は埋め立てなのか建設なのか分からなかったが、道路建設と分かると面白味のない工事現場にも興味が出てくるものである。完成までのプロセスが想像できるからだろう。橋の欄干にもたれ眺めているうちに思わぬ時間が経過していた。

閉鎖されていない若狭側のビーチものぞいたが、こじんまりとしすぎて解放感がなく、ガイドにあるような 「那覇唯一の綺麗な都市型ビーチ」 のようには見えない。以前の美しい浜辺に復旧するのは2年後になるのだろう。次の目的地を同じウエストサイドにある”福州園”にしたが、その前に暑さに少々バテ気味なので水分補給がてらの小休止をとることにした。

若狭と久米の町を東西に分ける若狭大通りに出たら、出会いがしらに面白い店と出会ってしまった。店の表に ”ぶくぶく茶屋 琉球珈琲館&カフェ沖縄式” と表示された どこが店名なのか、わけのわからない店だ。

このお店に入るには入口でスリッパに履き替えなければならない。やや暗めの店内に大きな窓からの陽光がほどよい照明になっている。涼をとるため ”ぶくぶくアイス珈琲” をオーダー。椅子に落ち着いても噴き出す汗が止まらない。炎天下歩き続けたため体が茹で上がっているのだ。店内にはコーヒー豆を入れたたくさんの麻袋が床に置かれ、カウンターや棚には古酒の甕(かめ)でいっぱい。奥にはプロ仕様の音響装置が設置され不思議な空間になっている。

やってきた ”ぶくぶくアイス珈琲” は、ほんわりとした泡がビールのように表面を覆っている。泡が優しいのど越しをつくり、焙煎の香ばしいコクが味わえる一杯だった。ちなみに沖縄ではおめでたい時に ”ぶくぶく茶” なるものを飲む習慣があるとのこと。沖縄の硬水を使うことによってぶくぶくと泡立つそうだ。それからもうひとつ、このお店では ”カレー” も名物とのこと。


カフェ沖縄式

住所 那覇市久米2−31−11
電話 098−860−6700
営業時間 11:00〜22:00
        不定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩15分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車2分
 車 那覇空港より 12分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点を
    右折−スグ右手)

沖縄の幹線道路とも云うべき国道58号線からやや西に入った所に、松山と久米を分ける通りがあり、その一画に、緑がこぼれるように多い場所がある。片側には”福州園”、もう片側には福州園に倍する松山公園が横たわる。

福州園を囲む白亜の壁の上から高い樹林が顔を出し、緑をばらまいている。壁には等間隔に花窓のような透かし彫り窓がうがたれ、庭内の様子をうかがえるようになっている。入口では石造りのシーサーが訪問者を迎えてくれる。

入場料は無料だが入口で記帳を求められる。1992年9月開園当初は入場料300円を取っていたようだが、現在は無料。

一歩入るともうそこは小中国だった。東京の大名庭園に慣れてしまった目には、異彩を放つ中国庭園がすこぶる新鮮に感じられた。

設計から石材まで那覇市の友好都市である中国福建省福州市の手により造園されている。

庭園の造形は福州市を模しており、三山・二塔・一流を表現し四季の変化を感受できる贅沢な造りである。山などの高低変化、水の動と静の変化、草花樹林の四季変化。観る者の視点で千変万化する庭に仕立てられている。三山のひとつ ”冶山(やざん)” から流れ落ちる滝の裏にさえ、洞窟を設け砕け落ちる水のきれぎれに滝前の ”飛虹橋” を眺めることができる。

2500坪の庭園全域の隅々にまで堂、橋、塔が設置されているが、それらの細部に中国の匠の技が発見できる。堂の廂(ひさし)、門の飾り、橋の欄干を飾る石像、透かし彫り窓、石柱彫刻....挙げたら限りがない。

観光客もそこそこいるのだが一か所で混み合うこともなく、ゆっくりと自分のペースで回遊できるので2周もしてしまった。最初の一周では景観を、次の一周は上記写真にある細部まで精巧なつくりを鑑賞。2周目の終わり頃になり、気がついたことがある。東京の大名庭園と雰囲気が大きく違うのは、中国風建築物のせいばかりではなく植栽されている草花樹木がまったく違うことにも原因があると云うことである。

東京にある庭園や公園は梅から始まり藤、つつじ、牡丹など定番の花で季節を楽しむのだが、ここの庭園にある植物はまるで違うのである。

例えば黄色いラッパのような花をつける ”キバナキョウチクトウ” は温室栽培の花だが、ここでは戸外の庭園で平然と咲いている。また6月頃より花が咲き盛夏過ぎに実をつけるはずの石榴(ざくろ)がすでに実をつけているのである。亜熱帯沖縄の魅力のひとつを発見した思いだった。

”ツワブキ”という植物がある。沖縄では”ちいぱっぱ”と呼ぶらしい。花を見るより大判で艶のある葉を愛でる植物である。波打つ白壁に沿って群生している”ツワブキ”の、なだれ落ちるような葉が印象的だった。そろそろ閉園時間になる。本日のちょぼちょぼ旅も店じまいにしよう。


「福州園」のガイドページへ

本日は一日オフになったので、午前中はマンションホテルのバルコニーで日光浴をしながら読書をする。昼前には出掛けるつもりだったのだが、読み始めたスティーヴン・キングが止まらず、午前中は目一杯日光浴となってしまった。

午後一番には首里に向けて行動開始。いつものように「おもろまち駅」(ゆいレール)を利用し初めての「首里駅」を目指す。10分弱で到着した「首里駅」でバスを利用するか徒歩にするか、一瞬迷ったがやはり徒歩で首里城に向かう。駅前から首里城を通り那覇市街中心部へと伸びる県道29号線。駅近くの鳥堀の交差点を突っ切りその県道をひたすら首里城のある西の方向へ歩き続ける。

首里城も見たいが、その前に行きたい場所がある。金城町の石畳道(いしだたみみち)だ。城の南から始まる坂道で、戦争でも唯一戦禍を免れ歴史を忠実に残している場所なのだ。

それにしても暑い。梅雨のはずだが、沖縄到着以来1週間経つが雨など見たことも無い。15分ほど歩くとやっと左手に深い緑の池が見えてきた。”龍譚(りゅうたん)”と呼ばれる細長い池が、首里城の懐近くまで入り込んでいる。首里城の上部だけが池の向こうにうっすらと姿を現した。

池に見とれていて通り過ぎてから気が付いたのだが、県道の右側つまり龍譚池の北正面に樹木に囲まれた古い館があった。案内の看板を読むと旧県立博物館の建物(写真左上)であった。新しい県立博物館は筆者が逗留しているマンションホテルのある新都心”おもろまち”に新築されている。

周りの石垣などに興味が湧き、うろうろしていると次のようなことが分かった。もともとこの場所は琉球王朝時の世子が住む御殿のあったところで、明治12年(1879)の廃藩置県で城を明け渡した尚王一族が移り住んだ場所でもあった。やはり徒歩の旅には発見が多い、時間と体力は必要だが...

龍譚の少し先から回り込むルートで石畳道に連なる真球道(まだまみち)の入口にたどり着いた。その道に入りしばらく行くと急勾配の坂道があらわれ、石積み階段になっていた。住民はこの坂を島添坂(しましーびら)と呼ぶ。

階段は樹木の青葉に蔽われてアーケードのようになっていて涼しげに見える。この道を下って行くと赤マル宗通りと交差するのだが、そこから先300mほどの道を石畳道と称している。

頭上にかぶる緑のアーケードの石段を抜けると視界が広がった。城下町が目の前下方に現れ、現在地がかなりの勾配を持つ高所であることがたちどころに実感できる。

琉球石灰岩を丁寧に敷き詰めた道は艶消しの風合いを持ち、両側に建つ住宅の赤や白縁の瓦と相まって観るものを立ち止まらせるような景観を生成する。

浮き上がる光と影の濃淡の中、白い石畳道がずっと続いている。

(石畳道の続きへ)


「金城石畳道」のガイドページへ

つやの無い白い琉球石灰岩を敷き詰めた長い坂道をゆっくり下って行くと金城ダム通りにぶつかる。

そこが石畳道の出入り口(写真左)になる。首里城に戻るには、ここでUターンし300m以上の坂道を上らねばならない。

楚々とした美しさがある石畳道だが、華美からは対極にある。

ややもすると単調になりがちな道に南国の花と鮮やかな屋根瓦が良い添景になっている。

石畳道沿いに 「首里殿内」 という店があるが、この沖縄料理店は敷地内に”泡盛”と”民族”というふたつのテーマを持つ資料館を有しており、食事客以外にも開放している。


石臼と石垣で組み上げられた門をくぐると、300坪ほどの園内に池や資料館があり、泡盛資料館には古酒をはじめ1000本もの泡盛が展示されていた。休みがてら、のぞいて見るのも一手。

再び坂道を上るが、なだらかに見えた坂も昇るにつれ、傾斜がしだいにきつくなり汗が流れ落ちる。建造から500年以上も経つこの石畳の坂道を、いったいどれほどの人馬が行き交ったのだろう。

行程の半分ほども上っただろうか、暑さとタフな坂道でダウン寸前の筆者の目の前に 「金城村屋(かねぐしくむらや)」 と書かれた建物が...

下りてきた時には特に意識もせずに通り過ぎたが、この地区の公的建物を休憩所として開放したものであった。じりじりと太陽に灼かれながら急坂を上る身にとって、これほどありがたい休憩所はなかった。

人心地つくと、今度は猛烈な喉の渇きを覚え自販機探しの路地探索を始める。自販機で求めたよく冷えた水を片手に、近所を歩くうち、金城樋川(かねぐしくひーじゃー)という湧水の水場を発見。昔からこのあたりの広場で、坂の往来をする人馬が水を使い足を休めたという。さきほどの休憩所がちょうど石畳の坂道の中間点になるらしい。

敢然と後半戦の行程に向かったが、ますます坂は勾配を増し、水分を補強したせいか汗は噴き出す有様。下りるときの風景を楽しむ余裕など微塵もなくなっている。ほとんど倒れそうになった頃、例の樹木が覆う緑のアーケード階段にたどり着いた。木陰のありがたさを、これほど実感できるとは想像もしていなかった。

ぼろぼろヨレヨレになって、やっと出発点の入口に上り着いた。日頃恵まれすぎた環境にどっぷり浸かっているため、完全に野生の遺伝子は退化してしまったようだ。


「金城石畳道」のガイドページへ

石畳道で思わぬ道草をしたため、本来の目当てであった首里城観光ができそうもなくなってきた。首里城は夜間まで入場できるが、陽が落ちてしまうと城内はともかく城郭内をゆっくり鑑賞できないと考えたからだ。

何はともあれ石畳道での大汗で絞り出した水分を補給するため、首里城近くの小さなオープンカフェに飛び込んだ。ご主人お薦めのフレッシュな亜熱帯果物ジュースの誘惑を乗り越え、やはりここはマンゴーのかき氷をオーダーする。口中で溶けるかき氷のなんと美味いことか、石畳道での奮闘が報われると云うものだ。

玉陵(東室)の模型(15分の1スケール)

お店のご主人と話しているうちに、本日最後の鑑賞ターゲットを世界遺産にも登録されている琉球歴代の王たちが眠る「玉陵(たまうどぅん)」に決めた。首里城は近いうちにたっぷり時間をつくり再訪しよう。

玉陵は首里城から数分のところにあり、観光客もあまり多くないとのこと。そしてアドバイスもひとつ貰った。陵墓域に入場する前に必ず資料館を訪問することが最上の鑑賞方法とのアドバイスだった。

資料館は券売窓口のある建物の地下にあった。アドバイスが無ければ確実に通り過ぎている。そこには第2尚氏王朝の簡単な年譜から15分の1縮尺の陵墓の模型までが展示されており、一目で陵墓内の構造がわかるようになっていた(左写真)。


資料館(本館)を出て少し歩くと正面の門が現れ、両脇に番所の建物を従えている。門をくぐるとそこは中庭となり陵墓域への入口となる中門が見える。観光客の姿が一人もいない。陵墓にふさわしい聖域としての空気が充満していた。

中門の左脇には碑文があり、この玉陵に葬られる資格者の規定文が石に刻まれている。建造時1501年の石碑である。中門を抜けると足元には珊瑚砂利が敷き詰められ、眼前には琉球石灰岩で組み上げられた陵墓がいっぱいに広がっていた。

写真左:中門とその先の玉陵(東室) 写真右:玉陵(中室と西室)

建造されたのは350年の永きにわたって続いた第2尚氏王朝の初期、1501年である。陵墓は向って左から東棟・中央棟・西棟の3基に分かれており、歴代の王が眠るのは東室になる。近づけるのは陵墓前までなので、景観から想像を巡らすわけだが、資料館での予備知識が無ければ表層を眺めるだけに終わっただろう。

まだ観光客はひとりも訪れない。守礼門近くには人波がうねるほどの人混みだったのに...。
まったくの貸し切り状態に嬉しくなり、長居を決め込み、あいかた積みの石壁をじっくり鑑賞したり、番所を見学したりと、おかげで静寂の中、500年という悠久の昔を思い遊ぶことができた。

                      番所から景観


首里城公園〜首里城のガイドページへ

いよいよ今日から那覇から離れた旅を始める。しかもバスで行くのんびり旅だ。今回は南部方面に決め、本島で一番南のポイントをたずねることにした。ガイドブックによると喜屋武岬(きゃんみさき)とあるが、地図を見るとこの喜屋武岬よりやや東の荒崎という地域が最南端であることが判る。しかしその最南端ポイントまでの道が無いことも判った。やはり喜屋武岬を目指そう。

那覇バスターミナルから糸満BT(バスターミナル)行きのバスに飛び乗り小一時間ほどで終点に着いた。この糸満BTで乗り継ぎ、喜屋武まで一気に足を伸ばす。糸満BTを出発したバスは糸満ロータリーで国道331号線に乗り入れ南下して行く。しだいに鄙びた景色に変化し、ゆるゆる走るバスをその飾り気のない地色が 包み込んでゆく。

地元とおぼしき乗客を入れ替えながら走り続けたバスもようやく喜屋武のバス停に着いた。糸満BTから30分ほどの時間距離になる。降りたバス停は小さな広場にあり、幾筋もの道が町中へと繋がっている。その中から案内のあった岬へと続く道に踏み入った。ものの数分で町を通り抜けてしまい、あとはどこまでも連なる白い舗装道路。

15分歩き続けているが風景は変わらず、真っ青な空と大地の緑、そして長く引かれた一本道。ガイドブックには徒歩15分と記されているが、見渡すかぎり海岸線の気配など微塵も無い。時々観光と思われる車が何台も追い越して喜屋武岬方面に走り去る。

舗装された道は一本なのだが、いくつかの細い未舗装道路を通り過ぎてきたので間違えたかと思い始めた頃、手書きの案内板を発見(左写真)。意を強くし再び歩き続けるが、太陽のきつい照り返しが舗装道路から這い上がってくる。吐く息も熱く、まるでゴジラだ。

人家もまばらになるが、やはりあたりには、いっこうに岬に着く気配が無い。無意識に自販機を探す目。こんな人家もまばらな野中の一本道に自販機などあるはずもない。

飲み物を携行しなかった自分を呪いながら歩いていると、前に追い越して行った車が戻ってきた。岬の観光を終えての帰り道なのだろう。こちらに近づくにしたがいスピードを落としてきた。車を止め何かを尋ねるかと思いきや、そのまま走り去ってしまった。車中はカップルの観光客のようだった。

大量の発汗で体力も消耗し、いまだ目的地に到着しないため、那覇の金城石畳坂道でのひどい有様が再現されつつある。2台目の車が戻ってきたが、やはりスピードを極端に落としてすれ違って行く。決して徐行などではない。

やっと事態が理解できた。観察されていたのだ。こんな長い一本道を歩いている観光客など普通いないのである。筆者は外見からも地元ではなく訪問者であることは一目瞭然で、炎天下をただひたすらに歩いている酔狂な旅人に映ったのだろう。 車中の旅行者が行きにテクテク歩く変人を追い越し、帰りにもまだちょぼちょぼ歩いていたら顔のひとつも見たくなるのが人情というもの、何の不思議もない。 よし! カッコつけて元気に歩こう。

前方に何やら作業をしている集団が視角に入った。道路を塞ぐように伸びた樹木の剪定作業だった。早速尋ねると目的地は目と鼻の距離...遂に到着だ。これだけ苦労すると到着の嬉しさもひとしおである。

そこは断崖の上の小さな広場といった印象だった。片側には休憩所のかわいい東屋がある。その前で一台のワゴン車が旅行者のために飲料やスナックを臨時販売している。飛びつくように買い求めた水を一息に飲んだ。冷たい水が干上がった身体に沁みわたってゆく。

 喜屋武岬の崖上からの眺望

太平洋戦争末期にはこの崖上から軍人のみならず住民の多くも投身し玉砕したという。今その場所には”平和の塔”碑が建てられている。記念碑の先には東シナ海と太平洋がぶつかる大海原がどこまでも静かに広がっている。

苦労した分眺望を楽しみ充分に休憩したあと、近くの具志川城跡に向かった。もちろん帰路用の飲料は確保済みである。


喜屋武岬のガイドページへ

舗装道路の終わったあたりの片隅に、小さな石柱がポツンと立っていた。本当にポツンと表現するほど目立たない。「具志川城跡」とある。しかし回りを見回しても、舗装の終わった土の道路と樹木があるばかり。もう一度石柱に戻ると樹木の中にかすかに道らしき筋があった。その道らしきところに踏み込みしばらく行くと、樹木が途切れていきなり視界が広がった。

崖縁を背景にした小ぶりな岬のような高台の場所だった。白い琉球石灰岩を野面(のづら)積みに組み上げた城壁が見える。


沖縄では ”城” を ”グスク” もしくは ”グシク” と云う。その数は本島だけでも200以上になる。この具志川グスクの規模だが、東西に82m南北に33mの細長い構造になっており、海を一望する崖の地形を最大限活用した造りになっている。しかしまだ城跡としての城郭復元は未完で、今は想像を膨らませるしかない。現在12ヶ年計画で復元工事の真っ最中で、区域内には鉄パイプがところどころ組まれていた。

500年ほど前、久高島を追われた具志川一族がこの地に逃れ築城したと伝えられているがまだ多くの謎を残している。沖縄グスクのほとんどが内陸の小高い山の高所に建造されているが、この具志川城だけは海に面する崖上に建つ。

海面より50m以上はあると思われる断崖より望見する景観は迫力があり、往時には自然を最大活用した堅塁だったのだろう。たまたま遭遇した地元の人に尋ねたら、昔よりこのグスクは居館としての城ではなく物見(見張り)としての城塞であったと伝え聞いているとのことだった。

いつまでも海を眺めていたかったが、喜屋武のバス停まで大汗を流し歩いて戻らねばならない。ぼちぼち腰をあげ出発しよう。
陽はまだまだ高い...次の行き先は歩きながら決めよう。

「具志川城跡」の紹介ページへ

国道331号線を東へ向かって走行する南部循環バス。今まで閑散とした道路沿いが急に賑わってきた。車内の案内では次の停留所 「ひめゆりの塔前」 が表示されていた。バスを降り国道沿いに「ひめゆりの塔」の方向へ歩いたが、居並ぶ店の表情や観光客を呼び込む声などまるで温泉街の感がある。

ひめゆりの塔の敷地入口では献花用の花束を売っている。売っているのは見るからに元気な ”おばー” が2人。沖縄では中高年の女性をそう呼ぶ。彼女たちは長い間培った知識のすべてを次世代の ”おばー” へと伝えてゆく強力なコミュニティを形成しているのである。この慣習形態は沖縄全域に及ぶ。

筆者も花束を求め、しばらく ”おばー” と立ち話をしたが、実にたくましく威勢がよい。たくましいという傾向だけなら、なにも沖縄に限ったことではないが。

「ひめゆりの塔」の前に献花台が置かれていた。 黙祷したあと気が付いたのだが、「ひめゆりの塔」の真ん前にぽっかりとマンホールのように口を開けている洞窟があった。柵から身を乗り出して覗いたが、かなり深く中は漆黒の闇へとなだれ込んでいた。

その闇の中の洞窟こそが、「ひめゆりの塔」 の最後の舞台となった陸軍病院第3外科壕であった。

太平洋戦争末期、激しい地上戦が展開される中、看護活動のため学徒動員された222人の少女たち。上陸した米軍の激烈な一掃作戦に追われ、遂には南のこの地まで追い詰められてゆく。大体の経緯は映画や書物などで知っていたが、その知識たるや表層のほんの一部分でしかなかった。

ひめゆり平和祈念資料館

少女たちで編成された”ひめゆり学徒隊” の凄惨な3ケ月を、過不足のない事実だけで淡々と伝える 「ひめゆり平和祈念資料館」。慰霊碑に隣接するように設けられたこの資料館は館内撮影禁止のためサイトページではご覧頂けないが、展示室ごとにテーマを分けコースを巡るだけで当時の実態が理解できるようになっている。

初期の写真に見るあどけない少女たちの笑顔。大量に運び込まれる負傷兵の看護の日々。暗い壕の中で激務に追われ心身ともに疲弊してゆく少女たち。そして突然の ”解散命令” で戦場を彷徨する終章。


コース途中に壕(”がま”とも云う)の実物大のジオラマがあった。彼女たちが立ち働いた洞窟のジオラマである。そこを覗くと暗闇の中にひとすじの光が天井から降っている。その天井の光源はさきほど地上で見た足元のマンホールのような穴から射す陽光を想定して造られていた。

そして館内には説明員たちが常駐しており、その大半がしらゆり学徒隊の生存者たちで構成されている。彼女たちの説明の中でつぶやくように「生きてしまった」という言葉が何度か聞かれた。「生き延びた」や「生き抜いた」ではない。目の前で失った友人のこと、あるいは軍の強制的な解散命令のため負傷して動けない友人を残し逃げざるを得なかったことなどへの積年の思いが込められているに違いない。そのひとつの静かなつぶやきは百の説明以上の力で真実を伝えてくれた。

いずれにせよ、この資料館は沖縄最終戦の3ケ月をひめゆり学徒隊を中心に据え、あますところなく沖縄戦の実態を伝えている。風化することがないよう願うばかりである。
表に出て歩くうち、目の前に赤いポストが飛び込んできた。その微笑ましい姿に思わずホッとする。

「ひめゆりの塔」のガイドページへ

国道331号線を西に向かって歩いている。タイミングが悪く「ひめゆりの塔前」からのバスがうまく連絡しないので歩くことにしたのだ。太陽が沈むまでまだ時間があり、糸満市の南部町を少し歩いてみたかったこともある。沖縄の日没は本土に比べるとかなりゆっくりとしていて、午後7時を過ぎても十分に明るい。その7時まで時間はまだまだある。

交通量はそれほどでもないが、長く途切れることはない。国道沿いの住宅から南国の花が顔をのぞかせ、その種類の多さには驚かされる。門柱や屋根にはシーサーがどっかりと居座り、門内の入口には ”ヒンプン” と呼ばれる塀のような魔除け板が置かれている。

目にも鮮やかな朱色の建物が見えてきた。正面に琉球漆器と大書してある。店内はアクセサリーから大物の花器まで多品種の漆器で埋め尽くされていた。案内には那覇の国際通りにもお店があり、わざわざここ南部まで出向かなくとも買物が楽しめるとのこと。またこちらでは工場見学や体験学習も可能。

表に出て国道に戻ろうとした時、左手奥に古い建物を発見。しばらく眺めていたら妙に惹かれてしまい、建物の近くまで足を延ばしてしまった。屋根に掲げられた看板には「字(あざ)伊原公民館」とあり、すっかり日焼けして褪せた色が、逆に味のある深い色合いをつくっている。経年の歳月を刻み込んだ建物には風格もあり、周りからは超然として浮かび上がって見える。

建物の脇では、ゴルフ場のキャディ顔負けの日除け重装備に身を固めた ”おばー”(意味はBLOG 18 参照)3人がゲートボールに興じていた。作業休みの楽しみなのだろう。心がなごむ情景の一枚になった。

国道331号線に戻りさらに西を目指している。両側の住宅や建物はゆったりと建っており、過疎と云ってもよいくらい地肌をみせる。風景は概して変化に乏しいが、やはり前述したシーサーと花が一番の変化をもたらせてくれた。

沖縄には古くより伝わる魔除けの慣習が色濃く残っている。シーサーは代表的なものだが、前述した”ヒンプン”もそのひとつだ。門から入った正面にぶつかるように配置された”ヒンプン”は板というより一枚岩を屏風のように置く。中国では屏風を”ひんぷん”というから、ここでも中国の影響が残されている。悪い霊や魔は真っ直ぐにしか動けないという迷信を前提に入口から入れないように正面に配置するのである。もちろん外部からの目隠しの役割も持っている。

また沖縄市街の路地でよく見かける”石敢當”(いしがんとう)も魔除けのひとつである。悪霊や魔が直情型ならぬ直線型の動きをすると信じられていたので、T字路や三叉路のぶつかった家に上がり込まれないように置かれた石標なのである。
この注釈はぜ〜んぶ沖縄の人からの受け売りであるが、信頼できると思われる。 たぶん。

そうこうしているうちに二又道路に着いた。信号のところに南波平と表示されていた。右が331号線国道、左が琉球ガラス村。右は今までの歩行距離の倍する距離を踏破すると糸満市街に至り、左は「琉球ガラス村スグソコ」の看板が出ている。
躊躇なく足は左方向へ歩き始めた。

ハーフライティングにした部屋で、ガラスの妖しい色が交錯する。かなり広めの部屋だが、パーティションはまったく無く全域をすみずみまで見渡すことができる。抑えめにした照度の展示室で、ダウンライトやディスプレイ台そのものの照明などで、鮮やかに浮かび上がるガラス工芸品。

ラピスラズリ(青金石)を思わせる瑠璃色の大皿が深い青色で周りを染める。真っ赤に見えた花器が近づいて見ると黄色がかった茜色に変わり、さらに立ち位置を一歩動くと紅に変化するといった具合。

ここは琉球ガラス村にあるガラスギャラリーの展示室である。展示室の作品は販売されてもいるが、公募展などで受賞した作品などを含むため撮影が禁止されていた。ここでご覧いただけないのが残念だが、その様々な光と色が網膜に焼き付いてしまうような経験であったことを付記しておく。

ガラス村はエリア内にギャラリー、ガラス工場、ショップ、レストラン、陶器工房などの施設を有している。
    

施設をサラッと観て回ったが、最初に飛び込んだギャラリーの一部作品がとても素晴らしくて印象に残り過ぎたせいか、ショップのガラス製品や他にはほとんど食指が動かなかった。

むしろ施設まわりに施された単なる飾り効果の円柱や壁画のモザイク張りの方が楽しめた。外の回廊のベンチでひと休みした時、ちょうど夕暮れになる直前の陽光がそれらに当たり、装飾以上の効果を演出していた。

喜屋武岬への遠征から始まった一日もようやく終わりが近づいてきたようだ。糸満バスターミナル経由で那覇まで帰らねばならない。バスの連絡も潤沢ではないので、そろそろお神輿をあげよう。

「琉球ガラス村」のガイドページへ


沖縄にとっての終戦記念日は6月23日になる。太平洋戦争末期、日本国防衛の最重要拠点としての重責を担い、沖縄全島が戦火に巻き込まれゆく。しかし軍と沖縄総出の必死の防衛も空しく凄惨な沖縄戦も米軍制圧という結末を迎える。昭和20年(1945)6月23日、太平洋戦争終結の2ケ月ほど前のことであった。

毎年この日に”慰霊の日”として沖縄全戦没者追悼式が糸満市にある平和祈念公園で挙行される。今日はこの平和祈念公園を訪問し、たっぷり半日くらいの時間を使うつもりで出掛けてきた。平和集会の模様が毎年全国報道されていたので、かなり広い公園で美しい海に面していていたのを記憶していたからだ。

バスを乗り継いで1時間強で平和祈念堂前のバス停に着いた。幅広い国道331号線は真夏のような太陽を照り返し、空は抜けるような青色。その空へ真っ白な塔が伸び上っている。平和祈念堂である。

前日ネットで平和祈念公園を予習すると、その敷地の広大さは筆者の想像をはるかに超えるものだった。だからおおよその回遊順序を決めていた。 ...のだが、平和祈念堂の裏手に見える深緑の野原に誘われ脱線しそうだ。


やはり脱線してしまい、緑あふれる野原を歩き回るうち、計画コースなど雲散霧消してしまった。重要な施設は中心部に集中しているのだが、周辺には多目的広場、ピクニック林間広場、展望広場など多く、自分の位置などは当然見失い、どの広場なのかもわけが分からなくなるのである。

野原の一本道を歩いていても、暑さを削ぎ取ってくれるように風が通り過ぎてゆく。ところどころで海が視界に入ってきたりと実に心地よい時間がゆっくり進む。

外郭のいくつかの広場を散策した後、平和祈念堂に戻り入館する。照明を落とした内室に入ると、両手を合わせ祈りを捧げる12mもの座像が鎮座していて堂内を圧していた。大きな坐像そばから地下へ降りる階段があった。まるで潜水艦のブリッジへ降りる階段のように極端に狭い。案内板があり、世界各地から寄贈された世界平和の願いを込めた霊石が展示されているとのこと。

ショウケースに陳列されている72ヶ国158ヶ所から寄せられた石たち。太古の昔より石や岩などには霊力や神異が宿る伝承が世界各地に残されている。様々な表情をした石を眺めているとそんなことがふっと頭の片隅をよぎって行く。

堂外に出ると太陽の強い日差しが一瞬まぶしく、しばらく佇んでいるとこの位置が公園内でもけっこう高台にあることが判った。南東方向にうっすらと蜃気楼のように浮かんでいるモダンな建物が 「沖縄県平和祈念資料館」 に違いない。次に向かうターゲットにした。

イギリス、スウェーデンなどから寄贈された霊石  平和祈念堂から見た資料館


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リゾートホテル然とした近代建築の建物が 「沖縄県平和祈念資料館」 である。大型でどっしりとした建築は充分過ぎるほど立派だが、内容が小型軽量過ぎるのでは.....というのが正直な感想だった。

決して比較するものではないが、はるかに小さい建物で運営する「ひめゆり平和祈念資料館」の平和を希求する必死さと切実さは鑑賞するものの心を打つ迫力があった。こちらの資料館の内容が小型軽量などと表現したのは、そのせいだろうか。

写真左:平和祈念資料館の入口  右:展示されている魚雷と背景の大型建物が資料館

資料館から内側すなわち海側には全面芝を敷き詰めた内庭のようになっており、建物前には戦争で使用された赤く錆びついた魚雷や機銃が展示されていた。そこから海側へ向かうとおびただしい数の花崗岩の石板が並んでいた。ここが「平和の礎(へいわのいしじ)」と呼ばれる公園でも重要な場所のひとつだ。

この沖縄戦で犠牲になった戦没者は攻守合わせて24万人以上になるという。しかもその大半が沖縄住民の犠牲者で4人に1人が落命したと聞いた。

石碑には沖縄戦での戦没者攻守共に2万4千人あまりの氏名が刻まれている。今なお犠牲者の詳細が判明すると刻銘追記が続いている。

刻銘碑にあるネームリストを食い入るように探す若いアメリカ人カップルがいた。名前を探すということは家族か親戚がこの地で亡くなったからだろう。
日米肩を並べて名を探す光景は、一瞬戦争を遠い過去のものに思わせてくれる。しかし沖縄の受けた傷を完全に癒やすには、さらなる歳月が必要となるだろう

「平和の礎」からすこし南の方向に丘が見える。「摩文仁の丘(まぶにのおか)」と呼ばれる、平和祈念公園の最も奥まったところに位置する聖域である。太平洋を一望する高所で、1km近く続く細長い傾斜面には数えきれないほどの慰霊碑や塔が建つ。

そこは戦没者墓苑になっていて、県ごとの区域に分かれ各県の意匠による慰霊碑が建立されていた。その先は山肌を縫うように小道が整備され、途中には休憩できる東屋、壕跡へ続く階段なども発見できた。あたりは静謐な空気が支配しているが、自然の息づかいを感じられる穏やかさがあった。気が付くと 「摩文仁の丘」 だけで2時間もの時がさらっと流れてしまっていた。

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平和祈念公園で半日以上もゆっくりしたため、予定を変更し糸満に戻ることにした。糸満BT(バスターミナル)行きのバスに揺られ通り過ぎる景色を眺めているうち、糸満市街の散策を思いついた。

今まで糸満にはBTでのバス乗り継ぎしか利用していないのである。今日残っている時間で回遊するには、ほどよいターゲットだ。終点BTの少し手前になる糸満ロータリーでバスを降りた。

そこは観光色のまったく無いさっぱりとした町並みがあるだけだった。ロータリーに面した交番が見え、その背後に小高い丘がある。丘への道を尋ねようと交番に近づくと、交番のそばに裏手へと繋がる路地を発見。やはり交番裏にその高台へと昇る階段が、25m上の頂上に向かって続いていた。

頂上は公園のようにベンチや展望塔などが設営され、近所の子供や年寄りが散見できた。旅行者や観光客らしき人など皆無で静かなものである。糸満市街地を一望する高台で、四方の様子が手に取るように分かる。

昔よりある石灰岩丘陵のこのあたりは「山巓毛(さんてぃんもー)」と呼ばれ、ここよりすこし北にある「白銀堂神社」と一緒に ”漁業漁村の歴史文化百選” に選ばれた場所であった。 「山巓毛」 の名を刻んだ石碑が根元から折れ転がっていたが、荒んだイメージはまったく無く、むしろ素朴な情景を造っている。

東シナ海側にはこの位置から撮影された戦前の写真がパネルで展示されていた。戦争で焼失する前の美しい糸満の町並みが、淡色のなかで輝いていた。

この「山巓毛」は歴史的謂われも残っており、詳細は当サイトのガイドページを参照されたいが、いずれにせよ一般の旅行ガイドには載っていないので、旅行者にとって恰好の休憩穴場と云える。

ロータリーに戻り、漁港のある西の道へ入り歩いていると、面白い看板が目に飛び込んできた。「冷し物専門店 まるみつ」とある。看板をよく見れば聞きなれない”冷し物”が”かき氷”のことだと判明。理解すると同時に手が扉を開けていた。”かき氷”フリークの筆者としては当然の条件反射的反応だ。

メニューには50以上の品目があったが、定番の ”白熊” をオーダーする。

ご存知ない方に簡単に説明をすると、”白熊” とは鹿児島で生まれた練乳をかけるかき氷。
看板にあった ”みぞれ” は、残念ながら最近消えつつある色のつかない砂糖蜜をかけただけのシンプルなもの。

”ぜんざい” と書かれているが、本土で云うところの小豆(あずき)と餅入りの熱い ”ぜんざい” ではない。沖縄で ”ぜんざい” と云えば黒糖で煮た金時豆を冷し、上からかき氷をかけたものが一般的なのである。

やってきた”白熊”は写真の通りのクリスマスツリー、テーブルにこぼさず片付けるのは至難の技だった。

身体をクールダウンさせ、再び回遊へ。かき氷屋さんからすぐのところに糸満公設市場があった。午後2時頃までにはほとんどが店仕舞いとなる東京築地に較べ、ここは夜まで営業しているらしい。しかし店に尋ねるとやはり最高潮の時間帯は朝7時頃とのことだった。

目に鮮やかな魚やフルーツが沖縄であることを思い出させてくれる。肉、野菜、総菜と何でも揃う。売り手はもちろん”おばー”がほとんどで、彼女たちの大活躍の舞台でもある。菓子類も種類が多く色や形も多彩。

質問すると誠実に答えてくれ、時には客のはずの”おばー”まで参加し補完説明を加えてくれる。餅は杵など使わず手でこねて作るといった具合に教えてくれるのである。旅行者にとって、まことに有難い人たちである。
珍しい菓子を質問しながら買い食いをする。味の散策もまた楽しからずやだ。

市場入口の戻ると道路を挟んで正面に漁協の建物があった。漁協を抜けると漁港のドックへ出た。ドックは線を引いたように真っ直ぐ北に伸びていて、”ハーレー”のレース場になるのも頷けた。年一回の”ハーレー”は、海人(うみんちゅー)である糸満の人たちにとっては重要な神事の舟競漕で、この漁港がレースの会場になるのである。

だが今は風だけが水面をすべってゆく。陽が沈む寸前の東シナ海が朱色に染まってきた。平和祈念公園で始まった長い一日も終わりに近づいた。そろそろBTに向かおう。


「糸満市街」のガイドページへ


丸三冷し物専門店

住所 糸満市糸満967-27
電話 098-995-0418
営業時間 11:00〜20:00
        日曜定休
交通
 那覇空港より20分(国道331号線を南下−糸満ロータリーを右折−スグ左側
BUS 糸満ロータリー前から徒歩3分

前回の南部歩きは平和祈念公園から糸満市街まで西側を廻った。今度は東海岸から南下しようと安座真港(あざまこう)を目指した。那覇BTから志喜屋線38番バスで向かう。西から東へ中城湾(なかぐすくわん)のえぐられたような海岸道路を横断し、50分ほどで安座真サンサンビーチ入口に到着した。

安座真港

バス停のある国道から海辺へ入り込む道を進むと小さな港にぶつかった。安座真港だった。ビーチらしきものなど見当たらない。海と山に挟まれたのどかな港町だった。

右手に見える堤防へと歩いて行くと、堤防そばに船客待合所があった。この港に「久高島(くだかじま)」への定期航路があることを知る。

建物内にある乗船券売場の男性係員としばらく立ち話をして、久高島やサンサンビーチの情報を得た。久高島はかなり自然が残された島らしく魅力的な情報ばかりであった。後日必ずこの場所に戻ることを約して船客待合所を後にした。

係員の説明通り「あざまサンサンビーチ」は堤防を越えた南側に横たわっていた。空の青と海のやや緑がかった青が水平線でせめぎ合っている。今日も暑くなりそうだ。


あざまサンサンビーチ

460mもある白い浜辺には外海から渚を守るように丸みのある堤防でふたつの入り江が形成され、遊泳用とマリンスポーツ用とに使い分けている。水際を南へ歩いたが、かなり透明度のあるビーチだったが、ここ以上の透明度があるという久高島に一層の興味が湧く。

人工ビーチとして造成され2000年4月にオープンしたこの 「あざまサンサンビーチ」 は、日陰をつくる東屋ビーチハウスが連なり、設備は充実していた。結局このビーチの南端まで歩いたがかなり広い浜辺で、一日中遊んでも不自由のないビーチと云える。

                                    知念海洋レジャーセンター

南端からそのまま国道に出ようとしたら、小さな建物の裏に出てしまった。正面に廻り込むとグラスボート(海底鑑賞ガラス底ボート)が係留してある。手作りのような看板とマリン全般の値段表を掲げた知念海洋レジャーセンターという建物であった。

ダイビングから無人島コマカ島への航行まで、マリンアクティビティー全般を網羅するサービスショップだ。”海ぶどう狩り”、”珊瑚礁と熱帯魚の生態観察” など面白そうなメニューまである。機会があれば無人島に渡るのも悪くない。

ショップ前の坂道を上り国道に出ると、国道沿いに魚が泳ぐ「知念海洋レジャーセンター」の入口案内ポールが立っていた。まさに逆行してきたことになる。

さてこれからどっちに行くかだが、この国道331号線を北に向かえばサンサンビーチ入口のバス停に戻ることになる。南に進めば「知念岬」や「斎場御嶽(せーふぁうたき)」に行ける。当然南に進むことにしたのだが、徒歩かバスかで迷ってしまった。

清水義範の短編「バスがこない」が頭に浮かぶ。バス停でひとつかふたつくらいの距離なので倒れない程度にちょぼちょぼと歩くことにした。


「安座真港」「あざまサンサンビーチ」のガイドページへ


知念海洋レジャーセンター

住所 南城市知念字久手堅676
電話 098−948−3355
営業時間
9:00〜17:30(4〜9月)
9:00〜17:00(10〜3月)
無休
交通
 BUS 那覇BTより50分−バス停 「知念海洋レジャーセンター前」 下車1分
 車 那覇空港より 45分(国道329号線を与那原方面へ−与那原警察署前で国道331号線へ−知念海洋レジャーセンター前を左折)

なだらかで長い上り勾配が終わったところにコンビニがあった。そのそばにある道が「知念岬」に行く道路にちがいない。ファミマで買い求めた冷たいお茶を飲みながら、国道331号線から海側に曲がり込んでいるその道に入った。

その道がつきあたったのは海ではなく体育館の建物だった。しかし体育館の横まで回り込んだ時、いきなり視界がパノラマ状態になった。

前方180度がすべて海。現在立っている位置が相当な高所であることが一瞬にしてわかる。

岬なので海岸線の先端部が高台にあることは容易に想像できたが、今の場所からはその先端部を見下ろすかたちになり、突端までかなりの距離があることが見てとれる。

簡単に表現すると、海面が1階なら岬の突端が2階、今居る体育館横が3階ということだ。3階から2階にかけての一帯が、綺麗に整備され公園になっていた。公園の先は海、また海が広がっている。

階段を降り遊歩道を歩き、岬の先端広場に近づくにしたがい海にせりだしてゆく感覚になる。180度の視界が200度、250度と広がってゆく。


2000年にオープンしたばかりの新しい公園である。東海岸ならではの特徴になる朝日が昇る朝焼けは絶景との評判で、今では新年の”初日の出”を拝む来訪者が年をおって増えているらしい。敷地内には”陽迎の広場”と”オーシャンビューの広場”のふたつが造設されている。何を特徴とする広場か、一目で判るネーミングだ。

公園の造りもシンプルなオブジェと東屋休憩所を設置しただけのいたって素朴な施設に仕上げてあり、まだ知られていないせいか訪問者もなく、時間を忘れそうになるほど居心地は抜群。

オーシャンビューの広場からは、真東に神の島「久高島」が視認でき、南東には小さな無人島「コマカ島」もぽっかり浮かんで見えている。海の島々を眺めているうち、知念海洋センターで聞いた「ウカビ砂盛」を探していた。

季節によって移動する白い砂浜だけの島。珊瑚礁の上にできた500平方mほどの砂山。海面に浮かぶその白い砂浜は満潮時でも水没しないと云う。

この滞在中に、必ずひとつの島くらいは船で渡ってみよう。


公園内を歩いて気が付いたのだが、ここはかなりの高低差がある施設なのでビューポイントの変化が多く景観が変わるだけでなく海の色まで変わるという面白さがあった。もうひとつあった。照明設備がフットライト以外見当たらない。造りがシンプルなだけ誰の目にも明らかだろう。

夜間訪問者など無いからなのだろう程度に考え、出口への階段を上っていると公園関係者と思われる人とすれ違った。筆者の質問に快く答えてくれた。

やはり理由があった。星座鑑賞の障害にならないよう背の高い照明をひかえているとのこと。ここは星が綺麗に見える場所であるらしい。こういった表に現れない配慮が嬉しくなる公園だった。

「知念岬公園」のガイドページへ

知念岬公園から国道331号線に戻り国道沿いの知念郵便局を右折した。単調な道だったが、時々道端に咲く南国の花が迎えてくれる。けっこうな上り勾配をダラダラ歩いて行くと老人ホームのちょっと先に斎場御嶽(せいふぁうたき)の文字を発見した。やっと到着したようだ。車なら数分の距離だが歩けばタフな距離だ。

右には駐車場、左手には斎場御嶽への入路になる建物 ”緑の館・セーファ” がある。建物への入館料を入口で支払うのだが、これが斎場御嶽への入場料に相当する。館内を通り抜けないと地域内へ入れないルートになっているからだ。

歩きで大汗をかいたのでその館内でしばしクールダウン。休憩室はそれほど大きくないが、自販機や壁には経路マップや説明書きが展示されている。

山間にある広大な聖域。琉球石灰岩を敷いた道を進むにしたがい、鬱蒼とした樹林や巨岩が霊威を感じさせる。

古代から中世初期にかけては、洋の東西に限らず神と政治は密接に結びついていた。琉球王府もその例にもれず、”祝女(のろ)”と呼ばれる巫女が活躍をしたようだ。なかでもその最高位とされていた”聞得大君(きこえおおきみ)”は強大な権力を有していたという。

そしてその職位は代々王族の女子が継承するが、継承式は国家的祭事として盛大に挙行されている。その舞台がここ斎場御嶽だった。

左:三庫理 右:三庫理の奥にある遥拝所で久高島が望める

国家的祭祀場であった斎場御嶽にはとくに霊威の強い神域がいくつかあり、そこが拝所になったとある。そのひとつ ”三庫理(さんぐーい)” は特に印象深い。

巨大な鍾乳石の石板が片側にもたれ、三角のアーチができている。そこをくぐり奥へ入ると1,2名しか座れない拝所があった。正面には岩陰を覆うような樹の枝が緑の窓をつくっていて、窓からは久高島の島影が見ることができた。

琉球を創った祖先神”アマミキヨ”ガ「久高島」に降臨し、後に本島南部に移動し七嶽(ななたき)を創ったと伝承されているが、その七嶽の最大なものがここ斎場御嶽と信じられてきた。

敷地内を歩くと空を塞ぐように伸びた樹木のせいで熱気も地上まで届かないのか、空気がひんやりとして聖域らしい空気が充満していた。短い訪問ではあったが、少し気を養うことができたように感じる。いや単に気のせいでそう感じただけかもしれない。

斎場御嶽を後にして国道331号線にもどるべく歩くうち急激に空腹を覚え、来る時見たこの道沿いのお店に入ることにした。ログキャビン風のお店の名は「Roaster Cafe Jyo Goo.」。焙煎コーヒーカフェ、ジョーグーと看板にあるが、もちろん食事もできる。

早速入店しパスタと食後のコーヒーをオーダー。メニューにはオムライスなどの洋食プレートもあり守備範囲は広い。表からは2階建に見えたが、実際は3層になっていた。店内も個性があり、雰囲気もかなり良く居心地は悪くない。

今日は朝の安座真港からずっと「久高島」の名がついてまわる1日だった。しかしたった1日で、このちょぼちょぼ旅が終わるまでに行かねばならない場所として心に居座ってしまったようだ。

運ばれてきたパスタを一口食べると、これがイケる。食後の焙煎コーヒーもさらにGOOD。テラスから海面を眺めながら閉店時間を尋ねると、日没という粋な答え。すっかり嬉しくなり、今日の旅は終わりにし看板まで居座ることにした。


「斎場御嶽」のガイドページへ


Roaster Cafe Jyo Goo.

住所 南城市知念久手堅311
電話 098-949-1080
営業時間 11:00〜日没
        月曜定休
交通
  那覇空港より60分(国道329号線を与那原方面へ−与那原警察署前で国道331号線へ−体育センター入口の郵便局を右折
BUS 那覇BTから60分−バス停 「体育センター入口」 徒歩2分

午前中に終わる予定だった所要が午後にまでこぼれてしまった。今日はターゲットにしていた南部への旅をあきらめよう。そこで近場の中で以前訪問できなかった首里城を訪ねることにした。

前回の首里訪問では石畳道に時間をかけすぎて、守礼門前のお店でかき氷を食べながら眺めるだけに終わってしまった首里城。今日は首里城でゆっくりしよう。

今回は首里駅から歩きでなくバスを利用し無事到着。TVや雑誌ですっかりお馴染みになっている守礼門をくぐり城郭の方へ歩いて行くと、沿道左側に世界遺産の案内が目にとまった。

園比屋武御嶽石門の門内

世界遺産に指定されたこの園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)の内側には茂み豊かな深い杜(もり)が横たわっているだけ。

御嶽は神への祈りを捧げる聖なる場所を指す。城に付きものと云ってしまえばそれまでだが、この杜には拝殿も本殿も無い。杜そのものを本殿となし、この石門を拝殿としていたと伝わっている。

石門の前を通り越すといよいよ城内への第1門となる”歓会門”が右手に見えてきた。と同時に左手には杜を分断するような石階段が人を誘うように下っている。

気持ちは首里城ながら、足は階段を降りて行く。単調な風景ならすぐにでも引き返そうと及び腰で降りはじめたのだが、下るにしたがい美しい視界が広がり結局のところ石階段を元気よく降りきってしまった。

                           立ち止まりこちらを観察するバリケン  

階段下の道はふたつの池に挟まれた白い道。左は濃い緑色を湛えた”龍譚池(りゅうたんいけ)”、右には陽の照り返しを水面に溜めた”円鑑池(えんかんち)”と仲良く並んでいる。

本当に素晴らしい眺めだった。人っ子ひとりいない。動くものは池のほとりをのんびり歩く水鳥のバリケン(鴨の一種)だけである。

このあたりのバリケンは近づいてもまるで怯えることもなく、とても人懐っこい動きをする。そのヨタヨタとした歩き方やひょうきんな表情は見ていて飽きない。龍譚池の方に多く棲みついているようだ。

”円鑑池”の中に浮島のように小さな御堂(弁財天)が建てられていた。浮島へ架けられた天女橋は琉球石灰岩を切石積みにした橋で、苔むした橋脚が時代の推移を伝えてくれる。


    円鑑池に浮かぶ弁財天堂

このふたつの池はいずれも人造池で、築造されたのが1502年というから、本土では室町時代後期のことである。首里城に近い円鑑地が少し高い地にあり、3mの深さをもつ円鑑池から溢れた水は隣の龍譚へ流れるように造られている。

今立っているふたつの池を分ける道が、実は小高い土手になっており”龍淵橋(りゅうえんきょう)”と呼ばれる橋だった。この橋から龍譚の水辺まで降りられるようになっている。降りて土手を見上げると、水位調整用の穴が穿たれた橋であることがあらためて判る。

あっちでウロウロ、こっちで何かを発見、そんな散策ができる場所だった。首里訪問の折にはこの場所へ立ち寄ることを強くお薦めしたい。

首里城正門になる ”歓会門”

寄り道から軌道修正し、首里城郭への第1門になる”歓会門(かんかいもん)”の前までたどり着いた。日頃見慣れた城門とは一線を画している。本土の城郭建築によく見られる渡り櫓門(わたりやぐらもん)ではなく、石造りの拱門(アーチ)上に木の櫓という重厚な門だ。両脇を堅牢な石像シーサーが固めている。

面白くなってきた。さっそく門をくぐり入城しよう。


「首里城公園〜首里城」のガイドページへ

首里城の復元整備工事が今なお続いていることをご存知だろうか。沖縄戦線で形あるものはすべて焼失し灰燼に帰した首里城。それから優に半世紀以上の歳月が流れている。気が遠くなるほどの根気と努力で忠実に復元されてきたに違いない。

1992年完成区域から順番に開園し、復元工事のまだ半ばの2000年に世界遺産に登録されている。世界遺産の厳しい審査基準は、その修復・復元において可能なかぎり当時の建材・工法・構造の採用まで細部にわたって求めている。この世界遺産登録で復元された首里城などの真実性が世界的に裏打ちされたわけである

”瑞泉門”、そして左に見える修復中の”漏刻門”

現在復元されているのは首里城全域の6割ほどで、これから新たに復元される門や御殿が順次公開されてゆくとのことであった。

さて首里城訪問の続きを始めよう。

”歓会門(かんかいもん)” を抜けると上り石段が目の前にあり、見上げると上にもうひとつ新たな門が待っていた。第2の門になる ”瑞泉門(ずいせんもん)” である。

石階段右脇にある”龍樋(りゅうひ)”と呼ばれる湧水場からこの名が付いたのだが、500年も枯れることなく湧き出る水は下方の ”円鑑池(えんかんち)”へと注いでいた。

修復中の”漏刻門(ろうこくもん)”、”広福門(こうふくもん)”を連続してくぐり抜けると”下之御庭(しちゃぬうなー)”と呼ばれる大きな広場に出た。


この広場は城内の各区域へとつながっており、ひと休みもできるエリアとなっている。方角で簡単に説明すると、今通り抜けてきた”広福門”が広場の北になり、南には祭祀域の”京の内”、西には素晴らしい夕景が見られる展望台”西のアザナ”、そして東が首里城中心部の正殿へ続く”奉神門(ほうしんもん)”という配置である。

                      この”奉神門”より奥が有料区域

有料ゾーンの入口になる”奉神門(ほうしんもん)”をくぐると広場があり、正面に正殿、左に北殿、右に南殿・番所と広場を囲むように建てられている。この広場を御庭(うなー)と呼び、重要な式典はここで実施された。

有料区域の鑑賞ルートは南殿から入室し、時計回りに正殿、北殿へと巡る。南殿は番所として利用された場所だったが現在は展示室となっており、ここだけ撮影禁止になっていた。

この南殿に並ぶように築営されているのは王が執務したという書院で、薩摩からの使節などもこの区域で接待したとある。

正殿は王の政治執行の表舞台だったためか内外ともに華麗な造りになっている。正殿の表には3mを超える一対の砂岩大柱が立ち、王の象徴である龍が彫られている。雲型飾り瓦や本瓦を葺いた屋根には金のシャチホコならぬ龍頭が三体。

また内部2階の玉座両脇にも黄金の龍像が控えていた。係員に尋ねてみたら実に正殿だけで33体もの龍が潜んでいるとのことだった。同時に係員から後戻りはできないと釘を刺された。奔放な行動をしかねない顔をしていたのだろうか。次の機会に恵まれたら数えてみよう。

正殿の表と1階内部

朱色と金色で彩色された内部は照明で光輝いており、華美な中にも重厚さを失わず見事な誂えで造り込まれていた。正殿は三層の建築だが、3階は公開されておらず風や通気を考慮した吹き抜けの屋根裏部屋になっているらしい。

そして北殿へとコースをたどる。往時ではこの北殿の建物が一番活気があり人で賑わっていたようで、中国皇帝からの冊封使(さっぽうし)を接待したところでもある。幕末の頃、来島したペリー提督もこの館で宴に興じたとある。

                      新たに甦る”淑順門”

北殿を出ると ”右掖門(うえきもん)”、”久慶門(きゅうけいもん)” を抜ける一本道となり城外へ出てしまった。この有料区域に入ると順路通りに回ったあと、城郭外に直行することになるので注意を要する。

首里城の復元工事は現在も続いているが、出口に向かう途中”右掖門”の奥に切り出された石灰岩が積み上げられ新たに”淑順門(しゅくじゅんもん)”が甦りつつあった。着実に再生されている。

城外へ出されたついでに例の守礼門前の店でかき氷のショートブレイク。しばらくご主人と雑談後、再び城郭内へ向かう。陽光も陰りを見せはじめ、暑さも落ち着きを取り戻してきた。

”奉神門”前の広場に戻り、祭祀域の”京の内”から見学を再開。深緑の森がけっこうな範囲で広がり城内とは思えない雰囲気が漂っていた。聖域内をゆっくり散策し、森を抜けると”西のアザナ”に行きついた。城郭の西端に位置し130mの標高を持つ物見台だったが、現在はバリヤフリーに対応した木造りの展望台に生まれ変わっている。

那覇市街とその先の東シナ海を一望できる眺望がしだいに夕景に染め上げられてゆく。その昔はここで時を知らせる鐘が打ち鳴らされていたらしい。訪問者が頻繁に入れ替わるが、時折ひとりだけになる。そんな瞬間には自分が自然の一部に取り込まれてゆく感覚になる。

とっぷりと日が暮れるまでここにいようと、心のどこかで決めていた。


「首里城公園〜首里城」のガイドページへ

再び南部にやって来た。那覇BT(バスターミナル)から50分ほども乗ったろうか、垣花(かきのはな)というバス停に着いた。垣花は前に訪問した本島南部東海岸の知念岬の少し南に位置している。

この場所には日本最南端の名水百選と謳われている”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”という湧水場がある。本日の第一番目の目標地にしたスポットだ。案内板に沿って路地を歩くが周りは民家もまばらで大自然の中に家が点在しているような地域である。

垣花城跡

途中に ”垣花城跡” があった。しかしその場所には石碑が建っているだけで、城郭跡のようなものは一切見当たらない。

記録には2500坪を超える城郭とあるが、今は郭跡のような平地に熱帯樹が繁茂しているだけであった。

そこを過ぎて、なおも行くとログキャビン風のカフェ 「風樹」 にぶつかった。


案内板に従い左へ道なりに進むとまもなく”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”へと下る坂道の入口が現れた。坂道は琉球石灰岩が敷き詰められ勾配も急である。両脇をガジュマルやアカギなどの樹林の葉が覆い、坂道に涼しげな木陰をつくっている。ちょうど首里金城の石畳道のような景観である。

                         坂の途中で入口方面を振り返る

坂道には1本の太いケーブルが打ち捨てられたように置かれ、延々と坂下まで続いている。後で分かったのだが、この管は湧水場から汲み上げられた水を上の集落へ運ぶ送水管であった。

分厚く凹凸のある石灰岩なので慣れないものには足元が安定しない坂道だ。また石灰岩は濡れると滑りやすく皮靴やハイヒールの使用は怪我のもとになる。

注意深く降りるうち、足元が明るくなり周りの視界が一挙に広がる。その場所は太平洋に面した山の中腹斜面にできた自然の小広場であった。

広場の小高いところに清水が音をたてながら溢れ出ている水場が2か所ある。左が女川(イナグンカー)、右が男川(イキガンカー)と呼ばれ、昔は名の示す通りそれぞれ使い分けていたようだ。

その清水が流れ込む水だまりが小池となっている馬浴川(ンマミシガー)には沢ガニなどが住みついていた。渇水の地として長い歴史を持つ沖縄では、貴重な生活用水を得られる湧水場として昔より大事に守られてきた”垣花樋川”。

  写真左:男川 写真右:垣花樋川からの眺望(中央の小池が馬浴川)

山肌から湧きだす水が単調で眠気を誘うような音を立てている。水の音には独特の振幅数が含まれるのか、気持ちを落ち着かせる効果がある。樹齢古いアカギの幹には蔦(つた)が絡み、鬱蒼とした緑の中に可憐な野花がところどころ色を添えている。

名高い観光スポットにもかかわらず施設などは一切無く、昔日の自然がそっくり残っている。沢ガニを捕まえたり水遊びに興じたあとは、水の音をBGに一面の海を眺める。のどが乾いてもふんだんの名水が目の前にあり、ペットボトル入りでない自然から直接享受できる水のなんと甘露なことか。そんな極上の時間をたっぷり味わった後、すっかり重くなった神輿(みこし)を上げた。さあ気合いを入れ直して急坂の道を登らねば...

やはり急坂の登りはかなりタイトなもどり道だった。一気には登りきれず、昔行き交った人々と同じように途中の休み石で一息入れながらの復路となった。

往路で目印になったカフェ 「風樹」 だが、トイレなど施設の無い垣花樋川へのベースキャンプとして活用できるのでご紹介しよう。全体が空間たっぷりの木造りで、内装は大きな居間を思わせる落ち着きがあり居心地がよい。テラスや2階のバルコニーなど自然とも調和し、眺望は素晴らしい。カフェとなっているが14:30まではランチもでき、もちろんスイーツやかき氷も楽しめる。


「垣花樋川」のガイドページへ


カフェ 風樹

住所 南城市玉城字垣花8-1
電話 098-948-1800
営業時間 11:30~18:00
お休み 火曜定休
駐車場 10台
交通
 BUS  那覇BTから50分(百名線39号)−バス停 「垣花」 下車5分
 車 那覇空港より 40分(国場から与那原町経由南城市を目指す−県道137号線を垣花まで)

垣花樋川の見学後、地図をにらみながら次のコースをイーストコースト沿いに南下することに決める。この一帯の海岸線にビーチスポットが集中しているようだ。

地図で一番近い百名(ひゃくな)ビーチから南下しようと県道137号線のバス停 「垣花」 に戻ったが、あいにくバスの待ち合せが悪くまたまた歩くことにした。のんびり急がずダラダラと歩くうち20分ほど経ったろうか、「百名入口」のバス停にたどり着いた。

海岸に向かって歩いているのだがいっこうに着く気配がない。いやむしろ緑が濃くなり森の中へ入ってゆく感じである。引き返そうとした時、小さな案内板が目に留まった。聞きなれない言葉でひとこと 「ヤハラヅカサ」 とだけ書かれていた。


のちに 「ヤハラヅカサ」 が琉球創始神が降り立った場所のしるしとして浜辺に建てられた碑であることが判るのだが、この時点では何のことやら判らず、あたり一帯を散策することとなった。

そして古く自然のままの石階段を発見した。石段下には水の湧き出る音がかすかに聞こえてくる。1時間ほど前まで垣花樋川の湧水場でずっと聞きつづけていた音なので間違えようもない。水のせせらぎに誘われるように石階段を降りてゆくと、砂浜が現われその先には真っ青な海が広がっていた。

やはり石段の下には清水が湧き出ていたが、この周辺はビーチであると同時に霊域らしく地元住民の手で清潔に維持されている場所だった。期せずして神聖なるところからの百名ビーチ入りとなってしまった。


奥行きも幅もかなりの広さを感じさせるビーチに数組だけの遊泳客という、なんともぜいたくな光景が展開していた。ちょうど干潮時であったため砂地が広く見えたこともあるが、それを割り引いても広い浜であることは確かだ。自然のままのビーチといった風情のある浜辺で、リゾートビーチとは一線を画す。

干潮だったのでこれさいわいにと干潟のようになった砂地へ出てみた。あちこちにできた水だまりに小魚やカニの顔が見え、かたちの良い貝殻も目にとまる。童心に返りけっこう遊べる浜辺だ。

沖の浜辺にとがった石が屹立し、そこには 「ヤハラヅカサ」 と書かれていた。近くにいた先客が地元の人らしく琉球始祖の謂われを親切に説明してくれた。満潮時には海中に没し、参拝するには干潮時を待たねばならないとのこと。この岩が 「ヤハラヅカサ」 の碑塔(ガイドページ参照)だったのである。

Hyakuna-beach3_blog.jpg

海岸線を南へ南へと下りてゆくと浜をさえぎるような大きな岩にぶつかった。砂上に浮くように海際まで突き出している石灰岩を回り込むと、浜辺はさらに南へとどこまでもつづいている。この岩を境に新原(みーばる)ビーチになることは先ほど出会った人から仕入れたばかりの情報だった。

地形特徴は同じビーチなのにまるで空気感の違うふたつのビーチ。神聖霊域のためか人工的なものや遊泳関連施設など一切無い自然のままの百名ビーチに比べ、新原ビーチにはシャワー・更衣室などの遊泳用施設に加えグラスボート専用桟橋やマリンスポーツまでそろっている。

共通点は干潮時に露呈するたっぷりとした砂地の広さだった。歩いてリーフ近くまで行けるとの情報もやはりさきほどの親切な地元の人から。

この海岸には百名より入り新原ビーチから出ることになったのだが、ここを訪ねるには百名より新原ビーチ入口からアクセスする方が楽でわかり易いことを最後にお伝えしておく。

「百名ビーチ〜新原ビーチ」のガイドページへ

”新原ビーチ”から”玉泉洞”へと至るコースは、車で行けばものの10分ほどの距離だ。しかしバスで行こうとすると、これがやっかいなルートになる。直行するバスルートが無いため、まず百名方面へ歩いて少し戻り、百名出張所というバス停から長毛まで行き、玉泉洞線82番ルートに乗り換え終点まで行く面倒なコース。

バス停 「長毛」 前の雄樋川

手間もかかるが時間はもっとかかる。バスの待ち合せ時間が思うようにならないからだ。しかし待っている時間を有効に活動してみたら、いくつか発見や収穫もあった。

百名では「焚字炉(ふんじろー)」というものを発見した。名前の通り[字を焼く炉]で、字の書かれた不用紙を路上などに捨てず、敬意をもって処分するよう造られたものである。

4枚の石灰岩平石で組んだだけの簡素な造りで高さ1mくらいの炉だ。これも中国からの冊封使の影響によるもの。


また長毛ではバス停の前を悠然たる雄樋川が流れており、バスを待つあいだ、この川沿いの散歩がけっこう楽しめた。川のせせらぎに押されるように足にまかせてぶらつくだけの、のどかな散策である。

終着のバス停 「玉泉洞前」 に下り立ったが、停留所のある県道17号線のあたりはがらんとした風景が広がっていた。がらんとしているが殺風景ではない。「おきなわワールド」のゲートを過ぎると正面口まで整然としたアプローチがしばらくつづく。

                 「おきなわワールド」の正面口、美しく整備されたアプローチ

園内に一歩入るとがらりと空気が変わり、観光地特有の雑然とした景観の中に人が溢れかえっていた。

広大な敷地内にはテーマパークらしく、鍾乳洞の ”玉泉洞” を目玉に、”ハブ博物公園”、沖縄各地から移築した古民家集落、伝統工芸工房から”熱帯フルーツ園”まで設けられ渾然一体となっている。

観光客向けと云わんばかりの雰囲気に少々げんなりとし、一路”玉泉洞”へと急いだ。

ゲームセンターかと見紛うばかりの ”玉泉洞” 入口を通り抜けながら、秋芳洞の10分の1でも情緒がほしいなどと考えていると視界に留まったものがある。シーサーのレリーフだった。鍾乳洞内につづく回廊の壁にずらりと飾られていた。それらの表情に妙に惹かれ、見逃したシーサーを鑑賞するため入口近くまで戻ってしまった。

沖縄では門柱や屋根、路上と当たり前のようにシーサーが居座っているが、旅行者にはもの珍しいオブジェに映る。魔除けの風習として歴史が長いので、その形体やデザインなどの意匠は千変万化しており、沖縄旅行の楽しさのひとつにもなってくれる。

 玉泉洞の回廊を飾るシーサーのレリーフ

玉泉洞は全長4.5 kの鍾乳洞で、現在のところ国内7番目の長さになる。そのうちの890mだけが一般に公開されている。入口から入ってすぐのところにある「東洋一洞」が最大の見どころと云われ、広さ高さともに東洋一で美しいと案内にある。

洞内に入るとひんやりとしているが湿度が一気に跳ね上がる。鉄パイプを組み上げた階段が下方に連なっていた。薄暗がりに目が慣れてくると、淡い照明の鍾乳洞が浮き上がってきた。「東洋一洞」は確かに広く天井も20mの高さで伽藍を思わせる佇まいだ。


珊瑚を主成分にした琉球石灰岩の溶食は、他の鍾乳洞に比べ石筍の成長が速いようだ。自然が悠久の歳月をかけて創りあげたさまざまなオブジェが洞内890mに展開する。

つらら石の「槍天井」、大石筍の林立する「東洋一洞」、巨大なリムストーンの「黄金の盃」、洞壁から浸み出した硬水や湧水が溜まった「青の泉」、洞内に設けられた「古酒蔵」。

それほど歩いた感覚のないまま出口のエスカレーターに到着してしまった。身体にまとわりつくような湿気のなか、全行程を泳ぐように歩ききっていた。

玉泉洞を出ると、そこから出口まで熱帯フルーツ園、ショップ、古民家の工芸工房などがびっしりと並ぶ。出口近くで人だかりがしていたので潜り込んでみたら、なんと全身真っ白な大蛇。やや苦手なヘビだが、この錦ヘビは特におとなしく神々しい容姿をしている。思わずカメラを手にしたら、隣に立っていた女性スタッフから 「撮影は1000円、いただきます!」。

なんともたくましいではないか、やはり観光地はこうでなくっちゃ。


「玉泉洞」のガイドページへ

バスが勾配のある坂道を昇りつづけてしばらくたつ。けっこうな高所まで来ているに違いないが、窓の外にはお墓ばかりが目立っている。沖縄独特の町の中でもお目にかかる例の箱庭のようなお墓である。どこでも対面できるが、ここはかなりの数なので霊園なのだろう。

やっと目的の”識名園前”のバス停に着いた。首里城の南に琉球王朝の”識名園(しきなえん)”という庭があるというのでやって来たのだが、その庭園は想像以上に閑静な高台にあった。

番屋からの坂道、樹林の影を落とした涼しげな石畳道

一般観光用ゲートが駐車場の脇にあり、そこを抜けると木陰が溜まった小道がくねくねとつづいている。

庭園では、散策が単純にならないよう直線ではなく、懐を深くみせるためS字を描くように小道を造る。

入ってすぐ右手に正門があらわれたが、屋根を乗せた屋門(やーじょー)という形式の門でかつて琉球王や中国からの正使がくぐったと案内板にあった。

本土では控柱がなく屋根の付いた棟門(むなもん)と呼ぶ形式の門に相当する。

庭園の造りはやはり本土でお馴染みの大名庭園と同じ池泉回遊式であった。ひとつの大きな池が中心に居座り、その周りにさまざまな景色が展開されている。

しかも池のまわりには松が植樹されて和を醸し出している。池から離れて外周に向かうと、歩くにつれ、進むにつれ、新たな風景が生成されてゆく。


歴史上400年の永きにわたり一度の亀裂もなく中国と国交を続けたのは琉球だけである。琉球の国風と文化が中国に合っていたと云うほかない稀有な例だ。しかしその裏には琉球の政治的苦労や努力があったことは云うまでもない。ちょうど徳川家康が三河の小さな一豪族だった頃、近隣の尾張の織田家と駿河・遠江の今川家に挟まれ政治に腐心した情況に酷似している。

                          中国風”六角堂”へはアーチ型石橋で渡る

中国からの正使を接待したこの識名園にはそうした苦労のあとが随所に残されている。

「茶の湯」でも接待したというこの庭園の和趣味は、中国からの客人に琉球のうしろには日本国が控えているいることを暗に匂わすため。

また池のほとりには中国を思わせる黒色瓦2層屋根の”六角堂”が建ち重要な添景となっている。

こういった中国と日本本土を意識したバランス感覚が造園風景でも絶妙な調和を生み出す。そういった面で鑑賞すると実に興趣の湧く庭である。

池の外周南側は庭内で一番の高台になっているが、その那覇市街を展望できる”勧耕台”に面白いエピソードがひとつあった。

ときの琉球王がこの高台で中国からの使節を接待したわけだが、ここからの展望では海がまったく見えない。わざわざ海が見えないところに展望スペースを造ったという。


島国ながらその領土がいかに広大であるかを強調せんがための方便なのだが、そのかいあってか中国の記録には朝貢する国々の中では台湾よりも上位の日本本土に次ぐ位置であったようだ。なんとも微笑ましいアナログ感覚あふれる外交ではないか。

1回の使節団で数百人という中国人が長期間(航海時期が季節で決まっていたため)滞在するわけで、中国からの影響が今もなお色濃く残るのも当然ことなのだろう。ちなみに滞在中の中国高官たちのお気に入り散策コースが首里城からここ南の識名園、そしてもうひとつは首里城の北に位置する”末吉宮(琉球八社のひとつ)”を目指す北コースのふたつであったようだ。

中国との関係を想像しながら庭内を歩くうち、「桔梗」を見つけた。その深くて淡い青の花、日本を強く感じさせる花、まごうことなくここは日本なのだ。

「識名園」のガイドページへ

単に「観光客相手の繁華な通り」というのが、国際通りに対する率直な印象である。しかし名産やお土産を買うなら大変便利な通りともいえる。沖縄の名産・工芸品から泡盛古酒(クースー)までほとんどが揃っている。

県庁前から国際通りに入りしばらく歩いたが、似たような店が並んでいるせいかすぐに飽きてしまう。ひと通り歩いたあと、国際通りに繋がっている無数の路地に踏み込んでみた。

国際通りから南へ入る”龍宮通り”

東西に走る国際通りの北側は総じて直線路が多く迷わないが、南側は曲がりくねった路が多く10分も歩いているとまったく方向感覚を失ってしまった。

向き合わないとすれ違うこともできないほど路が狭くなったり、どこへ出るのか見当もつかない。まるで那覇ワンダーランドといってもよいほど次にくる風景の予想がつかない面白さがある。

公設市場へ行く市場本通りや焼物で有名なやちむん通りにぶつかる平和通りのような大きな通りもあるが、葉脈のようにどこまでも細くつながる小路が面白いのだ。

太平洋戦争の想像を超える被災で那覇市街は全面焼け野原となった。その中でいち早く復興したのがこの国際通りと云われており、通りの距離1600mがちょうど1マイルに相当することから駐留していた米国人記者から「奇跡の1マイル」と呼ばれた。


しかしその復興の影には、近くにあった「やちむん(焼物)」の再開や闇市の発生が強く影響したという。

そのせいかこのあたり一帯はしぶとさのある生活臭が沁み込んだ町並みで、小路ぞいの住宅などはどんなに古くても風化など微塵も感じさせない。とくに壺屋近くの瓦葺きの古民家などは年輪を重ねた風格さえある。

一方国際通りに近いほど繁華街の香りが強く、竜宮通りからグランドオリオン通り、桜坂通りのあたりは戦後昭和の風合が漂っており味わい深い地域である。

名もなき小路はさらに面白く、素顔のように飾り気のない素朴さが印象に残る情景ばかりであった。

国際通りの買物は手早くすませ、あとの時間は路地探索にすべてを使おう。迷いこむのを承知で足にまかせて歩いてみれば、心ひかれる何かを発見できる。


路地探索の途中で発見したお店がある。変わった名前であることと、店の中に大きな冬瓜(とうがん)が飾ってあったことが入店のきっかけになった。名を「謝花きっぱん店」といい、300年以上つづいている沖縄の伝統銘菓の店だ。扱っているのはふたつの銘菓で、橘餅(きっぱん)と冬瓜漬(とうがんづけ)。

「きっぱん」は中国福州より伝来し琉球王府でも高位のものしか口にできなかった貴重なもので、今では作れるお店がここの一軒だけになったという。沖縄産のミカンでつくられた甘さをかなり抑えた柑橘の芳香を楽しむ上品な菓子。

「冬瓜漬」は冬瓜を砂糖煮したもので口に入れると濃厚で深い甘さが口中いっぱいに広がる。菓子には長い歴史を持つ京都からもお茶請けによいとわざわざ注文がくるとご主人が教えてくれた。

写真のお菓子は「冬瓜漬」

「国際通り」のガイドページへ


謝花きっぱん店
−じゃはなきっぱんてん−

住所 那覇市松尾1-5-14
電話 098-867-3687
営業時間 9:30〜19:00(電話での注文可)   日曜定休

交通
 ゆいレール 県庁前駅・美栄橋駅から7分
 BUS 那覇BTから7分(ルート便多数)−バス停 「松尾」 下車2分
 車 那覇空港より 20分(国道331号線を北上−国道58号線から国際通り方面へ−国際通り周辺に多数あるコインパーキング利用が便利)

国際通り周辺の路地散策についつい夢中になり、時計の針はすでに午後3時を指していた。時間が分かったとたん空腹をおぼえ、牧志公設市場をのぞくことにした。市場本通りのアーケード街はさすがに混んでおり、大半が観光客で占められゆっくりと行き交っている。

市場本通りのアーケード街

第一牧志公設市場の建物の周りにはびっしりと店が並び食材で埋められていた。まだ若い緑色のバナナが房でぶら下がり、マンゴー、パパイヤ、ドラゴンフルーツなど原色鮮やかな果実が山のように積まれ、思わず手が伸びてしまいそうな光景がつづく。フルーツだけでも何店も軒を連ねており、商売になるのかといらぬ心配までしてしまうほどだ。


あとで判ったのだが、公設市場内で売られているのは鮮魚・精肉・総菜・漬物・乾物のみで野菜・果物などは外周の店で補っているようである。その屋内の鮮魚売場にはフルーツ以上にカラフルな魚介が並び、名前も聞き慣れないものが多い。

「オニダルマオコゼ」、「オジサン」、「インディアンミーバイ」、「夜光貝」、「ノコギリガザミ」 ...??? 知っているのは沖縄県魚のグルクンとハリセンボンそして伊勢エビくらいのものだった。

「この赤い魚は何?」「インディアンミーバイさあ〜」「なんでインディアンなの?」「派手だからさあ〜」「....(ハデならインディアンなの?)」

店先で次から次へとしつこく質問しているうちにますます空腹感がつのり、2階食堂で調理してくれるという勧めに素直に乗ってしまった。

左写真:ミーバイ(中央)、赤い魚がインディアンミーバイ 右写真:ミーバイの煮付け

1階店舗で魚を選び料理の種類を決め精算をする。その店の係員が提携している2階の食堂へ案内してくれると同時に食堂へ品物を手渡し料理種類を伝えてくれる手軽なシステムになっている。

ちなみに2階のフロアは7軒の食堂が共同営業しており、その他はお菓子売場、市場管理事務所、トイレなどがある。実はこのあと食べた料理が旨くて、沖縄滞在中ここに3度も通うことになったのである。

左上:伊勢エビとセミエビ 右上:伊勢エビのバター焼 左下:オジサン煮付け 右下:伊勢エビの味噌汁


「第一牧志公設市場」のガイドページへ

牧志公設市場でレイトランチをとったあと、さらに南の奥へと探索の足を伸ばした。細い抜け道や裏道がアリの巣のように走っている。公設市場というと食材だけと思っていたが、奥には雑貨部や衣料部まであることを発見。そしてその奥には新天地市場、農連市場とまだ市場がひかえていた。

小路をめぐるうち”やちむん通り”に出た。

公設市場からほど近いところにあるのだが雰囲気は一変している。あわただしさなど毛ほどもなく、ゆるりとした空気が流れている。

沖縄では陶器焼物を親しみをこめ「やちむん」と呼ぶ。

道の両側にはやちむんの直売所や製陶工房が点々と個性的な看板を掲げている。

軒を連ねるような混んだ建て方ではなく、十分の距離を取って店を構えているので、客も落ち着いて鑑賞できる間がある。


やちむん通りに入ってすぐのところに壺屋焼物博物館がある。細長くひょろっと高い建物なのですぐに見つかる。壺屋焼をはじめ陶器焼物のことが短時間で簡潔に理解できる。

筆者のように焼物に門外漢なら格好の簡易学習センターになってくれる。知識を少し仕入れてからお店を回ると、お店からの説明まで面白くなるから不思議なものだ。

日差しの中に白く浮き上がる東ヌ窯のある建物

焼物もさることながら、製陶工房などの建物も実に個性的。新旧がうまく折り合いをつけたような独特の風情がある。

中でもひときわ年輪を重ねた外観の建物がある。「東ヌ窯(あがりぬかま)」と呼ばれる数多くの名品を生んだ製陶の窯がある建物で、私有地のため外観鑑賞のみとなっていた。

300年以上もつづいたこの焼物の町も太平洋戦争で一面焼け野原となったが、奇跡的に被災を免れたのがこの「東ヌ窯」だった。

ここに陶工が戻り、焼け残った窯で生活道具を焼き始めたのが戦後復興の端緒になったという。

1974年の廃窯になるまで活躍をつづけたこの名窯は、枯淡の瓦が美しい建物のなかで休息をとっている。

周りをぐるりと囲う石垣があるが、その中に組み入れられたシーサーが今ではすっかり風化してしまい獅子のレリーフをとどめていない。

じっくり観察すると、石灰岩の中にかすかに他と違う石が見つかり、うっすらとシーサーの姿が見えてくる...

瓦屋根のシーサーは時代がかなり下った後期に飾られたもので、それでも100年以上は経っているとか。


ひめゆり通りに接するところでやちむん通りが終わるのだが、その端に300年前に掘られたという共同井戸があった。沖縄は昔から渇水傾向にあり、ライフラインである飲料水など用水の確保は最重要事であった。そして水のあるところ必ずあるのが拝所という沖縄の風土。

今まで歩いてきた首里や南部でも、そしてここにもあった。水を享受する素直な感謝が”かたち”になっている。ここの「東ヌカー(あがりぬかー)」は本土と同じ汲み上げポンプの水場になっており、沖縄に来て初めて見たポンプ井戸だった。

今日の午後半日は国際通り、市場、やちむん街と歩き廻ってしまった。観光が前面に出された地域だが、一歩路地に入り込むと街角や路地裏にはしがみつくように生活臭が満ちていた。生活という2文字の漢字はそれぞれに「いきる」と書く。「いきる」ために費やされたエネルギーの跡がたしかにあった。

やちむん通りの案内(拡大)

写真左:ポンプ式共同井戸と拝所         右:焼物の案内板(クリックすると拡大)


「やちむん通り」のガイドページへ

沖縄本島に来て、なぜか那覇市から北には1歩も出ることがなく3週間も経ってしまった。那覇市街や最南端の喜屋武岬などをうろうろしているうちに3週間である。

そろそろ北へと考えたが、北方面があまりに広すぎてどこから手をつけたらいいのか正直迷った。一度は最北端の辺戸岬(へどみさき)をと決めたのだが、バス便がいっさい無くレンタカーかタクシーを利用するしかなかった。いずれはレンタカーを利用するだろうが、今しばらくはのんびりとした ”ちょぼちょぼ旅” をつづけたいので最北端の旅は後回しにした。

まず手始めに選んだのは本島中北部にある恩納村(おんなそん)の海岸ラインを国道58号線沿いに歩くコースだ。恩納村の一番北東の端は名護市と接する。そのあたりから恩納村の海岸線を西南へ真栄田岬(まえだみさき)あたりまで歩くという、つまり恩納村の海岸線を横断するコースである。直線距離にして約17キロにおよぶ。


透明度抜群のブセナリゾートのビーチ

恩納村の海岸線には、美しいビーチリゾートが集まっているとの評判が高い。

しかし17キロもあるので何日にも分け、バスで乗り継いだり飛ばしたりしながらの ”ちょぼ旅” になりそうである。

今日はそのいいかげんな北旅行のスタート日なのである。

名護BT(バスターミナル)行きのバスに飛び乗り、1時間30分揺られて降り立ったのは”ブセナリゾート前”という停留所だった。

バスの運転手さんにせかされるまま、慌てて降りることになってしまった。


実はバスが空いたとき、前の方に座席を変えながら恩納村と名護市の境あたりで降りたい旨を伝えてあったからだ。


降りた停留所で地図をチェックするとたしかに名護市に入ってすぐの位置であることが確認できた。停留所の近くに石灰岩を積みあげて造られた「BUSENA RESORT」のネームプレートを発見したが、少しよそゆきの顔をしている。

ゲートにはセキュリティースタッフが居たが、軽く挨拶程度の会話のあと無事通過。リゾート地域内はよく整備された道やモールがあり、ほどよい高級感が漂っている。

広場の噴水を過ぎると浜辺に出た。透明度抜群の海面で光が踊っていた。太陽の照り返しが、水面からではなく透き通って見えている砂底から跳ね返っているかのようだ。

部瀬名岬(ぶせなみさき)の遊泳ビーチ

浜辺の右手に目を移すと岬の先端部まで見通すことができる。その先端部から沖合に向かって細い渡り廊下のような橋が架かり白い灯台のような塔へとつづいていた。なるほどビーチリゾートらしい景観を見せている。

小さな岬ながら先端までは300m以上の距離があるだろうか。歩き始めると折しも小型観覧バスが通りかかった。誰も乗っていないことを幸いに運転者に話しかけたら、無理に止めることになってしまった。

                           リゾート内を周遊するシャトルバス

岬の先端まで行くと云うので、乗せてもらうことにした。リゾート内を周遊している無料のシャトルバスだという。なるほど砂浜の内側にはバスが通れるほどの舗装道路がぐるりと敷設されていた。

この部瀬名岬は沖縄唯一の海中公園で、その岬がまるごとブセナリゾートとして開発されたらしい。

「ザ・ブセナテラス」という高級リゾートホテルを中心に、周りには美しい海中景観を楽しめるような施設やサービスが充実しているようだ。岬先端までのんびりと走るバスの中で教えてもらった情報である。

先端に着くと、そこには海側へ張り付くように「ランブルフィッシュ」という名のレストランが建っていた。

ホテルが経営するそのシーフードレストランだが味のほどは判らないが、絶景に囲まれて食事ができることだけは明らかだ。


そして先端にはもうひとつ施設があった。遠くから見えていた渡り廊下のような長い橋の先の白い塔である。それは灯台ではなく、海中公園の景観を鑑賞できる海中展望塔だった。

海底に展望室を備えるその白い展望塔に入るべく、沖合に向かって真っすぐに伸びた海の渡り廊下を歩き始めたのだが、途中で何度も立ち止まってしまった。

足元に見える橋脚を洗う透明なさざ波や小魚の群れ。太陽と水が混ざり合う瞬間の輝き。石を組み上げた堤防でベビーカーを押す女性のシルエット、眼前に生成される何枚もの絵に陶然となってしまった。

云わば両側に絵の架けられた美術館の回廊のようなものを想像されたい。しかもこの海の渡り廊下は170mもつづく。立ち止まらない方が不自然なのである。

「ブセナリゾート(海中公園)」のガイドページへ

浜辺から沖合へ170mほど突き出た細い橋に、海中公園の白い展望塔がある。展望と云っても海上の景色を観るのではない。塔の建つ底部まで降りて海中景観を展望するのである。

灯台のような塔の入口で利用料を払い、塔内のらせん階段を降りる。4m近く階段を下ると丸窓のある狭い空間の底部に着いた。

この日の窓外はやや濁りはあるものの海底を泳ぐ魚や生物を観察するのに支障はない透明度だった。この海中景観の透明度は季節や天気で大きく変化するという。

潜水艦のような丸い窓からの景観  泳いでいるのはタマン(ハマフエフキ)という名の魚

塔をあとにしてビーチに戻り、しばらく海岸ラインを散策する。海岸沿いに記念碑がひとつあった。「1981年第8回ウィンドサーフィン世界選手権沖縄大会開催記念」とある。そういえばこのブセナリゾートにもうひとつ国際的な催しがあったと説明板にあったのを思い出した。


ホテルに隣接する「万国津梁館(ばんこくしんりょうかん)」と名付けられたコンベンションセンターは、2000年九州・沖縄サミット首脳会合の議場となったところである。

各国の首脳が滞在したリゾートホテル「ザ・ブセナテラス」にもあとで立ち寄ってみよう。

遊泳ビーチと海中展望塔の間に桟橋があり、グラスボートが発着している。やはりこれも海中景観を楽しむ方法のひとつとして設営されたものだろう。

最初は乗る気が無かったのだが、桟橋に出てブラブラしていたら潮の香りと風が心地よくふらふらと乗船切符を買ってしまった。

船を慕うようについてくる魚群がガラス底から観察できるが長く見るほどのものでもない...が、シンプルに東シナ海を疾走するクルージングは爽快このうえない。沖縄海岸国定公園でもあるこの周辺の海域は美しく、部瀬名岬の全景をたなごころにできる。

疾走する船の中空に舞い散る水しぶき(左) 桟橋に着くグラス底ボート(右上) ガラス底に見える魚群

クルージングですっかり童心に戻ってしまったようで、ボートを降りたあとも浜辺の水遊びに興じてカニや小魚を追いかけまくってしまった。そして木陰で寝そべって持参した文庫を読みながらひと休み。

顔の上を滑る風が少しづつ汗を持ち去ってくれる。気がつくと10分ほど眠っていたようで目を開くと....白い大きな雲。

「ブセナリゾート(海中公園)」のガイドページへ

冷たくおいしそうなアイスティーが運ばれてきた。窓から射し込む強い陽射しがジリジリと白いソファを焦がしているように見える。

「ザ・ブセナテラス ビーチリゾート」のホテルを訪問し館内を軽く廻ったあと、3階にあるこのティーラウンジの「マロード」に落ち着いたところである。


ホテルの正面玄関は海の反対側からになる。

そして正面から入館したメインロビーは本館の4階部にあたり、その中央部から北と南の両翼に客室棟が伸びる。

特に北への客室には渡り廊下の先にクラブラウンジがあり、アッパークラスのゲストのみが利用でき客室へとつながる設計になっていた。


最近ではすっかりクラブフロアを設けるホテルが世界的に普及しており、おおよそはペントハウスの最上階が充てられていることが多い。

こちらのホテルの北棟は岬先端方面であるため3方向が海という絶好の立地で上位クラスの部屋を用意するのも当然といえる。同じ北のエリアには贅沢なコテージまで備えていた。

メインロビーを突っ切ると海側を見下ろすテラスになり、一気に視界が広がる。プールは1階と2階に分かれており、時間帯により変化する日差しを好みのポジションで広く選択できる。

4階テラス(左) 2階プール(右)

また荒天でも泳げるように、そこそこの大きさの室内プールまで備えている。ホテル西側の前面には真っ白なビーチが広がり、専用ビーチのようにパラソルが並ぶ。そして海を満喫できるようビーチにはマリンハウスやビーチショップが何ヶ所もありサポート体制も完備。

リゾートホテルの良し悪しの基準は人それぞれにあると思うが、”上質な高級感”、”穏やかな精神を醸成するゆとりの大空間”、”従業員のトップクラスのホスピタリティ”そして”立地環境の景観”という条件は万人が求める共通要件と云える。

高級リゾートホテルに滞在する場合、観光よりも避暑やリラクゼーションに重点が置かれるので、ホテルからわざわざ外出しなくてよいほどの魅力がなければならない。

Busena-Terrace3_blog.jpg

筆者は、ハワイのマウイ島へ飽きもせず毎年出掛けていた時期があった。「カアナパリ」「ラハイナ」「キヘイ」など毎回地区やリゾートホテルを変えていたが、最終的には「ワイレア」で落ち着いた。その大きな理由が上記の要件を満たしてくれたのがワイレアの地とホテルであったからだ。

ちなみにホテル内の食事だけではやはり飽きてしまうので、夜の食事だけは夕景の海岸線をドライブがてら近隣の地元レストランまで出かけて楽しむパターンができてしまった。沖縄旅行が今回まで遅れたのもこのワイレアが原因だったかもしれない。

さて「ザ・ブセナテラス ビーチリゾート」の話にもどる。従業員の応対や設備・備品からおおよその見当がつくものだが、ワイレアにあるトップライナーのホテルと同質の匂いを感じたというのが素直な感想であった。

宿泊もせず食事すらしないのになぜホテルを訪問するかというと、近い将来”観光”でなく、”避暑”目的での再訪を目論んでいるからだ。これからいくつかのホテルを訪問するだろうが、ここは間違いなくホテル候補のトップライナーである。


「ザ・ブセナテラス(ホテル)」のガイドページへ

ブセナリゾートをあとにして国道58号を海岸沿いに行く。今日は午前中も早くからスタートしたのだが、ブセナリゾートでゆっくりしすぎてすっかり陽が高くなっていた。

沖縄本島でリゾートビーチがもっとも多いという恩納村(おんなそん)のコーストラインを北から南下する予定だが、今日はどこまで歩けるか...

部瀬名の海岸を離れるにしたがい浜辺には小岩が目立ってきた。リゾートのビーチは整備する過程で珊瑚などの白砂を敷いたりして本来の海岸線は隠れてしまうので、この景観が本来のものかもしれない。

1キロほど歩くと右側に「かりゆしビーチ」の案内が見えてきた。

遊泳ビーチとして一般に開放されている施設だが、58号線より山側に建てられたホテル「沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ」「オキナワ マリオット リゾート&スパ」のゲスト用ビーチとしての機能も兼ねた遊泳ビーチ。

宿泊客は無料だがビジターは遊泳有料になっていた。遊泳施設やビーチ景観など、総じて標準装備のリゾートビーチといった印象であった。

ここでは長居せず、すぐに南下の旅をつづけることにした。しばらく歩くとギリシャ建築のような威風堂々とした建物が右手の海岸側にあらわれた。近づくと幸福の科学、沖縄正心館ということであった。なぜか宗教団体の建物は立派なものが多い。宗教団体の館のせいか、確実にまわりの景観 から浮いてしまっている。

場違いなほど豪勢な建物

その建物の背面がすぐ浜辺のようだったので、回り込み海岸に出てみた。

砂地に降りると沖縄では「ハマカンダー」と呼ばれる花が咲いていた。一般には「グンバイヒルガオ」の名で知られ、見るからに涼しげな青紫の花をつける。

花を一見すると、か弱い印象だが、タネは黒潮に乗り分布を広げるという種の保全のためには波乗りも辞さぬたくましいワンダーフラワーである。


浜沿いにしばらく南下すると小さな河口に突き当たってしまった。

泳いで渡るほど深くはないが裾まくりで渡れるほど浅くもない。なんとも半端な河口だが、小生物の観察や水遊びには手頃なポイントであった。また道草である。

ここで観察記をリポートすると BLOG の2回分くらいになるので割愛するが、これだけは云える。沖縄に生息する生物の豊富さは東京で見られるものの比ではないということ。

Onnason-coast4_blog.jpg

河口をうかいするため一度国道58号線に戻りしばらく南下したが、陽射しがいよいよ強くなっていた。強烈な舗装道路の照り返しがサングラスをしていてもまぶたに微熱を感じるほどだ。頭からは湯気が上がっているに違いない。

水遊びのときは苦にもならなかった太陽が、単調な道歩きになると途端に苦の対象である。ほんとうに人間とは困ったものである。

地図を見ると、このあたりはすでに伊武部(いんぶ)の海岸に属しているようだ。国道と海岸の間にずっと林がつづいているので、ふたたび海岸へ出るためと直射日光を避けるために林に入った。

陽光の中から樹木の下に踏み込むと、皆既日食のようにまわりが真っ暗に。サングラスをとってもその暗がりに眼がなれず足元ばかりをを見て歩いていたら、突然 龍が目の前に現れた。

打ち捨てられたように置かれたグラス底ボートだった。しかしよく見るとまだ現役の船のようで、船腹には「第三金竜」とあり、フィギュアヘッド(船首飾り)の竜が前方を見据えている。おそらく船揚げ場としてこの林を利用しているのだろう。

このグラスボートの活躍拠点は 「いんぶビーチ」 に違いない。 「かりゆしビーチ」の次のビーチへと少しだけ急ごう!


かりゆしビーチ

住所 名護市喜瀬1996
電話 0980-52-4093
    (リーフリゾートかりゆし)
施設利用料 大人500円 小人300円 宿泊者無料
施設 駐車場 1000円
 シャワー/更衣室/トイレ/売店
レンタル パラソル/サンデッキチェア/ビーチマット/ボディボード
備考 キャンプ・BBQは禁止。個人のシュノーケリングは禁止だがその他のマリンレジャーは許可されており、スクールも有
交通
 車 那覇空港より 80分(国道58号線を北上−伊武部(いんぶ)まで)
 BUS 那覇BT 100分(名護西線20番)−バス停 「伊武部(いんぶ)」 下車3分

相も変わらず国道58号線をひたすら南へ向かって歩いている。思いのほか「いんぶビーチ」で時間をとられてしまった。ビーチの端から端まで歩いてしまったのだ。

かなり広いビーチだが距離は500mほどのものであった。浜辺に沿って歩くと小さな半島のように海側へせり出しているため58号線からどんどん遠ざかってしまう。国道58号の幹線道路に戻るために時間がかかってしまったのだ。

いんぶビーチ

「いんぶビーチ」は綺麗な海に変わりは無かったが、リゾートビーチと云うより”キャンプ”や”ビーチパーティ”向けの浜辺で”ウチナンチュ”に人気のビーチスポットのようだ。

”ウチナンチュ”とは沖縄方言なのだが定義すると難しくなるので、ここでは簡単に沖縄生まれの沖縄在住者と理解していただきたい。

浜辺のそばには防風林のように木麻黄(もくまおう)がびっしりと繁ってちょうどよい木陰をつくっており、バーべキューやパーティにはお誂えむきの浜辺空間だった。

当然旅行者も訪れるらしく、58号線から車で入れる入口の周りがまるで観光地のように派手で土産ショップまである始末。ちなみに施設利用は駐車場込みで大人500円と有料。

「いんぶ(伊武部)ビーチ」とあるが、住所は名嘉真(なかま)となっている。

この日最後に訪問したところで聞けた情報によると、「いんぶ」はもともと「印部」と書き、地区の境界線に置いた標のことらしく、標のあった場所すなわち名護と恩納村の境あたりを指す場所名を「伊武部」と表音転化し残ったという。名護と恩納村の境というと、先ほど通ってきたお隣の「かりゆしビーチ」あたりである。

そして、その名嘉真地区をまだ脱出できず、58号線を犬かきをするように歩きつづけている。海岸線から離れて内陸へと切れ込んだ国道ばかりを歩くと、変化が無いせいか飽きてしまう。ちょうどそんな時、国道がふたたび海岸に寄り添うように近づいた。

さっそく浜辺に降りたかったのだが、浜辺へ降りる階段や道が見当たらない。しばらく海を眺めながら浜から吹き上げる風に押されるように歩く。

ありました! 浜辺行き下り階段。ふだん降りる人がいないせいか、なかば雑草に蔽われてしまったコンクリートの階段だった。

降りたった名嘉真の海岸は、白砂の中の個性的な岩礁がよい添景になっていたり、海に注ぐ河口部があったりと変化に富んだ表情を見せる浜辺である。

河口部にはいくつもの橋が架かっているが、水量が少なく橋の下をくぐると川上へと探訪できる。浜辺の岩礁まわりも観察すると面白く、海の色までトルコ石のように緑に染め上げられ輝いていた。

ここの海岸はへたな遊泳ビーチより何倍も味わいがあり、個人的には気に入ったビーチポイントのひとつになった。

ふたたび58号線に戻ってしばらく歩くと、安富祖(あふそ)という地区に入った。安富祖の海岸線には「ミッションビーチ」、「熱田(あった)ビーチ」、「みゆきビーチ」と3つの遊泳ビーチがある。

「ミッションビーチ」は国道沿いにある無愛想な鉄製ゲートから入るようになっているが、浜辺まで出るとまるでアメリカン仕様と云わんばかりの洒落たビーチだった。整備の行き届いた芝生が広がりその先は白砂のビーチが海までつづいている。

200mほどのこぢんまりしたビーチだが、パラソルのあるサンデッキテラスや駐車場まで芝生を敷き詰めるなど他の遊泳ビーチにはない雰囲気で、いたって居心地の良いマリンアクティビティ・スポットだった。

「熱田ビーチ」は飾り気のない自然のままのビーチ。施設も規制も何もない、素朴な浜辺が横たわるばかり。

「みゆきビーチ」はホテルみゆきビーチのプライベートビーチである。このあたりの58号線は海面より見上げるような高度を通っており、国道沿いに建つホテルからそのビーチを見下ろす地形になる。宿泊者以外は施設利用料500円で利用可能。大家族向きの標準装備ビーチといったところか。

ミッションビーチ(左) 熱田ビーチ(中央) みゆきビーチ(右)

みゆきビーチを離れると、国道はまたもや内側へと食い込み海岸線から遠くなっていった。ふたたび暑さを我慢する単調な道行と思っていたら、肌の表面をちりちりと焦がすように強かった陽射しがかなり衰えていた。顔にあたる風にも穏やかさがもどり日没を予感させる。

30分近く歩いているが次の地区になる瀬良垣(せらがき)にたどり着かない。安富祖地区に入ってからほとんど休まず歩きつめているので、さすがにアゴを出す状態になってきた。


そんな時、視界に入ったのが歩道にデンと置かれた石造りのシーサー。対になったシーサーを見てると喝を入れられているようで、バテ気味な身体に少しだけ元気が出てきた。

やっと瀬良垣地区に入り、海岸に再会できた。陽の傾きも確実に感じられ、そろそろ今日も旅仕舞いの時刻が近づいている。

瀬良垣の国道をしばらく行くと、朱色に塗られた楼門が前方に見えてきた。守礼門とそっくりの門にしているのは「御菓子御殿」という観光客向けの沖縄銘菓店だった。

水分補給と休憩にと入店し、喫茶パーラーへ直行した。結局かき氷で水分補給をする。

かき氷をつくってくれた”オバー”がとてもいい人で、2杯目をオーダーすると大盛りにしてくれた。それをしおにヨタ話(筆者は世間話のつもり)に花が咲き、奥行きのある多くの情報を得ることができた。

そのひとつに、この「御菓子御殿」の裏の浜が「ダイヤモンドビーチ」だと教えてもらった。危うく通り過ぎるところだった。さっそく外へ出て浜辺へのアプローチを探すと、駐車場の脇に浜辺に降りる階段を発見。個性的岩礁を添景にした名嘉真の海岸に似たビーチだった。

御菓子御殿の入口楼門(左) ダイヤモンドビーチ(右)

ここからさらに南に下れば「ブセナリゾート」に並ぶ「万座ビーチ」そして名勝「万座毛」があるが、着く頃には日没を迎えるに違いない。恩納村の旅のつづきは後日再開するとして、今日はこのダイヤモンドビーチで夕暮れを迎えることにした。さて、アダンの木陰でも探そうか。


いんぶビーチ

住所 国頭郡恩納村名嘉真2173
電話 098-967-8222
施設利用料 大人500円 キャンプ700円 (駐車料含む)
施設 シャワー/更衣室/トイレ/売店 駐車場 (300台)/宿泊用トレーラーハウス有
レンタル パラソル/ビーチマット
備考 キャンプ・ビーチパーティ・BBQはOK。マリンスポーツは禁止
交通
 車 那覇空港より 95分(国道58号線を北上−いんぶビーチまで)

 BUS 那覇BT 115分(名護西線20番)−バス停 「伊武部(いんぶ)ビーチ前」 下車1分


ミッションビーチ

住所 国頭郡恩納村安富祖2005-1
電話 098-967-8802
施設利用料 大人300円
施設 シャワー/更衣室/トイレ/売店 駐車場 300円(100台)
備考 個人のシュノーケリングは禁止。シュノーケリングツアー・ダイビングツアー有
交通
 車 那覇空港より 90分(国道58号線を北上−バス停「熱田」を過ぎてすぐ左側)

 BUS 那覇BT 110分(名護西線20番)−バス停 「黙想の家入口」 下車5分


熱田ビーチ

住所 国頭郡恩納村安富祖1848
電話 098-967-8859
施設

シャワー/トイレ 駐車場 700円(18台)

交通
 車 那覇空港より 90分(国道58号線を北上−熱田まで)

 BUS 那覇BT 105分(名護西線20番)−バス停 「熱田」 下車スグ


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みゆきビーチ

住所 国頭郡恩納村安富祖1583-2
電話 098-967-8031
施設利用料 大人500円 宿泊客無料
施設 シャワー/更衣室/ロッカー/トイレ/売店 駐車場 無料(70台
レンタル パラソル/デッキチェア/ビーチマット
備考 シュノーケリングは可。マリンレジャー多種。ホテルみゆきビーチのプライベートビーチ
交通
 車 那覇空港より 85分(国道58号線を北上−バス停「安富祖」を過ぎてすぐ左側)

 BUS 那覇BT 100分(名護西線20番)−バス停 「ホテルみゆきビーチ前」 下車スグ


ダイヤモンドビーチ

住所 国頭郡恩納村瀬良垣100
電話 098-966-1200 (恩納村役場)
備考 「御菓子御殿」の裏に位置したビーチ。館内での買い物もしくは飲食の際、駐車・トイレなど利用可。遊泳は可だがその種の施設がないので自己責任で。
交通
 車 那覇空港より 80分(国道58号線を北上−瀬良垣まで)
 BUS 那覇BT 95分(名護西線20番)−バス停 「瀬良垣」 下車3分

ミーバイの煮付けが旨かった。本土ではハタの名で知られた白身の美味しい魚だ。少し大きいミーバイを選んだがペロリと平らげてしまった。

この食堂の味付けは濃からず薄からずで白身の旨さを引き立てる仕上がりだ。ここは牧志公設市場の2階食堂である。この市場食堂は2回目の訪問だが、ますますクセになりそうな予感がする。(料理の写真はBLOG 34 に掲載)

今日は2時間ほどしか自由時間が無いので、食後の運動を兼ね那覇市街のこの近場を探索することにした。地図を眺めながら、前回このあたりを訪れたとき行けなかった「崇元寺石門」に決める。

国際通りを牧志公園まで行って、あとは安里川に沿って少し下れば着く。ゆっくり歩いても30分もかからない距離だ。

安里川に架けられた橋をわたると道沿いの白い石門が見えてきた。中央に三連の切石積みアーチ門。その門を支えるように脇に伸びた<あいかた積みの石垣。

歴代の王を祀った菩提寺「崇元寺(そうげんじ)」の第一門である。門そばにある説明碑によるとこの崇元寺は戦争で全焼し、この石門の東脇に建っている下馬碑(馬を降り礼をとるよう指示した碑)だけが戦災を免れたとある。

そして石門だけが再建されたが、建物は復元されず現在に至っている。しかし創建が1527年というから、この地はまがうことなく500年近くの星霜を越えてきた霊廟地である。

アーチ門の中に足を踏み入れると表の喧騒がふっと遠のく。そこにはガジュマルの木と7段ほどの石階段があるだけの簡素な広場。地図には崇元寺公園とあるから公園なのだろうが、らしき設備もないうえ、今は誰ひとりいないせいかガランとした空地の印象である。

時に置き忘れられたような空間が広がるばかりだが、なぜか心落ち着く場所でもある。1歩出れば交通量の激しい県道なのだが、不思議なほどに騒音が届いてこない。もの静かな木陰にいると、ありし日の典雅な堂宇や荘厳な霊廟が偲ばれる。

崇元寺石門は駆け抜けて観るような観光場所ではなく、立ち止まってはじめて味わえる旧跡だった。

崇元寺石門
−そうげんじいしもん−

住所 那覇市泊1−9−1
電話 098−868−4887
見学 鑑賞自由
交通
 ゆいレール 牧志駅・美栄橋駅より
         徒歩10分
 BUS バス停 「崇元寺」 下車スグ
 車 那覇空港より 25分(国道58
    号線北上−泊交差点の信
    号を右折し県道29号線に入る
    −直進し左手)

ビーチリゾートが多く集まる恩納村の海岸線。その海岸線のブセナリゾートから瀬良垣までを歩いたのはつい先日のことだった。今日はそのつづきを始めようというのである。

地図とにらめっこしながら本日の第一歩を万座ビーチに決め、一路バスに乗り万座の海を目指した。海沿いに走る国道58号線もこれで2度目になるが、景色をゆっくり眺められるバスの旅も悪くない。

バス停「万座ビーチ前」からすぐにビーチ入口にアクセスできた。入口はビーチというよりホテルの駐車場へのゲートのようである。

万座ビーチとホテル「万座ビーチリゾート」の全景

ゲートをぬけると左の西側が浜辺になった小さな岬であることが見て取れる。

その岬の先端部に建つ白色の大きな建物が「万座ビーチホテル&リゾート(2009年4月にANAインターコンチネンタル 万座ビーチリゾートとしてリニューアル)」で、立地環境が「ブセナリゾート」に酷似している。ゲートから入るとかなりの敷地の駐車場が前面に広がっていた。

駐車場をうかいしながらホテルの敷地内にはいるといきなりチャペルが現れた。チャペルを眺めながら回り込むと、今度はパターゴルフのハーフコースが出現した。このホテルはウエディングからゴルフまで何でもこなすらしい。

ゴルフコースをたどりながら歩いて行くと、左手にビーチと桟橋が見えてきたので一気に浜辺へ急いだ。浜へ出るとビーチラインは桟橋を挟み、まるで景観の違う浜辺が両側に展開していた。ホテル方面は整備されたのか白砂のビーチが250mも連なり、反対側は原風景なのか小岩がごろごろしたやや殺風景な海岸線に見える。

               桟橋からホテルとは逆の恩納村海浜公園に向かう海岸線

眼前の海は青色の濃淡をつけながら対岸に見える石灰岩の岸壁を越えてどこまでもつづいている。

海面から隆起したような岸壁が、これから訪れようとしている「万座毛」に違いない。

海上から20mはあると思われる岩礁で、長い歳月の侵食で個性的な形状に彫り上げられていた。

桟橋そばのビーチハウスで面白いものを発見した。マリンアクティビティーの案内や申込のサービス設備なのだが、その中に”スクーバBOB”という水中バイクがあった。まるで007の映画に登場しそうな乗り物ではないか。眺めているうち本気で試してみたくなったのだ。

ちょぼ旅を決め込み水着ひとつさえ持参しない気軽な旅装ながら、場合によってはビーチショップで買い求めるくらいの根性で係員を質問ぜめにしたのだが、結論から言うといくつかのハードルがあり断念。

別れ際に係員が言ったものだ、「この水中バイクは沖縄でもここしかないんです!」 心の中で思わずつぶやいていた、「So what ?」

Manza-beach3_blog.jpg

万座ビーチ(左) ホテルのビーチサイドプール(右)

遊泳ビーチを経由してホテルに着いた。大した距離ではないが、ホテルの建物から遊泳ビーチまでが少し離れていた。そのためかプールをふたつ設置していた。遊泳ビーチそばの”ビーチサイドプール”とホテル1階にある”ガーデンプール”だ。

ホテル内部は吹き抜けになっており、9層の客室フロアがコロシアムのように取り囲み、内部全景が眺望できるガラス張りエレベーターが2基、忙しく上下動している。

造りもサービス設備も家族向けの傾向が強く、実際に客層も子供同伴の家族連れが多く見受けられた。従業員も充分なホスピタリティをもって応対しており、お子様連れの家族も安心のホテルといえる。

しかし落ち着いた雰囲気のなかにも贅沢な高級感があり、静かで極上の休息時間を楽しみたい向きには、ブセナテラスの方をお薦めしたい。この万座ビーチリゾートにはチャペルからパターゴルフ、紅型教室まで揃い、メニューが多すぎるように感じた。

本当の休息に適したホテルは設備やサービスを出来うるかぎり絞り込みシンプルにしてメリハリをつけている。その方がかえって贅沢な時間を過ごせるようである。


「万座ビーチリゾート」のガイドページへ

ホテル万座ビーチリゾートを早々に退散し、ビーチ沿いに次の目的地「万座毛」へと出発した。万座ビーチの砂浜が桟橋までつづき、その先は岩場があちこちにある浜辺に変わる。そのあたりが恩納漁港海浜公園と呼ばれている。

58号線に近くなったところに恩納漁港があった。港には漁船よりもマリンクラブの船があちこちに係留してあり、この時も珊瑚礁シュノーケリングのグループがまさに出航するところであった。

恩納漁港で出航準備中の珊瑚礁シュノーケリンググループ

国道58号線に出るとすぐ橋にぶつかった。

橋むこうのたもとには沖縄特有の墓石が川に沿うようにたくさん並んでいた。

今ではすっかり見慣れた可愛いミニチュアハウスのようなお墓だ。

お墓の密集地区を横目に橋を渡ると、やっと万座毛入口の信号にたどり着いた。


信号から北へまっすぐに伸びた一本の道は、ず〜〜〜っとなだらかな上り道。

海がまったく見えない細いなだらかな上り道をただひたすら歩きつづけて15分。やっと坂道の上まで到着すると、そこは駐車場とおみやげショップが混然一体となった広場だった。

この広場の先には風光明媚な万座毛があるはずだが、静けさなぞ微塵も感じられないほど観光地然としたその軽すぎる雰囲気にすっかり出鼻をくじかれてしまった。

しかし雑然と軒を並べる おみやげ屋を抜けると、一面に緑の絨毯を敷き詰めたような草原台地に出ることができた。

隆起した石灰岩礁に自然群生するというコウライシバが、岬先端の台地を眩しいほどの緑色で塗りつぶしていた。

この草原の整備された遊歩道に沿ってそぞろ歩くと岸壁の淵へと向かう。

淵から覗き込むと海上から20mはありそうな眺望で、海が見せてくれる青というひと言では表現できない複雑で深みのある色は何にも代えがたいものであった。

自然だけが創れるアートである。


沖縄へ来て一ヶ月近くになるが、のんびりと行くちょぼちょぼ旅を心がけていると一定のパターンが生じてくる。一日の行程で一番時間をかけてしまう場所が必ず一か所はあるということ。

そしてその場所を本能的に嗅ぎ分けることができてくる。訪問時間をバランスよく振り分けることがどれほど無意味なことかが解ってくるのである。

この万座毛はそのウエイトをかけるべき訪問場所のひとつであった。

万座毛から臨む東シナ海の眺望

岬の先端域は狭くて凹凸の変化が多いというのが通常だが、この万座毛はその名が示すように万人でも坐すことができそうなほど平坦で広々としている。東シナ海の眺望が素晴らしく、逍遥を可能とするこの草原台地は中空のテラスと云える。

遊歩道を歩くだけでも様々な角度からの眺望が楽しめ、海の表情が大きく変化する。さきほどまでいた万座毛のビーチやホテルが対岸に遠望でき、全景が掌にのるほど小さくなっている。また緑の台地もコウライシバだけではなく、見たこともない植物を発見できる..らしい。

白い花弁が可憐な野菊があちこちに咲いていた。熱心に植物を観察していた初老の紳士に尋ねると、海岸崖地にだけ咲く ”イソノギク” だと教えてもらった。またこの草原地にしか群生しない花も鑑賞できると詳しく説明を加えてくれる。聞き慣れない名前をたくさん教えてもらったのだが、覚えられたのは ”イソノギク” だけだった。

たっぷり2時間以上、この青と緑が充満する中空テラスで過ごしたあと、再び南下の旅を始動させた。


「万座毛」のガイドページへ

万座毛を出発し58号線に出る道を下りてゆくと、来る時に見逃してしまった細い横道の先に石碑を発見した。

細い横道はその碑のある場所へゆくだけの専用小路だった。

小さな広場は掃き清められたように整然としており、清楚な空気が流れている。

石碑は戦没者の慰霊碑であった。広場の端には戦没者の芳名石版が建てられ、正面の石段を昇ったところに慰霊碑がある。

慰霊碑の前には真新しい花束が幾束か手向けられていた。

永い歳月、鎮魂を願う真摯な姿が誠実につづけられてきたに違いない。

慰霊碑へのアプローチは制限されていないが、軽々に接触してはならない凛とした空気感があったので、遠くから合掌し慰霊碑をあとにした。

ふたたび国道58号線にもどり、恩納村(おんなそん)の海岸線を歩くため南下を再開したのだが、この後なんと2時間もの距離を歩きつづけることになろうとは想像すらしていなかった。万座毛から約5キロ南西にある谷茶(たんちゃ)まで海岸にはまったく近づけなかったのだ。

この5キロの道程で、58号線はところどころ海岸線に出るのだが浜辺への階段や道がなく、横目に眺めながら歩くしかなかった。

端(はな)から判っていればバスを利用したのだが、のんびり旅の良否は歩き通して初めて判ることなので、これも旅のうちとしよう。

すっかり雑草に蔽われた階段から谷茶の浜辺へ

谷茶地区に着いた頃は完全にアゴを出し、倒れる寸前のゾンビのような歩きになっていた。

休もうと思えばもちろんどこでもできるが、何もない国道沿いの路肩でしゃがんで休む光景を想像されたい。

たぐいまれな美しい海岸を星の数ほどもつ沖縄にまで来て、そんな半端な休み方があるだろうか。

意地でも海岸に出るまで休まないのだ。

谷茶地区に入るとふたたび58号線が海岸に近づいてきたので、浜辺へ降りる道か階段を見逃してしまわないようにゆっくりと歩いた。

と云うよりはこの場合、速く歩ける元気がすでに失せていたと表現した方が正しい。

やっと見つけた階段はほとんど雑草に蔽われ危うく見逃すところであった。

こんな場所から浜辺に降りようという人間がいないのか、階段は荒れ放題にまかせ途中から通行不可の状態。

 

強行突破し無事浜辺に到着すると、そこはのびのびとした雑草の生えるあちこちに岩場が顔を出す素顔のままの海だった。

小さな岩をベンチがわりにしてやっと少憩を取ることができた。

水面を渡ってくる風が足元から届き、身体に何重にも張り付いてしまった汗を溶かしてゆく。

小休止のあと、浜辺づたいに南へ下ってゆくと、しだいに余所行きの顔をしたビーチに変わってきた。

白い砂が7、800mも長大に広がる谷茶ベイビーチのエリアに入る。

ビーチ沿いには大きな教会を備えた 「リザンシーパークホテル谷茶ベイ」が建っていた。


さっそくホテル内を廻ってみたが、最大の特徴はオキナワ・ウェディングに重点をおいた設備が充実しているところだろうか。教会やチャペルに加え、披露宴用の設備が屋内外に完備されていた。

ホテル全般の印象は標準のひとこと。ビーチサイドのリゾートホテルとしては癖が無く、あまりにアベレージで可もなく不可もない。

早々に次の地を目指して出発した。

ビーチに面した大きな教会(左) ホテル前ビーチ(右上) ホテル正面(右下)


谷茶ビーチ

住所 国頭郡恩納村谷茶

電話 098-966-1202
   恩納村商経済観光課

施設 なし

交通
 車 那覇空港より 70分(国道58号線を北上−富着まで)

 BUS 那覇BT 80分(名護西線20番)−バス停 「谷茶」 下車5分


いきなりだが水質検査のことから始めたい。筆者は東京在住なのだが、水辺好きがこうじてここ沖縄まで来ている始末。東京の隅田川が汚染されてから久しいが、しだいに回復してきたことを心から喜んでいるひとりでもある。

ときどき隅田川再生に尽力するNPOのエコボートに便乗したり、たまに水質検査用の透明な筒に入れた隅田川の水を覗き込んだりもするのだ。

最高水質のAAを誇るサンマリーナホテルのビーチ

だから水質検査という言葉を聞くと過剰な反応をしてしまう。

ここ恩納村の富着(ふちゃく)にあるサンマリーナホテル前のビーチは最高の水質だと云う。

毎年ビーチ開設には海開き前の5月頃水質検査を実施し、県ごとに報告するようになっている。

AA、A、B、Cの4段階でこれ以下は不適とされる。

このサンマリーナのプライベートビーチはAAにランクされていた。


平たく云うと、透明度1m以上、油膜や大腸菌群は一切無し、など厳しい基準をクリアしているということだ。日本にもこんな海があると思うと嬉しくなってくる。


プライベートビーチは人工整備されており、外海からの波を防ぐためか、小島のような堤が造成され遊泳者が安全なように内海が形成されていた。そしてその堤が海上遊歩道のように散策できるのである。さっそくぐるぐると廻ってみたが最高に心地よい海上遊歩となった。

屋外プールがプライベートビーチに接するほど近くに造られており、すぐ移動できるので使い勝手がよさそうだ。しかも広々と解放されたプールなので海岸線のパノラマ眺望が楽しめる。

ホテル周りの敷地内には鮮やかな緑色の芝が敷き詰められ、同系色のモスグリーンの”水”を湛えた池が大きく横たわる。

ホテルに足を踏み入れると内部は吹き抜けになっており9階上部まで見通せる。

1階のメインフロアの中央には一面 ”水”を張ったレイアウトのティーラウンジがあったのでひと休みすることにした。

このサンマリーナホテルは、いたるところに”水”を配した親水イメージのあるリゾートホテルだ。


運ばれてきたジュースのグラスから、氷をひとつ頬張りながら地図を取り出して眺める。先ほどまでいた谷茶ベイの「リザンシーパークホテル」から歩いてもすぐのところにある「サンマリーナホテル」だが海岸線の趣はかなり違う印象である。

このまま南下をつづけると先には富着ビーチ、タイガービーチ、ムーンビーチと、ビーチのはしごができそうである。そしてその先は仲泊(なかどまり)となり国道58号線が海岸線から離れ内陸部へとくい込み那覇へと伸びてゆく。陽はまだまだ高いのでなんとか仲泊まで歩けそうである。

小休止を切り上げたあと、参考のため案内カウンターよりルームレート(ルームタイプ別価格表)をチェックしホテルを離れる。

ヨットやクルーザーが係留されたマリーナ

ブセナリゾートほどの高級感や万座リゾートほどの派手な規模は無いものの、オーソドックスで落ち着いた好感のもてるホテルだ。

何よりもリゾートホテルの主役である ”海” が良く、その親水環境はかなりの高ポイント。

全室オーシャンフロントビューで、リーズナブルな部屋料は抜群のコストパフォーマンスというサンマリーナホテルだった。


ホテルを離れふたたび58号線に戻るべく歩いていると、ホテル敷地の南端に明るい陽だまりを囲うようなマリーナが出現した。

係留されている船は洒落た小型クルーザーやヨットばかり。漁業実用の船など皆無のリゾートらしい係船港で、ついついまたしてもショートブレークをしてしまった。

すっかり重くなった腰をあげ、道歩きに欠かすことのできない”i Pod”のスイッチをONにするとシャッフルで選曲されたのは「Against The Wind」。ボブ・シーガーの渋いボーカルが身体に流れ込んできた。

日暮れまでにはなんとか仲泊にたどり着かねば....ほんの少しだけ道を急ごう。


「サンマリーナホテル」のガイドページへ

国道の右側に富着ビーチが見えてきた。飾り気のない素朴な海岸が300mくらいだろうか つづいている。波音に誘われるように浜辺に出て穏やかな波が寄せては引いてゆく波打ち際を歩いてゆくと、ところどころにもずくのような海藻が打ち寄せられていた。

この海岸の海も透明度が高く水質の良い村営ビーチとの評判である。施設はトイレと小さな駐車場だけの浜辺だが、遠浅の美しい海だ。きっと絶品のサンセットが演出されるに違いない。

素朴な表情をした富着ビーチ

国道58号線の富着ビーチの反対側、つまり山側沿いには「フチャクリゾート沖縄」と大書された大型リゾートホテルのような建物が建設中であった。

ちなみにこのブログをつづっている現在、この施設が完成したようだ。

正式名も「カフー リゾート フチャク コンド・ホテルズ」と改名していた。

この施設は通常のホテルではなく、別荘コンドミニアムとして売り出され、オーナーが使用しない期間のルームを委託されホテルとして活用するスタイルである。

この10月には東京でも読売新聞紙に全15段広告を展開し募集をしていた。

富着ビーチへの訪問者にとって、使い勝手の良い施設になってくれることを願うばかりである。


                      タイガービーチへの入口道路は封鎖中

さて、旅をつづけよう。

富着ビーチをあとにして次のタイガービーチを目指し、ほどなく到着したのだが残念ながらタイガービーチは休止中。

浜辺へのアクセスも関係者以外は禁止されていたので断念する。

58号線もこのあたりから、ビーチ近くの海岸通りにありがちな賑やかさが見られるようになってきた。

地図をチェックすると、400mほどで次のムーンビーチだ。

賑やかになってきた国道沿いの店をキョロキョロ覗きながら歩いていると、高い位置に掲げられた ”ムーンビーチ入口” の案内を見つける。さっそくその道にもぐり込んだ。

細いその道のつきあたりには青くHOTEL Moon Beeachと書かれた白い建物が物静かにたたずんでいた。そして「ムーンビーチ」はホテルの向こう側で待っていてくれた。

ホテルを通り抜けテラスからビーチを見下ろすと、浜辺にはビーチパラソルが7重(7列の意)になって咲いており、白い砂浜は名前の通り半月の形を海に向けていた。その半月状になった砂浜の両脇が岩場や樹木で閉じられており、まさにプライベートビーチと云える。

プライベートビーチだが施設利用料を払えばビジターも利用可能になっている。そのビーチに出て海岸を少しだけ散策した。透明感のある海も清楚で、傾き始めた陽を返す波間も表面ではなく海中から照り返しているように美しい。

ビーチにあったマリンクラブの案内に、このホテルが所有している無人島の「ナップ島」ツアーがあった。40分で行ける無人島ではをさまざまな楽しみ方ができる。いずれ機会があれば是非参加したいツアーだ。

またまた58号線まで戻り、本日の最終地点に決めている仲泊(なかどまり)へ向かって歩いていると、道がふたつに分かれた場所にさしかかった。ひとつは仲泊の町と海岸線に近い県道6号線、もうひとつは今まで歩いて来た国道58号線。

ここはあえて国道58号線を選んで進むことにした。なぜなら58号線がそこからかなりの高所を大橋のように横切り、仲泊の町と海を見下ろす絶景を創りだしていたからだ。

海へせり出した58号線にはヤシ並木が(左) 58号線から臨む仲泊の町並み(右)

展望台と見紛うばかりの眺望をもつ58号線が1500mもつづく。景色を愉しむために立ち止まる必要がないほど長い道のりなので歩きつづけるだけで堪能できる。

かなり傾いた陽が最後の輝きで海面に光の川を描き、静かな仲泊の町並みの影が一幅の絵のように浮かんでいた。

仲泊の町が終わるあたりから58号線は大きく海上へせり出すように曲がる。そしてヤシ並木となり南国らしい景観に変わる。

国道58号線沿いに行く恩納村リゾートビーチの旅もそろそろ終わりにしよう。ブセナリゾートから瀬良垣まで11キロ、万座ビーチから仲泊まで11キロ、2回に分けての全行程22キロの海岸歩きで、久しぶりに海とのよりが戻ったように感じられる旅になった。


富着ビーチ

住所 国頭郡恩納村字富着

電話 098-966-1280
   恩納村商工観光課

施設 トイレ/駐車場 5台(無料)

交通
 車 那覇空港より 65分(国道58号線を北上−富着まで)

 BUS 那覇BT 75分(名護西線20番)−バス停 「富着」 下車5分


ムーンビーチ

住所 国頭郡恩納村字前兼久1203

電話 098-965-1020
   ホテル ムーンビーチ

施設 施設完備(ホテル運営)宿泊者無料/ビジター有料(500円)

交通
 車 那覇空港より 60分(国道58号線を北上−ムーンビーチ前の信号を左折−ホテルムーンビーチまで)

 BUS 那覇BT 70分(名護西線20番)−バス停 「ムーンビーチ前」下車7分

バスが大きく左へ曲がり国道58号線から分かれた県道6号に入った。この県道は狭いが両側には店が立ち並び、賑やかに人が行きかっている。濃厚な生活臭のある風景だ。

今日は本島の中北部西端、残波岬を訪問すべくバスに乗り込んでいる。しかし、この残波岬までたどり着くバス便はまったく無いのである。以前は岬前まで路線があったようだが今は廃線となっていた。バス旅行ではかなり不便な目的地であることはすでに予習した時に判明したのだが、あえて挑戦することにしたのだ。

岬に一番近いバス停が終点の読谷BT(よみたんバスターミナル)だった。その終点ポイントから岬まで2.5キロも距離を残している。つまり急ぎ足で50分近く、ゆっくり歩けば1時間以上かかることを意味している。ネットのガイドページには徒歩30分とあるが、走ってでも計測したのかと云いたい。

いずれにせよ沖縄本島がアメリカのような車社会地域であることを再認識させられる一事ではあった。

米軍施設 トリイステーションの入口

アメリカと云えば、途中 楚辺というところにあった米軍キャンプのゲートに鳥居が立っている不思議な光景を見た。

ゲートに鳥居を建てるのはよいとして、入口と出口にそれぞれ建っているので二つ並列で並んでしまっている。

縦列に重なる鳥居はあっても横に並ぶ鳥居など聞いたこともない。

本来鳥居は神域と俗域の境を示すもの。米国人が神にでもなったと勘違いするとは思えないので、洒落たつもりなのだろうが滑稽と云うほかない。ちなみに後日調べるとこの米軍施設は「トリイステーション」と名付けられていた。

子供のように車窓に張り付いていたことに気付き、シートに深く座り直すと、前席のシートカバーに落書きを発見した。

叶わない恋もある あきらめてしまえ

            叶わない夢はない あきらめるな と書かれていた。

感情の高ぶりのまま書きなぐったような文字だった。薄くなりつつあるその文字を残そうとでもしたのか、上から濃いマジックで重ね書きがしてあった。重ね書きの人物は別の人物と判る。なぜなら筆跡が違うことと、恋と云う字を間違えて重ね書きをしているからだ。

なかなかの名句だ。古今東西、順風満帆な時に名言なぞ生まれたためしはない。とにかくこの人には目いっぱいの声援を贈ってあげたい。

ようやくバスが終点ポイントに到着した。去り行くバスを見送ったあとは、物音ひとつしない寂然とした風景が待っていた。なにか自分ひとりだけが取り残されたような感じだ。

さあ残波岬まで一気に歩いてしまおう!バス路線の無い県道6号線をそのまましばらく進んでいると、ところどころに建っている家から門前を守るシーサーが顔を見せてくれる。単調になりがちな行程に楽しい変化をもたらしてくれた。

途中、廃線になり今は使われていないバス停まで現れた。その BUS STOP を恨めしく横に見ながら先を急ぐ。

15分ほども歩いたろうか、残波入口という信号があった。そこから真北に向かって県道から分かれる細い道路が延びていた。路側帯には植物が植えられ綺麗に整備されたその細い道路に進路を変更し踏み入った。

草原のような緑の大地が広がるこのあたりは瀬名波と呼ばれる地域だ。

あたり一面を緑一色で埋め尽くされたその先に、かすかに抵抗するように青の色が遠望できた。

わずかに臨めるその青は東シナ海である。

これが曲者で周りに建物が無いから視認でき近くに感じるが、実はとんでもなく遠いのである。

すっかり沖縄の歩きに慣れてきたので目測でおおよその見当がつくようになっている。あと最低30分は歩くことになるだろう。

そんな時、i Pod からギターの名手であるメイソン・ウィリアムスの ”Sunflower” が流れてきた。草原地を歩くには最高のBGMだ。急く気持ちを抑え、速くなっていた歩くリズムを穏やかなテンポに変えてくれた。

その後の道沿いには陶芸工房の窯所があったり、誰が来るのか居酒屋のようなスナックがあったりとポツンポツンとわずかだが人の気配のするところがあったが、それ以外は野原とサトウキビ畑がつづくばかりの道のりだった。

途中からなんとなく道草をするような歩きになり、沖縄ではウージと呼ばれるサトウキビを観察したり、工房に寄り道したりと進度がかなりスローダウンしてしまった。それでもやっと風力発電の大きな風車や岬のそばにあるはずの「残波ロイヤルホテル」とおぼしき白い建物が確実に近づいてきた....あと少しだ。

陶芸工房の個性的な看板(左) 残波岬が近い瀬名波の風景(右)

ようやく残波ビーチのそばにあるという「残波ロイヤルホテル」に着いた。

右に隣接するゴルフクラブとホテルの間に立つ風力発電の風車が眠たくなるようにおっとりと回っていた。

1時間以上歩いてきたのでどこかでひと休みをとホテルに飛び込んだのだが、その場所を見つけられずプールサイドに出てしまった。

結局、誰もいないプールサイドも通り抜け、そのままビーチへ向かうことにする。

道一本隔てただけの反対側にある残波ビーチにはすぐに到着。


                   ゆったりとした残波ロイヤルホテルのプール

驚くほど珊瑚の白い砂が綺麗なビーチだった。そしてまた驚くほど混んでもいた。

おそらくホテルの宿泊者とビジターがこのビーチに集中したからだろう。

思わずビジターに向かってホテルの静かなプールを宣伝したい衝動に駆られる。

波のリズムに合わせて揺れる海が抜けるように澄んでいて、カメラで切り取りたかったが撮れなかった。


どのアングルにも人が近くに入ってしまうほど混んでいたからだ。恩納村のリゾートビーチを観て歩いた経験のなかでも一番の混み方をしているビーチだった。この残波ビーチでも小休止を取れず、やむなく岬に向かう。世の中、思うようになることは少ないのである。

駐車場を通り抜け残波岬公園に入るといきなり7メートルを超えそうな赤獅子のオブジェに迎えられた。周りを見回すとレストランや「岬の駅」と称するショップなどが並んでいた。なぜかこの場所で休みたいと思わず自販機で水を求め、岬へと急いだ。

やたらと大きな広場を突っ切り、岬先端にある灯台を目指した。

真っ青な空に向かって土筆(つくし)のように伸びた白い灯台が、眼に焼き付くほど鮮やかな情景を創っていた。

凹凸の激しい石灰岩の上を恐る恐る探りながら、岬の崖ぎりぎりにやっと小休止の場所を確保した。

20 m はありそうな絶壁のへりで素晴らしく贅沢な小休止をとることができた。

崖の下を見下ろすと、先ほどまでいた残波ビーチの緑がかった色とは一変し、濃紺の海が広がっていた。

絶壁からみはるかす東シナ海に身を置いていると、身体までどっぷりと空や海の青色に染まってゆくような感覚になる。

小休止の間、ずっと眺めているうちに灯台に昇りたくなってしまった。灯台まで行くのに遊歩道を使わず、崖沿いを行くことにした。足元はひどく悪いのだが、なんとなくそうしたくなったのだ。

崖沿いに移動したので、岸壁に張り付きながら大ぶりの竿を一心不乱にキャスティングする釣り人を発見した。

崖上から一段降りたあたりに陣取り、物静かに竿先を見つめている。

近くまで降りたのだが、後ろから声をかけるのがはばかられるほど無心に集中している。

邪魔にならない程度の距離をとり、背後に陣取り釣り見物と決め込んだ。

最後に磯釣りをしたのはいつ頃だったか記憶をゆっくりとたぐってみた。

伊豆半島の南端に妻良(めら)という有名な釣り場があるが、その奥に隠れるように子浦という小さな漁村がある。

数軒の民宿しかない自然が多く残された釣りの穴場だ。子浦での釣りがしだいに思い出されてきた。その結果、20年近く釣り竿に触れていないことが判明した。

獲物が揚がったら声をかけようと思っていたが、今日は不漁のようなのでそっと引き上げることにした。釣り見学のため崖を少し下ってしまったが、今度は崖よりもっと高いところへ上がってみよう。

灯台1階で参観寄付金なる200円を払うと誰でも見学できるようになっていた。早速内部に入ったのはよいが、階段を上がれども上がれども展望台に着かない。

らせん階段の円周が小さいのでグルグル回りながら昇るため、相当昇ったようでも高度距離を稼げていないのだ。階段途中に「まだまだ」、「やっと半分」とか「もう少し頑張ろう」といったニュアンスの貼り紙がしてあった。大きなお世話なのだ。「まだ半分なの?」「え〜!まだ頑張らねばならないの」...よけいに疲れるのである。

しかし外周展望デッキに着くと苦労が報われる眺望が展開する。(眺望写真はガイドページ参照)

昇り階段で噴き出した汗を一気に洗ってくれるような風にも出会え、最高に心地よいひとときがやってくる。ホテルから残波ビーチや崖っぷちなど自分の足跡を箱庭になったような景色から見て取れる。

このあと訪ねる予定にしている座喜味城跡(ざきみじょうあと)は見えるだろうか。でも今しばらくは眼前に広がる青の世界に浸っていよう。


「残波岬公園〜残波ビーチ」のガイドページへ

機嫌良く過ごせた残波岬から一路 「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」を目指すため、県道6号線をてくてくと読谷BTまで戻り、バスで高志保まで乗り継ぎ座喜味城跡公園に到着。これに要した時間90分。とにかく歩きでの沖縄は広いのだ。


目の前に広がる公園のどこかに城跡があるはずだ。案内板を探したが周りには見当たらないので、公園奥につづくプロムナードに沿って歩くことにした。

歩くにつれ高度を増すがいっこうに城壁などは現れず、深い緑の胸に潜り込むように道がつづくばかりだ。

実は歴史が好きなので、昨夜はこのグスク(城)については予習をしてきた。

この城を造った”護佐丸”という男はこの一帯を領していた豪族(琉球では按司という)であった。

15世紀初頭の話である。やまと本土では南北朝が統一されたばかりの室町幕府時代の頃だ。

琉球では群雄割拠の時世であったが、初めて巴志(はし)と云う名の男が統一を果たすことになる。

この商才に長けた巴志を、右腕となって統一を助けたのがこの護佐丸で、琉球史にいきなりその名が登場することになった。


まるで信長亡き後、商才と人間学に長けた秀吉の天下取りを助けた福島正則や石田三成のようではないか。やはり彼ら福島や石田も名門の血統ではなく、護佐丸同様、忽然と歴史上に登場している。

そんな護佐丸の手ずから造った城がどんなものか見たくなるのが当然というもの。しかも予習で知ったのだが彼は城造りの名手らしい、いよいよ興味がつのる。

空にかぶるような緑の葉陰を抜けるといきなり右手に布積みの城壁が出現した。

かなり唐突な感で出会った城壁であったが、それは5mはありそうな、独特なカーブをもった石壁であった。

城壁の向こう側から城の説明をする大声が降ってくる。ガイドか誰かが解説しているようだ。

郭内に入る石門を見つけた。形の整った上品な風情の拱門(アーチ)である。


門をくぐり城壁内に入城すると正面にはもうひつの拱門が見えた。本丸へとつづく門だ。この城は小ぶりな二連郭構成つまり本丸と二の丸だけの山城なのである。

護佐丸は巴志を助け、統一の仕上げとなる北山の今帰仁城(なきじんじょう)を攻め落とした。この地よりかなり北部にある大城である。統一を果たした巴志の依頼で、しばらくの間その攻め取った北山の城に北山監守として駐在することになる。

護佐丸はこの時期に座喜味城の造成を始めたのである。座喜味に近い山田に父祖伝来の城があったがその城の石を再利用し、勢力下にあった喜界島や沖永良部島などの民にも手伝わせ築城している。

    座喜味城、一の郭(本丸)への出入り口となるアーチ門から見た二の郭の風景

最も高所となる「一の郭」内には記念石灯篭が残されており、中央部には建物跡の石印が置かれていて城の規模が判る。また一の郭城壁は登ることができるようになっていた。

先ほどの大声の主が城壁上にいた。学生と思しき若者6人が取り巻くように話に聴き入っている。ゼミナールの真っ最中といったところか。

壁の厚さがかなりたっぷりとあるので、城壁に上がると戦火の際には偉丈夫が走りながら楽にすれ違うことができそうなほどに広い。


何よりも特徴のある波うつカーブが美しい城壁は、敵が迫った時に横矢を射れるようにとの戦略から生まれた造形だという。

そして今なお健在なのは、眺望の素晴らしさだ。

南西には那覇方面、さらにその西には洋上にうっすらと慶良間諸島が遠望でき、北に展開する東シナ海には伊江島・伊是名島がくっきりと浮かぶ。

護佐丸の見た風景はどんなものであったのか。

標高120mのこのあたりは今でも鬱蒼とした濃い緑の樹林に囲まれているが、当時は原生林が覆う小高い台地に近い環境ではなかったろうか。

北山監守の任を解かれた護佐丸は造成されたばかりのこの座喜味城に戻り、読谷山の按司(あぢ)として18年間居住している。


しかしその後、首里王府の命という形で、王府のある首里に近い中城(なかぐすく)へ移封となり城代えをしている。琉球王の巴志と共に戦った護佐丸は王位をうかがうほどの実力者だったのだろう。

琉球王位を継承していた巴志の七男になる泰久はそれを恐れ、機先を制するように勝連城主を使って護佐丸のいる中城に夜襲をかける。そして....ついに護佐丸は自刃した。1458年のことだった。

城壁上からの景観、本丸に相当する”一の郭”

「夏草や兵どもが夢の跡」 芭蕉が源義経の終焉地となった高館(たかだて)の丘を訪れた時に、義経主従を儚み詠んだ有名な句だ。

南国の地にも、漢(おとこ)たちの夢やロマンの跡はさまざまなところに色濃く残っている。時には感傷過多になりながらの古跡訪問も興趣が変わり面白い。


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沖縄滞在中にある案内告知が目にとまった。サルバドール・ダリの彫刻作品が33年ぶりに沖縄へ戻るという。1975年に開催された沖縄国際海洋博のためにダリが制作した作品で、スペインから期間限定の里帰りになるらしい。

展示されている場所は北部の本部半島(もとぶはんとう)西海岸にある海洋博公園ということだった。どうしても一目見たくて、中北部探索の旅を一時ストップし急遽北部へ向かうことにした。

那覇から北部までのバス旅行はさすがに距離があり、まずは名護BTまで行き、そこで乗り換えて海洋博公園を目指す。片道3時間という南北縦断の気のなが〜い道のりである。

すっかり午前中の日課になってしまったバルコニーでの日光浴や読書を断念し、早起きし一路「名護」へと出発。今まで何日もかけて歩いた恩納村の海岸線を窓外に眺めながら約2時間、名護のバスターミナルに着いた。

山入端(左)と崎本部(右)の美しい海岸線

一服する間もなく、出発しかけていた本部半島線のバスにあたふたと乗り換えた。バスは国道58号線から国道449号線に進路を変え、本部半島の海岸線を西へと走る。途中に通り過ぎた「山入端(やまのは)」や「崎本部(さきもとぶ)」などはあまり知られていないが、恩納村の海岸線と比べても甲乙つけがたいほど美しかった。

乗り合わせた乗客が皆降りてしまい、車内が筆者ひとりになった。これ幸いに後部座席をルンバ(円盤型の自動掃除機)のごとく渡り歩き、写真を撮りまくっていると運転士から声をかけられた。

てっきり危ないから車内では動き回らないようにとの注意かと思っていたら、想像だにしていないことを質問されてしまった。 「海洋博公園の水族館へ行くんじゃないでしょうね?」と。

質問の真意がわからず、「いえ、そのつもりですが。何か問題でも?」と答えると、このバスはそこまで行かないという。乗った本部半島線という路線は正しかったのだが、ルートがふたつあると説明をしてくれた。

ひとつは本部半島西海岸沿いの外周を巡り海洋博公園経由で名護BTへ戻るルート。

もうひとつはずっと手前の内陸を循環し名護BTへ戻る今乗っているバスのルートである。

海洋博公園に一番近いバス停の浦崎で降りることになってしまった。よくよく歩くことに縁ができてしまったようだ。

しかし親切に声をかけてもらわなければバスターミナルへ戻っていた。


これこそコミュニケーションツールの原点 「人間言語」だと痛感。ツールなど無くても気持ちさえあれば会話は成立するのである。

東京の都バスなどでは味わうことのない経験で、少しだけ豊かになった気持ちを胸に海洋博公園を目指し歩きのスタートをした。バスを降りる際に聞いた話から40分ほどの歩きを覚悟していたのだが、15分ほどで南ゲートに到着してしまった。

おそらく彼の案内はバス停のある正面ゲートまでの距離だったのだろう。ダリを展示してある海洋文化館も正面ゲートに近いが、委細かまわず南ゲートから入園することにした。

公園内に入り最初に迎えてくれたのが熱帯・亜熱帯都市緑化植物園。都市建設や建設計画策定に大活躍していそうな堅いネーミングだが、園内はいたって柔らかで視界に優しい造園設計になっている。

                    動物型トピアリーのある ほのぼのとした装飾庭園

動物型に刈りこんだトピアリーや迷路のような生け垣は、まるでスタンリー・キューブリックの映画 「シャイニング」を想起させる。

が、そんなことを連想するのは一部のマニアックだけで、一般的にはファミリー向けの情景と云える。

この植物園の最大の特徴は台風や潮風などの害に耐性があり亜熱帯地域に最適な植物を、高木・低木・ヤシ・ツタ・芝などの地被類などに分け、見やすく判りやすく植栽展示していることだろう。

最初は樹木にあまり関心が無く、軽く見物がてら通り過ぎるつもりでいた。

しかし高木区域のアカギやガジュマル、ヤシ区域のアダンやココヤシと見学するうちにすっかり引き込まれてしまい、園内を歩き回ってしまった。

屋外の植栽展示のためか、敷地が広すぎて植物園の境界域がわかりにくい。あとで判明したのだが、この植物園の敷地は東京ドームをふたつ合わせた広さだった。

この広大な植物園を一通り見終わる頃には、見やすく判りやすいためか相当な知識が吸収できた気になる。ただ惜しむらくはせっかく仕入れた知識だが、一年も経たぬうちに記憶の彼方へと消えているに違いない。

1時間ほどで植物園をあとにしたのだが、強く印象に残っていたのは つる植物見本区にあったバーゴラの風景だった。バーゴラというのはブドウとか藤などのつる植物が生育できるように設置された棚のことである。

曲がりくねったプロムナード上に造られたバーゴラから下がる見慣れぬ植物のつる。逆光のもとで垂れ下がった”つる”が光る雨のように輝いていた。


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ダリの彫刻展示の告知に誘われやって来た海洋博記念公園だったが、南ゲートから入園したため公園南部にあった熱帯・亜熱帯都市緑化植物園を見学するうちついつい夢中になってしまった。

そこから蘭の楽園と云われる熱帯ドリームセンターへ向かう途中に、汐見台という高台があったので何気なく上ってみると思いのほか大観だった。

汐見台からの眺望

15段ほどの階段を上ったにすぎない高台だが、東シナ海が180度展開しており、瀬底島(せぞこじま)まで遠望できた。

北部では最北端の辺戸岬(へどみさき)に次いで行きたいと思っている瀬底島だ。

橋の先に浮かぶ瀬底島の島影が、碧くけぶった水平線上で はかなげに見える。

彫刻展示をしている海洋文化館のある中央ゲート方面へ歩いていると、旧約聖書に登場する ”バベルの塔” のようなタワーが立ふさがるように中空に現れた。

灯台とか塔など高い建物を見ると、いつも足が勝手に動いてしまう。子供の頃から木登りが好きだったが、この性癖にも困りものだ。一生治らない気がする。

”バベルの塔” に登るためには、蘭の楽園らしい屋内植物園 「熱帯ドリームセンター」に入場しなければならないことが判明。 頭の中ではあまり関心のない蘭や速く逢いたいダリの彫刻のことが浮かんでいるのに、「塔の上にも登れますよ」 と聞くや手が勝手に入場券を買ってしまっている。

5つの温室に池やパティオなども有した巨大な花園であった。中でも蘭に関しては特に充実していると評判。

あまり関心のない蘭だったが、繚乱と咲いた色の洪水に驚いたと云うのが正直な感想だった。温室がむせ返るような空気の中で多種な色の蘭で彩色されている。

紫や黄色とひとことで云っても、直に見る色はそれぞれに複雑で深い色合いをしており、その微妙な美しい色の違いを表現するのに言葉を探さなければならないほど難しい。

紫色をひとつとっても、やや赤みを帯びた ”古代紫”、青が強い ”江戸紫”、そして薄い紫色をした ”若紫” と同系色でもさまざまな色の表情を見せてくれていた。

中でも驚いたのは、ひとつの茎からまったく違う2種の花をつけた蘭があった。背丈は2mを超える1本の太い茎の上部から数本の花茎が垂れ下がって花をつけている。上部にはオレンジ色の花が開き、下部には赤い色の花が数輪咲いている。

         2つの異種の花をつける神秘の蘭

最初は人の手による接ぎ木技術の蘭だろうと観賞していたら、葉影から案内説明板が見えた。早速読んでみると、まったくの自然の産物であることが判った。改めてじっくりと見学をする。

上部の花(花茎が垂れ下がっているので根元に近い花)はオレンジより黄色が立っている”黄丹色(おうにいろ)”に紅の斑点模様で強く甘い香りを放っており、下部の花(花茎の先端部に咲く花)は”薄紅梅”の地に紅のまだら模様で無香。

「ディモルフォキス・ローウィ」という名の蘭で、東南アジアのボルネオにしか自生しないとあった。ボルネオ以外では、なかなか開花しないワンダーフラワーだが、ラッキーなことに今回は開園以来2回目の開花とのことだった。

自然が生み出した2つの顔を持つ神秘の蘭と別れ、バベルの塔 「遠見台」 へと向かう。

水平線が丸く見えた「遠見台」からの眺望

到着すると塔の高さは36mもの高さがあった。まるで巻貝のように、らせん階段が外周のレンガにうがたれていた。

360度の外観を見渡しながら最上階へ。そして頂点で見る水平線は毬のように丸かった。


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サルバドール・ダリの作品にやっと会うことができた。海洋博記念公園の中央ゲートからほど近い場所に建つ 「海洋文化館」 2階の一郭に展示されていた。

ダリの彫刻を収納したガラス・ケースが部屋の中央にたったひとつだけポツンと置かれ、作品のそばにはセキュリティーガードがひとり、静かに脇を固めている。

"Sun God Rising In Okinawa" と題されたダリの彫刻作品

銀色に輝く人魚の形をとった女神が、沖縄の珊瑚に彩られた波間から昇る姿が表現されていた。ダリが71歳の時の作品である。往年のシュールさは無いものの、銀材などを使用しての艶やかさは健在だった。

1975年、沖縄のこの地で開催された国際海洋博覧会に参加したスペインが、自国ブースに展示するため制作依頼したものである。ダリは沖縄が太平洋戦争の凄惨な舞台となったことを承知しており、恒久平和の願いを込めて制作にあたったとある。

今回の展示企画は海洋博以来というから30年以上ぶりの里帰りになる。そんな貴重な作品の出陳にもかかわらず、会場はひっそりとしていた。

本国スペインの彼の郷里フィゲレスにはダリ劇場美術館と隣接した宝飾館がある。

そこはフランス国境に近くバルセロナから電車で2時間もかかるところだが、世界各国からの訪問者が引きも切らず長蛇の列をつくると聞く。

ダリと云えば、あの柔らかくゼリーのようになった時計が枝にかけられた絵画 「記憶の固執」があまりにも有名だが、筆者はなぜか絵画よりもはるかに彫刻や宝飾工芸の方に惹かれる。

シュールなモチーフもさることながら彼の創出する微妙な曲線は観るものを強く引き込む。


建築家のアントニ・ガウディも空中に、えも言われぬ曲線を描き出す。それぞれ世界も個性もまったく別のものだが、曲線の持つ妖しい魅力はジャンルを凌駕する。スペインという地は曲線の天才が生まれる土壌なのだろうか。

驚くことに堪能するまでの40分ほどの時間のあいだ、ただの一人も来場しなかった。ひとりの余人も交えず、ひとつの作品と40分ほども対峙できた経験は初めてであった。しかもその作品は紛れもないダリの彫刻である。

このことを喜んでよいものか、残念に思うものなのか複雑な気持ちが交錯するなか会場を離れた。展示室を出るとき、一言も話さなかったセキュリティーと目が合った。お互いの表情にうっすらと笑顔が宿ったように感じた。

    展示会場になった海洋文化館

※なおこのサルバドール・ダリ企画展は無事終了し、作品も滞在期間を終えスペインに戻っている。現在沖縄関係者により、この作品の恒久的沖縄所蔵を実現するべく努力中とのことだった。

時間が止まったように静まりかえったダリの展示室から出ると、強い陽射しが眼にまぶしかった。展示室のあった海洋文化館から美ら海(ちゅらうみ)水族館の方へ歩くと、周りはしだいに人混みが加速してゆく。

入館するため売券場所まで来たがあまりの混みように気分が変わり、しばらく公園内を探訪することにした。一般の関心は ”ダリ” よりも、どうも ”ジンベエザメ” の方にあるようだ。

正面ゲートの近くにある噴水まで戻るとトピアリーのような動物型植物オブジェが目にとまった。

”ヤンバルテナガコガネ”(左)、”リュウキュウオオコノハズク”(右)

沖縄固有種の”ヤンバルクイナ”をはじめ”ノグチゲラ”など数体がある。

周りを注意して見回すとあちこちにあった。

”マンタ”、”ヤンバルテナガコガネ”など、まるでスタンプラリー状態に距離をとりながら設置されている。

そんなトピアリーを見ながら公園内を散策するうち、「おきなわ郷土村」に着いてしまった。


「熱帯ドリームセンター」を離れた後すぐにぶつかった場所だったが、ダリ作品の観賞を急ぐあまりパスをしてしまったところだ。

知らず知らずに、かなり南まで戻ってきてしまったようだ。ほとんど見学者もいないようだったので、この郷土村を見学することにした。

17世紀頃の琉球民家を再現したものだったが特に興味を引くものは見当たらなかった。郷土史や古民家建築に学殖なき身にはまさに猫に小判だ。

午後も少し深くなったのでそろそろ水族館が空く頃合と踏み、美ら海水族館方面へ向かってダラダラと歩いていると大きく長〜い階段に行きあたった。

階段を下った先はけぶるような青い海、そして水平線上に浮かぶ伊江島。階段を中心にしたシンメトリーが見事に構成されていた。島影まで計ったように対称をなしている。呼吸を忘れるほど異次元の世界だった。

正面ゲートからつづくメインロードの奥には海側へ降りる階段が

誰も来ないことを幸いに階段に陣をとり、i Podを取り出し自分だけの世界の短いブレークをとる。

「世界でどれほどの人が、夢を実現できるのだろう。
           世界でどれほどの人が、叶う夢を腕に抱けるのだろう。

世界中でいったいどれほどの人が、自分の心に正直に行動できるのだろう。
           ほとんどの人は、そんなことも経験しないで過ごすことになるのだろう....」

i Podから流れ出たのはマービン・ゲイの切々と唄いあげるボーカルだった。この曲 "If I Should Die Tonight" が発表されたのは1973年。それから11年後の1984年に、彼は実の父親から射殺され世を去っている。彼が45歳になる誕生日の前日のことだった。

この悲惨な事件からもう四半世紀も過ぎてしまった。眼前のブルーの世界と自動選曲(シャッフル)によるマービンの唄声ですっかり感傷的になってしまった。その時、いきなり7歳位の女の子が目の前に現れた。

音楽に塞がっていた耳には女の子の靴音はもちろんマービンの声以外何も聞こえず、その子の赤い靴が視界をよぎるまで気が付かなかった。

女の子につづいてひと家族がにぎやかに降りてくる。現実に引き戻されてしまった。じっと見ているその女の子に家族にも判らないほどかすかに手をあげ別れのサインを送った。サインを確認したその子は背中を見せるとまた家族の先頭を切るように海の方へ駆け降りて行った。


水族館入口は人の流れや混雑がようやく落ち着いたようだ。

一段と高い水族館前から眺める海面上には、まだまだ衰えを見せない太陽が中天に居座っていた。

入館するとそのフロアの先で、ひとかたまりの人の群れが水槽を取り囲み何やら熱中している。

近づいてみると浅い水槽内はヒトデばかりがまるで置物のように陳列されていた。

星形からほぼ円に近いものまで形は様々で、色は自然ならではの彩色で文章表現域を超え、写真撮影でも伝え切れない微妙な色合いだった。

このコーナーは触れあいの水槽 「タッチプール」 とあり、夜店の金魚すくいと同じような水槽である。いつまで見ていても生きて活動しているとはとても思えないほど沈黙している生物だ。

さっそく水の中に手を入れヒトデに接触。いやな感触ではなかった。触れてはじめて生きているように感じとれた。また上から見下ろすばかりではない違った姿も見れ、次から次へと接触。

気が付くと周りは子供だらけでバツの悪さを覚えたが、今さら気取っても完全に手遅れである。

海底回廊のアクアルーム

水族館は建築面積約10000平米もある4層構造の大きな建物である。

入口は3階より入館し下層へ見学しながら1階出口へと出る順路になっている。ちなみに4階部はレストランとイベントホールのみである。

前述の 「タッチプール」 の後、珊瑚の海・深海の海・黒潮の海と沖縄海域の特性をテーマ別に体感できるような展示がつづく。

そして大水槽上を歩けるようにしたり、深海で発色する生物をプラネタリウムのように観賞したりと工夫されている。

中でも黒潮の海は壮観な眺めであった。


この黒潮の海は高さ10m、幅35mという世界最大級のアクリル大水槽で、8m ものジンベエザメが悠長に泳ぐ。
ジンベエザメは他の水族館でも観ることができるが、複数のジンベエザメやマンタが泳ぐダイナミックな水槽はここだけである。

この水槽の底部に横たわるように透明の回廊が設けられている。アクアルームと名付けられたその回廊にしばらくいると、まるでダイバーになったような感覚に陥る。

館内が少々混雑していたということもあり、かなり早足で回ったが、いくつか印象に残る個性的な生物たちと出会うことができた。

その中でもひときわ心証の良かった魚をひとつご紹介しよう。名は”ねずみフグ”という魚で、表情がなんとも愛らしい”ハリセンボン”の仲間だ。

実はこの魚は那覇の公設市場内にある魚屋で見かけていた。可愛い表情なので憶えていたのだ。泳いでいるのは初めてだったが、生きている方が数倍おもしろい。興味心が強いのか人懐っこいのか水槽ガラスに近づくと寄ってくる。

”ジンベエザメ”よりこちらの”ねずみフグ”の方にたっぷり時間を使ってしまった「美ら海水族館」だった。

      すぐに寄って来てくれる愛嬌たっぷりの”ねずみフグ”


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美ら海水族館を出て海岸側へ下る長いエスカレーターに乗った。水平線にはうっすらと伊江島の島影が浮いていた。午後深くなっているが、いまだ陽射しは衰えず波立つ海面でキラキラと踊っている。

500mほど北にあるというエメラルドビーチへと歩いていると、海亀ばかりが泳ぐ水槽がいくつも並んでいた。”アオウミガメ”、”タイマイ”、”クロウミガメ”、”ヒメウミガメ”....海亀だけでこれほど種類があるのかと思うほど集められていた。

ゆらりゆらりと涼しげに泳ぐ姿を上から覗き込んでいたら、違う位置からも見学できることを発見した。

ここの施設も水槽底部の横に観察室が設けられており、そこからも観賞できるような設計であった。


産卵時以外陸上にはあがらない海亀。今ではどの種の海亀も世界の絶滅危惧種のリストに指定されているという。

江戸の昔より ”タイマイ” の甲羅を張り合わせ作られる見事な細工の玉かんざしなどが、吉原の一流花魁(おいらん)の髪を飾っていた。ますます べっ甲の装飾品が貴重になってゆくのだろう。

このウミガメ館からすぐのところに「亀の浜(カーミヌハマ)」という名の浜辺があった。遊泳禁止になっているが、浜の表情に変化がありとても綺麗なポイントである。

砂浜の両側が岩礁で閉じられ、岩場の上には多種の植物がたくましく繁っている。季節ごとに色づく花や実をつけそうな景色だ。本当に小さなプライベートビーチと云ってもよい場所だった。

          小さな入り江のような「亀の浜}

なおも北へ進むと今度は 「マナティー館」 なるものが建っていた。この海洋博記念公園がぜいたくなほどの敷地を余すことなく最大有効活用していることが実感される。

さてマナティー館だが一度は通り過ぎたものの、やはり気になり Uターンをした。過去一回だけ見たことがあるが、その時はどこから見ても人魚のモデルになった生物とは思えなかったのだ。

 マナティー館                    メキシコから贈られたアメリカマナティー

今回はじっくり観察したのだが、どんなに想像をたくましくしても人魚にはたどり着けなかった。草食ほ乳類のマナティーの性格はとても穏やかで平和志向、決して他の生物を襲わないとあった。にもかかわらず、このマナティーは海亀以上に種の絶滅が深刻で危惧されている。

我々も少しはマナティーを見習ったほうがよいのだが、瞬間学習はできても持続せず過ちを繰り返すのが人類。残念ながら、そのなおしようのない悪しき本能は歴史が証明している。

今も自然保護で集まった世界会議で展開するのは国益主張の論争ばかり。集まった目的の第一主題は横に置かれたままの議場風景が報道されたりしている。もっとも滑稽な生物は人類だ。


マナティー館から200mほど北に歩くとしだいに緑が多くなり、小さな森のような茂みの隙間から白い砂浜がちらちらと見えてくる。

”オオハマボウ”という常緑樹が巻貝のような黄色い大きな花をつけていた。

芝が整備された公園のような区域に入り、大きくカーブしているところを左へ曲がるとやっとエメラルドビーチが出現。

このビーチは南北に大きく広がった海洋博記念公園の北の終着ポイントでもあった。


遠浅の白い浜辺に出ると海上を渡ってきた潮風が顔をなでてゆく。やや湿気を帯びてはいるが首すじを抜ける風の強さが心地よかった。

ビーチでは浜に立てたコートで4人の若者がビーチバレーに熱中している他は、ひとにぎりの遊泳客が点在する程度であった。ここがあまりに静かで、水族館での人混みがまるで嘘のよう。

どこの位置から眺めても白砂と海がフラットに広がっており、心ばかりの樹木以外岩礁ひとつ無く変化に乏しい浜辺である。リゾートのような美しさはあるものの、人工ゆえのやや無機質な表情を見せる。

盛りを過ぎるときに放つ強い陽射しが海面を焼いている。本日の終着駅になるこのエメラルドビーチでゆったりと休息をとった。

ある外国の港町にあった言い伝えに、海辺にいると一日のある短い時間帯だけ自分の帰りたい過去への扉が開くという。

その時間帯を土地の老人は風の止まる朝と夕の凪(なぎ)の瞬間だと云い、若者は潮の干満の交代する瞬間だと主張した。

つまり若者の主張は、潮の干満は月の引力と地球の自転による遠心力のなせる技であり、地球の自転は24時間、月が地球を1周するのは24時間と50分かかるわけで、潮目の変わるこの余分の50分間だと云ってはばからなかった。

港町の住人が若者の主張の方がありえると口ぐちに噂をするようになった頃、凪だと主張していた老人が町から消えてしまう。そして数年後、空瓶に入った老人の手紙が岸に流れ着く。そんな民話だ。

このエメラルドビーチでも今は風が止んでいる。海風から陸風へ変わる凪になったようだ。


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本日の訪問地は恩納村(おんなそん)で唯一訪れていなかった真栄田岬(まえだみさき)。

本島中北部の東シナ海に面した恩納村はリゾートビーチを数多く有していることで名高い。

しかし断崖がそびえ立つ絶景の岬となると、名勝「万座毛」 と今日ターゲットにしているこの「真栄田岬」のふたつくらいのものである。

少し前に恩納村のビーチ巡りを敢行した時は、北部の「かりゆしビーチ」から何日もかけ南部の「ルネッサンスリゾート」まで歩き通したが、最後の南地区にある「真栄田岬」だけを残してしまっていた。

バス停 「久良波」で降り 岬へ強行アクセスすると、まもなく岬へとつづく遊歩道が見つかった。

綺麗に整備された遊歩道は深閑と静まり、葉陰を焼き付けた路はどこまでも長く伸びている。

途中に東屋風の休憩所もあり、とても歩き心地のよいプロムナードだ。


ところどころ東シナ海を見下ろす絶景の場所に出たり、再び樹林の繁るドーム路になったり、また時には”キバナランタナ”や”テイキンザクラ”の花が色づいていたりと、まことに飽きさせない道程(みちのり)である。

         キバナランタナ               テイキンザクラ

路にかぶさるように繁っている木々の向こうから、うっすらと笑い声が聞こえてきた。遊歩道に入ってから初めて聞く人声だった。

広く開かれた場所に出ると、崖上から100段近い階段が一気に海まで下っている光景が目に入ってきた。シュノーケルやダイビングスーツを身に付けた人たちが元気よく階段を降りている。階段先の海に接するところがダイバーたちのエントリーポイントになっているようだ。

階段を通り越しそのまま進むと「真栄田岬」と刻まれた石標が置かれ、その向こうには建物がひとつ現れた。まだ建って間がないのか太陽のもと白い壁がまぶしいほど輝いていた。

中ではダイビング用品がズラリと並べられたショップや軽食が取れるテーブル席のあるコーナーが設けられており、オープン・フリー・スペースではダイビング講習がグループごとに展開されていた。この施設は恩納村の村営であるらしい。

                           小屋掛けの簡易食堂から撮った村営施設

ふと見ると建物のそばに よしず張りの小屋掛けが仮設されている。東京の祭礼時に見かけるくらいの微笑ましい簡易食堂だった。

そのつましいたたずまいに親近感を覚え、小休止を取ることにする。

休憩しながら近くにあるという「青の洞窟」の場所などの情報を店主に尋ねてみた。「青の洞窟」というのは、真栄田岬に多くのダイバーが集まる大きな理由のひとつだ。

海に半没した洞窟で、上部に開いたところから射し込む太陽光が白砂の海底に反射し海面が青く光り、とても幻想的だという。沖縄有数の人気スポットらしい。

先ほど通り越してきた階段から80mほど北にあるとのこと。つまり今まで歩いてきた遊歩道の崖下にあったというわけだ。もっとも崖上からはアクセスできないのだが。


その洞窟へは船かダイビングでアクセスするが、干潮時にはあの階段下から崖下の岩場沿いに行くことができるので、気軽にシュノーケリングで楽しむ人も多いとか。

また洞窟に限らずこのあたりには多種の海洋生物が生息するらしく初級・ベテランを問わず多くダイバーが集まる大人気のマリンスポットになっている。

休憩後は岬の遊歩道散歩を再開。崖上の展望台からは南西に読谷村の残波岬、北東には万座毛、海上には伊江島が臨める。崖下では底まで透き通るような海で魚と遊ぶ人たちの風景が展開していた。

この真下に青の洞窟が             ただ今、シュノーケリングに熱中

途中遊歩道からはずれ、海面に近いところまで降りてみた。凹凸の激しい岩肌が先端まで続いており、ところどころに海水溜まりができている。海からとり残された魚たちがひなた水で機嫌よく泳いでいた。

足元さえ注意すれば、ダイバーでなくとも充分海を楽しめる岬海岸である。およそ3時間にわたり楽しんだ真栄田岬に別れを告げるべく遊歩道を戻っていると崖上を舞うパラグライダーに出会った。崖上ぎりぎりを風にのり滑空してゆく。頭上を過ぎる瞬間、空中と地上で暗黙のHELLOが交叉する。

崖の上や下で気持ち良く舞っている人たちが、とても似合う真栄田岬だった。


「真栄田岬」のガイドページへ


真栄田岬を訪れたついでに「琉球村」に寄ってみた。今まで恩納村まで出かけるたびにバスの窓越しに見えていた「琉球村」だった。

建物内に入ったが内部はショップやレストランばかりの明らかに観光客目当てのものばかりが並んでいる。

文化の香りなぞ、かけらも見当たらない。中ほどに「琉球村」の入口が設けられていた。

建物内部が二重構造になっており、観光客向けのフロアを通らなけらば「琉球村」に入れない商売っ気の強いつくりなのである。

Uターンして他を回ることも頭をよぎったが、真栄田岬で時間を使い過ぎていたため陽射しも傾き始めていた。仕切り直しをするほどの時間は残されていない。今日は流れのままで行こう。

入口横で入場券を求め「琉球村」に入場すると、入口から細く地味な一本道がつづき石垣にぶつかりながら右へ大きくカーブしているのが見える。観光客向けのフロアの雰囲気とは一変していた。

壁を埋め尽くす魚の絵

単なる石垣と思っていた壁にはすごい数の魚の絵が描かれており、ほのぼのとした いい味の絵ばかりだ。魚名も沖縄での呼び名が書き込まれているので、ゆうに100を超えるこれらの魚介類はすべて沖縄の海で捕れるのだろう。

「琉球村」のメイン展示は築100年以上の古民家であるらしい。200年も経つ旧中曽根家では上がり込んでお茶も飲めるらしく、すでに先客がおさまっていた。他の古民家でも機織りや紅型、藍染めなどの教室が開かれている。

琉球音楽をやっている旧島袋家の向こうには池が設けられていたが、古民家の見学よりもなんでもない池のほとりの一風景に惹かれた。

                  池の近くにはこんな情景も

7軒の古民家の終わるところにあったのは小規模ながら製糖工場。その前で さとうきびを搾る砂糖車を曳いている水牛が古き良き琉球を偲ばせる。

そして順路の最後は沖縄の陶芸 ”やちむん” だった。細長く横たわる陶芸工房の中では焼き物の制作も触れることもできるが、触る程度で焼き物が判るはずもなくサラリと見学。

興味を覚えたのは屋根の赤瓦に飾られた作品の数々。すべてこの工房で創られたシーサーばかりだ。実にユニークな作品が多く、「琉球村」で一番気に入ってしまった。

さらりと回ったためか、あっという間に見学が終わってしまった。しかし長い壁画の魚たちや赤瓦の上にいたシーサーたちとの遭遇は良い出会いであった。

日が暮れるまで今すこし時間があるようなので、この山田という町を歩くことにした。「琉球村」のあるところはうっそりと樹林が繁る山間なので、住宅地のある北に向かって歩くことにした。

花にさほどの関心があるわけでもないのに、道端に咲く花がやたらに目につくというのはどういうわけなのだろう。沖縄という環境変化のせいなのか、見慣れぬ花のせいなのか。

東京にいるときは、桜だ、牡丹だ、菊だ、と大向こうをうならす花ばかりを見ていた筆者には、野辺に咲く花が妙にまぶしく映る。また見知らぬ町の民家で舞う風見鶏まで、とても新鮮な情景のように映じていた。


「琉球村」のガイドページへ


沖縄へ来て1ヶ月が過ぎようとしていた。移住したわけでもないが、すっかり沖縄の空気に慣れてしまった。まだしばらくはここ那覇にいられそうなので、バスや歩きを中心にした ”ちょぼ旅” をつづける。

本島を巡るとき幹線道路となる国道58号線だが、何度バスで往復したことか。窓外に広がる沖縄の風景のなかで、前から気になっていた広大な敷地を占有している米軍基地。

Marine Corps Air Station (普天間海兵隊飛行場)

那覇から58号線を北へ向かうと浦添のキャンプキンザー、宜野湾の普天間飛行場、北谷(ちゃたん)のキャンプフォースター、嘉手納(かでな)の飛行場と延々とつづいている。

戦後65年も経つが、多くの米軍基地が本島のいたるところを占有している限り、県民にとって忘れたい戦争の記憶も薄まりようがないのではなかろうか。

本日は日本復帰前の町並みを想起させる宜野湾の町歩きを思い立ったので、58号線沿いの大山でバスを降りてみた。

まるで米国ロス郊外に見られるような町並みだった。

出入国を繰り返す米軍駐留のアメリカ人向けのためか、店頭の看板はほとんど英語で表記されている。家具やキッチンウェアから古着まで多種の店が軒を並べていた。

戦火で荒れた町をいち早く復旧するためには、駐留米人の消費は欠くことのできない絶対条件であったろうことは想像に難くない。長い風雪を刻みながら復旧し変遷してきた名残りのようなものをこの町から感じとれる。

このあたりは観光地区ではないが、軍から払い下げられた品や古着など面白いものが多く発見できるので旅行者にとっても気軽にショッピングができる通りである。またハーレーダビッドソンや美術彫像や大型置物の専門店なども点在しているのでお好きな向きにはけっこう楽しめる穴場ではなかろうか。

                            国道から海岸へ向かう静かな横道

58号線沿いに普天間飛行場への入口を示す案内があった。

移転問題ですっかり有名になったこの長大な敷地の米軍海兵隊施設は宜野湾市の中央部をほとんど占有している。

基地はいずれもセキュリティで固められており、せいぜい広大な敷地の外周をめぐるのみであった。

外周を歩いて想い起こされたのは、東京朝霞の米軍キャンプのことだ。今は東京都に返還され 「光が丘公園」 となり、都民の憩いの場として利用されている。

朝霞米軍キャンプの跡地を歩き、その広さに改めて驚いたことを鮮明に記憶している。一日でも早く普天間の米軍施設地が返還され、県民に活用されることを願うばかりだ。

しばらく国道58号線を歩いたが変化がなくなってきたので、宜野湾警察の先を西の海岸方面に曲がってみた。

その通りは国道58号線とはうって変わって、静かで緑たっぷりの道だった。ところどころに置かれた像がポーズをとっている。

その通りの右手に県立の宜野湾高校が現れた。道路沿いに飾られている生徒の絵がどこまでも長くつづいている。グラウンドでは生徒が放課後の活動に熱中しており、どこか のどかな風景で懐かしささえ感じとれる。

『この地域は太平洋戦争後 米国に接収され、キャンプマーシーが建設された。そして30年の歳月が過ぎた昭和51年3月31日にようやく返還され、市立真志喜中学校、市立総合グラウンド、県立宜野湾高校、宜野湾警察署など公共施設がいち早く建設された』と記念石碑に刻み込まれていた。


コンベンションセンターの展示棟

宜野湾の町歩きで「沖縄コンベンションセンター」に行きあたってしまった。

通常なら前日におおよその予習をしてから出掛けるのだが、今回はただ何となく宜野湾の町をブラつくつもりであったので予習をしてこなかったのである。

通り越しに見えていた面白い景観の建物につられてたどり着いたのが沖縄コンベンションセンターであった。

敷地内に入ると会議棟、展示棟、劇場などが寄り添うように建造されており、文字通り大規模な集会や会議を万全にサポートする施設のようだ。

しかし筆者のようにふらりと現われた旅行者にとっては、あまり関心を惹かれる施設ではない。

手入れの行き届いた庭内を通り抜けるとすぐに海岸に着いた。案内板には「ぎのわんトロピカルビーチ」とあった。

案内板のMAPを見ると、コンベンションセンターに隣接してこのビーチや海浜公園、野外劇場そしてそれらを取り囲むように「ラグナガーデンホテル」、「市立体育館」、「市立野球場」、「宜野湾港マリーナ」と、巨大な複合施設を形成していた。

                           遠浅で白い砂浜のトロピカルビーチ

ぎのわんトロピカルビーチは白い砂と遠浅の典型的な人工のリゾートビーチだ。

車社会の沖縄本島にあって幹線道路の国道58号線からすぐという願っても無いほどアクセスのよいビーチで、県民にとって人気のあるビーチパーティー・スポットであるらしい。

浜辺ではビーチバレーなどに興じる若者で活気に満ちているが、惜しむらくは海に自然さがなく、表情に乏しく生気が感じられなかったことだろうか。

ビーチから早々にマリーナへ向かった。400mもつづく港内にはおびただしいほどの船舶が係留されていた。ヨットをはじめ多種なプレジャーボートが行儀よく並んで休んでいた。

県下一と云われているだけに海上係留350以上、陸上ヤード保管270以上と相当数の船舶を保守している。

2枚の写真を合成し宜野湾港マリーナの全景を再現

ときどき聞こえる水鳥の声と防波堤に寄せる涼やかな波音。400m以上もある ふ頭を歩いていると、頭の中が瞑想でもしているかのように透明になってゆく。

女性よりも圧倒的に男性が、海に強く惹かれるものらしい。海から連想させるものは個人差はあるが、”ロマン”、”冒険”、”夢”、”郷愁”、”未知” などさまざまだ。


その人たちにとって海に乗り出す船は、それぞれの強い思い入れへ直行できる云わばプレミアムチケットも同然のもの。

つまりこのマリーナには620以上もの ”ロマン” や ”夢” や ”冒険” が眠っているということなのだ。

欧米諸国の多くでは「海」も「船」も女性名詞である。男が惹かれるのも無理からぬことなのかもしれない。

外部との意識接触を遮断していたためか時間経過がわからず、時計を見ると2時間近くも過ぎていた。そろそろ58号線に戻るとしよう。

国道58号線の通る東の方向へ、おおよその見当をつけながら歩いていると「大謝名(おおじゃな)」という地区に入った。

あたりは住宅地でひっそりと落ち着いている。あまり立て込んでもいない。

それまで歩いて来た道が突然終わり、道の終わりに工事中を示す黄色と黒の斜線を描いたブロックが一列に並べられていた。

しかし工事中の気配はまるで無く、道路上に残されたチョークで描かれた絵が出迎えてくれた。

途中で切れても影響のない細い道ではない。けっこうな幅員の道路なのに唐突に終わり、そのまま放置されている。

道路一面には青や白のチョークで可愛い絵がいっぱい。子供たちの遊び場になっているらしい。

現在の東京では下町に出かけても遭遇できない風景である。記憶の向こう側にある扉を少しだけ覗いたような心地になった。

行き止まりの道から少し回り込むとすぐに58号線に出た。国道58号線を那覇方面にしばらく歩くと「牧港(まきみなと)」が見えてきた。「牧港」は宜野湾市の隣りの浦添市に属しているので、宜野湾ウォークもそろそろお終いになってきたようだ。

宜野湾市と浦添市の境を流れる「宇地泊川(うちどまりがわ)」、そしてちょっと先を流れる「牧港川」が58号線の近くで合流し、牧港湾に流れ込んでいた。

             宇地泊川                 牧港川


「沖縄コンベンションセンター」のガイドページへ

沖縄本島に来て優に1か月が過ぎ、やっと北部への旅が始まった。可能な限りバスと歩きでと決めたちょぼちょぼ旅には、北部の地は 遠くて 広くて 決してお手軽ではなかった。いや旅行前の想像に反して現実の困難さを思い知ったと云う方が正直だろうか。

しかも北部への旅が始まったなどと大見得を切っても、本島の西海岸ばかりを追っかけているので、東側は手つかずなのである。筆者には昔から朝日より夕陽に引かれる性向があるためだ。

ぎらぎらするばかりの朝日より、寸刻で色を変える夕陽の方に身体や足が向くのは筆者ばかりではないだろう。

                           バス窓外に見えた名護海岸線のイルカ像

さて北部への旅だが、まず北の入口にあたる名護市街を歩くことにした。

名護市街は那覇から60kmの街だ。東京なら中央高速で八王子をはるかに超える位置である。

荒井(松任谷)由美の「中央フリーウェイ」なんて軽いものではないのだ。

名護BTに着くとにわかに空腹を覚えた。北部という身構えもあり早朝から動き始めたからだ。

バスターミナルで尋ねると近くの「ヤンバル食堂」という名の飲食店を教えてくれた。

名前の響きが心地よい。ここから先は北のヤンバルだぞと宣言しているようではないか。早速BTを出て探すと通りをへだてた向かい側にあった。

食堂に入るとガラスケースに並べられている料理をトレイに乗せキャッシャーで清算するカフェテリア・スタイルの食堂であった。

本土とは微妙に違う沖縄食を1か月も食べている筆者には好もしくも懐かしくさえある料理の数々が並んでいる。

塩サバ、肉じゃが、焼き海苔、納豆、ポテサラ、アジフライ、冷奴、玉子焼き....

看板にうたっているオフクロの味を充分に味わうことができた。


食堂を出て市街地の探索を始める。まずは目の前の名護バイパス(国道58号線)を、名護湾のある南へと向かった。

ほどなく鐘楼のような尖塔にクロスをいただいた「宮里キリストの教会」の前を過ぎると、58号線の大きくカーブしたところに野球場が現れた。名護球場だった。

名護球場のあるところは他にサッカー・ラグビー場なども合わせ持つ広大な敷地の「21世紀の森公園」で、北海道日本ハムファイターズが例年キャンプインするところとしても有名なところ。

宮里キリストの教会              名護球場

この広々とした緑を敷きつめた公園を横断してゆくと、左手に大きなサッカー場が居座りその周りの芝では三々五々人がくつろいでいた。皆のびやかな表情をしている。

なおも歩くと右手海岸側に石積みのアーチ門が見えてきた。門をくぐるとそこはサンセットビーチという浜辺であった。そこそこの広さをもつ遠浅のきれいなビーチだが、人口のためかやや生気に欠け無機質な感じがする。

波打ちぎわで遊んでいるのは2、3組のカップルだけ。

空いているビーチならどこでも気持ちがいいのだ。 少しだけ、このビーチで海を見ていよう。

しかしサンセットビーチと云ってもここの浜辺はほとんど南を向いている。

身体を西に向けてみると、本部(もとぶ)半島の山並みにさえぎられていたが、ぎりぎり海に沈む夕陽は見られるといったところか。

しばらく海を眺めたあと市街地散策を再開。58号線に出ると通りの向こうに風変わりな建物がそびえるように建っていた。

近づくに従い益々その威容の不思議さが目立ってきた。正面まで来て、その建物が名護市役所の庁舎であることが判明。テラスをいくつも積み木のごとく組み上げたような風貌をしている。

そして外壁などにシーサーが鎮座し、その数なんと30以上におよぶ。東京新宿に建つ都庁をはじめ今まで多くの庁舎を見たが、これほど個性的な建物はなかった。

三層ながら20mを超す建築で、何よりも驚くのはその開口部の多さであった。おそらく風通しは抜群で、猛暑でもエアコン要らずではなかろうか。

竣工から30年近く経っているという。外壁は白とピンクのストライプだが、30年という色彩の風化で上品な風合いに包まれている。

正面スロープのスコープ造形、ルーフやバルコニーからこぼれる緑、行儀よく並ぶシーサーたち....つい見学に夢中になり、思わぬ時が過ぎていた。


「名護市街」のガイドページへ

名護市役所から市街地の中心と云われる名護十字路の交差点へ向かった。落ち着いた町並みを歩いていると 「港川」 という細い川にぶつかった。何のへんてつもない普通の川なのだが、どこかで聞いたことのある名だ。

                           名護市内を縦断する港川

思い出せないのがもどかしく、つい川に沿って河口方面へ歩いてしまった。川沿いの道は妙に静かで せせらぎの音ひとつしない。

川巾が広くなった河口近くでルアーをキャスティングする釣り人がいた。遠目でも視認できるほどの獲物を挙げている。

こんな小さな川でも釣れるから沖縄は面白い。釣りを眺めているうちに、ようやく 「港川」 のことを思い出した。

南部の玉泉洞を訪れる途中で散策した雄樋川の流れている地区を港川と云っていた。

なんでも縄文以前の古代人の骨が発見された場所で、その古代人が港川人と呼ばれていることもあわせて思い出された。


これですっきりとし再び繁華な名護十字路を目指す。10分も歩くと かなり商店街の通りらしくなったのだが、シャッターを下ろしたままの店が目立つ。

シャッターには売店舗の紙が貼られていた。、また貼り紙も無くシャッターが閉じられている店も、定休日ではなさそうな気配である。なにやらこの通り全体が開店休業に近いムードであった。


賑やかで混んでるところはあまり好みではないが、本来人混みが想定される商店街通りが空いていると、どこか寂しげなのである。

ちょうど飲食店に飛び込みで入店したら客がひとりもいなかったときの空気感に似ている。

それでもしぶとく名護十字路の交差点を中心に商店街歩きを敢行。


すっかり汗を出し切り、のどがカラカラに干上がってしまった。涼をとるため開いている喫茶店を捜し飛び込んだ。喫茶店というよりは甘党のお店といった感じだったがそこで小休止をとることにした。

充分に冷えた水とジュースで生き返り、次の目標地選定のため地図を引っ張り出す。テーブルに広げた地図をにらみながら、店主に相談すると強力に推薦されたのが名護城跡。

一も二も無く名護城跡に決めた。人間、ときには子供のように素直になれるときがある。長く大人を演じている身には貴重な瞬間だ。

城跡は名護岳という山の中腹に設けられた中央公園の一画にあるという。早速、その登り階段のある東江(あがりえ)中学校の裏手を目指して出発した。距離にして1km弱の道程だから10分ほどで行けるだろう。

中学校の脇を抜けると川沿いの道と合流した。港川と同様に市内を縦断する「幸地川」だった。

その川沿い道を上流に少し歩くと、登り口の階段を発見した。

階段にかぶさる樹林のおかげで石段には葉陰のまだら模様が映り、強い直射日光を和らげてくれていた。

途中に車道を横切ったりしながら果てしのないような階段を登りつづけた。


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さすがに登りの連続であごを出してしまったが、ほどなく石造りの鳥居と拝所のような建物が視界に入ってきた。鳥居をくぐると神社のように御堂と思しき祠とその前部には参詣人の奉納を受ける賽銭箱が置かれた建物があったが、屋根だけは琉球赤瓦が葺かれていた。

そしてそこから参道のように石燈籠が並ぶ脇道が伸び、先にはさらに上部へと つながる階段が待っていた。両脇を石灯籠で固めたこの階段が名護城跡へ登る最後の石段であった。

やっと最上部に位置する名護城の跡地に登り着く。しかしそこには何も無かった。城壁の石積みはもちろん遺構すら残っていなかった。(ガイドページに写真)

隅にあった案内板によると、琉球でも珍しく城壁を有せず二重の掘り切りだけを防御ラインにした土塁グスクで、城跡にはいくつかの拝所のみが存在するとあった。

実際のところ その主郭となる敷地もそれほど広くもなく、山の傾斜や樹林などの自然要害を利用した城塞であったのか。こういう時こそ人類に備わった特殊能力、つまり想像力をフル活動させなくてはと変に張り切ってしまった。

唯一の防御線であった掘割の位置を見学しようと、ハブが出そうな原生林のような中を探訪したり、他に攻略ルートは無いのかと道なき道を繰り返し歩いたりと夕刻近くまで居てしまったのである。

山を下りた頃には名護の街なかにネオンが点り、こころなしか活気が戻っていた。そしてこころ残りはただひとつ、サンセットビーチでのサンセットを見逃してしまったことだった。


「名護市街」のガイドページへ



名護バスターミナルから乗り継いだバスに揺られ40分ほど経ったろうか、ようやく今帰仁村(なきじんそん)に入ったようだ。北岸沿いに走る循環バスから見えた羽地内海にすっかり気をとられ、村役場前の案内でやっと気がついたのだ。

それから10分くらいで今帰仁城跡入口の停留所に到着した。降り立った国道505号線から城跡のある県道へ入ると、ゆるやかだが登りの坂道がえんえんとつづいている。


県道入口にあった北山病院の建物を見たあとは、行けども行けども家ひとつ見当たらない。

しだいに緑が濃くなり、気がつくと道以外見渡すかぎり緑一色に埋められていた。(写真右)

かなり歩いてやっと一軒の建物に出会えた。入口には小さな可愛い看板があり、Cafe イングリッシュローズとあった。

国道から歩いてゆうに20分をこえる道のりにポツンと建つ白い一軒家の Cafe 。 興味がわくだけでなく、散々歩いたあとだけに一杯のアイスコーヒーにも惹かれた。

しかし今帰仁城へのはやる気持ちに押されて、カフェを通り過ぎ先を急ぐことにした。なおも歩くと遂に分かれ道のところに今帰仁城跡の文字を見つけた。城壁のように石を積み上げた大きな案内石碑だった。

まわりは山並みがくっきりと空に浮かび、ほとんど山中にいる感覚である。

なだらかではあるが30分近く上ってきたので、それなりの高度に達しているのだろう。

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分かれ道を城跡の方へ曲がると、閉じられたままのお店が数軒、そしてその前には今帰仁城跡の模型が屋外展示してあった。

城郭へ入る前にはすごく役立つ案内模型だった。模型の城郭構造を十分頭におさめ入口へ向かう。遠目にも城壁の曲線がとても美しい。

今帰仁城の正門にあたる「平郎門(へいろうもん)」そばのショップで入城料を支払っていると、足元で猫の声がする。見ると子猫がジャレつき、まわりには5、6匹の猫一家が陣取り休憩中だった。

入城前に城郭全域がわかる 1/100 の案内模型(左) 足元で機嫌よく遊ぶ子猫(右)

今帰仁グスクの大手門にあたる「平郎門」をくぐり抜けると、真っ直ぐ伸びた石畳道が奥へつづいている。城内はいくつかのエリアを石積みで区切った郭に分かれており、その石畳道を挟むように郭が並ぶ。

「平郎門」を入って最初の郭が「大隅(うーすみ)」と呼ばれる兵馬など軍事調練をした場所だった。そして最終的に一番気に入った郭にもなった。

この郭の入路がやや草木が繁り岩肌もあったりで多くの観光客がパスして行くのを尻目に奥まで潜りこんでみた。そこは平坦でなく高低差の大きい郭で、ところどころ岩が顔を出している。

原風景を思わせる野趣に富んだ風景が心地良かった。岩棚でゴロリと寝ころぶと、空からこぼれそうな大きな大きな白い雲が浮かんでいた。

    大隅の斜面から岩棚が突き出た西側部分

次の場所は石畳道のぶつかった階段を昇りきったところにあった「大庭(うーみゃー)」だ。この場所は、首里城に例えて云うなら正殿前のあの広場に相当するものである。

そして「大庭」の北側に隣接する「御内原(うーちばる)」へとつづく。女官たちが起居し生活したところで男子禁制の郭であった。城内屈指の眺望が愉しめる高台で、眼下の東シナ海には伊是名島などの島影まで遠望できる。また古生代石灰岩を野面(のづら)積みにしたという外壁の全景も見渡せた。

                「御内原」からの眺望

「大庭」、「御内原」の奥に本丸になる主郭が現れた。

居館の正殿跡を示す礎石が残されているが、思いのほか小規模な正殿であった。

しかしグスク内全域を巡ってみると、北部最大と云われているだけに広大な領域をその城壁に囲い込んでいるのが判る。

また幾度かの戦火をくぐり抜けてきた古豪の城でもある。三山時代の終焉となる攻防戦を経験し、江戸に徳川幕府が開かれた頃1609年に薩摩軍から侵攻され一度炎上もしている。

その後1665年には長く駐在していた北山監守が琉球王府の命で首里に引き上げ、ここは無人の城となった。それをしおに城郭内に「火神の祠(ひのかんのほこら)」が造られ、以降神域として地域住民から手厚く守られ現在にいたっているという。

 今帰仁城跡から200mの位置にある Cafe イングリッシュ ローズ

帰路、来る途中に発見したカフェに立ち寄ってみた。ここはお茶も食事もできるので、今帰仁城跡を訪問する際のよい休憩ポイントなので最後にご紹介しておこう。

白い一軒家のカフェ、一歩室内にはいるとそこはまるで映画のセットのようだった。間違いなく女性客が喜ぶインテリアだろう。窓から見えるパティオも申し分のないほど手入れがゆきとどいている。

メニューを少しご紹介する。お茶はディカフェ(カフェインレス)からハーブティーまであり、食事はナスのトマトソースパスタ、色どり鮮やかな野菜カレー、ポテトグラタンなど体に良い料理が並ぶ。お奨めはアフターヌーンティーセットで、お茶にサラダ、サンドイッチ、ケーキなどで充分ランチになる。

表の看板にこうあった。閉店時間....SUNSET。


「今帰仁城跡」のガイドページへ


Cafe イングリッシュローズ

住所 国頭郡今帰仁村今泊1609-1
電話 0980-56-2350
営業時間 11:00〜SUNSET
        金曜土曜定休
駐車場 15台 
交通
 那覇空港より 160分(国道58号線を北上−名護宮里3丁目の信号左折し国道449号線に入る−屋部の信号を右折し県道72号線を北上−国道505号線にぶつかり左折−今帰仁城跡入口の県道115号線を左折スグ右手)

BUS 那覇BT 120分(名護西線20番)−名護BT 40分(66番系統循環線に乗り継ぎ)−今帰仁城跡入口下車徒歩20分


出発点と目的地を直線で結ぶような車旅行では味わえない旅をしたくて、バスと徒歩による「ちょぼちょぼと行く旅」が今回の沖縄長期旅行だった。ついに滞在1か月を超えたところで、そのスタイルの旅も破綻をきたしそうになってきた。

沖縄北部への旅が始まったためである。まず沖縄本島の最北端にある辺戸岬にはバスが行かないのだ。現行のバス路線の最北がオクマ(奥間)までで、そこから北端の辺戸岬まで優に20kmを超える区間はまったく交通手段が無いのである。

歩くとなると片道に最低でも6〜7時間はかかる道程で、しかも ご丁寧にも宿泊施設が一軒も無い。そこで辺戸岬を後回しにし、次に行きたかった瀬底島(せそこじま)に照準を合わせた。

瀬底島は地図を眺めるかぎり、すでに訪ねていた海洋博記念公園の近くになるので楽に考えていた。ところがこの瀬底島もバスと徒歩で訪問しようとすると一筋縄では行かないのである。

瀬底島まで行くバス便が1日4本のみ、うち瀬底島で日中ゆっくりと過ごせるように到着する便は一本しかない。名護BTを午前に出発するその便に乗るためには、那覇を早朝に出発する必要があった。

瀬底島も後回しにしようかと瞬間頭をよぎったが、どんな事態になっても前述の20km以上といったとんでもない距離ではなく、歩こうと思えば歩ける範囲なので決行することにした。


メゾネットタイプのベッドから飛び起き、一杯のコーヒーを流し込んだあと早々に那覇を出発した。

出発からおおよそ3時間弱、やっと瀬底島に架かる真っ白な橋が近づいてきた。

瀬底大橋を渡るバスから眺める海峡の景観はまぶしいほどに美しかった。

この景色の前には3時間の手間など何ほどのことでもない。

あっという間に橋を渡り、島の中央にある瀬底公民館前のバス停に到着した。


Uターンして戻るバスを見送り、瀬底ビーチのある方へと横道へ入る。この島の入口にあたる瀬底大橋が東側に対して瀬底ビーチは反対側の西海岸に位置している。

ビーチが近づくと工事現場のような様子のところが目立ってきた。瀬底ビーチ駐車場と大書された看板のところまで来ると、係員が飛んできて車はどこかと尋ねられた。歩いてきたと答えると、しばし沈黙....しみじみ不思議そうな顔をされてしまった。

バス便で歩いて来る訪問者などほとんど皆無だという。また工事中なのはリゾートホテルであるとの情報も得た。

白い砂浜が700mもつづく瀬底ビーチ

砂浜への入口は小さいがビーチに出ると、白砂が南へ向けて700mも延びている大型のビーチだった。砂はきめ細かくパウダーのようにさらさらしており、遠浅になった海岸線では海の青色と混ざり艶やかなエメラルドグリーンを生成していた。

波打ちぎわで見る海はどこのビーチで見た水より透明度が高い。海面を注視すればすぐに魚影を発見できるほどだ。やはり天然ビーチにはどこか生命力が感じられ、自然と調和しているせいか落ち着いた環境をつくってくれる。

その居心地のよい海岸をしばらく遊び歩いたが、さすがに泳ぎもせず暑く灼けた砂上でうろつき回ったおかげですっかり干上がってしまった。

ビーチ入口近くにあったサンデッキCAFEに戻り、涼をとるこにした。運ばれてきたメロンのかき氷が、数口も食べないうちから溶けてゆく。淡雪のように消えゆく かき氷、見ているだけでも涼がとれるのである。

真正面の洋上には水納島(みんなじま)が浮かんでいた。泳いで行けそうなほど近くに見えた。

周囲4.5 kmというからこの瀬底島より一段と小さな島になる。その形状が似ているところからクロワッサン島と親しみを込めて呼ばれていることを知った。


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おかいものスヌーピー

ビーチではシュノーケルで遊ぶ人たちが目立っていた。小魚が寄ってくるらしく、子供たちは大喜びで、親御さんたちも完全にハイ状態。

こちらは相も変わらず着の身着のままで出掛けてきているので、シュノーケリングはおろか泳ぎもままならず指をくわえて観ているばかりであった。

建設途中のホテルが景観上ジャマであることは事実だが、浜辺は何ひとつ人工の手は加えられていないので、天然のままの自然環境は健在だ。

もう少しビーチで遊びたかったが、これから歩いて瀬底大橋を渡り本島に戻るつもりだったのでそろそろビーチを引き上げることにした。本島に戻るバス便は夕刻の一便を残すのみであることはすでに承知していたからである。

さあ、島の中央を横切って反対側の東海岸へ、バスの窓外で白く輝いていた瀬底大橋を目指して出発をしよう !


「瀬底島」のガイドページへ


周囲8kmの瀬底島(せそこじま)、その人口は1000人という。

島の中央に向かって歩いてみると、住宅と住宅の間がきわめてゆったりとしている。また戸外なのに物音ひとつ無く静まりかえっている。

風防のため植樹されたフクギが空に向かって勢いよく伸び、敷地に沿って背の高い緑の壁をつくっていた。

瀬底ビーチをあとにして、島の出入り口となる瀬底大橋のある東海岸を目指しているのだが、フクギ並木が視界を塞ぐため角を曲がるたびに方向感覚を失ってゆく。



フクギ道を縫うように県道172号に出て、県道に沿って歩くうち廃屋になった家の前を過ぎた。門柱にX字型に板がくくり付けられ、内庭は雑草の天下となっている。打ち捨てられたその廃屋は風化したなかにも島の歴史が刻まれているようで、しばらく佇んでしまった。

ある役割りを終えたものが無駄なものと映るか、文化や歴史を体現するものと捉えるかは意見の分かれるところだ。

住宅など古い建築物などは、旧跡や名所の謂われでもない限りすぐに姿を消してしまうのが相場。狭いニッポンなのだからそれが現代条理にかなうのだろう。

とにかく大都会では古建築住宅以外はすぐに整地されるので、廃屋が風化にまかせるなどの風景にはまずお目にかかれない。

廃屋が忘れられたように残されている瀬底島には、揺れ漂うように穏やかな時が流れていた。

なおも県道を10分ほど歩くと、ようやく瀬底大橋がチラリと視界に入ってきた。


なぜか島から離れがたく、橋へ直行するのを変更して少し道草をすることにした。東側の海岸線をぶらつくため横道に入ると、きれいに整備された公園を発見。そしてその公園からの展望がなんとも素晴らしかった。

海峡のエメラルドグリーンを背景に白く浮き上がる橋。島に入るとき通ったのたが、バスからではその全景を見ることがかなわなかった瀬底大橋が公園の眼下に広がっていた。

招かれたルーフデッキでの眺望

下り坂になった道沿いに大きなログハウスが建っていた。

その建物の前庭が東シナ海の海峡に面し素晴らしく眺望のよい場所だった。

海面を滑るように吹きあがる風をうけながら海を眺めていると、突然建物の屋上から声がかかった。

「いい景色でしょ!」の声につられて振り返ると、2階のサンデッキから男性の笑顔が覗いている。

入り込んだこの場所、実は個人宅であったのだ。ログハウス風の建物を見て頭から飲食店か何かの建物と思い込んでしまったためだ。

失礼を詫びると、「2階のサンデッキの方が見やすいのでどうぞ」 と気さくに招いて下さった。よく冷えたお茶を頂きお話をうかがうと、ご主人は沖縄ではなく北海道の人であった。

キャンピングカーで訪れたとき、この地に一目惚れをしたという。その病がこうじて瀬底島に移り住むことを決心。ログハウスの家まで自ら造り上げたというから、やることが半端じゃない。


旅先で遭遇できた親切にすっかり気持ちも温まり、早々に辞し大橋へ向かう。

長さ762m、高さ25mの瀬底大橋は昭和60年(1985)2月13日に完成している。それまでは渡しの連絡船が往復していた。

目の当たりにした大橋は大きく遠かった。700mを超す一直線の道、足の下25mにはエメラルドグリーンの海峡が横たわっている。

瀬底島側の橋脚下は通称「アンチ浜」と呼ばれ、遊泳やマリンアクティビティーを楽しめるビーチとして人気が高い。漢字は安置と書くらしい。

瀬底大橋は歩いて渡るだけの価値を持つ橋であった。車では絶対に味わうことはできない。どんな味かと問われたら、「極上の爽快感」とだけお伝えしておこう。

アンチ浜の遠浅で一心に貝殻を探す女性の風景がまるで外国のように見えた。橋の半ばで見下ろす海峡は圧倒的でめまいがするほど美しい。洋上の散歩を可能にする瀬底大橋だった。

アンチ浜で遊ぶ女性がひとり、まるで絵画のような情景


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渡久地(とぐち)港。変わり映えのしない港だった。しかしどこか懐かしさを感じさせてくれる場所でもあった。

港から洋上を眺めると左手に国道449号線の通る本部(もとぶ)大橋が見える。その沖合 7 kmほどのところには水納島(みんなじま)が浮かぶ。

渡久地港、右に見えるのがフェリーの発着する浮き桟橋

本島から橋でつながる瀬底島の右手に位置するこの小島は形状がパンのクロワッサンに似ているところからクロワッサンアイランドとも呼ばれる。

渡久地港は遊泳ビーチを備えたこの可愛い水納島へ渡る連絡フェリーの発着港でも知られ、夏場のシーズンには混み合うという。

フェリーの券売場に行くと、水納島までフェリーで15分だとわかった。

連絡さえ良ければとその気になり、早速タイムテーブルをチェック。


ちょうど高速フェリー 「ニューウィング・みんな」が出発したばかりで、あと2時間も待たねばならない。そこで得た情報によると、水納島には50人ほどの住人が生活しており、学校と灯台と小さな牧場のほかはコンビニひとつ無い人間の手が加えられていない自然のままの小島だという。

かなり惹かれたが、2時間も待ち島に渡ればすっかり陽が傾いて、すぐに戻りの船に乗らねばならなくなってしまう。今回は見送るしかなかった。


このあとは渡久地の町に出て、そこからバスで本部半島の山間部を横断するつもりだ。

港から県道219号へ向かう途中に本部漁業協同組合の建物のそばを通り抜けた。

年輪を重ねた風貌の建物にしばしワンストップ。ここの港が沖縄の ”かつお”漁の漁業拠点であることをはじめて知った。

県道に出て道沿いにのんびり歩いていると目に飛び込んできた文字があった。「山羊(やぎ)専門料理」とある。

沖縄には個性豊かな食材や料理がずらりと並ぶ。「海ぶどう」、「島らっきょう」、「あぐー(島豚)」、「へちま」、「もずく」、「シークァーサー」、「マンゴー(青いマンゴー)」「島豆腐」....など。

本土でお馴染みになっている「もずく」だが、実は国内消費量の95%が沖縄産である。この山羊料理も沖縄特有のもの。歴史がある分、それはそれはディープなのである。

山羊はまだ未体験ゾーンだ。試食をするチャンスが無かったというよりは腰が引けていたと云う方が正直なところか。

悠々閑々といった風情の渡久地の町

琉球銀行の前にバス停留所を発見。海岸線回りではなく、名護から渡久地の半島中央部をつらぬく瀬底線に乗りたかった。

時刻表を見ると20分ほどで連絡する。お茶をするほどの時間は無いので、そのまま待つことにした。

本部半島には八重岳という山麓があり、いくつかの山塊と連山をなしている。

その連山のふもとに名護、今帰仁(なきじん)、本部などの街が形成されているのである。

だから本部半島の市街地は、こぼれるような緑の山並みを背景に前面はエメラルドグリーンの海という夢のような環境が生み出されている。

これから乗るバスはその八重岳を通り抜け名護へと向かう県道84号をひた走るのである。本部半島の高度のある道を揺られ、バスから山間風景を眺めようというのが今回の”もくろみ”なのだ。

またこの県道84号線沿いにはいくつかのテーマパークや名所があるというから楽しみだ。しかしバス旅行を基本ルールに決め込んだ身には、バスを一度降りると次はいつ乗れるか運まかせ。運に恵まれず連絡が悪ければ名護まで歩くことにもなりかねない。

したがって慎重に選定しなければならないが、今日は気の向くまま動いているので下準備などしていない。降りるポイントは直感にしたがいアドリブで決めるしかないのである。不確かな旅ほどスリリングなものはない。

バスがまだこない。20分はゆうに過ぎている。すでに不確かな旅は始まっているのだ。


渡久地港

住所 国頭郡本部町渡久地
施設 駐車場・トイレ

フェリー関連問合せ
0980−47−5179(水納海運)

交通
 那覇空港より 180分(国道58号線を北上−名護宮里3丁目の信号左折し国道449号線に入り北西へ−大浜の信号を右折し県道219号線に 入る−谷茶のバス停を左折し渡久地港へ)

BUS 那覇BT 120分(名護西線20番)−名護BT 60分(66・67番系統瀬底経由循環線に乗り継ぎ)−谷茶(たんちゃ)下車徒歩5分


遅れていたバスが渡久地(とぐち)のバス停にようやく到着してくれた。乗り込むと最後部の席に着き、広い窓外視野を確保する。

バスはこれから八重岳の山間を縫いながら名護へと戻ってゆく。渡久地を出発したバスは山並みへとしだいに高度をあげ濃い緑の風景へともぐり込む。

八重岳入口というバス停が近づいてきた。琉球寒緋桜の名所で日本一早い桜まつり(1月下旬)を開催する名所で、ふもとから山頂にかけての4kmほどの間に7000本もの寒緋桜があるという。今は季節ではないのでパス。

伊豆味パイン園

バスの窓から年代物の建物が見え、壁中に目一杯の文字が躍っている。

「一九二三年 沖縄パインの発祥地」とあり、指がバスの降車ボタンを押していた。

ハワイから苗を輸入し沖縄でのパイン栽培が始まったとされる伊豆味パイン園だった。

古い建物の横に観光客用のショップがあり、そこがパイン園への出入り口になっていた。

小さなショップモールのような一角ではハブとマングースのプログラムまでやっていた。

ただし現在では動物を戦わせるショウは禁止されているのでそれに近いプログラムなのだろう。しかしこのショウにはまるで食指が動かず見送った。

パイン園へ通じる建物に入ると、中はエコ活動中なのかと思うほど薄暗い。パインに絡むジュースから菓子までの商品がところ狭しと陳列されている。そのまま通り抜け建物の裏にあるというパイン園へ出てみた。

山間の一画にある野原のような場所だった。

背の高い樹木が無いので見晴らしはよく、囲われたところにパイナップルがなっている。

以前アメリカにいた頃、知り合いのアメリカ人に聞いたことがある。

「なぜ英語では”PINE−APPLE/パイナップル”って云うの? PINE(松)は形が松ぼっくりに似ているので理解できるが、なぜAPPLE(りんご)なの?」

彼の答は5歳の幼児ほどの説明でしかなく、味がリンゴに似ているとか、リンゴがフルーツの代表的なものだからだと云う。

味など似ているわけがない。たたみかけるように質問をした。

「味も違うし、果肉の食感も違う。果実の繊維質から考えればむしろオレンジの方に近い。なぜ”PINE−ORANGE/パイノレンジ”じゃいけないの?」

返事に困り果てた彼の顔を想い出し、自然に顔がほころんでいたのだろう、横から気さくに声がかかった。「パイナップル、お好きなのですか?」

真黒に日焼けした顔に優しく笑う眼がこちらを見ていた。

最初はパイン園の人かと思っていたら、彼も訪問者のひとりで、どこかで果樹園の仕事をやっているようだった。

彼は今は咲いていないが、パイナップルも花をつけることを伝えたくて声をかけて下さったようだ。

幸いなことに筆者はハワイで観たことがあった。

松かさのような花序に、円筒形で先の方が青紫に染まった花をびっしりとつけていたことを鮮明に憶えている。

私がパイナップルの花を観ていたことを、彼は我が事のように喜んでくれた。


日頃あまり馴染みのないドラゴンフルーツやパッションフルーツのことを質問すると、何でも教えてくれた。

熱心に全身で答えてくれる彼はトロピカルフルーツのプロだった。

彼にお礼とお別れを告げ表に出ると、県道84号線を挟んだ向かい側に面白いものを発見した。

個人宅なのか公的建物なのか判然としない家の周りには神様の像が張り付いていた。家の守りはシーサーと相場の決まっている沖縄に布袋さま? 何とも奇妙な風景に立ち止まり、スナップショットまで撮ってしまった。

県道84号を名護方面へ向かって歩くことにした。むせ返るような緑の山道をしばらく歩きたかったので、バス停のタイムテーブルはあえて無視した。バスが来る時間を知ってしまうと、その時間に縛られてしまうからだ。

強烈な直射日光は射すが、高地のせいか空気はカラッとしている。県道沿いには一定間隔でショップが並ぶ。ちょうど車での観光客が止まりやすい間隔である。

パイナップルはもちろんビニール紐にぶら下げられたまだ青いバナナの大房、とんでもないほど巨木になるガジュマルの苗木、カブトやクワガタなどの虫とショップごとに特徴があった。

機嫌よく歩いていると頭上に名護市の境を示す標識が現れた。伊豆味パイン園から15分くらいしか経っていないのに本部と名護の境界まで来てしまった。

名護市に入ると右手に黄色い建物が見えてきた。「やんばる亜熱帯園」と大書された看板が上がっていたが、やはり入園するほどの気にならずそのまま通り過ぎる。

名護市に入ったことで益々調子が出てきた歩きを止めたのは大きな石燈籠だった。


県道から少し奥まったところにあった石屋さんの作品が偶然目に飛び込んできたのだ。3m以上もあろうかという石灯籠には龍が絡み獅子(シーサー)が伏臥する。

見事な造りの石灯籠がこともなげに敷地の隅に放り出されているから、ことさら目立ったのかもしれない。石灯籠の近くには、これまた何の気取りも無く ”ハナチョウジ” が滝のような花をつけていた。

こぼれ落ちるような花をつける ”ハナチョウジ ”(左) 精密な細工の石灯籠(右)


伊豆味パイン園
(いこいの駅 いずみ)
  2009年リニューアル

住所 国頭郡本部町伊豆味2821-2
電話 0980-47-3601
パイン園 9:00~18:00 無料
駐車場 30台無料
交通
 那覇空港より 160分(国道58号線を北上−名護バイパス(58号線)の白銀橋東の信号を左折し県道84号線に入り北上−中山交差点を直進−右手)

BUS 那覇BT 120分(名護西線20番)−名護BT 30分(70・76番系統備瀬線・瀬底線に乗り継ぎ)−第一ウジュン原下車スグ


    このむせ返るような緑の光景は県道84号線沿いの中山あたり

周りの景色を見ながら歩いているとジャングルにいるような気分に陥る。県道が無ければ確実に方向感覚を失ってしまうだろう。

伊豆味パイン園から県道84号線を歩き、本部町から名護市に入ったばかりの中山地区だ。大自然の中を歩いているようだが、この通り沿いには一定の間隔でショップや観光用スポットがあったりして退屈することはない。

今もまた新たな看板が見えてきた。「OKINAWA ゴーヤーパーク」とあり、水耕栽培されているゴーヤーの菜園らしい。藤棚のようなところからぶら下がるゴーヤーを観ても、あまり感動するとも思えないのでパス。

沖縄そばの前を過ぎた時、山羊(ヤギ)の鳴き声が聞こえ慌てて立ち止まった。

声のした方を振り向くと子ヤギの可愛い瞳がこちらをじっと見ている。

遠目にそば屋があることは判っていたが道の反対側を見ながら歩いていたので視野に入っていなかったのだ。

そば屋の前にまるで番犬でもつなぐように無造作につながれていた。

あまりの人なつっこさにほだされ、しばらく子ヤギ相手に遊んでしまった。

沖縄ではヤギのことを ”ヒージャー” と云う。この沖縄とヤギの関わりは歴史も古く、また深い。沖縄の食文化を語るうえで欠かせないものである。この慣習は本土には無く、日本では沖縄だけのものと云ってよい。

しかしアジア圏ではほとんどの国が常食としており、一般的でないのは日本本土くらいのようだ。沖縄では古くより良質のタンパク源として重宝され、大きい豚は売却用、小さいヤギは家庭用として飼育されてきた歴史を持つ。

しかしディープな沖縄食文化に挑戦するほど食い意地は張っていないうえに、こうやって親しく子ヤギと遊んでしまった。今回の沖縄旅行では間違いなく、この食文化の冒険はパスすることになるだろう。

可愛いので頭などをなでたりしてしまうが、しばらく放っておくと逆にいたずらを仕掛けてくる。思わず店主と交渉して連れて帰りたくなってしまう。しかし連れて返る家がない身なのだ。

名残りは惜しかったが、すっかり親しくなった子ヤギに別れを告げ旅を再開した。

しばらく歩いていると「為又北」と書かれた交差点にぶつかった。北は読めるが為又を何と読むのか。

どんなに想像をたくましくしても ”びいまた” などと読めるわけもない。

漢字をあてないで ひらがなで表記してもらいたいものだ。

左手に「名桜大学」への案内があった。 《キャンパス風景もまた楽し》 である。 「びいまたきた」を左折し寄り道をすることにした。

名桜大学の野球場に着いた頃、空模様が急変してきた。沖縄に来て1ヶ月半だが雨に降られたのは2度だけである。まったく台風にも遭遇しないというラッキーの連続であった。

だが少ない雨だが降ったらすごい。英語でどしゃ降りを 《Cats & Dogs》 と表現したりするが、ここの雨はそんな小動物の可愛らしいものではない。ド迫力のシャワーだ。

一瞬の躊躇もなくUターンし、県道84号線に戻るべく道を急いだ。青空だった中天が今は雲で覆われ白黒映画の一シーンのように見える。片道は確か10分ほどであったはずだから急げば6,7分で県道へ戻れる。交差点には雨宿りの建物が何かあったはずだ。

走ればすぐに戻れるが雨が降らないと走らない、でも雨をシャワーのように浴びるのはいや、まったく我ながら勝手なものである。生来がなまけ者なのだろう。

                          一天にわかにかき曇り大雨が落ちそう

雨が落ちる前に県道84号へ戻ることができた。

しかし空は水を吸い込んだたゴム毬が破裂寸前といった様相だ。

交差点近くにあった「OKINAWA フルーツらんど」という施設に飛び込もうと決め、歩をゆるめスナップショットを1枚。

これがいけなかった。シャッターを押した瞬間にポタ! ボタ! バタ! ザバー!...最悪の直前シーンが右の写真である。

思いっきり走ったが目の前の「フルーツらんど」に飛び込むまでの10数秒で全身が泳いだあとのようにズブ濡れになってしまった。

しばらく亜熱帯のシャワーを眺めながら、子ヤギはどうしているかと考えていた。

困っているのか喜んでいるのか想像をめぐらせていたが、いっこうに雨は止む気配を見せない。

とてもヒマなので入園することにした。入園料は800円もした。


入口を通り抜けると長い歩廊の両側には熱帯植物が空間を占有するように溢れ出していた。トロピカルフルーツばかりが大集合している。

「フルーツらんど」内をゆっくり観て歩くと小一時間ほどかかる。入口の間口に比べ、内部は奥行きも深く結構な広さだった。

パパイヤの未成熟の実がすずなりに

ドラゴンフルーツ、レンブ、パッションフルーツ、グァバ、マンゴー、スターフルーツ、パラミツなどトロピカルフルーツの果樹園が前部を占め、その向こう側に鳥と蝶のエリアがある。

存在は知っていても食べたことのないものばかりが、たわわに実っている。気が向けばこの施設にあったフルーツパーラーで試食をしてもよい。

ところで沖縄ではパパイヤを二通りの食べ方をする。ひとつ目はお馴染みの熟したものをフルーツとして、もうひとつは未熟果の青いものを野菜のように食する。

まだまだ青いパパイヤを千切りにし油で炒めると、沖縄独特の一皿となる。

パパイヤはタンパク質を分解するパパイン酵素を多く含むため、肉などと合わせると柔らかになった肉と食感のよいパパイヤの乙な料理が出来上がるという。

熟したパパイヤにはこの酵素がまったく無くなるので未熟果のみできる料理である。

ところがマーケットに並ぶパパイヤは通常オレンジ色に熟したパパイヤばかり。そのせいか沖縄の個人宅の庭にはパパイヤの木が普通に植わっている。

果園を抜けると「バタフライゾーン」という場所に行きあたり、その入口の歩廊にはおびただしい数の蝶の標本が展示されていた。

蝴蝶園の中では生きた大きな蝶 ”オオゴマダラ” が室内中を舞っている。その頼りなげに飛ぶ蝶を観察しようと、隅に置かれた椅子に座ろうと近づくとすでに先客がいた。

 自由奔放に舞うオオゴマダラ(左) SF映画に登場しそうな黄金のサナギ(右)

何匹ものオオゴマダラが椅子にとまっている。羽を休める蝶を追い立てる気にならず、他を見学するため移動した。蝴蝶園の一隅にオオゴマダラの”さなぎ”が大事に保育されていた。黄金色に輝いていた。まるでSF映画のひとコマのようだった。

バタフライゾーンの右翼にはバードゾーンがあり、フクロウの ”アオバズク” やヤンバルクイナの親戚 ”シロハラクイナ” などけっこうな数の鳥類も飼育されている。

表に出るとすっかり雨は上がっており、ちょうど手頃な雨宿りとなった。バス停に向かいかかったが、雨上がり直後の空気がとても気持ちよく、一気に名護市街地を目指して歩き始めていた。


「OKINAWAフルーツらんど」のガイドページへ


原稿の締切に追われ徹夜になってしまった。なんとか明け方に送付したが、すっかり午前中が台無しになってしまった。

淹れたばかりのコーヒーを抱え、バルコニーで意識を覚醒させていると、大きな音が耳に突き刺さった。バルコニーがら見下ろすと乗用車とバイクの接触であったようだ。でも大丈夫、幸いに両者とも無事なようだった。

                                博物館横の新都心公園へつづく道

我が宿舎にしている長期旅行者用マンションのある”おもろまち”はかなりの交通量がある。那覇の新都心として定着し最近では人の出入りが多いと聞く。

今日は午後しか自由時間がないので、今まで行けなかった近所にある博物館を訪ねることにした。

このあたりは戦後、米軍の住宅地として40年ものあいだ接収されていた地区であった。

昭和62年(1987)5月に全面返還されたが、那覇新都心開発整備事業は平成に入ってから実施されたものである。

博物館のまわりに配置された合同庁舎や新都心公園なども新しい町だけにゆとりのある区画整備がされており、道路も線を引いたように真っ直ぐ伸びている。

沖縄県立博物館は宿舎のマンションから徒歩で7、8分のところにある。今まで日々の買い物で何回通り過ぎたことか。今日初めて入館することになる。

軽い運動がてら新都心公園経由で博物館へ出発する。しっかり汗をかいたあと博物館に到着。ゲートをくぐると正面入口の手前がパティオのようになっており、そこは琉球民家や高倉を設置した屋外展示場になっていた。

琉球の古城(グスク)をイメージしてデザインされた大型建物で、左翼は博物館、右翼は美術館として使い分けていた。

前庭エリアの屋外展示場

内部展示は分野別に整理されているのは云うまでもないが、その網羅ぶりの豊かさには驚いた。

沖縄に関わる人文科学、自然科学、両系統を細大漏らさず封じ込めたように思えるほどだった。

お手軽なテーマパークもよいが、たまには真摯に博物館と向き合うのも深い。

どっぷりと沖縄の勉強をし博物館を出ると、太陽が傾き始めていた。


日が沈むまでにはもうしばらく時間がありそうなので、この近所で以前より気になっていた場所へと向かった。

博物館から”ゆいレール”のおもろまち駅方面へ歩くと6、7分で右手に小高い丘が見えてくる。丘の上には個性的な形状をしたタンクが遠目にも見てとれる。

このタンクには旅行第1日目に気付いていたので、すぐに調べて那覇市水道局の給水タンクであることを知っていた。しかしその後滞在中に調べていた沖縄戦争の資料に、この丘のことが記述されており重要な事実が浮かび上がっていた。

それからはこの丘のことが気になり、県庁前にある那覇市歴史博物館などをのぞきながら少しづつだが調べていた。

3ヶ月におよぶ沖縄戦の中盤に戦局を左右する極めて重要な戦いが、この丘で繰り広げられていたという事実である。昭和20年(1945)5月12日から1週間にわたって日米両軍がこの丘を取り合い激戦となった。

この丘を米軍は「シュガーローフ」と名付け、日本軍は「安里(あさと)52高地」とか「擂鉢山(すりばちやま)」と呼んでいた。ちなみに硫黄島で獲り合った小高い山も「擂鉢山」と云った。

  現在のシュガーローフ、頂上に造られた白い給水タンクが夕陽に赤く染まり始める

丘に着いたのでさっそく登り階段を上がってみた。下から見上げたときは小高いという表現をしたが、実際に登ってみると相当な高度があり視界域も広かった。戦時下では重要なポイントになったであろうことが理解できた。

米軍のノルマンディー上陸が世に云う ”D−デイ” だが、それをはるかに超える規模で沖縄進攻作戦の上陸 ”L−デイ” が敢行された。その沖縄戦で最も米軍がてこずり、多数の死傷者と心神耗弱者を出すほど恐怖したのがこのシュガーローフの戦いであったと米軍側の記録にある。

日本軍は硫黄島に匹敵するほどの戦いを展開し、米軍はこの小さな丘を制圧するのに1週間の時を費やし、初動に投入した中隊が小隊、分隊となり、ついには丘の土に消えていったと米軍人の手記も残されていた。

一方日本側も正確な記録こそ残されていないが多大な犠牲を払ったことは云うまでもない。

硫黄島は1949年にジョン・ウェイン主演による「硫黄島の砂」で映画化され、最近ではクリント・イーストウッドにより映画化されるほど有名だが、「シュガーローフの戦い」を知る人はほとんどいない。

シュガーローフが制圧された後、日本軍は首里を捨て南部への消耗戦へと展開し ”ひめゆり”を代表とする南部各地での悲惨な戦禍が現出してゆく。しかし実際のところ、ここシュガーローフでの決戦で事実上の決着がついていたと云えるだろう。

今は給水タンクで占められ、まわりには可愛い展望台と一握りほどの安里配水池公園があるばかり。両軍が多大な犠牲を払った丘は、今は何事も無かったように夕景のなかで静まりかえっていた。


参考文献:「沖縄シュガーローフの戦い−米海兵隊地獄の7日間」 J.H. ハラス著 光人社刊
       「新都心物語」 那覇新都心地主会発行
       「那覇市史 通史篇 第3巻 現代史」 那覇市歴史資料室 市史編集委員会


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沖縄の歴史を調べると、ある特徴に気がつく。どこの国よりもどの地域よりも、戦いつまり戦争が極端に少ないのである。

しかし日本本土や各国の中世史にみる戦乱期の例にもれず、沖縄にも戦国時代はある。その時代に相当するのが13〜15世紀の北、中部、南に有力地方豪族が覇を競った三山時代である。沖縄の長い歴史の中で戦争らしい戦いはこの時くらいなものである。

太平洋戦争の沖縄戦、江戸初期の薩摩・島津軍の侵攻などは外的理由による戦いで彼らの望んだことではなかった。

そんな沖縄の戦国史の中で王朝系譜以外で名をとどめている武将が2人だけいた。ひとりは”護佐丸”、すでに座喜身城や今帰仁城の記事でふれた。琉球尚氏王朝の礎に貢献した第一功労者である。そしてもうひとりがここで紹介する勝連城跡の城主であった”阿麻和利(あまわり)”だ。

青空に溶けるようにそびえる勝連城の石壁

阿麻和利が最後の城主となったのだが、それまで9代の城主が入れ替っている。

民からすっかり信望を失っていた前城主を計略をもって滅ぼし、その座を奪取した阿麻和利はまさに戦国乱世に生きた梟雄と云える。

しかし一方では地元の民を助けたり、城下町として発展繁栄させる手腕も優れていたと思われる。

往時には本土の鎌倉にも匹敵するにぎわいを見せていたと記録にある。

阿麻和利の出自は判然としないが、西部北谷(ちゃたん)の出身者で若くしてこの地へ移住、身分は一介の平民であったという。

そんな勝連城を那覇から1時間半もバスに揺られて訪ねてみた。

本島中部の東側にある与勝半島、その根元に位置する勝連城跡は絶好の立地に恵まれていた。

標高100m に満たない高台に築城されているが、周りには眺望を妨げるものも無く四方の見晴らしは素晴らしい。しかも南西の足下には港まで備えている。

用途に応じて城内の敷地を囲い込んだ石垣や土壁を郭と呼ぶが、ここ勝連城では曲輪(くるわ)と称していた。このグスクはもともと5つの曲輪で構成されていたようだが、現在は3つまで調査・復元されており、半世紀を超えた発掘調査は今もつづいている。

県道から少し入ると城壁が見える。まだ入城していないと思っていたら、そこがすでに四の曲輪内であった。今この四の曲輪が発掘調査中とのこと。順次段々畑のように石段を昇り一の曲輪の最上段へと至る。

                         「四の曲輪」の景観

階段を昇り城壁内に踏み入るとそこが三の曲輪になる。

ここの用途は時代の変遷とともに変化したようだが後期は舎殿前広場として儀式などを執り行っていたと推定される。

小階段を昇ると二の曲輪の領域である。

城内でメインの建物になる舎殿は二の曲輪に建っていたが、今は礎石のみが残っている。

一番の高所となる一の曲輪は見るからに手狭な平地であった。当時は何連かの建物が建っていたようだ。

眺望は素晴らしく、南西方向には中城湾、その先の陸影には中城城(なかぐすくじょう)までが視認できる。

15世紀のことである。琉球王府のあった那覇首里城と猛将の阿麻和利のいたこの勝連城、距離にして20kmあまり。そしてそのちょうど中間に位置する中城城には王位をうかがうほどの実力者、護佐丸がいた。

尚巴志(しょうはし)が護佐丸と共に三山を統一し琉球王朝の覇者となって30年が過ぎようとしていた。王位には巴志の七男、尚泰久が継承していたが、護佐丸と阿麻和利の両者に対する警戒心はかなり強かったことが想定される。

そしてこの三者は微妙な外戚関係にあった。護佐丸の娘を妃にしていた尚泰久はすでに娘をもうけており、その百十踏揚(ももとのふみあがり)という名の娘を政略結婚として阿麻和利に嫁がせてもいたのだ。つまり琉球王であった尚泰久にとって義理の父が護佐丸で、義理の息子が阿麻和利ということになる。

 勝連城から南西方面を望むと中城湾が広がり、その向こうには中城城が遠望できる

1458年、その危うい均衡が崩れた。阿麻和利が護佐丸の中城城を急襲したのである。その変に応じきれず、三山時代以来の雄であった護佐丸は自刃した。

阿麻和利のこの行動には諸説あり、護佐丸の叛意を王府へ報告し急襲する許可を願い出て許されたという説や尚泰久がそうなるように阿麻和利へ画策したとの説などがある。いずれにせよ警戒していた両者を戦わせるのは王府にとって最上策であったことは疑いようがない。

阿麻和利は護佐丸を倒した勢いを駆って、今度は王位を狙い王府首里城を目指した。しかし夫の反逆を察知した王女の百十踏揚が、武将 大城賢勇ひとりを伴いひそかに勝連城を脱出。そしてひと足早く王府首里へ帰城していた。

万全を期して迎え撃った王府軍が大勝したことは云うまでもない。尚泰久の王府軍は勝連城に退散した阿麻和利を猛追し、遂にこの城を陥落させた。

王座を狙うほどの阿麻和利だったが、王女ひとりの心が獲れなかったのである。

1458年という年に、戦国乱世に生きた実力者2人が相前後して落命することになった。

これで尚氏王朝の安定と繁栄が約束されたと誰しも思ったに違いない。ところがこれより10年ほど経った1470年には、この王朝は滅び第二尚氏王朝にとって代わられるのである。

ゆっくりと時間をかけて郭内を散策しながら、そんな当時の出来事に思いを馳せる。

二の曲輪の北側にはウシヌジガマと呼ばれる小さな洞窟があった。この洞穴は脱出用のものらしく城外へと通路がつながっているという。

                                ウシヌジガマ

なぜ阿麻和利がこの脱出口を利用しなかったのだろう。

己が天命をここまでと思い定めたのか、王府軍の攻め方と包囲網が凄まじかったのか、今となれば想像を巡らせるばかりだった。

一方自分の行動で未亡人となった百十踏揚のこと。名に付いているように百を十回くりかえすほど”とこしえ”に、踏みあがるとは他より優れているという意で”美”を備えた王女は再婚をしている。

相手は勝連城からの脱出行を共にした大城賢勇だった。しかし大城もその後起こった王府内乱で落命をしてしまうという、どこまでも良縁には恵まれない王女であった。

織田信長の妹、お市の方がたどった生涯に酷似している。お市も越前浅井長政に嫁し、実兄信長に攻め滅ぼされ夫を失い、後添いとなった柴田勝家も短命であった。

違うことはお市は勝家の死とともに自害し、百十踏揚は静かに余生を送ったことか。

同じ二の曲輪には幅17m、奥行き14.5mの舎殿跡がある。礎石が残りその遺構から建物の大きさが想像しやすい。そこにじっと立っていると、当時の生きていた彼らの鼓動が聞こえてきそうだった。

    二の曲輪跡、礎石が残り舎殿規模が判る


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早いもので沖縄に来て1ヶ月半も経ってしまった。これくらい滞在するとそれなりに知り合いができるものである。そして些少ながら知識も増えてゆく。

やはり年配の方から教えていただくことが多く、質問の連射にも根気よくお付き合いを頂いている。ときどき困るのは”ウチナーグチ”と呼ばれる沖縄方言にぶつかり何度も聞き返してしまうことだった。そして未だに沖縄方言だけは頭の中で整理はおろか脈絡すら ついていない。

本日の訪問地は北谷(ちゃたん)の町にした。その北谷町にあるアメリカンビレッジやサンセットビーチなどを訪ねてみるつもりでバスに乗った。

フェンスで固くガードされた米軍キャンプ内には軍用車両が

本島をあちこち廻りながら不思議に感じていたのが、本島における米軍施設の多さである。各米軍敷地の広さも半端ではない。

戦後65年もの歳月が流れているにもかかわらず、国道58号線沿いだけでもその占有ぶりは旅行者の目には異常に映るほどだ。

これが日米条約による防衛戦略上のものだと理解しているが、現実の沖縄を見ると占領下にあった沖縄の風景にダブってしまう。

もっとも実際の占領統治下の沖縄はこんなものではなかったと思うが、イメージが同盟というより統治下の占有に近い。

58号線ルートにも占領下の名残りなのか、「航空隊入口」とか「軍病院前」という名のバス停がある。今日訪問しようとしている”アメリカンビレッジ”はこの「軍病院前」が近いが、少し米軍キャンプの周辺を歩きたかったのでひとつ手前の「北谷(ちゃたん)」で降りた。

国道58号線沿いには切れ目なく米軍キャンプが連なっていた。”キャンプフォースター”、”キャンプレスター”、”嘉手納エアベース”と北へつづく米軍キャンプは、いずれも広大な敷地を有していた。フェンス越しに見ただけでも、かくも広き土地が必要なのかと思えるほどだ。

                               バス停 「軍病院前」

軍病院前のバス停に着くと大きな観覧車が見えてきた。観覧車が複合施設アメリカンビレッジの目印だ。

観覧車のある方へ向かうと、小さな川が流れており両側にはショップやシネコンなどの建物が密集している。フードコートにボウリング場まであった。

ショップはアンティークジーンズから輸入雑貨まで幅広く、ウィンドウショッピングだけでも楽しめるだろう。

食事も方もかなりの種類を網羅したフードコートになっており、ガイドページでもすこしふれたがデポズ・ガーデンというレストランでは典型的なアメリカンプレートも体験できる。

ちょうどお昼どきだったのでメキシコ料理のタコスをテイクアウトし、川のそばに設置されている屋外テーブルで楽しんだ。

食後軽く一周したが米国都市にあるショッピングモールと同種の匂いであった。

アメリカンビレッジは2004年に完成した施設だ。1981年に返還された米軍施設”ハンビー飛行場”の跡地が再開発され、このアメリカンビレッジと南部の北谷公園が造成されたのである。

ちなみにこの北谷町の半分以上がまだ米軍施設によって占有されている。文字通り、このあたりはアメリカ村なのである。

アメリカンビレッジに隣接してサンセットビーチがあるので、そちらの海岸線へ向かった。

こぢんまりとした人工ビーチが出迎えてくれた。町なかにある利便性の高いビーチらしく機能を重視した造りである。

足まわりが良いので簡単に夕景を楽しんだり、ビーチでバーベキューパーティーを開いたりと手軽に利用できる施設になっていた。


ビーチそばには あたりを睥睨するようにひとつの高層ビルが建っている。ザ・ビーチタワー沖縄というホテルだった。周辺は都市型リゾートの環境が整っているので短期滞在には手頃の宿舎になるだろう。

 清潔で可愛らしいサンセットビーチ

今日は格別に暑かった。湿度をたっぷりと含んだ空気が陽にあぶられて一気に温度を上げているようだ。ビーチぎわにちょうどよい木陰を見つけたのでしばらく涼をとることにした。

夏を誇示する入道雲を眺めているうちに、セミの声を追いかけていた遠い日に戻っていた。気がつくと空いていたビーチがしだいに混み始めている。沖縄駐留の米人家族と思しき客の多いこと。

このサンセットビーチやアメリカンビレッジを中心にした北谷町は北に浜川漁港、南には北谷公園を有している。どちらに向かうか迷いながら、騒がしい英語が飛び交うビーチを後にした。


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北谷公園内にある屋内運動場

北谷(ちゃたん)の町で一番のスポットと云われる繁華なアメリカンビレッジを離れ、北谷公園の中を歩き回ってみた。

遠目ではあるが、まず目に飛び込んできたのは、宜野湾にあったコンベンションセンターのような建物と大きな風力発電施設のぷろぺらであった。

建物はまだ新しさの残る白亜の屋内運動場であった。隣地の桑江中学校の校庭グラウンドは授業中なのか静まりかえっている。

園内をひとめぐりしてみたが、公園内の施設はすべてスポーツ関連であった。

陸上競技場、北谷野球場、テニスコート、屋内運動場、ソフトボール場、プールの各施設を備えている。

野球場では中日ドラゴンズの春季・秋季キャンプで使用されるほか高校野球沖縄大会の決勝戦なここで開催される。

なかなか質実な公園でスポーツをめざす人たちにきっちり向き合う施設を提供している硬派の公園だった。別名運動公園とも呼ばれているらしい。

公園の西南へと歩くとテトラポッドを積み上げた海岸べりに出る。石塀を乗り越えてなんとかブロックの上に休憩場所を見つけた。

目の前は”青がいっぱい”の世界。青の濃淡の中に浮かぶ真っ白な雲が、ゆっくり形を変えながら流れてゆく。誰も来ない最高のシーサイド・スポットになった。

北谷町の中央に位置する北谷公園。公園から南へ向かうと「アラハビーチ」、北には観光スポットらしきものは何もない。

普通ならここは南の「アラハビーチ」への進路を選ぶ....ところだが、北へと向かうことにした。「浜川漁港」という小さな漁港があるからだ。

テトラポッドの消波ブロックでのんびりしている時、地図を見ていて漁港を見たくなり決めていたのだ。

                 アメリカンビレッジの大観覧車が遠望できる浜川漁港

近所だと軽く考え出発したのだが、歩くとこれがかなりの距離であった。

最短のルートで歩いたが、しっかり40分近くかかったのである。

しかしそのおかげで、観光地や人気スポットにはない北谷の自然な表情をした町を味わうことができた。

しかも目的地の浜川漁港もまた特別なものではなく、普通すぎるほど普通の漁港だった。

特別な施設などいさぎよいほど何も無い。

あったのは漁協婦人部が運営するという食堂がひとつあったが、それもまったく気取りのない構えをしていた。「お魚屋」というその食堂では魚介の地元料理を楽しめそうだったが、残念ながら本日は営業を終了していた。

いずれにせよ、この漁港には構えたところが無く、不思議なほど居心地がよかった。しかも散策途中に釣り人とも出会ったりなどして、この漁港で思わぬ時間を過ごしてしまった。気がつくと、陽が傾きを知らせる朱を帯び始めていた。

釣り人曰く、「この辺でもっとも美しい夕焼けが観られるのは”アラハビーチ”だろう」。 絶品の夕景であるという。これから ”アラハビーチ” へ向かっても、もはや手遅れだ。

別の日にもう一度北谷町の”アラハビーチ”を訪れ、その絶品の夕焼けをカメラに閉じ込めてみよう。凪が終わり、身体に心地よい風を受けているうちに、遠くに見えていた観覧車に灯が点った。

さあ、ゆるゆると夜のアメリカンビレッジに戻り、アメリカンキュイジーヌの食事でもしよう。ロス駐在中は味気ないアメリカンレストランの食事に飽き飽きしていたが、今ではすっかり懐かしい味のひとつになっていた。

           夜のアメリカンビレッジ


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浜川漁港

住所 中頭郡北谷町字港4


交通
 那覇空港より 45分(国道58号線を北上−浜川交差点の信号を左折スグ)

BUS 那覇BT 45分(名護西線20番など)− 「伊平」 下車5分


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100段以上の長い階段を降りるとヒンヤリとした空気が坑道に充満していた。

地上から落差30mもある地下道は、靴音まで沈黙させる静けさが支配する。

壕内は通路が縦横に走り、掘削されたいくつかの小部屋が復元公開されていた。

階段を降りきったところにある”作戦室”から”幕僚室”、”暗号室”、”医療室”とつづき”下士官兵員室”、”司令官室”の各室が見学できる。

米軍による沖縄への総攻撃が始まったのが1945年3月23日、実質的な沖縄戦争の終了が6月23日。

このたった3ヶ月の期間に繰り広げられた太平洋戦争沖縄戦は酸鼻を極め、戦後65年経つ今も消えない深い傷跡を残した。

この海軍の地下陣地が山根部隊によって造営されたのは、終戦の前年になる1944年である。

地下壕へとつづ く入口の階段

当時、標高74mの高さから「74高地」と呼ばれたこの高台に海軍の防衛線が敷かれた。

8月から着手し、地下深くかまぼこ型の横穴をうがち、コンクリートと杭木で固めながら総合距離にして450mの海軍司令部壕が完成したのは12月のことであった。

年の改まった1月に、佐世保鎮守府から転任した大田實海軍少将が着任した。そしてこの壕が彼の終焉地となってしまった。

                           大田實少将の司令官室

大田は千葉県出身の軍人で、他を批判したり責めたりすることのない人格者であったという。

後世有名になる電文も彼の人柄を示す一例であろう。電文とは戦局も終盤の6月6日、大田が海軍次官宛てに送電した電報のことである。

しだいに追い詰められ他を思う余裕のまったく無い戦況下にあっても、沖縄県民の献身的支援と犠牲を連々と訴え、

「....(沖縄)県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」 と電文を締めくくっている。

米国の総攻撃から3ヶ月弱この地で防衛ラインを維持したが、遂に支えきれず6月13日未明に大田はこの壕で自決した。

同じく他の幕僚6名も手榴弾で自爆し果てている。

そしてその10日後には第32軍の牛島満陸軍中将が摩文仁(まぶに)にて自決し、沖縄戦の戦闘は事実上の終了を迎えることとなった。

この地下壕に収容した将兵の数は4000名にものぼり、横たわるスペースも無く立ったままで睡眠をとりながら最後まで戦ったと伝えられている。驚くべきことに、大田司令官以下数千の遺骨が収容されたのは戦後8年も経ってからだった。

幕僚室では自爆したときに刻まれた破片痕が、司令官室では大田少将が残した壁の墨書が、寡黙なまでに重い何かを伝えてくる。テーブル上に手向けられた花でさえ、この空気を和らげることはできない。

旧海軍司令部壕のある「海軍壕公園」からの眺望

地下壕から表に出ると、それまで身体を包んでいた重苦しい空気から解放される。そこはかつて74高地と呼ばれていた高台に設備された海軍壕公園である。

豊見城(とみぐすく)の市街地はもちろん、遠く北西方向には那覇空港からその先の東シナ海まで見通せる。夜ともなると那覇の街に点る灯が宝石のように輝き、夜景眺望の絶好のポイントになるという。

平和そのものに見えるこの場所で、旧海軍司令部壕とその上部に設営された資料館だけが戦火の痕を伝えていた。

普天間問題で右往左往する政治家やマスコミを、たった65年ですっかり軟弱になってしまった日本を、大田少将らの英霊たちはどこかで見ているのだろうか。


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人気ビーチのほとんどが東シナ海に面した西海岸に集中する沖縄本島。

本島中南部の東海岸、中城湾(なかぐすくわん)に新しく開発中の海浜緑地があるというので、さっそく出掛けてみた。

すでに西原町には完成した「西原マリンパーク」が2007年春にスタートしており、地元住民に人気のスポットとなっていた。

那覇から東へ10 km ほどの距離にあり、車でもバスでも30分位で行く。

ただし、目の前までゆくバスは本数が少ないので事前に確認したほうが賢明である。

筆者の場合、思いつきと物の弾みで動いているので「西原マリンパーク」前までのバスに乗れず、国道329号のバス停 我謝(がじゃ)入口から歩くことになってしまった。

バス停からちょうど1kmの距離をのんびりと20分歩きマリンパークに到着。中央正面の丸い建物に入ると、そこはサービス棟の機能を持つビーチハウスだった。

シャワールームからフードコートまで完備されており、遊泳客には過不足のない施設になっている。ビーチハウスを通り抜け、ビーチに出ると全長550mのゆったりとした広い砂浜が広がっていた。

          透明感のある海水に陽光が躍る「西原きらきらビーチ」

「西原きらきらビーチ」と名付けられたこの人工ビーチは想像以上に透明度の高い水質だった。

真正面には遊歩道を備えた突堤が海に突き出し、ビーチを右翼と左翼に分けていた。左翼は遊泳、右翼はマリンスポーツ専用と浜辺を使い分けている。

右翼ビーチに設置されたゴールネットの前で若者数名がビーチサッカーに夢中だ。彼らの邪魔にならないよう迂回し、水辺に出てみると揺れる波間で乱反射する陽光が眩しいほどきらめいている。


遠浅なので素足になり裾をまくりあげ水ぎわを歩いてみた。

心地よい水の感触を愉しみながら南へと歩いてゆくと右翼ビーチが終わり、テトラポッドを積み上げた護岸ラインへとつながる。

なおも南へ進むと芝を敷きつめた緑の多目的広場に。野球場が2面できている。

その先の東浜(あがりはま)にはマリーナのような港が遠望できたが、きらきらビーチへ引き返すことにした。

ビーチを中心にこの多目的広場や公園などの複合施設を「西原マリンパーク」と称しているが、実はこのマリンパークを包み込むようにまだ開発が進行中である。

西原町と与那原町にかけて一大「マリンタウン」を形成する開発事業が17年間にわたりつづけられてきたという。観光事業を視野に置くだけでなく、地元住民が住める新しい町づくりでもある。

完成したものから順次オープンしており、すでに”うちなーんちゅ(沖縄県人)”の人気エリアとして多くの地元客を集めている。

きらきらビーチ と あがりティーダ公園をつなぐ雄飛橋

強い日射しと照り返しで上下からこんがり焼かれ、ビーチまで戻ると思いっきり干上がってしまった。

ビーチハウスのフードコートでかき氷をほお張りながら小休止。

汗が退くのを待って、今度は左翼ビーチを海岸沿いに北東方面へと探索を開始した。

左翼ビーチの端には右翼と対をなすようにやや小型の軽運動広場が隣接している。

広場をパスし、その左に見えている橋に向かう。


「雄飛橋」という橋はまだ新しく、埋め立てによりできたと思われる運河のような川をまたいで海岸べりに見えている公園へと道をつくっている。

とても小さくて細長いその公園をすっかり気に入ってしまった。特別なものは何もない。少しの南国風緑地と300mほどのプロムナード、そして海岸にできた磯だまりの岩場だけ。

「あがりティーダ公園」というのがその公園に付けられた名前だった。沖縄方言で《あがり》は《東》を、《ティーダ》は《太陽》を意味する。さしずめ”太陽の昇る公園”という意か。

                 公園から護岸階段を降りるとそこには磯が広がっている

人工ビーチも悪くないが、見る分には綺麗だが何も語りかけてはこない。

自然なままの海岸ほど雄弁なものはない。

白砂が敷かれた人工リゾートビーチに海藻や木枝が流れ着くとまるで異邦人のように目立つのである。

岸に流れ着いた貝殻や木片が風景の中に違和感なく溶け込むのはやはり自然のままの浜辺だ。

季節や時の移ろいを表情にして語りかけてくれる。

その言葉を聴きながら岩場を動き回ったり、休んだりで、時計を見るとアッという間に2時間が過ぎていた。

ここの海岸はそんな海岸だった。

さらに北東へと歩を進めると「西原船だまり」という係船港に行きあたった。つまりマリーナのことだ。きらきらビーチの南側に遠望した東浜にもマリーナがあったと記憶しているが、ここにもマリーナが?

どちらの土地も埋立て地で新しいはずだから、新旧の交代ではなさそうだ。少し散策したがやはりこの船だまりは新しかった。那覇で夕食がてらにゆく飲み屋で知り会った人の顔が頭をよぎった。

「マリーナの経営は年毎に厳しくなっているんです!」と話していた顔が。彼はその関連の仕事をしており、人柄も言葉のように何の飾り気もない好青年だ。

落ち着きを取りもどした陽だまりでそんなことを考えていた。陸揚げされたボートのスクリューから眺める海はどこまでも穏やかだった。


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「遠〜いッ!」 バス停「慶佐次(げさし)」を降りた時の偽らざる感想である。

那覇BTを出発して3時間半もかかってたどり着いたのだ。往復だけで1日の3分の1を費やしてしまうのである。新幹線なら東京から大阪まで行ってお釣りがきてしまう。

バス移動もそれなりに楽しいのだが、目的地での行動時間を一挙に削られてしまうこと、それがとても大きなロスと感じてしまった。

この2ヶ月ものあいだバス旅行にこだわって廻ってきたが、本島北部をバスで回るにはそろそろ限界になってきたのだろうか。そんなことを考えながら国道331号線を歩いていると大きな河とそこに架かる橋が見えてきた。

橋の名は「慶佐次大橋」、河の名は「慶佐次川」。とてもシンプルで覚えやすいネーミングだ。

橋の下ではカヤックの集団が漕ぎ方の実習中で、楽しげな笑い声が水面を滑ってゆく。その先にはマングローブが群生していた。初めて見るマングローブだった。

                     河の両側を覆うように広がるヒルギのマングローブ林

緑色の絵具をあたり一面にぶちまけたようにマングローブが広がっている。

昨夜予習した情報によると、10ヘクタールとあった。東京ドーム2個分の広さである。

3時間半のモヤモヤがどこかへ消え、とたんに楽しくなってきた。

アイポッドから流れてきた音もちょうどいいBGM になった。アル・ジャロウがゆるく "This Time" と唄っている。

さっそくマングローブへと向かうと「ふれあいヒルギ公園」というところを通り抜けることになった。

公園の一角で、カヤックに使用するダブルパドルを持ちながら講習を受けている一団に遭遇。しばらく眺めていたがまったく面白くないので先へと急いだ。

マングローブの目の前まで到着すると、群生するそのヒルギ林の中へと遊歩道が設置されていた。しかもウッドデッキスタイルのプロムナードである。アイポッドのスイッチをオフにして木製通路へと踏みこんだ。

デッキを奥へ奥へと進み緑一色の中へ埋没してゆく。あたりは静かで人っ子ひとりいない。遠くに講習会の一団が騒ぐざわめきがわずかに聞こえるだけだった。

自然の中の沈黙に包まれると、世界に絶対無音というものが無いことを改めて知る。

ヒルギの根元を洗う水、風でこすれ合うヒルギの葉、ときどき唄う虫の声、かすかな音量だが雄弁に語りかけてくる。

ここのヒルギ林は3種だった。”オヒルギ”は身にいっぱいの花をつけている。下方を向いた筒状で3cmほどの花弁が赤く色づいていた。

一方 ”メヒルギ”は白い清楚な花をつけている。ヒルギは夏に花を咲かせる。

ちなみに名の[オ]と[メ]は雌雄の別ではなく、まったく別種のヒルギである。(写真はガイドページに)

そして3つ目は”ヤエヤマヒルギ”という種で、やはり白い花をつけるが3種ともに形状は違う。

水位を見るとかなり低くなっている。干潮が始まったのだ。

ウッドデッキの遊歩道の端まで行き、ヒルギ林を眺めているうちにもっと奥へ入ってみたくなった。手段はカヤックしかない。干潮が進みすぎるとカヤックに乗れなくなるので、急いで公園まで戻ることにした。

最初こそバランスの取り方や両側に水かきのついたダブルパドルの漕ぎ方にとまどうが、水辺に出ればなんとかなってしまうのだ。

水辺から見るヒルギ林は見下ろしの風景よりも素顔に近い表情をしている。

汽水域(河口の淡水と海水の混じり合う水域)ながら水面下で塩分に抗しながら成長をつづける幹がタコの足のように交叉する。

上部からは緑多く花まで見せるヒルギだが、水面まで視点を下げると逞しい姿を見せてくれる。

ヒルギは他の植物に比べ二酸化炭素をはるかに多く吸収し、人類に必要な酸素を多く生成してくれるまことにありがたい樹木なのだ。

今まで東南アジアなどの亜熱帯地域に群生して、地球環境の保全に貢献してくれていたのだが、最近では海老の養殖場のため伐採され急激に減少しているという。

日本ではあまり馴染みがないため外国でのニュース出来事として知る程度だったが、しだいに国単位のレベルではなく地球規模の危機として意識されるようになってきた。

しかしマングローブ保護の意識が低いと云うだけで安易に責めることはできない。人間は頭で理解できても、身体で実感しないと本気にならない習性がある。自国にないものが危機に瀕していても実感の持ちようが無い。

郷里の自然が消失して初めてその価値を知る。ここ東村のヒルギ林は今話題になっている普天間基地の代替え案になっている名護市辺野古とは10kmほどの距離。いつ何時、人間の身勝手な理由で消失の危機に見舞われないとも限らないのである。

人間は忘れることも速いが、順応性も速い。こうして自然のマングローブ林に触れることでその危機感や保護意識の向上は確実に増すことになるだろう。

水上遊覧を愉しんでいたのだが、干潮が進み やむなく陸上に引き上げる。干潮の様子を観察するため再度プロムナードを歩くことにした。途中階段が設けてあり下に降りられる箇所があった。

もちろん階段最下段には柵止めがされており外にまで出ることはかなわないが、干潟地を観察するには十分だ。早くも干潟になった泥地から顔を出した小動物が活動を始めていた。

”シオマネキ”、”ミナミトビハゼ”に加え、鳥や昆虫まで発見できる。けっこうな種類の生物が生息しているようだ。もうしばらく彼らとつきあっていこう。


「慶佐次湾のマングローブ林」のガイドページへ


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マングローブ林をひと目見たくてやってきた東村の慶佐次(げさし)だったが、片道3時間半の旅とあってはマングローブ林だけでは帰れない。

ヒルギ群生のマングローブに堪能したあと国道331号を横切り、民家のある方へと散策をはじめてみた。民家の密集しているところは、ほんの一握りほどの地区でしかなかった。

そこを過ぎると急に視界が広がり、どこまでも一面に畑が広がっている。一瞬戻ろうかとも考えたが、さしあたって他に行くあてもなく、そのまま道なりに散歩をつづけることにした。

手づくりの果樹園 「やんばる翠苑」

畑の中を東へ歩いていると、一角に小さな植物菜園のような施設にでくわした。

入口に大きく「やんばる翠苑」と大書されており、花と熱帯果樹の楽園 入場料500円とあった。

先日、名護市の「沖縄フルーツらんど」という似たような施設を訪問したばかりだったが、かまわず入場。

苑内には他の入場者の姿もなく、静かに回遊できそうだ。

カニステル、レイシ、ドラゴンフルーツ、アセロラなどトロピカルフルーツが顔を揃えている。


苑内にはビオトープが造られていたり、山羊がいたり、小さな小さな池があったりと、顔がほころんでしまうような手づくりぶりなのだ。

果樹だけでなく相当な種類の花も目を楽しませてくれるので、花好きな人には飽きのこない小苑と云える。

苑内を見終わったあと、入口近くの休息所に入るとご主人が待っていてくれた。

テーブルにはパッションフルーツなどいくつかのトロピカルフルーツを一皿に盛ってあった。

ここで収穫されたトロピカルフルーツを来苑者の方に味わってもらうのがシステムだとご主人が説明してくれた。

パッションフルーツはスプーンですくいながら食べるなどのアドバイスを聞きながらいろいろ味見をしたが、いずれも美味で南国の味を素直に満喫できた。

これだけの果樹苑をご夫婦お二人で世話をしているとのことだった。その維持管理と育成には気の遠くなるような根気と計りきれないほどの愛情が要求される。並みの覚悟ではできないことを知った。


「やんばる翠苑」を出て東側の道路を歩いていると看板が目に入った。

看板には「慶佐次ふれあいウッパマ公園」とある。しかし道路わきに細長い緑地があるだけ。

緑地の端にはアダンの樹木が視界をさえぎっており、熟したアダンの実があちこちに落ちていた。

そのうちのひとつに取り付いて食事をしていたヤドカリ。海岸近くで陸上棲息する”オカヤドカリ”だ。

ヤシガニが好物にしているアダンの実だが、雑食のオカヤドカリも食べるようだ。

このアダンは日本では沖縄と鹿児島のほぼ中間に位置する奄美大島以南でしか自生しない。

一見パインのように見える果実だが、まったく別種の植物なので現在では一般常食していない。

沖縄ではアダンの葉を使用したパナマ帽とか強靭な繊維質を有する幹は健在にと、ひところアダン産業として隆盛だった。

またアダンは毛筆としても利用されていた。江戸時代の昔、動物の毛を使用した筆がとても高価なのでアダンの気根(地上に露出している支柱根)を利用したアダン筆が代用されたという。雨月物語で知られる作家、上田秋成も琉球から渡来したこのアダン筆を愛用したという記録が残る。

一般の毛筆が安価になり普及するとともに市井から消えていったアダン筆だったが、最近になり嘉手納町に本拠を置く”琉球大発見”という工房が復活させ、その筆の味わいが見直されてきている。

アダンのすき間から砂地が見えてきたので樹幹をくぐり抜けると、いきなり広々とした海岸に出た。誰もいない波音も届かないほど静かな海だった。予想だにしていなかったためか、突然の海との出会いに大きく胸を揺さぶられた。

適当な岩を見つけ腰をおろした。島ひとつない見渡すかぎりの太平洋の海原だった。左手に見える陸影は本島最北部のやんばる地域だろう。右手は大きくえぐれているため陸影は見えない。

よく考えればアダンの木がかたまって自生しているのだから、海岸が近いことを予告してくれていたのだろう。アダンが風防樹としても優れていることを失念していた。

おりよく散歩で浜辺に立ち寄った地元の人と話すことができ、いくつかの知識をいただく。浜辺の名前は「ウッパマビーチ」といった。ウッパマとは大きな浜を意味することも知った。沖縄方言にもうすこし明るければ、最初に見た案内看板の「ウッパマ公園」で海岸を連想できたはずだ。

しかし何であれ「ウッパマビーチ」に迷い込むことができたことを感謝しよう。凪が終わり風が吹き始めてきた。風の感触だけでなく音まで心地よかった。

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沖縄本島北部の東海岸を巡りはじめたのだが、慶佐次(げさし)のマングローブ観賞ですっかり限界を感じた。那覇を宿舎にしているため移動だけの往復で6〜7時間もかかるバス旅行のタイムロスを痛感してしまったのだ。

しかし「ちょぼ旅」という ”のんびり旅”をテーマにした旅行。バスと歩きの旅ができる場所がある限りその方針を変える気はさらさら無い。 まだ少しバス旅行のできる場所が残っているハズ。

県下最大の闘牛場である名護市の「ゆかり牧場」も観たかったが、やはりバス便では遠すぎたのでターゲットを中北部へとさらに南下させる。

今 報道でたびたび登場するキャンプシュワーブの少し南にある漢那ビーチを訪れることにした。


那覇からバスで揺られて2時間、漢那バス停に到着。

海岸へと歩いて行くと砂浜の周りを青いフェンスが取り囲むように設置されている。

フェンスの出入り口を見つけ漢那ビーチの砂浜へと出ると、先客の一団が自ら張ったテントの日陰で涼をとっていた。

その光景を見たとたん、汗が一気に吹き出してきた。冷房の効いたバスに2時間もいたので、暑さ加減が遅れてやってきた。

ビーチには他に2組だけという静かなビーチだった。とても落ち着く素朴な海だ。

しばらく水辺で遊んだが、とにかく凄い暑さで、砂や海面からの強い照り返しが身体に張りついてくる。

紺碧の太平洋が広がる正面には、4.7kmもある海中道路で本島とつながる伊計島と平安座島(へんざじま)が遠望できた。晴れ上がった空と海の青が濃淡で競い合っている。島々の影がその青に上下から挟まれ薄く平たく見える。

水辺の日陰を探したが、それらしいものが見当たらず、青いフェンスの外側に出なければ木陰に逃げ込むことができないようだ。


どちらかと云えば小ぶりなビーチの東端に赤瓦の目立つ建物があった。

もちろん青いフェンスの外側ではあるがほぼ砂浜に接するほどの近さだ。

日陰が恋しくて探しまわっていたので、躊躇なくこの建物に潜り込むことにした。

浜辺から見えていたのは建物の裏手にあたっていたので、正面アプローチ側へと急ぐ。

入口には「かんなタラソ沖縄」とあった。

まだこの時点では100%、テラススタイルの小ホテルと思い込んでおり、冷たいドリンクで小休止を取るべく入館した。

高い天井の1階ホールに入ると、ホテルフロントの光景には見えるが、どこか雰囲気が違うのだ。

細部にわたり観察すると美容とセラピーをテーマにした県下有数の施設であることが判った。

少し館内を見学しながら、係員にも少し質問などをしてみた。沖縄の方言と思っていた”タラソ”がギリシャ語で”海”を意味し、健康と美容にも海水の持つ浮力など海の特性を生かしていることを知った。

以前漢那ビーチにあった遊泳客用施設が今は無く、代わりにこの施設が利用できることも判った。

大変親切な係員が、3層からなる施設には屋外ジェットバスから25m級の室内プール、海水を利用した特別プールなど相当数のバスとプールを完備していることなどを丁寧に解説してくれた。

男性美容の話が始まってしまった。しかし健康にも いわんや美容などというものにも、まるで関心はなく、そろそろ退散の潮時になったようだ。早く冷房バスに乗り込み、次の目的地「金武(きん)」へ向かうとしよう。

    「かんなタラソ沖縄」の正面玄関


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珍しくバスの連絡がよく、待つ間もなく「金武(きん)」方面へのバスがやってきた。バスは「漢那ビーチ」を離れ、一路東へと向かう。左側が太平洋になるので車内後方の左窓ぎわの席に着いたのだが、あいにくバスは海岸線をどんどん離れ内陸へと入り込んでゆく。

あとで判ったのだが、このあたりの海岸側は金武岬(きんみさき)となり、その一帯が米軍施設ギンバリー訓練所として占有されていたのだ。億首川(おくくびがわ)という大きな川に架けられた金武大橋をわたり、バスは乗車して10分くらいでバス停「金武」に着いた。

降り立った国道329号線は住宅はあるものの静まりかえり、眠っているような印象の町だった。眠ると云えば、ここ金武の町にある「観音寺」にはとんでもない数のクースー(泡盛古酒)が眠っているという。

観音寺は国道から少し北に歩いたところに、樹林に抱かれるように建っていた。

『寺の中に大量の酒を秘蔵するなど けしからん』 とお思いの方もおありだろうが、正確にお伝えすると中ではなく、地下なのだ。

『中でも地下でも同じではないか』 とのご意見もあろうが、ここはいったん是非論は横に置き 境内に入ることにする。

入口近くの参道に健気な姿を見せてくれた350年も経つフクギの古木。

それ以外はほとんどお寺にありがちな石像や石碑もなく簡素な寺院だった。

創建は16世紀で、日秀上人という僧侶が1552年に中国からの帰路で遭難し、この地に流れ着き 創ったとある。

彼が棲み布教活動に専念した拠点がこの観音寺の地下に広がる鍾乳洞だったと案内にあった。しかも大蛇退治の話まである。

マイソロジーのような民話と歴史が渾然一体となっているようだ。

この謂われの説明で、筆者が事実ではなかろうかと思うことがある。紀州出身の僧、日秀上人の漂着した年号のことだ。

16世紀という1500年代の室町幕府で、当時中国の明貿易を独占していた実力者は大内氏だが、その大内一族が滅亡したのが1551年だった。そして以降中国の明との国交が途絶えてしまったというのが歴史事実として伝わっている。

観音寺本殿、右隣りに見えるのが茶屋

僧侶日秀が翌年やむなく帰国の途に着き、遭難した可能性はかなり高いと考えられる。

事実がどうであったかはともかく、そういう由緒をもつ寺であった。

本殿には先客がいた。ひとりの参詣女性が静かに正座し礼拝していた。

真剣に集中している気配は後姿からも うかがえ、静寂を守りながら本殿には黙礼のみで離れることにした。

本堂からすぐのところに鍾乳洞の入口を発見。

見学するには境内にある茶屋で入洞料金を払うよう案内が出ていた。

さっそく茶屋に行き料金を支払い、鍾乳洞へと引き返す。入口から地下へと階段が造られており、パイプのてすり柵が設けられていた。

地上ではまぶしいほどの陽光が入口近くの階段を照らし、階段下方の洞内では闇がうずくまっている。

鍾乳洞へとつづく細い階段を降りてゆくと空気の流れが鈍くなり止まってしまった。まったく動きを止めた空気が今度は温度を下げてゆく。

洞内に入ると所々に灯された照明はあるものの、全体に薄暗く目が慣れるまでにしばらくの時を要した。

奥へと進むと、いよいよ空気がひんやりとしてきた。温度は下がっているが、滞留したままの空気にたっぷりと湿気が含まれているためか涼味は感じられない。

かなり進んだあたりに伽藍のようにやや広い場所に出た。そこにはおびただしい数の泡盛焼酎の瓶が並んでいる。

ひとつひとつにネームタグが付けられ書庫のように整理された棚ニ眠りつづけている。

これらのボトルはここを訪問した人たちが記念で購入した泡盛をクースー(古酒)になるまで醸成させている場所なのである。

鍾乳洞内が保存・醸成環境に適しているため、同じ金武町にある”金武酒造”が運営管理をしているようだ。


ちなみにボトルは5年貯蔵(1万円)と12年貯蔵(2万円)の2コースで、さきほど登場した茶屋で受け付けている。5年後や12年後に何かを期し、記念ボトルを貯蔵してもらう仕組みなのである。

評判も上々ということが頷ける、なかなか粋な計らいではないか。しかし今回 筆者は申し込みをせず見送った。

もともと気短かな性質(たち)なのか、それとも情緒が希薄なのか、飲みたくなったら待てないのである。その時は手段を選ばずどこからかクースーを見つけてしまうのである。

洞内のいたるところに小規模だが鍾乳石が観賞でき、数か所には拝所まで設けられている。地元民から聖域として尊崇されていることが十分に感じられる情景でもあった。

昔より社寺境内を浄域として飲酒を戒める傾向はあるが、ここでは大らかに大量の酒を包蔵する。その大らかさが逆に良い味を醸しており、好印象と云える。

”百薬の長”になったり、”お清め”にも利用されたり、酒は人により千変万化するもの。善悪などの概念で縛るものでもない。

ここの鍾乳洞では入洞料はとるが入口に ”もぎり” はおろか人っ子ひとりいない。チェックなど不要と云わんばかりの呑気さだ。申告し料金を払って入るか、黙って入るか、人まかせなのである。

以前ニューヨークで運転した折、ケネディ空港へのフリーウェイで料金所があった。普通フリーウェイと云うくらいだから無料なのだが、ここだけは料金ゲートが設けてあった。

しかしそこには係員は存在せず大きな袋のようなバスケットが置かれているだけであった。通行者は車の窓から、そのバスケットへコインを投げ込むのである。その大まかなシステムに感激したことがあった。

個人まかせというのは自由度が高くなる分、責任が伴う。”社会人としての良識”という銃で背中から狙われているようで、精神が引き締まってくるではないか。


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沖縄本島中北部の北西海岸一帯に広がる恩納村。その反対側の南東部に位置する金武(きん)。その金武にある鍾乳洞見学を終え、北へとぶらぶらと歩いている。

大昔このあたりは17の村から構成されていたが、しだいに「恩納村(おんなそん)」、「宜野座村(ぎのざそん)」、「金武町(きんちょう)」という3つに整理されていった。

東シナ海の美しい夕景を強みに恩納村には高級リゾート環境が完備されホテルやビーチが綺羅星のごとく並んでいる。一方、反対側の太平洋に面したこちらの宜野座村や金武町は昔ながらの飾り気のない素朴な表情をしている。

また太平洋側の宜野座村や金武町には米軍施設が多く、その影響か遊泳ビーチが極端に少ないように思う。

道端に咲いていた真っ白なハイビスカスの花
Kin5_blog.jpg

さっそくぶつかってしまったのが「米軍施設キャンプハンセン」だった。

この時点では敷地の大きさが判らず、右折し基地に沿って歩いてみた。

しかし、これがどこまでも行っても終わらないのだ。

途中に出会った純白のハイビスカスがとても清楚で、この花のそばで小休止をとってしまった。見慣れたカラフルで派手なハイビスカスとは印象がガラリと変わる。

陽の陰りを感じ始めたので、”キャンプ沿い散歩”を切り上げ次の目的地へ向かうことにした。

この米軍キャンプをあとで調べたら、驚くなかれ何と5140ヘクタールもある広大な敷地であった。

東京ドーム1000個を軽く呑み込んでしまう大きさである。

早々に進路変更した判断が正しかったことを知ると同時に、金武の町歩きに失敗したことも判明した。どうやら とても興味深い地区を見逃してしまったようなのだ。

「米軍キャンプハンセン」の第1ゲート前には金武の新開地と呼ばれる歓楽ストリートがあったのである。知っていれば間違いなく尋ねていただろう。

沖縄がまだ米国であった頃、駐留米人の遊興で隆盛を極め、ドル経済を謳歌した新開地。それが今なお健在であることを知った。

もちろん往時の勢いは無いものの面影は色濃く残っており、今や沖縄名物として東京の飲食店でも登場している”タコライス”発祥の地としても知られてきたという。

米軍キャンプにぶつかった最初の場所を右折しないで、左折して”キャンプ沿い散歩”をしていれば確実に新開地を通ることになっていたのだ。

予習不足が原因ながら、残念というほかない。再訪を期し旅のリポートをつづけよう。

キャンプハンセンを離れたあと目指したのは「屋嘉(やか)ビーチ」だった。

金武町でも南西の端にあるビーチだが、この地域には遊泳ビーチがほとんど無く貴重な海浜のひとつである。

距離にして10 km弱はあるので、バスに乗り直して向かった。

バス停「屋嘉入口」がちょうどビーチの真ん前であった。

白砂に遠浅の海というリゾートビーチとは趣を異にする浜辺が目の前に広がっていた。

岩場のある磯やハマカンダー(昼顔の一種)のうっすらとした緑が這う砂浜。人工ビーチの対極にある海岸線が南へと伸びていた。

会話も無く背中を寄せ合ったカップルが無理なく自然に溶け込んでいる。

砂地へ出て南へ歩いて行くと岩場のないところでは30人ほどの人たちが海を楽しんでいた。よく見ると水着を着けているのは子供たちだけである。

全員が地元の人たちであることがひと目でわかる。子供を遊ばせながら自らも涼んでいるといった風情だ。

パラソルやゴムボートで水遊びをしているのだが、浜辺のどこにも遊泳客用の施設が見当たらない。おそらく自宅から車に搭載して来訪したに違いない。

このビーチを本日の最終地と思い、のんびりと時間をやり過ごしていたら、あることに気が付いた。

この2ヶ月の間、西海岸つまり東シナ海ばかりを眺めていたことが多く、日暮れとなると海に沈む太陽が常態となっていた。

しかしここ東海岸では太陽を背負う格好になるので海を見ていても太陽は見当たらず、見えるのは刻々と変わる自分と樹木の影だけ。砂地に映る影が、またたく間に背丈を伸ばし海面へと成長してゆくのだ。

確かな記憶には無いのだが、遠く幼い頃に見たような既視感をゆっくりとノックされているようだった。


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4750メートルもあるという海中道路の中ほどにあるロードパークでは、ボランティアによるゴミ拾いが実施されていた。

本島の与勝半島と離島を結ぶ海中道路だが、海に潜ったドームのような道路ではなく、大海原へと伸びた海上を行く道路である。

海中道路両側に広がる長大なロードパークで、黙々と手際よくゴミを処理してゆく静かな集団。一段落した頃合いに、スタッフのおひとりに労をねぎらうため あいさつをする。

護岸階段でゴミ拾いに専念するボランティアスタッフ

一緒に中央方面に戻りながら、のんびりと話をした。

この道路の無かった頃は、干潮時になると同じ位置にうっすらと道ができたという話をしてくれた。

島民は干潮時に歩いて往復をしていたのだ。

四季により微妙に変化する干満の潮も生活の一部にしていたのだろう。

引き潮になると、蜃気楼のように海上に浮かんでくる数千メートルの道。何と幻想的ではないか。


叶うならそんな道を歩きたかった..などと、肩を並べて歩く彼には云いだせなかった。

5キロに近い道程を限られた時間に歩かねばならない島民の生活は、そんな軽い思いでは計れないだろう。しかし、今ではその干潮時も地元住民の潮干狩りを楽しむ風物情景に変わったようだ。

ボランティアの一団に合流した彼と別れ、ロードパーク中央部にある「あやはし館」で ”かき氷ブレーク”を取った。

今日は橋づたいとは云え離島めぐりと決めたので、朝も早くから行動を開始した。橋つながりでも4つもの島めぐりなのである。レンタカーを利用すれば簡単なのだが、島内専用のバスがあるのだから、利用しない手はない。

この地域である「うるま市」の物産販売の「あやはし館」をさらりと見学し、2Fの「海の文化資料館」のあるウッドデッキに上がった。入場しようとしたが撮影禁止とのことで急に興が失せてしまった。

           海中道路に架かる歩道橋から望む本島の与勝半島

筆者も音楽業界に籍を置いていたこともあり、著作権や肖像権、個人情報にいたるまでその保護と防衛に関しては人一倍苦労したことがある。その反面、過剰なまでの保護があることも知った。

保護の程度は実に難しく、少なからず興味を持ち接触してきた未来の才能たちの芽を育てることも つんでしまうことも、このさじ加減ひとつなのである。

東京に「江戸東京博物館」という施設があるが撮影自由である。ただし特別展示などは厳しく撮影禁止を励行し展示作品を守るなど、そのメリハリは来館者にも分かりやすく実に見事な運営である。沖縄では首里城がそれに匹敵している。

美術館と博物館の差異やパブリックドメイン(公共)への転化なども言及したいが、ここは自制し旅をつづけることにしよう。

「海の文化資料館」前のウッドデッキから見えた歩道橋へ行きたくなり、そちらに向ってしまった。そして歩道橋からの景色は、一直線に引かれた海中道路が両側にひろがる金武湾(きんわん)と太平洋を分断し、なかなか壮観な一幅であった。

                 宮城島のトンナハビーチ

4島内だけ運行する“平安座総合バス”は旅館の送迎に利用されるようなマイクロバスだ。

このかわいいバスに乗り、「平安座(へんざ)島」へと向かった。

バスは島に入ったが、巨大な石油タンクを縫って北上してゆく。

ほとんど川幅しかない島と島の海峡を超え、次の「宮城(みやぎ)島」に入ってしまった。


あらかじめ予習していた「トンナハビーチ」がこの島だったはずなので、乗客が少ないことを幸いに運転士に尋ねると次で降りるようアドバイスを受ける。

「池味」というバス停で降り、そのビーチへと足を向けた。

海岸というよりは入り江と表現した方が正確なほど、こぢんまりとしたビーチだった。湾曲した砂浜の両端はしたたるほどの緑を溜めた樹林。とても居心地の良い浜であった。

この方面への来訪者のほとんどが、次の有名な伊計ビーチへ行ってしまうので、あまり混み合うことのない穴場的ビーチだという。

バス旅行というのは多少不便ながら、レンタカーでは得られない経験や発見をポケットに放り込んでくれる。しかし時間管理がやや窮屈になってしまうことも事実である。世の中、いいとこ取りばかりはできない仕組みなのだ。

今もそのジレンマの狭間で揺れている。心は 『飽きるまでここにいようよ』 と囁いているのだが、バス便を考えると先へと はやる気持ちになったりもするのである。

重い腰をあげ 県道10号線に戻ったが、やはり次のバスはしばらく来ない。当然歩くことは想定内だったので歩きはじめたのだが、すぐに赤いアーチの大きな橋が見えてきた。

「伊計(いけい)島」への架け橋、「伊計大橋」だった。

    周囲の奇岩が印象的な伊計大橋


「海中道路〜トンナハビーチ」のガイドページへ


 伊計島へとつづく伊計大橋

朱に塗られたアーチの「伊計大橋」で、しばらく海を眺めていた。橋下の海面からは隆起した琉球石灰岩がいくつも奇相を見せている。

全長198メートルの下路式アーチ橋を歩き伊計島に渡った。県道10号線を7、8分も歩いたろうか、「伊計ビーチ」に着いてしまった。静かなビーチを想像していたが、思いのほかの賑わいであった。

浜への入口近くに配した施設のディスプレイは、やや雑然として観光地の匂いがプンプンしている。

こちらのビーチでは駐車は無料なのだが、遊泳料を徴収されるシステム。

大人400円、小人300円という人数で料金が必要になる。まことに商業的である。

敷地内の浜辺へ出ると200メートルほどの湾曲したビーチが広がっていた。

正面沖には小島のような岩礁がいくつも屹立し、グラスボート(ガラス底)用の小さな桟橋のある箱庭のように個性的なビーチだった。

                        伊計ビーチ

地形が単純な遠浅ではなく変化があるためか、潮の干満に影響されない水遊びができるという。

日陰でひと休みをと周りを物色すると、けっこうな数のテントが浜辺沿いに並んでいる。

有料でもほとんど空いているので小休止くらいなら利用してもよさそうだったが、落ち着かないのでやめにした。

この少し先に「大泊(おおどまり)ビーチ」があるので、そちらを訪問するべく県道に戻る。すると「伊計ビーチ」の反対側にも海が見えてきた。

つい横道にそれて東に入り込むとすぐに海に出会えた。このあたりは島の中でもちょうど人間の首のように細くなっており、県道を挟んで両岸へ行き来できる距離だった。

そこは何もない静かな入り江だった。左へカーブした陸影には密集した民家が海越しに霞んでいる。

聞こえるのは風に押されて浜に寄せる波音だけだった。残念なことにこの入り江には、厳しい陽射しを避ける日陰がひとつも無い。干物になる前に「大泊ビーチ」へ急ぐことにした。

大汗かきながらも15分ほどで、「大泊ビーチ」に到着した。入口には来訪する車を誘導するためか若いスタッフが2人いた。歩きで来訪した筆者を不思議そうに出迎えてくれた。

ここでも駐車時もしくは入場時に、やはり人数単位で支払うシステムであった。駐車、施設利用料込みの料金だ。

海上には琉球石灰岩の岩礁など何もなく、「伊計ビーチ」よりひと回り広い海岸であった。自然のビーチなのだが、まるで人工ビーチのように白い砂浜が綺麗なカーブをつくっていた。

  大泊ビーチ

水平線の彼方には絵にかいたように白い陸影が 仄見えている。この海岸線は金武(きん)湾に面しているので、その陸影は金武湾港の町並みだろう。

地図を見ると、このビーチは西に面しているようだ。沖縄本島の東海岸に位置する伊計島だが、離島なので「大泊ビーチ」が西方を向いていても何の不思議もないのだ。きっとサンセットは美しいに違いない。

このあと現地スタッフと話す機会があり、いくつか情報を得た。美しい光景は赤く染まりゆく夕景ばかりではなく、夜景も素晴らしいと教えてもらった。対岸に見える街の灯が海面に映る情景をすぐに想像したのだが、実は違っていた。

この地域周辺にはほとんど電気の灯が点らないので、逆に夜空の星が圧倒的な多さで迫ってくるという。しかも季節によって海亀が産卵のため、夜陰この浜を訪れるらしい。

昔ながらのそんな自然を残すビーチだった。レンタカーで来ていれば星降る夜空も観賞できるのだが、バス旅行では野宿覚悟を意味するのである。

サトウキビ畑の中を北へ伸びる道

伊計島のさらに北を目指し歩いてみた。

見渡すかぎりのサトウキビ畑の中を30分以上も歩き、やっとそれ以外の風景にめぐり会った。

灯台である。島の北西端に近い場所にある伊計島灯台は昭和52年(1977)3月28日に業務を開始している。

白くスラリとした12メートルの小さな灯台。まわりを背の高い樹木が取り囲んでおり、入塔はできない。


灯台のそばには、本土で見られるお墓のような石碑がポツンとあった。”御地 子宝之神”と刻まれていた。

子宝を授かる聖地であるらしい。隅には白い箱に安置された観音像までたっている。おまけにここが設けられたのも灯台の完成と同時であるらしい。

普通なら航海の安全を願い龍神あたりが相場なのだが、不思議なパワースポットではある。丈の高い樹木が壁をつくり、昼でもなお薄暗い独特の空気が漂っていた。

灯台から東へ進むと、すぐに 「ビッグタイムリゾート伊計島」の敷地内に入った。リゾートホテルというよりはファミリー向けの観光ホテルといった印象である。

敷地は広くサーキット場あり、プールあり、ガーデンレストランありと一応そろってはいるのだが、どこにも落ち着ける場所がない。好みの問題もあろうが、プールサイドに一列にぶら下がる提灯を見せられて、リゾートと思えと云われても、その気になるにはかなりの努力がいるのだ。

ホテル前庭を横切り敷地内北端の海岸線まで行ってみると、すでに干潮が進み石灰岩のゴツゴツした岩礁がむき出しになり荒々しい表情をしていた。

最後の浜比嘉(はまひが)島を目指すため、急いで伊計ビーチのバス停まで戻ることにしよう。

「ビッグタイムリゾート伊計島」(中央)、北端の海岸の表情(左・右)


「伊計島」のガイドページへ


大泊ビーチ

住所 うるま市与那城伊計1012
電話 098-977-8027
ビーチ利用料 大人 500円 小人 300円 (施設利用+駐車料)
施設 シャワー/更衣室/軽食/トイレ
駐車場(注:駐車場は2ヶ所あり奥の方が大泊ビーチの駐車場、施設利用と駐車料がセットなので駐車時に確認のこと)

交通
    車
 那覇空港より 75分(那覇ICより高速道を利用−沖縄北ICを出て国道330号線を左折−栄比野の信号を右折し県道8号線を南下−金武湾入口の信号を県道37号線に乗りかえ−海中道路経由−平安座島−宮城島−大泊ビーチまで)

    BUS 那覇BT 110分(与勝線52番)−バス停 「JA与那城支所」で下車−「JA与那城支所」 で平安座総合バスの伊計島行きに乗り換え−バス停「伊計ビーチ前」から徒歩15分


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浜漁港には行楽地にあるようなプレジャーボートのたぐいの姿は無く、係留されているのは漁船ばかりであった。半農半漁の島、「浜比嘉(はまひが)島」 らしく質実な表情の港である。

この島は「浜」と「比嘉」というふたつの村落で構成されているので「浜比嘉島」と称している。両地区とも漁港を有しているので、今度は比嘉地区の漁港を散策すべく東へ向かってみた。

静かな時間が流れる比嘉漁港

比嘉漁港も魚網が干されているありふれた漁港だったが、確かな生活臭が実感できる港でもあった。

地元では釣りのスポットだらけの島としてかなり有名らしいが、今のところ釣り人は見当たらなかった。

東への道の終わりには分かれ道が待っていた。

直進「ムルク浜」、右折「ホテル浜比嘉島リゾート」と記されている。

筆者の性向からして99% 「ムルク浜」へ向かうところなのだが、足は右の坂道へと動きだしてしまっていた。


坂道を登りながらも、我ながら頭の中には?マークが点るほど不可解な行動だった。記述している今にして思えば、単純に高所から島を見たいと潜在的に念じ行動したのだろう。

坂道を登るうちに建物が見えてきた。低層のテラスハウスのようなホテルだった。登りきってホテルの正面に立ち、しばらく呼吸を整えながら眺めていた。 まことに目立たない3層からなる普通の顔をしたホテルだった。

しかし、「それ以上でもなく、それ以下でもない」と主張する風情にとても好感が持てた。すぐに入館した。入口のアプローチもロビーも小さなつくりでさっぱりとしていた。同じフロアに設けられている喫茶ラウンジも小ざっぱりとしたディスプレイだ。

室内の照明をダウン気味にし、外光の加減でほどの良い明るさをつくっている。不思議なくらい温かく居心地が良い。

窓側の席をひとりで占有しアイスティーをオーダーしてみた。待つほどもなくチリチリに冷えたグラスがやってきた。

最初のひとくちが乾いた喉に快く、空間も時間も瞬間で豊かなものに変えてくれた。

席に荷物を置き少し館内を巡ってみた。展望台風呂まであるようだった。全体的にどこのセクション域も静かで落ち着いている。

従業員スタッフにもいくつかの質問をしたが、その応対は丁寧で、しかも必要以上の愛想を押しつけてはこない。

建物を見た時の印象通り、それ以上でもなく、それ以下でもないという絶妙な距離感を保っているように感じた。


ラウンジで涼をとったあとプールサイドに出ると、青い水を湛えた半月型のプールの向こう側にはさらに濃い青の世界が広がっていた。

見渡すかぎりの水平線が空に溶けてしまっていた。プールのそばに立っているだけで頭の中まで青色に染められてゆく。自然を多く残すこの島で、ひとときでも豊かでアーバンな空間が持てたことを素直に感謝した。

プールそばから 「ムルク浜ビーチ」 へと降りる階段があった。直感的な行動でホテルに来てしまったが結果的には大正解だったようだ。

このホテルから「ムルク浜ビーチ」を経由して「浜比嘉大橋」へ向かえばちょうどひと巡りできることになる。前面に展開する大海原を眺めながら、さっそく急勾配のその階段を降りる。

白砂のビーチに小型のきのこ岩がいくつも顔をのぞかせる変化に富んだ浜辺だった。沖合に見えるふたつの島はいずれも無人島で、左が 「浮原島」、右が 「南浮原島」であると教えられた。この浜から 「南浮原島」へと渡るツアー船があるという。

このビーチには訪問者の要望に対応できるようマリンハウスが設営されており、ほとんどの希望を満たしてくれる。マリンハウスでかき氷を食べたかったのだが、まだ「平安座島」を歩いていないので小休止はパスし、ちょっとだけピッチを上げる。

歩いて渡る浜比嘉大橋は最高だった。平安座島までの全長1430 mを飽きることなく歩き通すことができた。緑と青が混じり合う水面を滑りながら吹きあがってくる海風。反射する陽光が砕けたり、踊ったりしていた。

平安座島漁港

「浜比嘉大橋」は平成9年(1997)に完成したばかりの綺麗な橋。これでこの周辺で橋の架かっていない離島は、無人島を除いて津堅(つけん)島ひとつになっている。

平安座島に着くと橋のたもとには緑地公園があり、その向こうには漁港が見える。

港には魚網が干され、漁師は漁具の手入れに没頭している。見るからに自然体の漁港だった。

民家のある住宅地はこの漁港近くまでで、あとは巨大な石油タンクが島全体に広がっている。

この広大な石油基地を平安座島に造るにあたって、米国ガルフ社は見返りとして4.7k もの長大な「海中道路」を造設したという。

         平安座島の端までつづく石油タンク


林立する石油タンクの森を歩いていたら、隣りの島「宮城島」まで来てしまった。

ふたつの島をつなぐ橋は「桃原(とうばる)橋」という名だった。

島と島の海峡を結ぶ橋なので大きな長い橋をイメージするが、実際は町中に見られる程度の橋だ。

石油基地造成のため埋め立て整地をしたためか、島間の海峡は川幅くらいしかない。

橋のたもとに駐車した車があり、”おにぎり”の幟が風にはためいていた。


本日の予定していたコースはすべて歩くことができた。海中道路からの離島めぐりも終了に近づいてきたようだ。

軽食キャラバンのメニューに かき氷があったので一服することにした。キャラバンの主は大阪から移住してきた女性であった。関西弁はまったく影をひそめ、生気あふれる表情はすっかり島人になっている。

かき氷をかき込みながら眺める川のような海峡は、深い緑を湛えて湖のように静まりかえっていた。

   「桃原橋」から見る平安座島・宮城島間の海峡


「浜比嘉島〜ホテル浜比嘉島リゾート」のガイドページへ


150メートル以上はありそうな どっしりと重量感のある「藪地大橋」を渡る。人の住んでいない島に架かる橋とは思えないほど立派なものだ。

ずいぶん昔には民家もあったようだが今は無い。現在の島は農耕地として本島の農家が利用し、通いで手入れをしている。

”やぶちお ゝはし” と彫られた親柱

石龍があしらわれた親柱には、一度は観光地として開発されかかった時の勢いが、わずかながら残っていた。

橋上から藪地島へとつづく道が両側から緑で蔽われているのがわかる。

外来種で繁殖力旺盛な”ギンネム”がかぶさり道を喰い尽くさんばかりだ。

島の中に踏み入ると道は一本になる。しかも歩くうちに舗装されていた道もいつしか自然道になっていた。


どこまで進んでも一面はサトウキビの畑が広がっているばかり。海岸線を見たくて何度も道から離れ、島の端へ出ようと挑戦したが駄目であった。

低木ながら密集しながら繁茂するギンネムやアダンの樹林群でまったく近づけなかった。その後、20分も歩いたろうか。突然道が終わり島の南端にたどり着いた。

道の終わりは小さな広場のようになっており、隅には案内板が立っていた。この島には 「ジャネー洞」 と呼ばれる古代の洞穴が残されているとあった。

            薄暗い闇がポlッカリと口を開ける 「ジャネー洞」

案内板に導かれるように 「ジャネー洞」 の前まで来てしまった。沖縄最古の土器が発掘されたことから、この洞穴は縄文期古代人の住居であったと推定されている。

さっそく中に潜入した。先祖発祥の聖地として崇められているようで洞穴内の数ヶ所に拝所が設けられている。奥に進むにつれ暗さは増し、穴内も狭くなってゆく。


正直なところ洞穴内の不気味さは尋常ではない。まるで横溝正史の世界である。

その上、誰かが野宿したような形跡が洞内のいたるところに残っているから、なおさら妖しく映る。

置き忘れられた毛布やタオルなど生活臭のあるものから古びた傘までが転がっているのだ。

まるで他人の古民家にでも侵入したような感覚になってくる。

洞穴内の奥から何かが出てきても不思議でない雰囲気が漂っている。

と思いながらも、ついつい奥へと歩を進める。しかし、いよいよ狭くなった洞内には光も届かず、最奥部に近いと思われるところから引き返すことにした。

外へと出ると、今まで洞穴内に充満していた圧迫感から解放されたように、空気まで軽やかに流れていた。

洞前の小さな広場の先に樹林が見えた。その森に近づくと樹木の間にうっすらと野路ができている。その路をたどるように樹林を抜けるといきなり海岸に出た。

砂地より石がごろごろと目立つ荒々しい浜辺で、南へとつながる海岸の波打ち際には岩礁が生え、観光者におもねることもない昂然とした風景を創っていた。

  藪地島南端の海岸線

この海岸をあとに藪地島を離れるべく、再びサトウキビ畑の中へと戻った。

後日談になるのだが、那覇で知り合った住民から藪地島にはハブが多い島としても有名であると教えてもらった。海岸を求め道を離れブッシュに入るなどの行為はもっての他であると厳重注意を受けてしまった。

いずれにせよ、この藪地島の見学はかなりディープな観光となるのでパスする方が無難だろう。よほど時間があり、自然遊歩がお好みの方なら挑戦するのも一手。


「藪地島」のガイドページへ


沖縄の世界遺産は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として9つの遺跡がセットで指定された。2000年12月、第24回世界遺産委員会ケアンズ会議での決定だった。

その9つの中で拝所を持つ城郭としてのグスクが5つ選ばれている。「首里城」を筆頭に「座喜味城(ざきみじょう)」、「今帰仁城(なきじんじょう)」、「勝連城(かつれんじょう)」そして今回訪問した「中城城(なかぐすくじょう)」の各跡である。

絢爛な正殿の復元で首里城が群を抜いて目立ち、その他のグスクは城郭・城壁のみの復元なので一見似たような印象を持ってしまう。しかしそれぞれのグスクをじっくりとゆっくりと鑑賞してゆくと、その個性的な違いが見えてくる。

裏門は見事なつくりのアーチ(拱門)

県道146号線から少し入ると丁寧に相方積みにされた波打つ城壁が見えた。

城壁の右にはアーチ門があったが、裏門と書かれていた。

正門は最上部にあるようで、グスク城郭に沿って別の坂道が上部に向かってつづいている。

やはり正門より入城したく、その坂道を上ってみることにした。

世界遺産のグスクはここ中城城跡以外はすべて訪問をし、ここが最後になる。


                              最上部にある正門へとつづく脇道

ひとつづつグスクを訪ねてゆくうち、グスクの住人であった往時の城主たちにまで想像をたくましくするようになってくる。

長期にわたり王府となった首里城には個性的な城主の顔が容易に見えてこない。

無理して想像すれば、最初に統一王朝を果たした商才に長けた尚巴志(しょうはし)くらいか。

それに比べ勝連城の城主であった阿麻和利(あまわり)や座喜味城を造った護佐丸(ごさまる)らは、圧倒的な人間臭さで鮮やかな像を結んでくれる。

野望とロマンと夢を真正面から見据えて疾駆していった男たち。

琉球王朝の系譜には統一を果たした巴志も、第二王朝を築いた金丸(後の尚円)からも、そのワイルドな鼓動は聞こえてこない。

廃屋となってしまった 「中城高原ホテル」

脇道を7、8分も歩いたろうか、原っぱのような高台に出た。

まるで山頂からの眺めのような光景が正面に広がっている。

前面の山肌に縫い付けられたように大型の建物が建っていた。

この建物は後日判明したのだが、沖縄海洋博を当て込み建設されていた「中城高原ホテル」の廃屋であった。

完成前に建設中止となり、今や廃屋アドベンチュラーの絶好のターゲットになっているという。

その広場の反対側に「中城城」の正門があった。

正門を入ると西の郭と呼ばれる兵馬の調練に利用していたらしい細長い郭に入る。

正門を入ったすぐ右手には一段と高くなった南の郭、一の郭に昇る石段がある。やたらに縦長な西の郭の探索は後回しにして南の郭そして一の郭へと階段を上がった。

本土でいうところの本丸に相当する一の郭はさすがにたっぷりとした広さのある郭であった。太平洋側に向いた一の郭の眺望の素晴らしさは云うまでもない。

今まで見学したグスク本丸での眺望は素晴らしく、訪問者の眼を楽しませてくれた。5つのグスクからの風景はいずれも甲乙つけがたく、情趣あふれるものだった。

長期滞在の効用なのか、グスクの大観をゆっくりと巡るうち もうひとつの愉しみ方を味わえるようになった。グスクの住人であった当時の城主たちが、この同じ眺望の中に何を見ていたのかを想像することだった。

ここの城主は前述の武将、護佐丸である。彼は尚巴志の琉球統一を助けた最大の功労者であった。

北、中、南の有力豪族が覇を競っていた三山戦国時代。統一の重要な拠点である北山の大城である今帰仁城を陥落させた護佐丸は、巴志の依頼でそのまま北を守るため今帰仁城主となっている。

北部の治安も安定すると、護佐丸は自分の郷里である読谷(よみたん)の座喜味城に戻った。しかしその後 首里王府の命で、自ら築城した座喜味城から城替えとなり再び転地となった。それがここ中城城であった。

その時の王位は巴志の七男である尚泰久(しょうたいきゅう)であったが、彼は王位への野心を持つ勝連城主の阿麻和利を恐れ、自己の居城の首里と勝連城のちょうど中間に位置する中城城へ大物武将である護佐丸を配置したというのが容易に推定される。

しかし護佐丸と云えども戦国武将であり、王位をうかがうほどの実力者なのである。野望も人一倍胸に秘めていたに相違なく、この配置はきわめて危険な一手と云うほかない。

護佐丸も宴を催したであろう観月台

今、一の郭城壁の端に立ち北東から南東にかけ太平洋上に眼を滑らせてみる。

北は勝連城のある与勝半島の根元が視認でき、南の方面には南城市の知念岬まで遠望できた。

当然ながら那覇首里城のおおよその位置も見当がつく。

一の郭南側に少し突き出た場所があり、観月台との案内板があった。

数段高い位置に一席の宴が催せるほどの高見が造られていた。

名築城家としても知られる護佐丸の意匠だろうか。

護佐丸もよく宴を開いたと伝わるこの望楼で飲む酒はどんな味だったのか、眼には何が映っていたのか、今はただ想像を巡らせるばかりである。

正殿跡を見学したあと、拱門でつながる二の郭を鑑賞する。護佐丸の居館でもある正殿に至るには、二の郭か南の郭を経由しなければならない造りであった。

二の郭の城壁の曲線は一層深く波打っており、布積みにされた石灰岩がひときわ美しかった。くびれた曲線の城壁からは弓矢の横打ちが可能で、有事の際の防衛ラインが確保されている。

                    護佐丸の増設した三の郭

中城城は現在6つの連郭で構成されているが、三の郭と北の郭は移封となった護佐丸が城主となってから増設された。

北の郭内には湧水井戸を取り込んでいたり、南の郭には武具や農具工作用の鍛冶屋が隣接されている。

城壁などの石組みも、野面積み、布積み、相方積みの3種すべてを鑑賞できるので築城技術の粋を存分に愉しめる。

黒船来航ですっかり日本人にもお馴染みのぺりー提督一行も1853年琉球に立ち寄っているが、その折りにこの中城城の調査をし築城の素晴らしさに驚嘆していると記録にある。

中城城の完成度を限りなく高めた護佐丸だったが、勝連城の阿麻和利から夜襲をうけ追いつめられた彼はついに自刃してしまった。その勢いを駆って阿麻和利は首里王府を倒さんと試みたが敗れ、護佐丸を追うように倒れてしまう。1458年のことであった。

琉球王であった尚泰久の思惑どおり戦国の豪勇2人が共倒れとなったのだが、皮肉なことに 尚氏第一王朝はこの11年後に完全滅亡することとなった。

端麗な曲線が美しい中城城の外観


「中城城跡 −なかぐすくじょうあと−」のガイドページへ


重厚な石灰岩の石壁に囲まれた古民家があった。白い石壁の上からこぼれたフクギの緑色が鮮やかだ。470坪の敷地にゆるりと建つ姿は、風格もあるがそれ以上に確かな生活臭が浸み込んでいた。18世紀中頃に建築された豪農中村家の住宅である。

門から入り石壁に沿って並ぶ偉丈夫そうなフクギを見上げていると、いきなり空から大粒の雨が落ちてきた。沖縄に来て2カ月半が過ぎていたが、今まで雨に遭ったのは3回だけであった。

HARD RAINという言葉がぴったりなほど一気に激しく降るがスコール(豪雨)ほどではない。強烈な太陽にさらされ火照った顔には気持ちよかったが、ヒンプン横の中門を抜け内庭から母屋のひさしの下に隠れた。雨の音を聴きながらしばし内庭を眺める。

中庭に面して高倉が付設されていた

内庭を挟むようにしてアシャギと呼ばれる離れ座敷と穀物収蔵の高倉が向かい合って建っていた。高倉の上部が妙に大きくアンバランスに見える。上部の傾斜をつけることによってネズミの侵入を防ぐ工法 ”ネズミ返し” のため多少大きくなっていると案内があった。

沖縄特有のヒンプン(門と屋敷の間 つまり敷地の入り口に配置する魔除けの眼隠し塀)を右手に入ると母屋の一番座(客間)に出て、そこから左へ二番座(仏間)、三番座(居間)と部屋が並ぶ。ヒンプンを左に入ると台所のあるエリアへと向かう。そのためか男性は右から、女性は左から入ると云われている。

始まった時と同じように急速に雨足が細くなった。雨を浴びたフクギの緑や遠くに咲く花の赤が輝いていた。屋内の見学を始めるため母屋に入ることにした。

一番座の奥には裏座の2部屋が

ヒンプンを配置するような本土にない沖縄民家構造の特徴がもうひとつある。

普通に一見するだけでは気がつかないのだが、実は屋内には玄関に相当するものが見当たらないのである。

この滞在中にも何度か住居に訪問する機会があったが、いずれも客間とか居間などに直接あがり込むことになった。

ほとんどが戸を開け放ち光と風を取り込んでいるので、基本的にはどこからでもアプローチ可能な造りなのである。

ここ沖縄で玄関に相当するものをあえて挙げるとすれば、敷地内に入る門とヒンプンしか見当たらないのだ。

このことに気づいたとき、またひとつ沖縄を肌で理解でき近づけたような気になった。

沖縄の民家は平屋が基本なので敷地面積の割には部屋数も少なく以外にこぢんまりとしている。

そして一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)と右から左へ並ぶ。そして台所や土間や板の間が付属する。この古民家も同様で玄関などは無く、典型的な沖縄民家を保存維持しているようだ。

母屋はこの他に裏座と呼ばれる寝室など2部屋が、勝手まわりとして台所や板の間がそれぞれ公開されていた。台所ではカマドや酒器などが鑑賞でき、屋根裏の様子も窺うことができた。

                                台所まわりにある備品の展示

この中村家住宅の由来は古く、500年以上も昔にまでさかのぼる。

1440年、読谷村の有力豪族の護佐丸が首里王府の命で、この地の中城城へと配置替えとなったことから始まる。

中村家の先祖がこの護佐丸に同行し移住したと記録にある。しかし1458年護佐丸が倒れたあと王府の手から逃れるように一家は離散している。

ところが中村家の血脈はしたたかにタフだったのか、250年も経った1720年頃 同地で地頭として復活するのである。

この古民家の建築が18世紀中頃というからちょうどその時代に建てられたのだろう。

実際にその当時の建築物は母屋だけらしく、爾後しだいに増やされていったと聞いた。

      井戸とその奥の建物はメーヌヤー(家畜舎)

勝手口から表に出ると、すっかり雨は上がり、陽が勢いを盛り返しつつあった。目の前には大きな井戸が見え、右側にはメーヌヤーとよばれる家畜舎が付設されていた。

その奥にはフール(養豚場)まであり、居住地内ですべてを自己完結する昔日の生活様式にただただ脱帽。生活をするという単純な行為が、どれほどすごみのあることなのかを改めて教えてもらったようだ。

シーサーの護る屋根では赤瓦に棲み着いた苔が雨露できらきら光り、むしょうに陽の逆光が眼に痛かった。

「中村家住宅 −なかむらけじゅうたく−」のガイドページへ


健康食品

普天間の町並みは米軍キャンプ地の町らしい表情をのぞかせる

中城城(なかぐすくじょう)跡と中村住宅の見学のあと、普天間の町を少しだけ散策をすることにした。バスが中城城跡まで運行していないので、普天間近くの安谷屋(あだにや)のバス停から往復したため帰りに寄り道をしたくなったのだ。

普天間のある宜野湾(ぎのわん)市の中心に広大な面積を有する米軍施設《普天間飛行場》がドーンと居座っていた。その広さ、480ヘクタールもあるというから、ちょうど東京ドームが100個も入る巨大さだ。

そして宜野湾市の北部はやはり米海兵隊司令部などの軍中枢部があるキャンプ瑞慶覧(ずけらん)が東西に長く横たわっている。その広さ、普天間飛行場基地をはるかに上回る640ヘクタール。

このふたつの軍施設に はさまれた狭く細長い地区に、市民が密集するように形成した普天間の町がある。宜野湾市の全面積の3分の1が米軍施設だという。

                 アンティークショップなど米人向けのお店が目を引く

町を東西につらぬくメインの「でいご通り(県道81号線)」から「万年通り」、「すずらん通り」、「旧局前通り」など路地から路地へとあてもなく歩いてしまった。

町の人に町一番の高台を教えてもらい「嘉数高台公園」にも登ってみた。

悲しくなるほど日本人の土地が無かった。

現在沸騰している移転問題がいやでも想い起こされてくる。

ここで何を述べようが、決して当事者にはなりえない単なる傍観者の一意見にしかならないだろう。

一過性の旅行者が軽々に語れるほど単純ではない錯綜した年輪を、この町は重ねている。じかに普天間の町に触れ、あらためてそのことを痛感した。

普天満宮境内の様子

県道81号線に戻り、途中素通りしてしまった普天満宮に入り小休止を取った。

この社の起源は古く、沖縄特有の聖なる洞窟より始まったようだ。

全長280mにおよぶその洞窟聖域は今も残っていると案内板にあった。

15世紀中頃 熊野権現と合祀され、以来現代にいたるまで維持されてきた古社である。

街中に充満していたアメリカンテイストも、ここ普天満宮の敷地には一歩も侵入できないかのように、境内は静謐な和に包まれていた。

そんな中にも石造りのお水舎やシーサーが、沖縄であることを思い起こさせてくれる。

本殿は平成17年に改築されたばかりのものだという。


流麗な破風の下に掲げられた扁額には鮮やかな緑色で普天満宮と書かれ、白い木地と相まってとても美しかった。

普天満宮の周りを歩くとすぐにキャンプ瑞慶覧にぶつかってしまった。普天満宮の真裏には広大な米軍キャンプが広がっていたのだ。このキャンプは1972年にキャンプ瑞慶覧とキャンプフォスターが統合された施設なので、今でも両方の名が生きている。

戻りながらもう一度正面を振り返ると、まるで小さな普天満宮が巨大な米軍を一身で受け止めているようにさえ見えてくる。この勝負、普天満宮の勝ちだろう。所詮、愚かな所業を繰り返す人間が神を超えられるはずもない。


普天満宮

住所 宜野湾市普天間1-27-10

電話 098-892-3344

施設 駐車場あり/参拝自由
    洞穴見学 10:00~17:00

交通
 那覇空港より 50分(国道58号線を北上−伊佐の信号を右折スグ)

BUS 那覇BT 45分(名護東線21番など)− 「普天間」 下車3分


沖縄本島の中南部は米軍施設が多く、観て回れる場所が意外と少ない。歩いてみたいと思っていたポイントも おおよそ回ることができた中南部地区だが、まだひとつ訪れたいところが残っていた。

北谷町にある「アラハビーチ」である。"ARAHA BEACH”ではなく"ALAHA BEACH” と表記したくなるほどハワイにありそうなビーチの響きがする。単純にハワイの挨拶 《アロハ》 に似ていることもあるが...

すこし横道にそれてしまうが、ハワイ語ではアルファベットを12文字しか使用しないことをご存知だろうか。子音で H・K・L・M・N・P・W の7文字と母音 A・I・U・E・O の5文字だ。

HAWAII、WAIKIKI、MAUI などの地名に始まり、挨拶の ALOHA や魚の MAHIMAHI、首飾りの LEI など、12文字ですべてを表わすことができる。嘘だと思うなら今すぐハワイの地図を広げるとよろしい。端から端までこの法則にしたがい表記されている。

地名に付いている BEACH や BAY とか アメリカ人が勝手に付けたDIAMOND HEAD などはハワイ語ではなく英語表記なので念のため。マウイ島で知り合った LOKO(地元住民)から教えてもらった時はそのシンプルさにある種の感動さえ覚えたことを記憶している。


頭にハワイを描きながら現地の北谷(ちゃたん)に着くと ビーチに沿って綺麗な公園があった。

看板がポツンと立っており、そこには「安良波公園」とあった。

「アラハ」がどういう漢字を当てていたのか判明すると同時に、ハワイから急に日本に戻って来てしまった。

気を取り直し、公園を突っ切り浜辺へと出てみた。

けっこうな人出で賑わっていたが、混雑しているようには見えない。それほどビーチはゆったりとしていた。

ここよりすこし北にある 「サンセットビーチ」 と同じように、このビーチも人の手が加えられた遊泳ビーチだが、表情はこちらの方がはるかに豊かだ。

第一印象でこのアラハビーチを気に入ってしまった。浜辺にあった軽食店でしばらく海を眺めていると、見る間に空の雲が厚くなってゆく。30分ほどですっかり色感の乏しい風景へと変貌した。

今にもバケツをひっくり返したような雨が落ちてきそうで身構えていたが、なんとか持ちこたえている。沖合では落ちてきている雲を水平線上の海がやっと支え雨漏れを押さえているように見える。

暗雲が垂れこみモノクロームの風景となったアラハビーチ

雨が落ちてこないうちに公園を歩くことにした。「安良波公園」は2000年にできたばかりの現代的な公園だった。

公園途中にバスケットリングを発見。バスリングというのはときどき町中で見かけるバスケットゴールの金属輪のことだが、ここには5つもあった。12歳以下のミニバスケットリングが2つ、公式用リングが3つも設置されていた。

ストリートバスケ・ファンと思しき3人のアメリカ人が、舗装された屋外床でボールを獲り合っている。周りを見わたすと訪問者の半分近くがアメリカ人のようだ。公園そばをつらぬく国道58号線から東は広大な米軍キャンプフォスターが横たわっていることを思い出した。

インディアンオーク号を模して造られた帆船
Araha-beach3_blog.jpg

そこを離れ公園中央へ向かうと、大きな帆船の姿が視界に入ってきた。

後で判明した大型帆船が置かれている理由は以下のとおりだった。

時をさかのぼること170年、1840年の真夏に英国船 ”インディアンオーク号” がこの沖合で座礁した。

当時欧州近海では海賊行為が堂々と横行していた時代で、特に英国は国家レベルの海賊行為が有名でその歴史がつづいていた。

現在の英国博物館の大半がこの海賊行為によって収得したものと影で云われているほどだ。

遭難した67人の乗組員は北谷の領民によって保護された時、皆殺しにされることを覚悟していたに違いない。

ところが、殺戮されるどころか滞在した45日間にわたり手厚い世話をうけた上に、帰国用の船造りまで援助されたという。


おそらく 彼ら67人の全員が激しく感動したことだろう。

この事件以来、長きにわたり北谷町と英国との友好関係がつづいているとのことで、公園が造られる機会にインディアンオーク号を模したモニュメントとして造営されたのだ。

今は子供たちのアスレティック設備のある格好の遊び場になっていた。

この他にも貝殻をテーマにした流水階段、ブルーを基調にした野外ステージ、噴水池など現代的なデザイン設計の公園に仕上がっている。

モモタマナの木陰で海を眺めていると、少しづつ空が明るくなってきた。

ビーチに戻り白砂を踏みながら水ぎわを歩いていると、空がうっすらと色づいてくるのがわかった。

子犬が転げまわるように3人のこどもたちが駆けぬけてゆく。アメリカの少年だ。

見わたす限りの風景が朱色に染まり、赤の陰影がつくる濃淡だけの世界になってしまった。

東シナ海に落ちる太陽の足は速く、見る間に水平線の彼方に沈んだ。しかし赤く塗られた情景が色を失うまでには、東京の夕暮れでは考えられないほど時間を費やしてくれた。

《暮れなずむ》という言葉にふさわしい天工の夕景で、事実、思考が止まるほど豊饒の時間をもたらしてくれた。

「アラハビーチ」のガイドページへ


やんばる ロード 1

沖縄滞在も70日が過ぎようとしていた。沖縄にいられるのもあと2週間ほどとなってしまった。

また東京の友人から筆者がいるうちに遊びに来たいという電話も入ってきた。外国を飛び回っているその友人は、香港から東京経由で那覇に飛んでくるため、合流できるのはほとんど最後の1週間になるだろう。

友人は鑑賞ターゲットを世界遺産にしぼって希望しているので、レンタカーで走り回ることが想定される。つまり筆者の単独旅行はあと1週間になることも意味していた。少しだけ焦らなければならなくなってきた。

こちらの単独行動も車で回らなければならないところばかりが残ってしまっている。どうせ借りる車ならとすぐに予約した。そしてさっそく車で向かったのは、もちろん最北端の「辺戸岬(へどみさき)」である。

やんばる路への入口、「津波」の海岸

レンタカー初日のドライブ計画は本島最北端の辺戸岬を目指すこと。往路は西海岸を北上し、復路は東海岸を南下という「やんばる」の海岸ロードを一周するシンプルなプランだ。

この2カ月間バスと徒歩による旅を敢行していたので、バスの都合(ダイヤ)に関係なく出発できるのが とてもありがたくもあり新鮮でもあった。

また車なら比較にならないほど多くの場所と風景に出会えることも確かだろう。その代わり今までの”バス歩き旅”で味わえた温度感や手触り感は希薄になり遠のいてしまうのも確かだ。

ということで始まった車旅だが、この日は早朝より起き出してひたすら北へと走った。

その甲斐あって名護市を過ぎ、やんばる路の入口とも云える津波の町に入った時刻がまだ午前中だった。

この日、最初の休憩がこの津波の海岸。岩場のある磯遊びができそうな浜だった。


広義では名護市以北が「やんばる」と呼ばれるが、筆者はやはり400m以上の山麓が連なり、裾野には大自然の残る原生林が横たわる地域を「やんばる」としたい。つまり今いる大宜味村(おおぎみそん)、東隣りの東村(ひがしそん)、そして最北の国頭村(くにがみそん)の3つである。

ドライブを再開し国道58号線を北上する。視界は良好で、右は山並みと民家が、左は東シナ海が後ろへと流れてゆく。

前方に小さな橋が見えてきた。その橋の向こうには飛び島のような小島があり、その島をまたぐように長い橋が架かり道はふたたび本島沿岸沿いを北へとつづいている。

長い橋を渡ると足が自然にブレーキにかかり、道沿いにある駐車スペースへと車を進入させていた。

塩屋橋の向こうは塩屋湾(左上)、橋のたもとの洒落た休憩所(左下)、塩屋の浜辺(右)

飛び島は「宮城島」という小島であった。短い橋が宮城橋、長い橋が塩屋橋という。陸地に食い込んだところが塩屋湾だが、湾をショートカットするため飛び島「宮城島」を利用したというわけである。

海中道路でつながれた平安座島と伊計島に挟まれた島も宮城島であった。沖縄では同名の場所が複数あるので留意しなければならない。塩屋橋を渡った先には塩屋の澄んだ浜辺が漁港の方まで伸びており、遊泳ビーチにしたいくらい透明な海だった。

クーラーを止め窓を全開にして運転を再開、身体をすべる風がとても心地よかった。イヤーホンから流れてきたのは、ホール&オーツの 《After The Dance》。さすがの青い眼をしたソウル・デュオでも、やはりマービン・ゲイには かなうわけがない。フロントに注意しながらアイポッドのシャッフルボタンを押した。

ここまで北部に来ると本島の大動脈58号線といえどもガラガラである。すれ違う車も追いかけてくる車もほとんどない。たまにすれ違えば地元車ばかりだった。

                       波よけの石組がきれいな大宜味の海辺

右側に ”おおぎみ道の駅” と書かれた売店があらわれたので、涼をとることにした。

かき氷を掻き込み、さらに冷たい水のペットボトルを片手に国道沿いに広がるビーチへと出た。

真っ青な海に白い波よけの石が組まれ突き出ている。

その上を歩き先端まで行くとポツンと海の中に取り残された感覚になってくる。

そこから振り返るとゆうに1kmは超える大宜味の浜辺が迫っていた。

なおも北上をつづける。今朝運転していて再確認できたことがある。徒歩1時間で行ける距離は3〜3.5kmだが、車だと時速40kmも出せば4、5分で着いてしまう。こんな当たり前のことを再認識したのだ。

この2か月は本当によく歩いた。1kmがどれほどの距離なのか頭ではなく身体が覚えてしまった。だからこうして運転していると、過ぎてゆく風景の声や感触や匂いが両の手からこぼれ落ちてゆくようだ。

そのいい証明がある。2年半ほど米国ロスで生活したことがあったが、今でも懐かしく手に取るように想い出せる場所はサンタモニカ、メルローズなど数か所しかない。いずれも自分の足で歩き回ったところばかりである。

毎日のように車で通った大通りや街でも景色はおろか何ひとつ憶えていないのである。憶えているのはフリーウェイの番号と乗り換え手順くらいのものか。

バーチャルリアリティを何百回経験しても何も経験していないし、頭だけで判っていても実は何も判ってはいないのだ。人間とはそうした生き物だと思う。

まもなく本島では一番北の地域「国頭村」に入る。絶滅危惧種に指定されているヤンバルクイナが飛び出してくるかもしれない。気を付けて運転せねば...


やんばる ロード 2

飾り気のない田嘉里(たかざと)の浜

国道58号線を北上中、田嘉里というバス停留所近くの海が気に入り、少しだけ停車することにした。

砂地一面にはハマヒルガオのつるが張っていた。どこか懐かしい風景の浜辺だった。

この田嘉里は大宜味村(おおぎみそん)と国頭村(くにがみそん)にまたがった町らしい。

いよいよ本島北端の地、「国頭村」である。


沖縄での村は東京で云う区や市に相当するのだが、国頭村区域はかなり個性的と云える。まず全体の25%を米軍に占有され、そして残り面積の95%が森林に覆われているのだ。

標高500mを超える本島最高峰の与那覇岳を筆頭に西銘岳・伊湯岳などが脊柱をつくるように連なり、そこを分水嶺として多くの河川が東シナ海、太平洋の両海へ注ぎこんでいる。

世界の動植物学者が注目する生物が、この地に生息するのもうなずけるというものである。

国頭村に入るとすぐ目に飛び込んでくるのが生物保護の大看板。その後も種々の注意標識が掲げられていた。この幹線道路の58号線で轢死する生物、つまりロードキルが跡を絶たないからだ。

しかしカニに注意しろと云われても、どう走ればよいのか途方に暮れてしまう。以前テレビでカニ専用の道路を掘っているユニークなニュースが報道されていた。

”オカガニ”という防風林の根元に巣をつくる大きなカニは夏の産卵期に海へ向かうという。そのため多くのカニが道路を横断しなくてはならずロードキルに遭うらしい。そこでカニ専用道路の設置をするというわけである。

しかしその後完成したかどうかは未確認なので、やはり注意をしなければいけない。カニと云えば海側を注視してしまうが、この場合は山側から出現するのだろう。そんなことを考えているうちに奥間まで来てしまった。あの「オクマビーチ」のある地である。そのビーチから北東2kmのところが沖縄本島主要バスの北の終点、辺土名(へんとな)バスターミナルがある。

                 洒落たコテージのあるホテル敷地内を通り抜ける道路

奥間の交差点、右に行けば比地大滝、左に曲がればオクマビーチ。

左折するとすぐにホテルの敷地内へと道路がつづいていた。

ホテルは「オクマビーチ」をプライベートビーチとしている「JALプライベートリゾートオクマ」である。

このホテルはコテージが集落のように設営されメインビルのような高い建物はいっさい見当たらない。

そのためフロントのあるメインオフィスが見つけにくく通り抜けてしまった。

車中で地図を再チェックすると、この道の先に赤丸岬なるポイントがある。間違ったのを幸いにオクマビーチの前にそこを訪れるべく車を先へと走らせた。

しばらく走るとこの一本道が米軍施設のようなゲートへと伸びていた。筆者の地図には米軍基地など記載はなく、ただ「赤丸岬」とだけあった。

戻るにしても Uターンしなければならないわけで、道路上で出来なくはないが どうせするなら広い方がよい。かまわず進入した。

ゲートをくぐると いきなり大声で止められた。駆け寄ってきたセキュリティガードの説明でそこが米海軍の保養施設であることが判明した。保養地なら赤丸岬の見学と撮影を許可してほしいと申告。

最初こそポカンとした顔をしていたこのアメリカ人、すぐに猛烈な勢いでNGを出し レギュレーションの説明が始まってしまった。まったく愛想の無い軍人だ。世界一愛想が無いと定評のある中国人女性となんら大差がないのである。

このまま規則話を聞いても時間の無駄なので 『退散する』 と伝えるとトタンに笑顔になった。やれば出来るではないか! 彼の話で役にたったのは「赤丸岬」が《アカマル》と発音するという確認くらいのものだった。

建物に囲まれた池に咲く1輪の熱帯睡蓮

ホテルのメインオフィスに入るとごく普通のフロントがあり、物静かで落ち着いた空気があたりを支配していた。

低層建築物をつなぐ回廊が植物園のように緑と花で覆われている。

フロント近くのラウンジ、”ファウンテン”で小休止を取ることにして窓側の席に着く。このラウンジは夕刻から BAR に変貌するようだ。

大理石の敷かれたフロアとたっぷり距離を取った席間隔、窓外には内庭のような造りの池に熱帯睡蓮が1輪だけ薄青の花を咲かせていた。

米軍より返還されたこの地にホテルが開業されたのは1978年だという。その後何度も保全・拡張の改修を施したようだ。

琉球紅茶を飲んだあと、さっそくホテル敷地を見学しながらビーチへと向かう。


                           カジュアルなパームコテージ

海浜リゾートと云えばお約束のように高層建築からのオーシャンビューが重要視されてきた。

しかし近年ではヴィラ、コテージ、ログキャビンなど低層建築の宿舎も見直されてきており、ヴィラタイプなどは丸ごと一棟を専用するリッチさを味わえるので、高層のペントハウス(最上階)よりもトッププライスである。

こちらのゲストルームもすべて低層タイプで設計されており、ヴィラスタイルからカジュアルなコテージまで4ゾーンに分けられていた。

それぞれのコテージ群が植物庭園の中に散りばめられたようで、周りには空を遮る高いものもなく自然の只中にいる感覚をもたらしてくれる。

ただしパームコテージと呼ばれるカジュアルなコテージ群は水色と白で明るく彩色された低層アパートメントで外観から観るかぎりリッチ感は無い。周りに配した水辺だけが救いになっているように思う。

屋外プールを眺めながら海岸へ出ると広々とした浜辺が1キロ近くも展開していた。砂浜は人工ビーチのように岩礁ひとつなく真っ白である。しかしここは自然が創った正真の天然ビーチであった。

遠浅で奥行きのある浜辺が、やはり広く高い青空にとても似合っている。ビーチに設備されているものもコンパクトなマリンハウスと海に突き出した白い桟橋のみと、いたってシンプルで好印象のビーチであった。

マリンハウスをのぞくと壁に案内があり、マリンアクティビティー、親水プログラム、自然体験ツアーなど潤沢なメニュー(ガイドページ参照)がびっしりと並んでいた。また一般ビジターにも開放されているので、車さえあれば北部やんばる地の唯一のリゾートビーチを存分に楽しめるのだ。

駐車場には来た時と違うコースを通りながら戻ったが、とにかくホテル敷地内はどこを歩いても したたるほどの緑に溢れて自然を身近に感じられる。非日常体験やプレジャーも大いに魅力的ではあるが、もしかすると本当の贅沢というのは何もせずに居られる場所に身を置くことかもしれない。

               太陽と緑がいっぱいのホテル敷地内


「JALプライベートリゾートオクマ〜オクマビーチ」のガイドページへ


やんばる ロード 3

JALプライベートリゾートオクマを離れ、国道58号線に戻り車を一路北へと向ける。10分くらいで58号線はふたたび海岸線に出た。与那と呼ばれる地区だった。

砂浜がほとんど無く、石積みの護岸になっている。しかし海はどこまでも穏やかで車を停めて眺めたくなるほど青く澄んでいる。

                       謝敷の海岸線

しばらく走ると、ありったけのテトラポッドを浜辺にぶちまけたような海岸線が見えてきた。

バス停の少し先に車を停め、停留所を確認すると謝敷(じゃしき)と書かれている。

地図でチェックすると名護市からちょうど北へ20キロ地点の海岸であった。

ビーチに出てみた。磯近くでは緑がかった海の色も20m先の沖合では泡立つ波間を境に真っ青な色へと変貌している。

波下にはサンゴの環礁ができているのだろう。

車に戻りドライブを再開していると、無意識に片手運転をしていることに気付いた。

米国では左運転席なので右利きの筆者には、左手をウインドーに乗せての片手運転が楽で、すっかりその当時の悪いクセが身についてしまっていた。

レンタカーは国産車で右の運転席だったが身体は自然に対応していた。もっとも左手一本でも楽に運転できるコースだったからかもしれない。

今日の目的地である辺戸岬の前に行きたいところがあった。観光スポットとしても知られる「茅打バンタ(かやうちばんた)」である。あたかもアミューズメントのような響きだが、実は本島でも有名な難所のことなのだ。バンタとは琉球の方言で崖を意味する。

昔から最北の地へ出るためには必ず通らなければならなかった絶壁をつたう細い断崖道。地元では「戻る道」と呼ばれ、人がすれ違えないほど道幅が無く一方が戻らねばならないほど狭隘険路であったという。

宜名真トンネル

茅の束もバラバラにする強風が断崖道を吹き上げることから「茅打バンタ」と名付けられたこの難所も、今では山塊をぶち抜く「宜名真(ぎなま)トンネル」が開通しているので山越えする人はほとんどいない。

その難所へ上がる入口を探して走っていたが、いきなり「宜名真トンネル」が目の前に現れてしまった。

「茅打バンタ」への入路を見逃したのだ。県下一長い1キロのトンネルをくぐったが、出たところからすぐにUターンをする。

バンタ探しのため58号線を戻ったのだが、右手に宜名真の漁港と防波堤が見えたのでまたまた寄り道となった。

    宜名真漁港の防波堤内

少し回り込むが防波堤にも出られる。防波堤では2組の釣り人が釣果はまだ無かったが楽しんでいた。ここは釣り客にも有名なポイントであることを教えてもらった。

防波堤で寝ころび入道雲をな眺めていたが、コンクリートから伝わってくる地熱が動悸のように背中を打ってくる。しだいにドライフルーツのような気分になってきて車の冷房が恋しくなってきた。

大急ぎで車に戻り、運転再開と同時に冷房も全開にした。好きなときに冷房に逃げ込み、好きなときに移動できる車の便利さを、つくづく再認識させられてしまう。人間も堕落したものである。

やっと見つけた「茅打バンタ」への枝道。最初こそ なだらかだった坂道がしだいに斜度を増してゆく。馬車や車が通れるほど道幅が広がったのは大正期のことらしい。かなり登ったところの崖上にその名高い難所、「茅打バンタ」はあった。

断崖の端には事故防止の柵が設けられているが、ところどころ柵の無いところから下をのぞくと、噴き上がる強い風と峻嶮な景観に思わず引き込まれてしまう。今までいた防波堤が箱庭のような世界の中に小さく収まっていた。

茅打バンタの崖上から臨む宜名真漁港

今ではこの崖上も園地として整備され東屋の休憩所やトイレなどが設けられ、観光客が訪問しやすい環境になっている。東屋から見る空も一気に近づいたのか雲もひときわ大きく見える。

この園地には遊歩道もあるので真南の宜名真漁港から北西の伊平屋島までの180度のパノラマ景観を十二分に満喫できる。

水平線が極端に丸く見えてしまうのも、屹然とそびえる断崖からの景色だからなのだろう。中天に浮かぶ白雲から足元に広がる東シナ海まで大自然が手の届くところにあった。


「茅打バンタ」のガイドページへ


やんばる ロード 4

                           童話に出てくるような可愛い辺戸岬灯台

ようやく見つけた。

細い道の先には真っ白でジオラマで見るような灯台が静かにたたずんでいた。

本島最北の半島のような海岸線西岸にある辺戸岬(へどみさき)灯台である。

かねてより那覇で知り合った知人から聞いていた灯台だ。地図にも載っていない上、現地でも何の案内板も無いと聞いていた。その通りだった。

ここに灯台があると知らなかったら、確実に見逃していただろう。

1972年5月15日、業務開始とあった。高さ11mの小さな灯台で、周りを1m半くらいの塀が取り囲んでいた。

最近塗りなおされたのか目にも鮮やかな白さである。まるでジュブナイルに登場しそうな灯台だった。

停めてある車までの戻り道が遠かった。道が細く雑草におおわれていたので、ずいぶん手前に駐車してしまったようだ。

この次のポイントはいよいよ辺戸岬である。西岸側にあった辺戸岬灯台から辺戸岬への入口となる東岸へと車を飛ばした。走ること数分で辺戸岬の看板が飛び込んできた。案内の方向へと曲がると大きな駐車場へと進入して行った。

お休み処を備えた高速道路にあるPAのような風景だった。車を駐車し、さっそく岬突端へと歩を進めた。とても広い岬でプロムナードが縦横に走っており、遊歩道沿いには多くの記念碑やオブジェが設置されていた。

辺戸岬の崖上から

石碑などの見学は後回しにして岬台地の北端まで歩きつづけた。そしてたどり着いた崖の端から見た海は青くて丸かった。薄くけぶった水平線は明らかに丸く、地球が球体であることを肉眼で見せてくれているようだった。

沖縄本島北端の岬に立っていることも手伝い、日本本土へとつづく大海原を見入っているうちに少しだけ感傷に浸ることができた。

人には《果て》という未知と隣りあわせている限界点に挑戦する本能があるらしい。エベレスト登頂、北極・南極制覇、宇宙航行、深海探査など、その本能の要求するところに従ってきた。

その未知のポイントを制覇してもおそらく何も特別なものは無いのだろう。精神的充足と記録が残る以外は。しかしこの飽くことのない本能だけは消失することはないだろう。

沖縄本島の最北端など可愛らしいものだが、最北とか最南ポイントとか聞くと無性に行きたくなってしまう行動をとるのも、そんなところに原因があるのかもしれない。

1976年4月に造られた「祖国復帰闘争碑」

プロムナードを歩いていて、檄文とも云うべき激しい論調の碑文に出会った。

祖国復帰闘争碑とあった。

『吹き渡る風の音に耳を傾けよ
権力に抗し復帰をなし遂げた
       大衆の乾杯の声だ』

で始まる文は、しだいに熱を帯び

『戦後は屈辱的な米国支配の鉄鎖につながれ その傲慢な支配は沖縄県民の自由と人権を蹂躙した...祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた』 とつづく。


日本への復帰を願いながらこの辺戸岬から灯を焚き、与論島(奄美群島)の人たちと呼応したという。双方から船に乗り海上で集合し祖国復帰を目指したと伝わっている。

与論島はひと足早く1953年に日本復帰がかなったが、沖縄の復帰はそれから19年もかかり1972年に実現する。

碑文はさらに激しさを加えてつづく。

『1972年5月15日 沖縄の祖国復帰が実現した
しかし県民の平和の願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化された』

『この碑は喜びを表明するためではなく まして勝利を記念するためにあるのでもない
生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きるための警鐘を鳴らさんとしてある』

この碑文が色あせることもなく、戦後65年も経った今も胸に刺さるのは、普天間問題で判るように沖縄の戦争がいまだ終わっていないからだろう。

祖国を慕う気持ちがまだ健在だった頃、この辺戸岬から22キロも離れた与論島の人たちと海上で落ち合う風景はどんなであったろう。映画のワンシーンのように純粋で美しかったに違いない。

                          展望台の大ヤンバルクイナの足元

岬からの絶景を存分に堪能したあと、パーキングロットへと戻ったのだが、その途中に面白いものを発見した。

遠景ながら山の中腹に巨大なヤンバルクイナが見えたのである。

岬の近くにあると聞いていた「ヤンバルクイナ展望台」だと判ったが、まさか岬から見えるとは思っていなかった。

駐車場に着いたが、レストハウスに貼られていたかき氷の字につられて水分補給をすることにした。

急いでかきこんだせいで頭の奥に激震が走り、頭をかかえながら勘定を済ませることになってしまった。

岬から展望台までやはり5、6分で着いてしまった。車もたまには爽快なものである。長い階段を登ると11.5 m のヤンバルクイナが立っていた。訪問者は誰もいない。

コンクリート造りの巨大ヤンバルクイナで胸のところが展望窓になっている。胴体内部は3層構造になっており、胴体側部に併設された階段で移動できる。

さっそく内部に入って最上部へと進入した。中はガランとして置き忘れられたように警備員の敬礼している絵看板が床に転がっている。その看板を拾い展望室のベンチに寝かせ、窓外に目をやると青を背景にした辺戸岬の全景が前方に浮かびあがっていた。

「辺戸岬」のガイドページへ


ヤンバルクイナ展望台

住所 国頭郡国頭村辺戸
施設
 駐車場無料(10台)・休憩所
問合せ
 0980-41-2101 国頭村役場)
交通


那覇空港より175分 那覇IC−許田IC 間は高速利用−国道58号線を北上−辺戸岬手前を右折スグ


MIZUNO SHOP ミズノ公式オンラインショップ

やんばる ロード 5

金剛石林山への入口に近づくと、かたわらに立っていたスタッフが屋外駐車場へと誘導してくれた。券売所で料金を払うと待機中のシャトルバスに乗るように案内される。

遊歩するためのベースキャンプとなる ”精気小屋” へと入場者を運んでくれるのだ。遊歩コースは全部で4つ設けられている。《奇岩巨石コース》、《絶景コース》、《森林コース》と《バリアフリーコース》の4コース。(詳しくはガイドページを参照)

                             奇石巨岩コースでのワンカット

動き出したシャトルバスは山道へと進入して行くが、大揺れに揺れる道でまるでシェーカーで振られる氷になったような気分だった。

なるほど一般車輛をパークさせ、シャトルバスで移動する必要がうなずける。

簡素なつくりの精気小屋に着くと迷わず《奇石巨岩コース》へと出発した。熱帯カルストが織りなす石灰岩の奇観が延々と展開する。

石を貫くほど生命力のあるガジュマルと奇石のコラボレーションは自然が創る美術品でもある。

緑と巨岩の白が混ざり合う風景に目を奪われるが、道程の斜度がけっこう厳しく、足元からも目を離せない。

大汗をかきながらコース終盤にある奇観の ”悟空岩” までたどり着くと、石灰カルストの石山が青空を背景にそびえていた。

悟空とは天竺(インド)まで旅をした三蔵法師の従者の名だが、その旅程に見るような景観を想いえがき名付けたのだろうか。

奇石巨岩コースの終わりはバリアフリーコースにぶつかっており、板敷きのなだらかなボードウォークが山裾を走っていた。

荒くなった呼吸を整えながらボードウォークを回遊。途中池を見下ろす場所があったがすこぶる景勝だった。池の名は ”鍋池” と云った。

カルスト地形の中で静かに水を湛える鍋池

池脇にあった東屋のような休憩所でしばらく眺めることにした。

小さな小さな池なのだが色は北海道の湖のように鮮やかな緑色で、白い奇岩に埋められた宝石のようだった。

ボードウォーク歩きを再開するとすぐに ”烏帽子(えぼし)岩” を発見した。

鋭利な刃物が空に向かって突き立っている...烏帽子よりそんな感じの岩が連なっていた。

そのあたりは《絶景コース》の出口にもなっていたので、そのまま逆行して大パノラマ展望台を目指し、もうひと汗流すことにした。

山肌を縫いながら細道が高みへとつづく。肩で息をするようになった頃にようやく大パノラマ展望台に到着した。

そして、そこから見下ろす眺望は息をのむほど素晴らしかった。


辺戸岬灯台や辺戸岬の絶壁を見渡せたヤンバルクイナ展望台すら、ここから見れば、まるでジオラマの小世界だった。ストレートに感じさせてくれた...今まで大汗をかきながら歩いた場所が何と小さなところかと。

まだ大学を卒業したての新入社員の頃、必死にしがみついていた言葉がある。 『 壁にぶつかったり、何かに悩んだり堂々めぐりを感じたら、2階に登って自分の居たところを眺めろ 』 すっかり忘れていたそんな言葉を思い出していた。

    かすかに丸くなった青く けぶる水平線や地表の緑に落ちた入道雲の影

ヤンバルの自然と空気を身体のすみずみまで取り込みながら、山を降りた。下りの道程は軽やかでアッという間に精気小屋に戻ることができた。

不足した水分をかき氷で補給しながらテラスへ出ると、犬の出迎えを受けてしまった。どことなく淋しげな表情をした犬だった。こちらから友好の情を表したのだが、反応も表情に似て極めてひかえめだった。

しかし筆者の移動するところにはそれとなく付いてきてくれる。ひかえめに距離をとって横たわるのだ。しかも視界に必ず入る場所にである。そしてじっと見つめられているのがわかる。

見つめ合うのも変なので、帰りを一気に走ろうとしている北部東海岸線のMAPをチェックしながらよそ見などをする。そのうち自然な空気感になるから不思議なものである。

しばらくそんな時間を愉しんでいたが、表の方で係員がシャトルバスの出発を知らせ始めた。ひと便遅らせようかとも考えたが、これ以上いれば必ず後ろ髪をひかれることになる。駆け込みながらシャトルバス最後の乗客となった。


「金剛石林山」のガイドページへ


ちょっと贅沢な国内旅行 style(スタイル)

やんばる ロード 6

本島北端の辺戸岬などを訪ねたあと、那覇への帰途についた。当初の予定通り、往路で通った西海岸ではなく東海岸を南走する。これで北部海岸線を一周できるというあんばいである。

辺戸岬まで海岸沿いを北へと走っていた国道58号線も、最北端ポイントからは Uターンし南東へと大きくカーブする。しかも海岸線から離れて内陸へと方向を変えてゆき、国道は深々とした山中へとつづいている。

またまた現れた。これで3つ目の”ヤンバルクイナ、飛び出し注意”の看板だった。

このあたりが一番のロードキル多発地区らしい。ゆっくり走らねば....

その国道58号線も 「奥」 という地域で突然終わってしまった。

道が終わっているわけではなく、名前が国道58号線から県道70号線となるだけで、道はそのまま南へとつづいている。

しかしこの県道70号線あたりから道はふたたび海岸線に出た。

視界の左隅に海を感じながら走っていると、《美ら海 ニライカナイの海》と書かれた立て看板が目に飛び込んできたので急ブレーキをかけ停車する。

二ライカナイとは沖縄に伝わる海の果てにあるという楽土や理想郷のことである。しかしその浜辺は理想郷のイメージには似合わないほど岩礁が荒々しく突き出した自然のままの海岸だった。地図を見るとこのあたりは赤崎という地区であった。

なおも南下していると小さな橋を過ぎた。橋のそばに見える海が妙に明るく強烈なまでに青かったので、車をむりやり路肩に止める。しばらく車中から眺めていたが、浜辺へ出てみたくなりエンジンを切った。

青一色に染められた伊江の海岸

橋の名は伊江橋といった。橋の下を伊江川の流れが海へ注ぐため浜辺へと伸びていた。水量が少ないためか流れは湾曲しながら砂地に小川をつくっている。

空と海が真っ青に溶けたなか、ひとすじの白い線ができていた。沖合には長いサンゴ礁があるのだろう、長い線となって白く泡立っている。

手前の白い浜にはひとすじの青、浜辺を横ぎる伊江川がターコイズブルーに輝く。眼の前に広がる光景は青と白が重なるバームクーヘンだった。

伊江を出て30分近くも走っているがすっかり海岸線は見えなくなっていた。県道70号線はさらに山の中へと入ってゆく。

往路の西海岸沿いの58号線に比べ、この東海岸道路は内陸側や山中を抜ける経路が多い。単調なドライブに飽きはじめたとき、安波(あは)ダムという案内板が目に留まった。

安波ダムのクレスト(下流側)

案内板に誘われるようにハンドルを右に切り、県道から離れ深緑したたる山道へと進んだ。

樹林にはさまれた坂道を登りきると大きなパーキングエリアへと出た。

車をおりて回りを見渡したが見えるのは空ばかり。それだけで自分の立っている場所が一番の高所であることがわかる。

駐車場を歩き抜けると公園のように整備された遊歩道が前方へとつづいていた。ひとっこ一人いない。

プロムナードを歩く靴音以外まったくの無音である。道路の右側に「安波ダム管理支所」があった。

しかしその建物からも人の気配は無く、まるでビデオゲーム ”バイオハザード”の舞台となった「ラクーンシティ」のようだ。

道のぶつかったところはダムの堤頂部で、足元80m下には広大なダム湖が横たわっていた。


どうやらダムの右岸からアクセスしたようで、今いるポイントは安波川の上流に貯められたダム湖右岸であった。

正直に云うと、ダムというものを見るのも堤体に触るのも初体験。小説やドキュメントに登場するダムはひとつかふたつの村を飲み込みながら、村人たちの人生を大きく変え完成されてゆくといった類のものばかりだった。ダムに関してはそんな風化したようなイメージしか無く、また特別な関心も無かった。

しかし現実のダムを目の前にして印象が一変した。不自然なほど高低差のある巨大建築物がもつ圧倒的な迫力。明らかに自然が創りだす景観とは次元を異にした人の造り出した造形である。

今日本でもっとも報道され人気が集中してきた東京スカイツリーにも同種の感慨を感じた。新聞やテレビの報道で見るスカイツリーと業平橋(なりひらばし)駅のホームから見上げる生のスカイツリーでは雲泥の差なのである。

上流側に突き出た右岸展望広場(左)、上流側の堤体全景(右)

どうやらダムにひと目惚れをしたらしい。天端と呼ばれるダムの頂上部の道路を通りダム湖左岸に行ったり、展望台で休んだり、プロムナードの端から端まで歩いたりといつまでもグズグズとしてしまった。

この北部には5大ダムがあることを知ったが、すでに遅きに失した感がある。この2カ月半はバス旅行にこだわって旅したので、初手(はな)から交通便の悪いダムを除外していたのだ。

結局、陽が暮れなずむまでこのダム湖の右岸展望広場に居つづけ、長い一日の最後にした。この間、ただのひとりも人と会うことはなかった。

             陽が傾きはじめた右岸展望広場


「安波ダム」のガイドページへ


やんばる ロード 7

今回もひきつづき北部へのレンタカー旅をプランし早朝より出掛けた。見学するには時間がかかるため前回パスした「比地大滝」が本日のメインである。レンタカーで楽に移動できるので、多少の体力消耗ならと、たかをくくって大自然遊歩を決め込んだのだ。

ルートは前回同様に国道58号線をまっすぐ奥間の交差点まで北上する。左はオクマビーチへ、右は比地のキャンプ場へと分かれる。信号を右折し比地へと向かった。

しばらく走ると奥間川と交わり、なおも行くとふたたびもうひとつの川に出会った。この川が比地(ひぢ)大滝から西流してきた比地川である。

                        ゲートを入ると そこはキャンプ場入口

道は比地川により添うように並んで伸びており、川に沿って走ること数分で目的の比地キャンプ場に到着した。

メインオフィスのある管理棟はログキャビンづくりである。テラス兼備の食堂にシャワーやトイレなども備えている。

ゲートで入場料を支払っていると壁に貼り出された注意書きが目にとまった。

「心臓病の方」「体力が心配な方」「妊産婦の方」はご遠慮くださいとあった。しかも赤字である。

また大きな文字で「ハブ」「ヒメハブ」に注意! その横にはご丁寧に10種くらい図解入りで、このあたりに出没する蛇の特徴が説明されていた。

自慢じゃないが、こちらは生来、頭も気力も丈夫なほうではないのだ。逡巡する身体にムチ打ちゲートをくぐった。

敷地内の最初にあったのはキャンプエリアで、テントを張るキャンプ台がそこここに設置されている。大滝までのコースはこのキャンプ場を抜けて行くようだ。

ところどころ張られたハンモックで寝ている姿がとても涼しげな風景をつくっていた。キャンプ域を出ると登り道が始まり先の方にはミニダムのような小さな堤防が見えた。

比地川砂防ダム

その堤防の近くに説明板があった。高さ10m 、幅63m のミニダムの名は比地砂防ダムといった。

近づくと堤の右岸側に細い魚道が設けてあり、この水流を 《リュウキュウアユ》が産卵のため さかのぼると書かれていた。

道はすこしづつ勾配を増しながら山の中へと入ってゆく。広かった空もしだいに狭くなり樹林に覆われてしまった。

そのあたりから道は木造りのボードウォークに変わり、かなり歩きやすくなった。

入口から大滝までの距離1.5 kほどだが、その間の道は自然道とこのボードウォークの組み合わせになる。

序盤こそ森林浴を楽しみながら歩いていたのだが、高低差の激しい行程に息が弾んできた。

ところどころにある階段も斜度が激しく、まるで ”はしご” かと思いたくなるようなしろものが出現するのである。しかも長〜いのだ。

ハンカチなどでは間に合わない量の汗が噴き出してくる。かなり肩で息するころになると東屋が現れた。そこに飛び込み ひと呼吸だけ休むことにした。休憩所はこの後に もうひとつあるのだが、バテるのを計算予測したかのように絶妙なポイントに建っている。

この東屋での小休止は、静かで穏やかで清浄な別世界だった。普段はおびただしいほど雑多な音に囲まれ生活をしている。その雑音すら気にならないほど馴らされてしまったわれわれ現代人。 無音室(無響室)というものに入ると、10分で落ち着かなくなり、30分も居れば我慢できなくなるという。

無音室はすこし極端な例だが、いずれにせよ多少の音楽や騒音の聞こえる環境の方が落ち着くものらしい。今まで漠然とそう思っていたのだが、どうやらそうでもないようだ。

                        比地大滝つり橋から上流方面の眺望

このヤンバルの自然のなかで動きを止めると、一気に静寂に飲みこまれてしまう。

しかし不安になるどころか神経は穏やかに落ち着いてくる。静寂には水のせせらぎや小動物の声などが、うっすらとかすかに含まれているからだろうか。

第1の休憩所を出るとすぐに大きなつり橋に着いた。比地川を横断する長さ50mのつり橋である。

川の右岸に沿っていた遊歩道がこの橋を渡り、今度は左岸を上流に向かって伸びてゆく。

高さも15m以上はあるだろうか、足元が揺れながら渡るつり橋も一興。

つり橋を渡りしばらく歩くと川の岸辺へと降りられるポイントがあった。

山歩きと暑さですっかり蒸されてムクんだ足を冷やしたくなり水ぎわへと降りた。裸足になり石づたいに快適なポジションを探した。

腰かけながら流れに足をつけられる岩を発見。ヒヤリとした感触の流れが足をくすぐってゆく! 心地良さ200%!

そのまま岩の上に仰向けになると、真っ青な空から深緑の樹林が滝のように降りかかってくる。顔の上をすべる風も清爽で、つい不覚にも眠ってしまった。

目を開けると太陽の位置がずれており、時計を見ると40分近くも眠っていたようだ。よく川のなかに転げ落ちなかったものである。

変化に富む比地川の流れ

鋭気をとり戻し大滝目指して再出発した。 はずなのだが、前行程にも劣らぬ高低差の激しさで、途中何度か休むありさまであった。

休むたびにこの川の流れを鑑賞してみたが、実に変化の多い川で飽きのこない表情をいくつも見せてくれていた。

比地川は与那覇岳を源流として全長7.6 kを流れて東シナ海へと流れ込んでいる。

水量の多い川だから滝をつくったりしているが、場所によっては途切れそうなほど細い流れになったりして、小川のような風情も見せてくれる。

ほぼ後半には休みを取らずに大滝まで一気に歩き通したが、沖縄歩きに慣れた体力でも厳しい道行きであった。

大滝が見えてくると行程がきつかった分だけ、それなりの達成感が湧いてくるのだ。

小さい滝だが形はよく、遠目でも温雅な景観をしている。

岩場を伝いながら滝つぼ近くまで行ってみたが、落ちた清流が飛沫となって中空を舞っていた。陽を浴びた飛沫が輝き、マイナスイオン満開だ!

もっともマイナスイオンについて、効用の真偽を巡り学会で論争されているが、この際そんなことはどうでもいいのである。気を充溢させてくれれば、それだけで充分に効用はある。

片道に1時間弱かかる小旅行だが、確実に非日常感を味わえる貴重な大自然遊歩道であった。

            遊歩道の最終ポイント、比地大滝


「比地大滝」のガイドページへ


ヤンバル地の入口にもなる名護市北部にある離島、屋我地島(やがぢしま)、古宇利島(こうりじま)。以前より訪問したかったのだが、バスが途中までしか運行されていないので後回しになっていたポイントだ。

午前中から車を飛ばし、比地大滝を訪れ大汗をかいてしまったが、まだまだ陽は高い。迷うことなくこの橋づたいの離島めぐりを即決した。

橋つづきの離島は「うるま市」にある海中道路で本島とつながる「伊計島」に似ている。そこでは平安座島・宮城島・浜比嘉島・伊計島の4島がつながっていた。北部のここでは、奥武島(おうじま)・屋我地島・古宇利島の3つの離島だ。

本島と離島に囲まれた羽地内海が引き潮で干潟の表情を見せる

屋我地島・古宇利島方面への橋のそばにはロードパークがあった。そこで停車しマップを広げて確認すると、その橋の左側に展開する海は本島と離島に囲まれた「羽地内海(はねぢないかい)」だと判った。

内海という文字を見たとたん、その海に接してみたくなり駐車場に車を停めた。ひとくちに内海と云ってもいくつかの種類があるのをご存知だろうか。日本でもっとも有名な内海は瀬戸内海だろう。瀬戸内海のように大きな陸地と陸地に挟まれた水域も内海のひとつ。

そして陸地にもぐり込むように袋状に入った水域である《湾》も、実は内海のひとつなのだ。そして島や半島と大陸に囲まれ、海峡を通して外洋に繋がるここのような水域も内海という。ちなみに潟は海とつながっていても沼湖に類別される。

                        ロードパークの前に広がる羽地内海

湾に関しては全国の相当な数の経験を持つが、小島と陸地に囲まれる種類のこの内海は初体験であった。

内海を鑑賞するにはほどのよい遊歩道があり、ついつい長居をしてしまった。

しかし山陰の荒い日本海を見て育った筆者には、静かすぎるこの内海は少々物足りなかった。

潮の満ち引きだけがつくる表情の変化は、まるで能舞台で舞う能面のように、心情変化を寡黙に語る静けさだった。

橋を渡るとそこは奥武島と云う小さな小さな島で、まるで屋我地島への踏み台にされているような飛び島であった。

周りにはお墓ばかりの、車で通り過ぎれば誰もが気が付かないほど短い距離の島である。沖縄では小島がよく墓場として利用されることを...後で知った。その時はそんな因習などを知るはずもなく、無邪気に歩き回ってしまった。

屋我地大橋

墓と云えば昔から伝承されている説話に こんな話がある。

墓穴を掘ったあと そこを埋めると不思議なことに必ず土が足りなくなるという。棺を納めているにもかかわらずである。

墓穴など掘ったこともなく、ことの真偽を確かめたわけではないが、残っている墓守(はかもり)の証言記録ではどうもそのようである。

魂の抜けたあとにできた別世界へとつながるパイプ、そのパイプがふさがるまでのほんの少しの間に土が別世界へこぼれ落ちてしまうのだろうか。

奥武島(おうじま)から屋我地大橋がまっすぐに次への島へと架かっていた。

この全長300mの橋上を通る県道110号線を北上し、屋我地島へと上陸するとすぐに目に入ってくるのが屋我地ビーチ。


                 屋我地ビーチ

入口にはゲートがあり、有料となっていた。

入場料大人500円、小人300円とある。つまり遊泳料のことだろうか。

また駐車料は自動車600円、単車300円。遊泳料も駐車料もダブルでかかるビーチだった。

海岸線は干潟のような浜辺で、磯近くまで まばらな樹木が立ち茂り、沖の近場には緑をかぶる岩礁がいくつも点在している。

水辺はまるで干潮時のような景観を見せていた。遠浅の砂地が岩礁までつづいており、磯遊びもできそうである。南北に展開する全景が南海のビーチというよりは、本州日本海に見られる風景に近い。早々に退散し車に戻ることにした。

5分も走ると県道110号線の右側に立つ看板が目に入った。「済井出ビーチ」と書かれていたが どう読んでいいのか判らないまま その案内のあった方へと右折していた。

すぐに青地にマリンスポーツと書かれた幟(のぼり)が目印となり駐車スペースへ車をパークさせる。駐車料も300円と手頃な料金だ。

浜辺の手前には”モクマオウ”の樹が適度な木陰をつくってくれている。そこを抜け海岸に出ると透明度の高い海が待っていた。しかもとんでもなく遠くの沖合まで遠浅がつづいていた。

20 mくらい沖合でも家族とおぼしき一団が水中に立ったままでシュノーケル遊びをしているのが見てとれる。何かを発見した子供たちの興奮した声が水面を滑ってきて、こちらまで楽しくなってくる。

このビーチ、「すむいで(済井出)ビーチ」と読むらしい。裸足になり裾をまくって、しばらく遊んでゆくことにしよう。

           済井出ビーチ


「屋我地島」のガイドページへ


ASICS FAMILY CLUB  アシックスファミリークラブ

橋つづきの離島 「屋我地島(やがぢしま)」にある済井出(すむいで)ビーチで磯遊びをしているうちに、思いがけず浜づたいにかなり北まで歩いていた。

捕まえたカニに逃げられ、新たなカニを探してかなり北まで来てしまったのだ。その行動たるや ほとんど児童レベルになっていた。あわてて駐車場へ戻ることにした。

「屋我地島」から次の離島である「古宇利島(こうりじま)」へ渡るべく車をとばしていると前方に十字路が見えてきた。左は古宇利島、まっすぐは「国立療養所愛楽園」とあった。

地図を見ると その療養所の裏になる北側には弓なりになった浜辺がある。携帯ネットで調べると 「愛楽園」 はどうやら ”ハンセン病” の療養所のようだった。迷惑にならないでその浜へ行けるか試すことにして直進する。

ぶつかった療養所の外周道路を建物沿いに左側へ回り込むと大きなパーキングロットがあった。ガラガラに空いていたのを幸いに駐車し、海岸を目指した。

古宇利大橋の全景が鑑賞できる「国立療養所愛楽園」裏の海岸

丈のある草むらを抜けると いきなり絶勝の景観が目に飛び込んできた。2 kmもあろうかという古宇利大橋が海上を真一文字に走り「古宇利島」へと架かっていた。

療養所の裏ということもあり、ほとんど訪れる人がいないのだろう。砂地に生えた草が踏まれていないので伸び伸びとしていた。ハマヒルガオまで妙に生き生きとしている。誰もいない淋しい浜なのにどこか温かいものを感じ、ひと目でこの浜辺を気に入ってしまった。

”ハンセン病”と呼ばれる病気のことを知ったのは、はるか昔の子供の頃だった。多感だったその頃にこの病にからむ事柄でふたつほど深い感銘を受けたことがあった。

今でこそ治療により快癒するようになったし、日本での発症例もほとんどなくなっているが、以前 ”らい病”と呼ばれたこの病気は伝染性の難病として広く知られていた。症例記録は紀元前まで遡るほど古く、発症範囲は全世界の広域に見られる名うての悪病として恐れられていた。

                 目一杯 元気なハマヒルガオ

その病名を初めて聞いたのはアカデミー賞を11部門も独占した「ベン・ハー」という映画であった。

ドラマ後半に主人公ジュダ・ベン・ハーの最愛の母と妹がこの病気にかかり、死の谷に隔離され死を待つばかりという設定のところだ。

伝染する恐怖をものともせず死の谷に踏み入り、重篤の家族と再会を果たす主人公。

そして神による慈雨で快癒してゆく感動的なラストは、子供心にも強烈な印象となって脳裏に焼き付いてしまっていた。

それから間もない頃、またこの病名に遭遇することになった。

少年時代 やや早熟であったのか日本史に傾倒し溺れていた時期があった。

戦国時代に登場する白頭巾の武将 大谷吉継(おおたによしつぐ)に興味を持ち、調べてゆくうちにふたたびその病名を聞くことになる。彼はこの病気に感染していたのだ。

親交のあった徳川家康も一目置くほど文武に明るく聡明な武将であった吉継。しかし豊臣政権下での活躍中はすでにこの病気に侵され、頭巾で顔を隠していたため他の武将たちには周知のこととして広く知れ渡っていた。

秀吉主催による、点てたお茶を一口づつ喫してゆく大阪城での茶会においてのことである。吉継が飲んだあと感染を恐れ たじろぐ武将の居並ぶ中で、ただ一人平然とそのお茶を喫した武将がいた。 石田三成であった。 その何事もなかったようにふるまう三成の姿に吉継は激しく感動したに違いない。

古宇利島(左奥)も見える愛楽園裏のビーチ

爾後、親交を深めたふたりには友情が芽生え、関ヶ原の戦いでは家康との交誼があったにもかかわらず石田三成側に立った。

戦闘人員の数から見れば東軍(徳川家康)より圧倒的に有利な西軍(石田三成)に味方することは当たり前のようにも思える。

しかし聡明な大谷吉継は大軍を擁する西軍(石田側)でも負けるであろうことを鋭く予測しているのである。

敗戦のおそれとなるところの補強戦略を、言葉を尽くし三成を説諭している。そのことがいくつか歴史記録として残っている。

にもかかわらず石田に付き、結果西軍は彼の懸念通り大敗してしまう。そして最後には従容と潔く自刃するという乱世では稀有の武将、大谷吉継であった。

この吉継の行動に、やはり気持ちを強く揺さぶられ感動したことを覚えている。

以上のようなことからこの病名にまつわる特別な感情が幼い心に焼印のように残された。

ネットによると、ここの沖縄愛楽園の創設が昭和13年というから、戦争前の時代に開設され70年以上も歴史を刻んでいるようだ。

おそらくその頃の感染者は世間から隔絶され隠れるように療養生活を送っていたのだろう。施設に隣接するこの穏やかな浜辺で、罹患した療養者たちが静かに残された時を過ごしていたことが想像される。

浜の中ほどに打ち捨てられたように木椅子が置かれていた。ちょうどいい所に椅子があると思い座ってみようと近づいたのだが、きちんと海を向いたその椅子はまるで主人が座るのを待っているような風情に映って見えた。

椅子の隣りの草地に腰をおろし、この椅子の主人が見たであろう磯景色を眺めることにした。


西側の古宇利ビーチ

定規で引いたような古宇利大橋を渡ると、古宇利島に渡った橋のたもとには遊泳客でにぎわうビーチがあった。橋脚の左右に展開する小ざっぱりとした古宇利ビーチである。

古宇利大橋をはさみ両側のビーチにはパラソルの花が開き、ビーチ沿いの奥には白くきれいな護岸コンクリートがロードパークのように築かれていた。

ビーチより少し奥まったところにあった駐車場に車を入れ、ゆっくりビーチへと出る。遊泳客のほとんどが西側ビーチに集中していたので、東側のビーチへ出ることにした。

                      比較的ゆったりしていた東側の古宇利ビーチ

砂浜からすぐのところには斜傾の護岸堤が築かれている。

その白い堤が左右の沿岸を蔽うように遠くまでつづいていた。

橋脚近くにはたっぷりとあった砂浜だが、左右に広がるにしたがい奥行きが狭くなり、途中から砂浜が消え護岸堤だけが海に接している。

この堤で寝転がり手枕をすると、海を眺めるに ほどの良い傾斜度であった。


堤には地元の子供がふたりだけ。子犬のように じゃれあっている彼らは、どうやら兄弟のようである。

近くでしばらく遊んでいたが海ぎわの方へと興味が移ったようだ。

遠ざかるふたりの後ろ姿がなぜか懐かしい風景に思えて、急いでカメラを取り出しシャッターを押していた。

朝早くから起き出し比地大滝を歩きまわったせいか、寸刻で眠りに落ちたらしい。

あまりの暑さで目が覚めた。全身ぐっしょりと汗にまみれている。

慌てて日陰を探すため あたりを見回したが、らしきものはいっさい見当たらない。橋向こうの東海岸線の端に樹林が見えるが相当な距離だ。

どうやら逃げ場は車しか無いようだ。しかし陽を避けるような建物が無いからこその離島でもある。車にもどる前に海にひと目会ってゆこうと浜へ下りた。

            遠浅のビーチの向こうには屋我地島、沖縄本島が

底が透けてどこまでも見える遠浅の水ぎわだった。トルコ石のような青色の水面で太陽の光が泳いでいる。水平線の向こうには屋我地島、その奥には沖縄本島の陸影が浮かぶ。

車までもどりエアコンを最強にして、汗だくの身体に涼をとらせる。外周が8kmほどの島なので時計回りで一周すべくスタートさせた。

屋我地島の愛楽園の浜辺で見た古宇利島は底の深いお皿を伏せたような形状をしていた。車で回って観察すると海岸段丘となった隆起サンゴ礁の円形の島だった。

道の脇にはサトウキビや紅いもと思われる畑が広がっているが、ほぼ海岸線に沿ったのどかなドライブが楽しめる。途中で小高い丘を発見し、古宇利島最後の休憩をとることにした。

ちょうどいいタイミングなことに、陽が急速に傾きはじめ暑さも落ち着いてきた。その丘からは海をはさんで正面に本島の今帰仁村(なきじんそん)が見える。

足元の海上を滑るように船が入ってきた。そして羽地内海へとつづく海峡へと消えてゆく。ここを通る船は今帰仁村にある運天港とここより30km北に位置する離島「伊是名島」をつなぐ航路だけだ。伊是名島から帰ってきた定期便のフェリーなのだろう。

急に南の洋上に浮かぶ久高島のことが思い出された。沖縄を来訪してまだ間もない頃に立ち寄った安座真フェリー港で日帰り可能な久高島を知った。滞在中に必ず訪れようと決めた離島だった。

あれから2ヶ月以上も経ち、滞在残り日数も数えるほどになってしまっている。さっそく明日には神の島 「久高島」 を訪れることにしよう。

「古宇利島」のガイドページへ


少し飛ばし気味に車を走らせていた。沖縄本島南部の知念半島に敷かれた国道である。早朝の風が肌に心地よい。今日は沖縄を訪問して初めてフェリーによる離島渡りを予定している。

安座真(あざま)港から久高島行きのフェリーが9時に出発をする。起きぬけのコーヒーを一杯だけひっかけ飛び出してきたのだが、予想外に手間取ってしまった。

9時に間に合わなければ、高速艇ではないが10時にも一便があると聞いていた。

国道331号線の海岸線ドライブを楽しむため、アクセルをゆるめる。

風で泡立つ海面が朝日を照り返し、黄金色のモザイク模様をつくっていた。

安座真港からの久高島航路はふたつの船が一日6往復をしている。

高速船 「ニューくだか」と「フェリーくだか」だ。

久高島まで高速で15分、通常船で25分という手軽さで、乗船料も 「ニューくだか」 は往復で1410円、「フェリーくだか」 が1240円というお手頃料金である。久高島発の最終便が午後5時30分なので日帰りでもたっぷりと遊べる離島だ。

安座真港にある定期船待合所に着くと、ちょうど 「ニューくだか」 が出船するところであった。港湾を静かに滑り出す船を見送り待合所に入った。

次のフェリーは車が4台まで乗船できるとあって、車で行くという思いつきが頭をよぎった。さっそく売券売場のスタッフに相談すると、しきりに現地でのレンタルサイクルを勧められてしまった。

自転車で走り回る体力ありと判断してくれたのか、車で行かせると乱暴な運転をしかねないと思われたのか定かではなかったが、島の全長3km 周囲8kmというから小回りのきく自転車で回ることにした。

乗り込んだ 「フェリーくだか号」はまだ新しいのか、真っ白な船体からエンジン音も高らかに安座真港を出発した。後方に残されてゆく波しぶき、その向こうでは遠ざかる知念半島の山々を大きな雲の影がおおってゆく。

乗客が4家族からなる母子グループの一団と数人の客だけであったせいか、船内ではとてものどかな空気が流れており、期待どおり伸びやかな一日を予感させてくれていた。

デッキ前方で潮風を胸一杯吸い込みながらクルージング愉しんでいると早くも、前方に久高島と思しき島影が視界に入ってきた。

テトラポッドを積み上げた堤防を抜けると久高島の徳仁港

島に近づくと海岸線をぐるりとテトラポッドがうず高く積まれていた。さらに近づくとそのテトラは堤防を形成していた。もともと堤防を守るためのものだから、堤防そのものに使用して悪いわけがないのだろう。

岸とその堤防に挟まれた水路に入ると久高島の表玄関とも云われる 「徳仁港(とくじんこう)」 に着いた。 折しも港は大工事の真っ最中であった。(2011年現在は、新しい桟橋埠頭や丘上にはしゃれた待合所が完成している)

                      丘上では久高島の石標が徳仁港を見下ろしていた

下船してあたりを見回したが桟橋埠頭以外施設らしきものは何も見当たらず、桟橋から丘上へと一本道があるばかり。

丘を登り切ると久高島と掘られた石標が建てられている。

この位置まで来て、初めて久高島の土地が海岸部よりかなり高所にあることが理解できた。

やっと 《レンタサイクル》 のあるお店を発見し飛び込んだのだが....5、6台あった自転車はいずれも旧式で小ぶりなものばかり。

すでにここにいたっては選択肢が無いわけで、いさぎよく1台にまたがり出発を断行することとなった。MAPを片手に時計回りに島を一周することにしたのである。

しばらく道を走ったのだが道路の凹凸がそのまま身体を直撃してくる。車輪の空気圧をチェックしたが問題は無さそうである。このひどい乗り心地は、どうやら小型で旧式であることから発生しているようだ。

しかも大の男が乗るにはかなり小さい自転車だった。他所から見れば、まるでサーカスに登場する熊の自転車乗りである。気をとり直し自転車漕ぎを再開した。

「タチ浜」への小さな案内板は手づくり

自転車と格闘しながら走っていると可愛らしい案内板を発見。魚の形に切り抜かれ青く塗られている。

木板には「タチ浜」とあった。

その場所の東南側には道路に沿ってアダンの樹林が生い茂って視界をさえぎっている。

案内板の近くをよく観察すると、樹林の中にうっすらと道らしきものを確認できた。さっそく、自転車を置きそこに踏み入ってみた。

く ぐり抜けるようにその道を進むとついに海岸へと出た。

そこの海岸、つまり 「タチ浜」 と呼ばれる浜辺はまるで手つかずの天然海岸だった。今まで沖縄本島の浜辺ではお目にかかれなかったビーチラインが眼前に広がっている。

造礁サンゴによるライムストーンと目の粗い砂がせめぎ合うように混在し、形状変化をした石灰岩と大粒の白い砂が独特の天然画を創り出していた。

海岸を見渡しても人っ子ひとり見えない。何となく嬉しくなってきた。この瞬間、この海を独り占めしている!

独創的な造形を展開する久高島の 「タチ浜」


久高島 タチ浜

住所 南城市字久高

宿泊関連問合せ
 久高島宿泊交流館

 098-835-8919

交通
 那覇空港より 40分(国道329号線を与那原方面へ−与那原警察署前で国道331号線へ−安座真港入口の信号を左折
BUS 那覇BTから50分−バス停 「安座真サンサンビーチ入口」 徒歩5分
定期船 安座真港から15~25分−久高島船待合所 自転車10分


久高島の最初に訪れた海岸 「タチ浜」で潮の香りを愉しみながら島の先端へと海岸を北上した。浜を占拠していた石灰岩礁がしだいに消え、きれいな砂でおおわれたビーチに姿を変えた。

アダンの木陰で涼みながら眺める自然の海は格別で、聞こえてくる音も自然界が奏でるものばかりだ。まるで南太平洋の孤島にいるような感覚にハマってしまった。

まるで南海の孤島のように天然のままの海岸 「イシキ浜」

風に乗った笑い声が かすかに聞こえてきた。木陰から出て伸びあがって見まわすと、ずっと先の海辺で泳ぎ戯れる豆粒のような人影が見える。

この清閑なビーチにもついに訪問者がやって来たようだ。これを潮に島一周の旅を再開した。そのまま浜辺を北へ進むと、遠浅の沖合で海水浴を楽しんでいるのは親子連れのひと家族だった。この広いビーチをその一家に明け渡し自転車のところまで戻ることにした。

                              「イシキ浜」を知らせる手製の魚形案内板

その途中でまたひとつ 手作りの案内板を発見した。

こちらのビーチは「イシキ浜」と呼ばれていた。漢字で書くと伊敷浜と表記するらしい。

ここのビーチは7、800 mもつづく長大な浜辺で、場所によって浜辺名が異なっていた。

徳仁港に近いほうから「ピザ浜」、「イチャジキ浜」、「タチ浜」そして「イシキ浜」と呼ばれている。


ふたたび尾てい骨を直撃する自転車で島の北部を目指す。何事も慣れると こなれてくるものらしい。しばらく走るうちに、でこぼこ道でも衝撃を吸収できるようになってきた。

乗り慣れてきた自転車を機嫌よく走らせて行くと、道が真っ白な一本道となった。島の北端にある「カベール岬」へとつながる自然道だ。白い道の両側は緑が茂り、綺麗に定規で引いたように北東へ伸びている。

久高島に関しては昨夜少し予習したので、おおよその注意事項を頭に入れてきていた。島でも神聖な場所がこの北域に集中しているので、心ない訪問にならぬよう気をつけねばならない。

琉球興しの神であり始祖である”アマミキヨ”が、東のはるか洋上に浮かぶという理想郷「ニライカナイ」からやって来て、久高島に初めて降り立った場所がその「カベール岬」であったという伝説が伝わっている。

ハマユウなどの植物で緑があふれる「カベール岬」

白い道が終わり、急に視界が広がる。一面に色鮮やかな緑の植物群をたくわえた「カベール岬」だった。

小高い丘といった風貌の岬で、白い花をつけたハマユウやヒルガオなど低草群が砂地で生き生きとしている。

その緑の絨毯を越え、先端まで歩を進めると足元には素晴らしい浜辺が待っていた。


楚々とした磯はまるで隠れるように静まりかえっている。岬となっている小高い石灰岩礁が出入りの激しい複雑な海岸線のため、大小複数の入江が形成されていた。

そのどれもが個性的で隠し入江のごとく ひっそりとした佇まいを見せている。岬には案内説明板がひとつ立てられており、聖地とあった。

先ほど訪れた「イシキ浜」も島民からは二ライカナイに面する聖なる浜として大事にされており、今も祭祀用拝所が設けられている。どうやら観光客の遊泳は遠慮した方が無難な海辺であった。

「カベール岬」周辺の海岸線には離島らしい個性的な入江がいくつも広がる

岬の入江景観の美しさに魅せられて しばらくいたのだが、太陽直下の強烈な日差しを避ける場所もなく、やむなく西側の海岸線を求めて周遊をつづけることにした。

例の白い一本道を少し戻るとY字形の分かれ道が現れたので、ハンドルを右の西へと向けた。前方にフェンスにぐるりと囲まれた大型プールのような施設が出現。

                      島の北部中央にある貯水池

フェンス越しにのぞいて見ると正方形をした貯水池だった。

生活用水は島の北側に湧き出しているガー(井戸)がいくつかあるので、ここは農業用水と思われる。

島の生計主体は漁業なのだが、昔より自家用農業も重要な作事で水は不可欠だ。

この貯水池を過ぎたあたりでぶつかったY字路をさらに北西の海側へとペダルを踏み込んだ。

この舗装された綺麗な道路はロマンスロードと名付けられていた。

貸し自転車のお店を出てから出会ったのは、農作業のための移動と思われる軽自動車と海岸で遭遇したひと家族だけ。タイミングが良かったのだろうが、自分ひとりだけのサイクリングは極上の時間となった。

しかもこの道は舗装されている! ロマンスロードは海岸沿いに約500mほどつづき、そこから眺める海の色は並はずれた美しさだった。

 みはるかす海の向こうに浮かぶのは聖なる遥拝所の「斎場御嶽」のある本島知念岬


久高島 カベール岬

住所 南城市字久高

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 久高島宿泊交流館

 098-835-8919

交通
 那覇空港より 40分(国道329号線を与那原方面へ−与那原警察署前で国道331号線へ−安座真港入口の信号を左折
BUS 那覇BTから50分−バス停 「安座真サンサンビーチ入口」 徒歩5分
定期船 安座真港から15~25分−久高島船待合所 自転車20分


海岸沿いのロマンスロードは本島南部の知念半島を一望に収めるなど眺望の素晴らしい道だった。

全身で風を切りながら風景を楽しむサイクリングロードとして最適なコースといえる。

ロマンスロードに入って300mも走ったろうか、道の端に東屋が見えてきた。海を望む小さな休憩所だった。

島を訪問して初めて遭遇する観光者用施設だ。そこから海岸線を眺めると面白いものを発見。

東屋から少し北へ戻ったところに、海岸へと降りるハシゴが2連設置されているのが見える。

舗装された道路とこの東屋以外 人工的なものは何ひとつ見当たらない。立てかけたハシゴだけが乗降手段という、つまり自然をまるごと残した海岸なのである。

今朝からこの久高島を時計まわりに廻っているのだが、東からこの西側の海岸域まで、基本的に観光用施設は設けられていないのである。

船で渡る離島はこれが初体験なので、他の離島と比較のしようもないが、予想をはるかに超える自然度の高さには驚くばかりだ。おそらく沖縄の原風景を色濃く残しているのだろう。

戦前までまったくの自給自足の島であったと聞いている。島の周辺には珊瑚の岩礁がぐるりと取り巻き、外海から護られたイノーと呼ばれる礁池を形づくっている。

干潮ともなるとかなり広いイノーを沖の方まで歩けるようになる。女性たちは海の畑とも呼ばれるそのイノーで海からの恵みを得て生活の糧にしていたという。

ロマンスロード下のウディ浜は透明度抜群の海

ひとつ目のハシゴを降りた。ハシゴなので海に対して後ろ向きに降りるわけだが、振り返って見た海の美しさは写真や ましてや言葉などではとうてい表現できないほどだった。「ウディ浜」と名付けられている小さな浜。

砂浜に降り立つと穏やかに寄せる波が磯を洗っている。裸足になった足をなでてゆく海水がこのうえなく心地よかった。白い砂浜は猫のひたいほどしかなく、小高い岩礁が後ろに立ち塞がっている。

今は引き潮なので満潮時にはこの砂浜は海に沈んでしまうに違いない。浅い底の白い砂地から はね返った陽光が水の中で踊り、ため息がもれ出るほど透明な青色を見せてくれている。

                      満潮時には海の中に没するウディ浜

しばし大自然の海を全身に感じながら岩陰で過ごした。止まったように感じられた時間だったが現実にはとても速く過ぎていた。

ふたたびハシゴを登り東屋で水を補給。もちろんこのペットボトルは買い置きのもので、久高島サイクリングツアーには必需品である。

前述のとおり自然のままが信条の久高島。自販機などはお目にかかれないのだ。

レンタサイクルなどの店か集落近くのお店で準備することをお奨めする。

ロマンスロードの終わるあたりにまたひとつの海岸に出会えた。先の「ウディ浜」よりはるかに大きく湾状の浜辺が広がっている。「ウグヮン浜と」呼ばれるこの浜辺は、おそらく西海岸で一番大きな海岸になるのだろう。

自転車を置き、「ウグヮン浜」を見下ろす岩礁づたいに散策していると思いがけなく釣り人に遭遇をした。岩肌にどっしりと腰を据え、のんびりと釣り糸の先を見つめているのは島の住人のようであった。

湾曲した浜辺に深い青を湛えた「ウグヮン浜」

この磯での釣果を聞きたくて、餌のつけかえの機会を待ち声をかけた。

しかし何ひとつ返事を聞くことはできなかった。

最初は聞こえていないのではと思い何度も話しかけたのだが、残念ながら どうやら黙殺されていただけのようであった。

声かけには十二分の配慮をしたつもりなので失礼は無かったと思う。


人間であるかぎり虫のいどころの悪いときもある。きっとその釣り人さんにとって、気分を害する何かがあったに違いない...などと自分にいい聞かせながら、のどかな空気が一変してしまったその場所をあとにした。

自転車旅を再開したがすぐそばに「フボー御嶽(うたき)」と書かれた案内板が立てられていた。ここが久高島でもっとも神聖な場所であることはすでに予習していた。

ここが琉球開闢神”アマミキヨ”の七御嶽の第一の聖地にあたり、12年毎に挙行される大祭祀”イザイホー”の舞台となる聖域である。

立入禁止の看板が置かれた沖縄屈指の聖域をそっと眺めたあと、自転車のハンドルを南西の集落方面へと向けた。

琉球開闢伝説は神話として捉えるとしても、時の琉球王が毎年2月にはここを訪れ重要な神事を行なってきたと伝わる。

長きにわたり王府から尊重されてきたという歴史事実も合わせ持つ”神の島 久高島”。

神話から有史へと連綿とつながる年輪の重さは確かなものなのだろう。

昔より琉球では祖霊崇拝と同様に太陽神を遥拝してきた。東より昇るティダ(太陽)を 《生》 の象徴としてとらえ祈願する。逆に西に落ち入る太陽を 《死》 ととらえ、決して手を合わせることをしないという。

そのことから沖縄では東を ”アガリ”、西を ”イリ” と読む。ちなみに雑学までにご案内すると、北を ”ニシ” と呼び、南を”フェー” もしくは ”ハエ” と発音する。

沖縄本島の首里城から朝日を臨むと、ちょうど久高島のこのフボー御嶽から昇ると云われている。たしかに朝日はみなぎってゆく精気にあふれ、夕陽からは穏やかではあるがそこはかとない物悲しさが感じとれる。

ひっそりと静まりかえった集落のはずれ

なるほどそう考えると、太陽の一日の軌跡はまるで人間の一生を示しているようにもとれる。

毎日中天に輝きながら太陽は我々に知らせてくれているのかも知れない。生を思いきり謳歌するようにと。

毎日の生活や忙しい仕事に追われていては、そんな悠揚な思いに届くはずもないのだが。

自転車をこぐ前方に集落を知らせるように石垣が見えてきた。

人の気配がまるで感じられないほど静まりかえっていた。民家の中を通りぬけレンタサイクルの店まで戻ったのだが、何とただのひとりの住民とも出会わなかった。外塀に打ちかけられた漁猟網など かすかな生活の臭いは感じたが、とにもかくにも清閑とした静けさがあたりを支配していた。

徳仁港からエンジン音を響かせフェリーが動き出す。水面に逆波を残しながら走り始めたフェリーの船尾にぼんやりとたたずんでいた。遠ざかる島はどこか凛として侵しがたい表情を浮かべているように見える。この気高い神の離島は、近くにあって実はもっとも遠い島かもしれない。


久高島 ウディ浜

住所 南城市字久高

宿泊関連問合せ
 久高島宿泊交流館

 098-835-8919

交通
 那覇空港より 40分(国道329号線を与那原方面へ−与那原警察署前で国道331号線へ−安座真港入口の信号を左折
BUS 那覇BTから50分−バス停 「安座真サンサンビーチ入口」 徒歩5分
定期船 安座真港から15~25分−久高島船待合所 自転車25分


駐車場に停めていた車に戻ると、太陽に焙られつづけた車のドアは火傷をするほど熱くなっていた。午前中にパークし、久高島を一周して戻るまでに要した時間が6時間だった。あまりの熱さに窓を開けたまま車に涼をとらせるため、近くの食堂でひと休みすることにした。

安座真港前の食堂

幸い車を冷やすには、いい風が吹いていた。駐車場近くの安座真港前にあったお店に飛び込み ”ぜんざい” を注文。

本土の ”氷あずき” に相当するのだが、沖縄で ”ぜんざい” と云えば、金時豆を黒糖で煮て薄くかいた氷を乗せたものを指す。

小豆(あずき)ほど甘くなく氷の解け具合で何とも絶妙な氷菓となる。


本当に沖縄のぜんざいは美味い。この3ヶ月食べまくっている。そのかき氷を頬張りながら地図を眺め、日暮れまでのスケジュールを組み立ててみた。

以前バスで百名ビーチまで訪れたことがあったが、その先にあったのが橋づたいに行ける「奥武島(おうじま)」だった。その時はバス便が悪く 「奥武島」まで足を伸ばすことができず引き返した。

今日の残り時間は「奥武島」の訪問に決め、ルートはバス旅行では通らなかった二ライカナイ橋を通るドライブルートで目的地を目指すことにした。

エアコンですっかり涼しくなった車内に風を入れるため窓を全開にする。自転車よりも はるかに乗り心地の良いレンタカーで国道331号線を南下した。

太平洋に面した東海岸を一望に見下ろす二ライカナイ橋

海岸線を走っていた331号線の吉富交差点から県道86号線に入った。登り勾配のあるその県道は大きなヘアピンカーブを描いており、高度のある橋脚のような柱に支えられたドライブウェイが伸びている。

つまり今走っているのが「二ライカナイ橋」と呼ばれている沖縄南部の新名所なのだ。トンネルをくぐったあたりに駐車するスペースがあったのでパークさせた。トンネルの真上にあった展望スペースで改めて眺望の素晴らしさを知った。

二ライカナイという伝説の理想郷から名をとったこの道は太陽の昇る久高島やクマカ島などを見下ろす高台に優雅な曲線を描いている。上りでは眺望を楽しめず、下りにこそ最高のドライブウェイになるだろう。

さっそく車に乗り直し下ってみた。トンネルを出たときに目に飛び込んでくる大海原はなるほど絶景で、たった数分のドライブだがインパクトのある印象をしっかりと刻んでくれる。

                           ほんのひととき寄り道した沖縄刑務所

ニライカナイ橋を往復したあと先へと進んでいたら、左手に「沖縄刑務所」があった。つい寄り道をしたくなりワンストップをする。

建物の正面玄関には「沖縄刑務所」と「月代技能訓練所」と書かれた2枚の木製プレートが掲げられていた。

月代(つきしろ)とは地区名のことで、刑務作業として紅型の染め技法から、鯉のぼりの縫製まで多種多様の訓練をしているという。

建物からは物音ひとつ無くひっそりとして静寂に包まれていた。

正面ゲート近くにあったのは《見返りのシーサー》という獅子像。出所者の新しい旅立ちの道標になるようにとの願いをこめて職員一同が名づけて設置されたとあった。

以前、東京の府中市にある刑務所を訪れたことがあった。物々しいほどに高くそびえる外周壁が厳然とあたりを払っていた。

しかしここの空気は違っている。刑務所という名には ほど遠い幽寂の感が取り巻いていた。

同じ県道86号線沿いには航空自衛隊の駐屯基地もあったりする。南へ向かう137号線にレーンチェンジするとすぐに国道331号線に再会できた。

このまま南西方面へ進めば沖縄祈念公園へと至るが、その途中に目的の奥武島があるはずだ。


1週間ほど前に訪問した屋我地島〜古宇利島のとき、最初に通り過ぎた小島がやはり「奥武島」と云った。沖縄には喜屋武(きやん)もそうだが、この奥武島のように同じ名前の場所があるので注意する必要がある。

名護市にある方の屋我地島へとつづく「奥武島」には墓があるだけの無人島だったが、こちら南城市の「奥武島」には小さな漁村が形成されているようだ。

「奥武入口」の信号が現れ国道331号線から左へ針路を変える。すぐに「奥武橋」が出現したので一気に渡ったのだが、正面には小ぶりなビーチと軒を並べる店が目に飛び込んできた。

橋を渡りきるとT字路にぶつかり右か左を、運転しながらの瞬時判断を迫られるポイントになる。左は観光地然とした店が並び、右は地味ながら海岸沿いの外周道路だった。

奥武島の西側の海岸線は礁池(イノー)のような石灰岩礁が水上に顔を出していた

頭のどこかで簡素な漁港と思い込んでいたためか、人通りが多く雑然とした左の道筋を避け、ハンドルを右の西側に切っていた。

数分走ると海側へと降りる道があった。当然その道へと入ったのだがその先は凹凸の激しい岩場が広がっている。レンタカーで走れば間違いなくボロボロになってしまうので入口近くに駐車した。

                        あちこちにできた水溜まりは小さな水族館

徒歩でその岩礁域へと降りると、引き潮で現れたのか石灰岩礁があたり一面にとんでもなく大きく広がっていた。

あちこちにできた水溜まりには海の小動物が精一杯の活動をしている。

小魚や蟹を見ているうちに男どもは童心に戻るものらしい。

夢中に遊んでいた筆者が我に返って あわてて まわりを見回すと、子連れの父親たちが子供そっちのけで夢中になっている。

西に傾きはじめる太陽は心なしか速いような気がする。影の背がみるみる長くなってゆく。車のところまで戻ったが、車は置いたまま徒歩で散策するべく、西側から民家のある路地へと踏み入ってみた。

住宅地の道幅は広からず狭からずの、実にほどのよい幅だった。島の通りは車上で感じたほど観光地化はしていなかった。

住宅地のど真ん中にポツンと寺社があった。なだらかに本堂につづく段を登ると小綺麗なお堂が建っている。中央にに祀られていたのは彩色された観音像だった。このお堂、分かりやすく観音堂と呼ばれていた。

境内にあった説明を読むと、今から400年近く前に遭難した中国の唐船を救助し、その返礼に贈られた黄金色の観音が祀られているとのこと。ただしこの黄金観音は今は無く彩色観音に替っている。この観音堂で開催される祭は、先祖の善行を祝い敬う祭となっているという。沖縄らしい祖霊崇拝の祭なのだろう。

このあとは買い食いをしたり かき氷を食べたりと、暮れなずむ奥武島で、いつまでも ぐずぐずと遊んでしまった。

           観音堂に祀られている彩色観音像


奥武島 −おうじま−

住所 南城市玉城字奥武

交通
  那覇空港より45分(国場から国道507号線を南下−東風平南の信号を左折し県道131号線に入る−県道17号線へ乗り換えさらに南下−国道331号線左折−奥武入口の信号を右折スグ)
BUS 那覇BTから70分(百名線50番) バス停「奥武入口」 徒歩15分


《海牛》という生物をご存知だろうか。きっと《ウミウシ》と読み、磯の岩場でうごめく軟体生物を想像されたにちがいない。しかしここで云う海牛(カイギュウ)は大型の海洋生物を指し、人魚のモデルとも呼ばれる”ジュゴン”という海棲哺乳類のことである。

                       海洋博公園にいるジュゴンの兄弟分マナティー

ひと月ほど前に訪問した「海洋博公園」の一角にあった「マナティー館」にいたアメリカマナティーがこのジュゴンと同種の生物だ。

今や希少となった絶滅危惧種のジュゴンが棲むと云われる沖縄本島の「大浦湾」。

ジュゴン棲息海域としては、おそらく日本最後であろうと推定されている。

本島北部に位置する名護市の南東側、つまり太平洋に面した大きな湾である。

陸地に深く湾入した大浦湾の南側海岸域には米基地問題として話題をまいた辺野古(へのこ)の「キャンプシュワーブ」が占有し、湾岸北側は本島最大のリゾートと目される「カヌチャリゾート」で占められている。

建設予定になっている湾内米軍飛行場が及ぼすジュゴンへの悪影響を排除すべく、現在も地元民による抵抗活動が行われているようだ。

今回の目的地はこの大浦湾に接する一大リゾートエリアとして評判の高い「カヌチャ・リゾート」にした。ジュゴンの棲む今の海を目に焼き付けておこうというのが優先事項であったのだが、大浦湾を臨むには米基地のキャンプシュワーブは立入禁止なので、カヌチャ・リゾートから海を眺めることにしたのである。

名護市に入ってから国道329号線を東へと走るとすぐに大浦湾にぶつかった。大浦湾沿いのバイパスを北に走りながら何度か止まって湾を見学したが、長く駐車するところが無く、やはりカヌチャリゾートまで一気に行くことにした。

カヌチャベイ ホテル&ヴィラズのフロント棟

「カヌチャリゾート」の入口はすぐにが見つかった。ゲートをくぐるとだだっ広い駐車場が広がっている。

駐車後,ホテルメインフロントのあるフロント棟の建物に飛び込んだ。

そこで小休止を取りながら入手したリゾートエリアの全景マップをチェックすると、全域は80万坪にも及ぶ広大さであった。

大浦湾の海岸線はこのフロント棟の裏側に位置しており、窓からちらりほらりと海が見える。カヌチャリゾートの中心施設はかなりの高台、と云うより山合いに造成されたような高度の景観をもっているようだ。

リゾート施設も見学したいが、とりあえずは最優先事項の海を満喫したかった。ジュゴンの棲む海ながら簡単に出会える生物ではないので、そこは想像で補いながら海を眺めることにするしかない。

どうしても会いたい向きは、美ら海水族館そばにある「マナティー館」に行けば同種の生物”マナティー”が水槽の中で悠々と泳いでいるので足を運ばれたい。(トップの写真)

ジュゴンとマナティーの違いは尻尾の形だけなので風貌の大差は無い。しかしどこの誰がこのジュゴンやマナティーを人魚のモデルにしたのかと思うほど人魚のイメージからはほど遠い。よほど想像のたくましい御仁のようだ。

ジュゴンが出現しそうな青い海原の大浦湾、対岸の陸影は米軍基地キャンプシュワーブ

フロント棟の裏に出るとそこは小さなテラスで、前面には大浦湾のパノラマが展開していた。水上を疾駆する水上バイクが弧を描いている。

青く輝く海面の先には大浦湾南岸を占有する「キャンプシュワーブ」の米軍基地がかすかに見てとれる。久高島の透きとおるような青には及ばないまでも、やはり美しい海だった。

足元に広がる海岸線を見渡すと東側には白い砂浜とそばにはビーチサイドプールまで備えている。フロント棟の東には2連の低層ホテル棟 《アゼリア》《オーキッド》が斜面に張りつくように海を見下ろしており、全室オーシャンフロントの景観を約束しているかのようなゲスト棟だ。

ビーチへとつづくなだらかな坂道をゆっくり下って行くとプール沿いにパターゴルフのコースが見えてきた。このリゾートには本格的なゴルフコースもあり入口近くにクラブハウスがあったが、広域の敷地を最大に活用している。

カヌチャリゾート専用のビーチやビーチサイドプール

地球上の7割を占めている海、その深さと広さは測りしれないほどの体積になる。日本とインドネシアの間に横たわる10000mを超えるマリアナ海溝が最も地球で深いとされており、有人探査の潜航が一度成功したものの、いまだ謎のままである。世界一高いエベレストを逆さエベレストにしてもなお深いのである。

しかし地球のコアまではそのマリアナ海溝の630倍に相当する深さなのだ。マリアナより深い裂け目や深淵がいつ発見されないとも限らないほど未知領域を秘める海である。

同じ未知領域でも宇宙に比べ、海に抱く愛着やこだわりはつねに人類とともにあったように思う。そんな海にまつわる話はアンデルセンによる童話「人魚姫」を筆頭に日本の「浦島太郎民話」やギリシャの「セイレーン神話」など世界中に溢れており、有史以来人類が海にロマンを育んできた証左とも云える。

木陰で波の音を聞きながら、なぜか《引き寄せられてしまう海》にそんな理屈を当てはめていた。

山肌の斜面に建つ宿泊棟の「オーキッド」

1時間ほどだったが大浦湾の風景と潮風を心ゆくまで愉しむことができビーチを後にした。

坂道をふたたび昇って行くと、丘陵の斜面はホテルの宿泊棟でおおわれている。建物は低層だが白と青の彩色が輝いており、全室のバルコニーが行儀よく海を向いていた。

カヌチャリゾートのマップを取り出しじっくり眺めると、ここの施設は大きくホテルとゴルフ場の2つから構成されている。

宿泊用施設建物は、眺望のよい高層タワータイプから贅沢なヴィラタイプまで9つの宿泊棟が、広大な地域内の山や海を借景とした各所に点在していた。

ゴルフコースは宿泊棟の外側から包みこむように自然地形を生かして設計されているようだ。


その他の施設はありとあらゆるものに対応していた。ウェディング用チャペル、エステや健康のクラブ、リラクゼーション用スパ施設、マリンアクティビティーの多種プログラム、雨の日のことを考慮したのかビリヤードから卓球、伝統工芸工房まで用意されていた。そして10以上もの飲食施設がやはり広域に配置されている。

ホテルフロント棟に戻ると親切なスタッフのひとりからリゾート内のウォーキングコースを教えてもらった。ホテル推奨の3つのコースのうち、ブルーコースと呼ばれている海沿いのコースは意識せずに歩いてきた先ほどのルートだった。合わせてリゾート内での無料のトロリーバスが周回している情報も得た。

その結果、所要時間25分というリゾート内を一周する一番長いグリーンコースを歩いてみた。亜熱帯の花や植物にあふれた北部ならではの緑のコースであった。ゆっくり歩いたり付設の建物をのぞいたりの寄り道で40分近くかかってしまった。

途中にあった建物「アマハジショップ」内にあったカラオケや麻雀だけはいただけない。こんなリゾートまできてカラオケや麻雀などやる人がいるのだろうか。何でもあるより、何もない方がよほど贅沢な時間を過ごせそうな心持ちになってくる。

ゲストが敷地内から出ることなくすべての要望に対応してくれるリゾートホテルは他にもあるが、ここの最大の魅力はその領域の広さであろう。北部らしい広角の空と自然を舞台にしたさまざまな景観は確実に日常を忘れさせてくれる。

          ウォーキングコースの途中で撮ったスナップ


「カヌチャベイ ホテル&ヴィラズ」のガイドページへ


ジュゴンが棲むという大浦湾に面した「カヌチャベイ・リゾート」に別れを告げ、一路 那覇へと車を飛ばしていた。車道から照り返す陽が目を強く射てくるのでサングラスをつけた。

ロスで愛用していた POLICE のサングラスだ。 LAのフリーウェイは山脈をはさんで漢字の井の字に走っているので、走行中 真正面に真っ赤な太陽ということなどは当たり前。サングラスは必需品なのである。

東京でのスタイル優先のサングラスとは訳がちがう。逆光ひとつで命とりの事故が発生しかねない街だ。

ロスに3年も住めばサングラスのかけ時が身についてしまうものらしい。

今までいた「カヌチャベイ ホテル&ヴィラズ」のホテルつながりでホテルめぐりを思いついた。

陽が完全に落ちきるまでには優に3〜4時間はありそうだ。

さっそくMAPを広げて那覇までの帰りルート上にあるホテルをチェック。

結局訪問してみたいホテルの候補はふたつだけであった。恩納村と名護市の境界ぎわに建つ「オキナワ マリオット リゾート&スパ」 と 読谷村にある「ホテル日航アリビラ」 の2ヵ所。いずれもバス便だけの旅行では訪問がかなわなかったホテルである。

しかし宿泊ゲストでもない筆者のような物見高い訪問者、ホテル側にとっては実に迷惑な話である。とは云うものの、近い将来 短期滞在で泊らないとも限らないのだから、寛容な気持ちで受け入れてもらいたい。

亜熱帯植物に囲まれたマリオットの正面

幹線道路の国道58号線まで戻り東シナ海沿いを走っていると、まもなく「ブセナリゾート」のそばを通り過ぎた。

このリゾート内にある 「ザ・ブセナテラス ビーチリゾート」 はとても気に入っているホテルだ。そこからほどないところにあるのが 「オキナワ マリオット リゾート&スパ」。

「ブセナ〜」が海ぎわに位置しているのに対し、「マリオット〜」は58号線の内側つまり山側にあった。国道沿いの「かりゆしビーチ」から山肌を縫うように上る道を行くと高層の「オキナワマリオット」が現れる。

正面に近づくと15階造りの宿泊タワーに囲まれた低層の建物が迎えてくれる。メインフロントのあるその建物の外周には亜熱帯植物がこぼれるほどに溢れている。

高台からは東シナ海を一望できるが、いかにも海岸ビーチから遠い位置であることは否めない。

ホテルに入る前にとりあえず周辺を散策してみた。まず一番に目立っていたのがガーデンプールで、170m にも及ぶその長大さは県内一だという。海がやや遠いこともあって敷地内の水場として強くポイントを置いたのだろう。

ウォータースライダーなど水遊び三昧ができるこちらのプールはビジター OK になっていた。プールのそばには宿泊ゲストが利用できる「かりゆしビーチ」まで周回するホテルバスの発着所もあった。

その「かりゆしビーチ」は以前に恩納村の海岸線をバス旅行した折り、立ち寄ったこともある小ぶりの海岸ビーチである。「かりゆしビーチ」の旅ブログ(BLOG 39)

           のんびり水遊びができそうなガーデンプール

ロビーホールに入ると、空間をたっぷりとった大理石のフロアにはガラスに覆われた天蓋から陽が射しこみ心地よい照度になっていた。

ロビーフロアにあるラウンジで水分補給のひと休み。落ち着いたインテリアはマリオットホテルらしい水準のもので内装はまだまだ新しい。

現地に直に接触すると、宿泊してもいないが部屋のタイプも 享受できる空気感やサービスも おおよその見当はつくものだ。

メインフロントのあるロビーフロア

世界中にホテルを経営するマリオットを冠するだけあって、この沖縄でも平均点は高い。

しかし惜しむらくは立地の半端さだろう。

海から遠く、高台にあっても午前中訪問した「カヌチャベイ ホテル&ヴィラズ」ほど緑の自然に囲まれることもない。

そのかわり、魅力的な施設があった。《スパ》だ!


ドライサウナバス、ジェットバス、アロマバス、クールバスなど5種類のスパが揃う。このスパ施設もガーデンプール同様、ビジターの入場が可能だった。

1階にあるそのスパに、もののはずみで入場してしまった。いずれのスパも屋内というよりは戸外につながる意匠がされていた。ちなみに水着の着用が規則になっており、スパ用水着はホテルに常備されている。

さすがに夏の真っ昼間 スパ遊びは酔狂に過ぎると思ったが、とても広く大きな空の下で遊ぶスパは非日常感があって最高だった。このあとの計画をすべて取りやめ、一泊しようかと迷ったほどであった。



オキナワ マリオット
     リゾート&スパ

住所 名護市喜瀬 1490-1

電話 0980-51-1000

交通
 車
 那覇空港より 90分(国道58号線を北上−かりゆしビーチ右折)
 沖縄自動車道(高速)を利用の場合80分(許田ICから国道58号線を南下10分−かりゆしビーチ左折)   空港リムジンバスを利用の場合125分

 BUS 那覇BT105分(名護西線20番)−バス停 「伊武部」 下車7分


次の目的地であるホテル日航アリビラを目指して走っているが完全に迷ってしまった。読谷村(よみたんそん)に入ってからショートカットをしたくて幹線道路からはずれ細い道に進入したためだろう。

周辺は見渡すかぎりサトウキビ畑ばかりがつづいている。散々にてこずったあと、やっとホテル案内のサインを見つけて たどりつくことができた。半端な目測ほどあてにならないものはない。

              「ホテル日航アリビラ」の正面入口

ホテル正面では掲げられた旗が風に応えるように はためいている。

日本国旗に並んで たなびいていたのはニッコーホテルズの旗だった。

旗が掲揚されていてもそんな大仰な感じはなく、ほどのよい規模の白亜の建物が迎えてくれた。


車を駐車させ建物に入ったがロビーフロアに向かって伸びているホールウェイの佇まいが実によかった。丈の高いガラス窓から射しこむ光がホールウェイの照明だ。

ホールウェイにはホテルゲスト用のショップが並んでいる。


海岸側に出られるルートを探して歩いていたらショップの店頭に飾られたストローハットが目にとまった。

ガラス窓の外ではまだまだ衰えていない太陽が居座っているようだ。迷い無くその麦わら製の帽子を衝動買いしていた。

ようやく水がしたたっている小ぶりな噴水のある内庭に出ることができた。買ったばかりのストローハットをかぶり、ホテルゲスト用のビーチを目指し あたりをチェック。

綺麗に刈り込まれた芝で整備された敷地内の道を行くと、ところどころにハンモックがぶら下がっていた。

昼下がりの木陰でハンモックの午睡をとったら、さぞかし気持ちいいことだろう。


しかしどのハンモックにも それらしき人は見当たらずガラガラ状態で不人気のようだ。昼寝するには少々暑すぎるのだろう。夕涼みには最適の場所になるかもしれない。

内庭を横切ると道の向こうに海岸が見えてきた。

砂浜に出たので裸足になり、波打ちぎわまで行ってみた。

やや傾きかけた陽の光が海面に踊っている。透明度が高く水質も良さそうである。

きれいな遠浅の浜だが、磯に顔を出した岩礁など自然を多く残したビーチのように思われた。


ホテルの足元に広がるこの浜辺には「二ライビーチ」という名が付けられていた。浜辺にはホテルゲスト用のサンデッキチェアとパラソルが行儀よく並んでいる。

ホテル前に広がる自然の浜辺 「二ライビーチ」

偶然、ビーチで遊ぶ神戸からのご家族と話す機会を得た。ホテル日航アリビラに宿泊して3日目になるという。日に2度ある潮の干満で海の表情を大きく変えるこの二ライビーチを絶賛していた。

干潮時には少し沖の方にあるサンゴ礁まで行けて 磯の小生物にも出会えると、興奮気味に話す子供たちの顔も輝いていた。やはり自然の浜を生かしたビーチらしい。

南北150mにわたって横たわる「二ライビーチ」の南側にはビーチハウスがある。その前には砂浜に引き揚げられたモーターボートやジェットスキーが骨休みをしていた。

「二ライビーチ」の南側にあるビーチハウスではゲストのあらゆる希望に応えてくれる

ビーチハウスではあらゆるマリンアクティビティに対応しており、近くにある青の洞窟へのツアーもカバーしていた。

そこの女性スタッフから水質AAの海岸で県下でも10本の指に数えられる水質のビーチだとも聞いた。あらためてスニーカーを片手にぶらさげ、ふたたび波打ちぎわへと....ぬるい波が足を洗ってくれる。

たしかにかなり先の水中も見通せるほど澄んだ海であった。真西に面したこのビーチの夕焼けは素晴らしい景観になることだろう。

アリビラ・グローリー教会のアプローチ

ラウンジで休憩をとホテルへの戻り道、小奇麗な教会に出くわした。

尖塔のようにとがった教会だ。アプローチの階段には可愛らしい天使の石像が並んで出迎えてくれた。

リゾートホテルお約束のウエディング用教会と思われた。しかし わざとらしさもなく自然な風が好印象の教会だった。

教会のあとホテルの敷地内に入るとすぐに現われたホテル棟ウエストウイングだったが、左手にチラッと見えたプールを見学するためわざわざ回り道をしてしまった。

このガーデンプールにはそれなりの数のゲストがあちこちに点在していたが、騒がしさは微塵もなくゆったりとした空気感が漂っている。

特別変わったレイアウトのプールではないが、一部 児童用のためか段差のない斜度をつけた縁取りの水槽プールもあった。

          木橋の架かるガーデンプール

見るからに居心地がよさそうで、亀でも猫でも楽に泳げそうなプールなのである。

泳ぐというより水浴びをしたくなるような優しげな風景だった。

ホテル内のラウンジにつく頃にはすっかり身体が干上がっていたのか、冷たいジュース2杯を一気に飲みほしてしまった。

ラウンジでくつろぐうちに気だるい疲労感が身体の隅々まで溶けてゆく。

今日は朝から辺野古(へのこ)の大浦湾に始まり、途中からホテルめぐりとなり長い一日になった。

途中《スパ》まで利用したのが効いてきたのか、だるさが倍加してきた。

椅子も座り心地が良く、しばらくは動けそうになかった。


「デルスウ・ウザーラ」の本に夢中になってしまった。黒澤明が映画化した原作本だ。アルセーニエフの筆の力は時間を忘れさせてくれる。

窓の外に目をやると、陽が急速に衰えてきていた。「二ライビーチ」がどんな夕景を見せてくれるのだろう。東シナ海のサンセットを鑑賞しながら帰路につくことにした。

赤く染まり始めた噴水の内庭へと出た。



ホテル日航アリビラ

住所 中頭郡読谷村字儀間600

電話 098-982-9111

交通
 車 那覇空港より 60分(国道58号線を北上−伊良皆(いらみな)の信号左折−県道6号線 大当(うふどー)の信号を過ぎ左折−右手に案内板)

空港リムジンバスを利用の場合80分

樹木に囲まれジオラマのような景観の浦添市美術館

長期滞在中の筆者を訪ねるという友人からの電話を待っていた。3ヶ月になんなんとする沖縄滞在もあと1週間ほどとなってしまった。友人は筆者の最後の1週間に訪れようというわけである。香港から東京へ戻り、寸暇なく乗り継ぎ那覇へ来るというから、相当バタバタしているのだろうか。

空港までピックアップに行くつもりであったので、、遠出もならず近場に出かけることにした。心の片隅にしまっておいた訪問したいある場所を思い出した。那覇の隣街になる浦添にある美術館である。

美術館尖塔内部のらせん階段

お目当てはその美術館が収蔵している葛飾北斎の描いた「琉球八景」である。以前より 『北斎漫画(スケッチ画集)』 にぞっこん惚れこんでいた勢いでひと目 観たいと思っていた。

ただしこの「琉球八景」は北斎の妄想の産物である。彼はただの一度も沖縄に来島せず、生来の好奇心に背中を押されて「琉球八景」を描いたと云われている。

美術館に着くと、その建物の外観の美しさにしばし時間を忘れ外周を回ってしまった。まるでアラビアンナイトの挿絵にしてもいいような風景であった。

北斎のためにこの美術館を訪問したのだが、ついこの新しい建築物の方に強く惹きつけられていた。

尖塔に入ると、上へ上へとつづく らせん階段を無意識に登っていた。何ひとつ目をひくものの無い簡素な階段がかえって小気味がよい。

塔の最上階にうがたれた小窓から外を覗きこむと、雲が垂れこむ空に塔がアニメのような情景をつくっていた。


静まりかえった塔内で電話の受信を知らせる振動音が、異常なほど大きく響いた。

待っていた友人からだった。驚いたことにすでに那覇に着き ホテルに入ったばかりだという。

宿は那覇に着いてから決めたらしい。筆者の滞在する「おもろまち」からひと駅の「安里(あさと)」にあるホテルとのことだった。

かなりの強行軍だったらしく今日はホテル周辺で静かにしていると殊勝な雰囲気だ。

翌朝そのホテルへ車でピックアップに行くことを約して電話を切った。旅慣れた友人の鮮やかな訪問ぶりだった。

おかげで半日の自由時間ができたので、世界遺産にこそなっていないが、目下復元中と聞いている本島南部の知念城跡を訪ねることにした。

「琉球八景」の鑑賞を早く済ませようと美術館入口へと急いだ。

正面ゲートの入口に着くと、想像だにしていなかった 《四大浮世絵師展》 のポスターが貼りだされていた。

この企画展覧会は2ヶ月前、すでに東京の大丸ミュージアムで鑑賞していた。中右(国際浮世絵学会常任理事 中右氏)コレクションが全国を巡業しており沖縄まで来ていたのである。

美術館正面入口には 《四代浮世絵師展》 の ポスターが

東洲斎写楽、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重の4人展だ。

たった10ヶ月だけ活動し145点の作品を残し忽然と姿を消した写楽。

正体不明の写楽がミステリアスなことは周知の通りだが、作品の多面性やその生きざまでもっともミステリアスなのは北斎が群を抜いている。

東京での中右コレクション展示は、ビギナーに優しいだけでなく内容も充実していた。

係員に「琉球八景」のことをたずねるとこの期間には展示される予定はないとのこと。

躊躇なく南部の南城市にある知念城跡に照準を切り替える。国道330号線に出ると一路南をめざしてアクセルを踏み込んだ。

首里近くの鳥堀交差点を過ぎる頃には頭上ちかくまで垂れこんでいた雨雲がすっかり雲散霧消していた。陽光をとり戻した空の下、さらに30分のドライブ。ようやく着いた知念城跡はまさに工事中といった風情をぷんぷん匂わせていたが、多くの来訪者で賑わっている。

城跡に着くまでは山中での工事現場を歩くか、心細くなるよう山道を歩くかのようであった。石組が見えはじめて城跡にたどり着いたと実感できるような復元途中の城跡であった。

そこは聖地の久高島や斎場御嶽(せいふぁーうたき)も みはるかすことのできそうな高所であった。すでに復元工事が始まって時が経っているはずだがいっこうに進捗がない感であった。

               鋭意 復元中の知念城跡

眺望を愉しんでいると後ろから声がかかった。振り返ると満面に笑みを浮かべた老爺が立っている。還暦をとうに超えたと思しき、小柄だが真っ黒に日焼けした偉丈夫だった。話しかけてくれているが言葉の方言の強さでほとんど理解できなかった。

しかし、こちらの返答の有無など気にもかけずに語りかけてくれた。それがとても嬉しかった。

彼の後ろで寄り添っていた老婦人が、標準語を探すように とつとつと通訳をしてくれた。無口な様子の彼女が見るにみかねてその労をとってくれたのだ。

知念城跡での酒宴の場所から臨む海原

お二人はご夫婦で幼い頃より大好きであったこの城跡を訪ね、酒盃をかさねることが唯一の楽しみだと教えてもらった。

見ると足元に焼酎の一升瓶が一本立っている。彼らは大切な酒宴になぜか筆者を選んでくれた。

勧められたお酒は「車で移動しているから」と断ったのだが、なぜか去りがたく、彼らとしばらく時間を一緒に過ごすことにした。

突然 話は変わるが、以前米国ロスに駐在中、何度も本気でアメリカ人と口論をしたことがある。

ネイティブスピーカー(母国語を話す人)でもない日本人の我々にとって、喧嘩の時ほど外国語が通用しないことを痛感させられたことはない。


英語での表現を考えているうちに怒りの感情が急速に引いてしまうからだ。感情の表現は理屈ではないのである。

怒りの表現が相手に伝わらなくなってしまうから日本語でもかまわないから怒りにまかせて吠え声をあげることが肝要なのだと直感した。語調や表情から十二分にその感情の迫力がアメリカ人に伝わってゆく。その反動のおかげで、アメリカに友人ができたりもするのである。

間違いなく言語を超える瞬間というものが世の中にはある。人間が持つささやかで数少ない能力のひとつなのだと思う。

知念城跡の酒席で彼らと過ごすうちにそんなことを想い出していた。言葉を必要としない芳醇な時が小一時間近く流れていた。

まぶしいほど直線的な彼らのまなざしに別れを告げ、熱くなった気持ちを糸満港の「丸三冷物店」の大盛りかき氷で少し冷やして帰ることにした。



浦添市美術館

住所 浦添市仲間1-9-2
電話 098-879-3219
観覧料
一般 150円 大学 100円 以下無料
開館時間

9:30~17:00 (金曜 ~19:00)

交通
 車 那覇空港より 30分(国道330線を北上)

 BUS 那覇BT 35分(城間線91番・牧港線55番他)バス停 「美術館前」下車徒歩5分



知念城跡

住所 南城市知念字知念上田原
電話 098-947-1100(南城市観光・文化振興課)

見学自由

交通
 車 那覇空港より 55分(国場から南風原へ国道331線を南下

 BUS 那覇BT 65分(志喜屋線38番)バス停 「久美山」下車徒歩20分


那覇空港から見える離島がこんなに多いとは想像もしていなかった。空港ターミナルの3 階にはそんな眺望を楽しむことができる場所がある。

滑走路の先には東シナ海に浮かぶ島々が幾層にも重なって濃淡をつくっている。空港から南西に30 kから40 kもある洋上に見せる慶良間諸島までが視認できた。

2 階のキッズエリアから遊び騒ぐ子供たちのはじけた声が吹き抜けでつながる3 階にまで届いてくる。彼らのはしゃぐ声は、島々に見とれる筆者を容赦なく現実に引き戻す強さがあった。

滑走路に隣接する東シナ海に、ハテ島、黒島そしてその向こうには慶良間諸島の姿が

ついに沖縄に別れを告げる日がやってきた。3ヶ月近くの 長いようで とても短い時間が過ぎ去っていた。軽い寂寥感が胸をすり抜けてゆく。

沖縄に滞在中の筆者を尋ねてくれた友人と合流して一週間。この最後の一週間は怒涛のように速く過ぎてしまった。友人の第一希望だった世界遺産を中心に組み立てたスケジュールだったが、世界遺産ルートに近いスポットや経路途中にある要所を目一杯に豪遊した。

この一週間、まるで何年も住んでいたかのように得意気に案内する筆者を、友人は寛大にも文句ひとつ言わず聞き流し つき合ってくれた。その彼は今バスで糸満に向かった。東京への便が筆者より数時間あとなので、糸満港をぶらつくことにしたのだ。

帰りの便を同行するため、無理やり変更したりしない野郎同志のつきあいというのは実によい。どこかに透き間があり、楽に息づくことができる。

眺望が楽しめる3階のフロアには紫色の花が咲き乱れていた。もちろんディスプレーのため備え付けられたプラントなのだが、花は本物だ。なぜかこの花に確かな見覚えと懐かしさを感じたので調べてみた。

盛夏に咲き始め、いち速く秋の到来を知らせるコートダジュールという花だった。ブラジルが原産にもかかわらずフランス南部の沿岸地の名が冠せられている。地中海に面する紺碧海岸をイメージして付けられたのだろうか。沖縄では普通に野山に自生すると聞いた。

コートダジュールと呼ばれる紫色の花がターミナル内に咲き乱れていた

15年以上も前に出逢った花に酷似していた。場所は海外出張時の南仏でのことだった。

1週間もつづくコンベションの合間に10人以上の団体でカンヌを脱出し、モナコに向かう途中で夕食会のため訪れたレストランでこの花を見た。電気も敷設されていない地元で有名な古牧場をそのまま利用したレストランだった。

照明はすべてキャンドルである。おびただしい数のろうそくに浮かび上がる異観の風景は呼吸を忘れるほどに美しかった。晩餐会での騒がしい会話に少々疲れて 煙草を吸うため屋外に出ると、牧場の建物のまわりに咲いていた花が囲い塀の柵上に灯されたろうそくで浮かび上がっていた。

月明かりのもと、濃い紫色の花を眺めながら一服する筆者のそばで音がした。近くで休憩をとっていた使用人と思しき女性があわてて建物へ戻ろうとしたのだ。休憩の邪魔をしたようで思わず彼女の背中に声をかけてしまった。英語で....「煙草を吸ったらすぐにテーブルへ戻るんだけど!」

「好きなだけ 吸っても構わないですよ...」と国粋主義人の多いフランスで奇跡的に英語の返事が返ってきた。下手な英語で話しかける筆者に安心したのか、彼女はもとの場所に戻り腰かけた。

人生のはるかに先輩格になる年配のそのフランス女性としばらく会話を交わすことになった。その時に牧場のまわりに咲くこの花の言い伝えを聞いた。

空港内の大型水槽で泳ぐ魚たち

ふだんは濃いあざやかな紫の花だが、嘘つきがみると 紫の色がこぼれ落ちピンク色に見えるという。

しかも面白いことに他人に対してつく嘘ではなく、自己に嘘をつく人だけがピンク色に見えてしまう稀少な花だと説明してくれた。

《自己につく嘘》 つまり自分をごまかすための嘘とか現実からの逃避をすること。そんな人が見るとピンク色に見えるらしい。

人の心がもっとも弱っているときにその危険を知らせてくれる不思議な花だと信じられていた。

このややこしい伝承を理解するのに お互いありったけの英単語と時間を要したことを覚えている。今ではフランス語で聞いた花の名は忘れてしまったが、姿や色は鮮明に覚えている。

15年前のその夜、幸いにも筆者の目にはあざやかな紫色に輝いていた。そして今ここ那覇空港でも そのように見える。

沖縄に滞在したこの3か月、何とか自己に正直であったように思う。

ずいぶん横道へそれてしまった。さて沖縄旅行のことである。出発時間まで空港内をそぞろ歩いていたが、いよいよゲートへ向かう時間がきた。見送ってくれたのは水槽で悠々と泳ぐ派手な衣装をまとった魚たち。

友人と巡ったこの最後の一週間だがひとつ思うことがあった。回った地はいずれも筆者にとって再訪地だったのだが、それぞれのスポットで改めて新しい面白さを再発見できたことだ。

これまで時間の許す限りじっくりと見学したはずなのだが、ぽろりポロリと興趣のポイントを見落としていたようだ。そのため訪問地では友人そっちのけで自分勝手な行動をさせてもらった。友人もまた思うがままのコースを歩き、何となく出口あたりで落ち合い次に向かうといった具合だった。

筆者も友人も ともにB型である。世間で喧伝されている血液型判断も 的を射ていることがあるようだ。B型人間は夢中になると身勝手な行動が過ぎると、他の血液型から後ろ指を差されているらしい。

勝連城の二の郭殿舎跡をうろつく筆者

そんな旅行経緯の中で友人の撮ったという写真を旅行後に入手した。写真やカメラでは大先輩になる彼がいつ撮影していたのか思いがけない一葉であった。

A4サイズに紙焼きされたモノクローム写真、古城跡を自分勝手にうろつく筆者のロングショットである。今まで104回つづいたブログで筆者の写真は一枚もアップする機会がなかったので、最後の回に登場させることにした。(ただしこのアップした写真は筆者の粗放なスキャニングによるもの)

乗り込んだ飛行機は定刻通り那覇空港を飛び立ち東京へと向かった。窓外は小憎らしいほど上天気である。正直に告白すると心の中にはまだまだ沖縄に居たいという未練だけが残滓のように残っていた。

沖縄戦争のことも もっと調べてみたいし、名もなき戦場も訪ねてみたい。周辺の離島を ゆるりと滞在して呆けてみたい。沖縄のダムをすべて制覇したい....次々に宿題が浮かびあがってきた。

近い将来、沖縄を再び訪れる強い予感がしてきた。旅が再開されるまでこのブログ、しばらく小休止としたい。

最後にひとつご報告。実は筆者も友人の勝手な素行を写真におさめていたようで、旅行後の写真整理の際に発見した。身勝手ついでに、いまだ友人も見ていないこの写真、許可なしだが公開することにした。

....では近いうちにまた、お話をしましょう....

沖縄本島最南端に位置する具志川城壁にとりつきシャッターを切る友人



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