2009年7月アーカイブ

とにかく暑い。 まだ6月中旬だというのに強い陽射しに焼かれた道路から暑さが這い上がってくる。那覇バスターミナルのある旭橋から国道390号線を西へ西へと歩いている。この道路を左に行けばすぐに那覇港に出るはずだが、今は前回行けなかった”波の上ビーチ”の海をめざそう。

同じウエストサイドでも、若狭とは町の様子が一変する。ここの町名はシンプルに 「西」 とだけ付けられた町で、閑散としている。昼間から開いている BAR、見るからに木賃宿のような宿泊所など、地色のままの表情には味がある。

道をまっすぐ歩いていると ”ロワジールホテル” にぶつかってしまった。歩いて来た道以外には北へ向かっている道が一本だけある。 波の上ビーチの方向をベルキャプテンスタッフに尋ねると、もう少し北にあるとのことだったので休まずその道を北上することにした。

流れ落ちる汗をふきながら、北上する露地をだらだらと歩く。歩くうちに波の上ビーチに着く手前を左折し、先に海岸線に出てから再び北上するよう進路変更をした。しばらく行くと右側に、コンクリート造りの校舎のような沖縄少年鑑別所の建物が出現。名前の持つイメージには遠く、門内にはゴミひとつ無く静かで落ち着いた佇まいを見せていた。屋上に高く掲げられたTVアンテナが抜けるような青い空を背景に浮かび上がっていたのがとても印象的だった。

やや込み入った路地を抜けると、またもや大きなホテルの前に出てしまった。今度のホテルの名は”那覇ビーチサイドホテル”という。まだ海が見えない。しかしビーチサイドというからには海が近いはずだ。そう見当をつけホテルを回り込んでみたら、思わく通りにありました! 海が。

しかし海辺の際(きわ)は砂ではなく打ち放しのようなコンクリートで、しかもその上にドミノゲームで使用する牌のような形をした大きなコンクリート・パイルが行儀よく並んでいる。波之上宮から見た波の上ビーチも工事中だったが、この一帯まで工事領域になっているようだ。いずれにせよ波の上ビーチまで行ってみよう。

波の上ビーチに着いたが、工事の大型機械に占拠されていて潜り込むスキがない。そこで高見の見物を決めこみ、波の上橋を渡ることにした。 橋へ行くにはホテル前面を回り込まなくてはならない。その前に工事関係者を捕まえて何の工事か尋ねてみよう。

若狭から那覇空港へ直行できる”西道路”の新設工事で、まだ2年もかかるという。その期間ふたつの入口を持つビーチエリアの辻側(南西区域)は閉鎖されるが、若狭側(北東区域)のビーチは通常通り利用可能とのことだった。

波の上橋は高度も橋幅もたっぷりある大きな橋だった。目の前には海岸線に沿ってクレーンや組まれた鋼材などが広がっている。最初は埋め立てなのか建設なのか分からなかったが、道路建設と分かると面白味のない工事現場にも興味が出てくるものである。完成までのプロセスが想像できるからだろう。橋の欄干にもたれ眺めているうちに思わぬ時間が経過していた。

閉鎖されていない若狭側のビーチものぞいたが、こじんまりとしすぎて解放感がなく、ガイドにあるような 「那覇唯一の綺麗な都市型ビーチ」 のようには見えない。以前の美しい浜辺に復旧するのは2年後になるのだろう。次の目的地を同じウエストサイドにある”福州園”にしたが、その前に暑さに少々バテ気味なので水分補給がてらの小休止をとることにした。

若狭と久米の町を東西に分ける若狭大通りに出たら、出会いがしらに面白い店と出会ってしまった。店の表に ”ぶくぶく茶屋 琉球珈琲館&カフェ沖縄式” と表示された どこが店名なのか、わけのわからない店だ。

このお店に入るには入口でスリッパに履き替えなければならない。やや暗めの店内に大きな窓からの陽光がほどよい照明になっている。涼をとるため ”ぶくぶくアイス珈琲” をオーダー。椅子に落ち着いても噴き出す汗が止まらない。炎天下歩き続けたため体が茹で上がっているのだ。店内にはコーヒー豆を入れたたくさんの麻袋が床に置かれ、カウンターや棚には古酒の甕(かめ)でいっぱい。奥にはプロ仕様の音響装置が設置され不思議な空間になっている。

やってきた ”ぶくぶくアイス珈琲” は、ほんわりとした泡がビールのように表面を覆っている。泡が優しいのど越しをつくり、焙煎の香ばしいコクが味わえる一杯だった。ちなみに沖縄ではおめでたい時に ”ぶくぶく茶” なるものを飲む習慣があるとのこと。沖縄の硬水を使うことによってぶくぶくと泡立つそうだ。それからもうひとつ、このお店では ”カレー” も名物とのこと。


カフェ沖縄式

住所 那覇市久米2−31−11
電話 098−860−6700
営業時間 11:00〜22:00
        不定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩15分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車2分
 車 那覇空港より 12分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点を
    右折−スグ右手)

沖縄の幹線道路とも云うべき国道58号線からやや西に入った所に、松山と久米を分ける通りがあり、その一画に、緑がこぼれるように多い場所がある。片側には”福州園”、もう片側には福州園に倍する松山公園が横たわる。

福州園を囲む白亜の壁の上から高い樹林が顔を出し、緑をばらまいている。壁には等間隔に花窓のような透かし彫り窓がうがたれ、庭内の様子をうかがえるようになっている。入口では石造りのシーサーが訪問者を迎えてくれる。

入場料は無料だが入口で記帳を求められる。1992年9月開園当初は入場料300円を取っていたようだが、現在は無料。

一歩入るともうそこは小中国だった。東京の大名庭園に慣れてしまった目には、異彩を放つ中国庭園がすこぶる新鮮に感じられた。

設計から石材まで那覇市の友好都市である中国福建省福州市の手により造園されている。

庭園の造形は福州市を模しており、三山・二塔・一流を表現し四季の変化を感受できる贅沢な造りである。山などの高低変化、水の動と静の変化、草花樹林の四季変化。観る者の視点で千変万化する庭に仕立てられている。三山のひとつ ”冶山(やざん)” から流れ落ちる滝の裏にさえ、洞窟を設け砕け落ちる水のきれぎれに滝前の ”飛虹橋” を眺めることができる。

2500坪の庭園全域の隅々にまで堂、橋、塔が設置されているが、それらの細部に中国の匠の技が発見できる。堂の廂(ひさし)、門の飾り、橋の欄干を飾る石像、透かし彫り窓、石柱彫刻....挙げたら限りがない。

観光客もそこそこいるのだが一か所で混み合うこともなく、ゆっくりと自分のペースで回遊できるので2周もしてしまった。最初の一周では景観を、次の一周は上記写真にある細部まで精巧なつくりを鑑賞。2周目の終わり頃になり、気がついたことがある。東京の大名庭園と雰囲気が大きく違うのは、中国風建築物のせいばかりではなく植栽されている草花樹木がまったく違うことにも原因があると云うことである。

東京にある庭園や公園は梅から始まり藤、つつじ、牡丹など定番の花で季節を楽しむのだが、ここの庭園にある植物はまるで違うのである。

例えば黄色いラッパのような花をつける ”キバナキョウチクトウ” は温室栽培の花だが、ここでは戸外の庭園で平然と咲いている。また6月頃より花が咲き盛夏過ぎに実をつけるはずの石榴(ざくろ)がすでに実をつけているのである。亜熱帯沖縄の魅力のひとつを発見した思いだった。

”ツワブキ”という植物がある。沖縄では”ちいぱっぱ”と呼ぶらしい。花を見るより大判で艶のある葉を愛でる植物である。波打つ白壁に沿って群生している”ツワブキ”の、なだれ落ちるような葉が印象的だった。そろそろ閉園時間になる。本日のちょぼちょぼ旅も店じまいにしよう。


「福州園」のガイドページへ

本日は一日オフになったので、午前中はマンションホテルのバルコニーで日光浴をしながら読書をする。昼前には出掛けるつもりだったのだが、読み始めたスティーヴン・キングが止まらず、午前中は目一杯日光浴となってしまった。

午後一番には首里に向けて行動開始。いつものように「おもろまち駅」(ゆいレール)を利用し初めての「首里駅」を目指す。10分弱で到着した「首里駅」でバスを利用するか徒歩にするか、一瞬迷ったがやはり徒歩で首里城に向かう。駅前から首里城を通り那覇市街中心部へと伸びる県道29号線。駅近くの鳥堀の交差点を突っ切りその県道をひたすら首里城のある西の方向へ歩き続ける。

首里城も見たいが、その前に行きたい場所がある。金城町の石畳道(いしだたみみち)だ。城の南から始まる坂道で、戦争でも唯一戦禍を免れ歴史を忠実に残している場所なのだ。

それにしても暑い。梅雨のはずだが、沖縄到着以来1週間経つが雨など見たことも無い。15分ほど歩くとやっと左手に深い緑の池が見えてきた。”龍譚(りゅうたん)”と呼ばれる細長い池が、首里城の懐近くまで入り込んでいる。首里城の上部だけが池の向こうにうっすらと姿を現した。

池に見とれていて通り過ぎてから気が付いたのだが、県道の右側つまり龍譚池の北正面に樹木に囲まれた古い館があった。案内の看板を読むと旧県立博物館の建物(写真左上)であった。新しい県立博物館は筆者が逗留しているマンションホテルのある新都心”おもろまち”に新築されている。

周りの石垣などに興味が湧き、うろうろしていると次のようなことが分かった。もともとこの場所は琉球王朝時の世子が住む御殿のあったところで、明治12年(1879)の廃藩置県で城を明け渡した尚王一族が移り住んだ場所でもあった。やはり徒歩の旅には発見が多い、時間と体力は必要だが...

龍譚の少し先から回り込むルートで石畳道に連なる真球道(まだまみち)の入口にたどり着いた。その道に入りしばらく行くと急勾配の坂道があらわれ、石積み階段になっていた。住民はこの坂を島添坂(しましーびら)と呼ぶ。

階段は樹木の青葉に蔽われてアーケードのようになっていて涼しげに見える。この道を下って行くと赤マル宗通りと交差するのだが、そこから先300mほどの道を石畳道と称している。

頭上にかぶる緑のアーケードの石段を抜けると視界が広がった。城下町が目の前下方に現れ、現在地がかなりの勾配を持つ高所であることがたちどころに実感できる。

琉球石灰岩を丁寧に敷き詰めた道は艶消しの風合いを持ち、両側に建つ住宅の赤や白縁の瓦と相まって観るものを立ち止まらせるような景観を生成する。

浮き上がる光と影の濃淡の中、白い石畳道がずっと続いている。

(石畳道の続きへ)


「金城石畳道」のガイドページへ

つやの無い白い琉球石灰岩を敷き詰めた長い坂道をゆっくり下って行くと金城ダム通りにぶつかる。

そこが石畳道の出入り口(写真左)になる。首里城に戻るには、ここでUターンし300m以上の坂道を上らねばならない。

楚々とした美しさがある石畳道だが、華美からは対極にある。

ややもすると単調になりがちな道に南国の花と鮮やかな屋根瓦が良い添景になっている。

石畳道沿いに 「首里殿内」 という店があるが、この沖縄料理店は敷地内に”泡盛”と”民族”というふたつのテーマを持つ資料館を有しており、食事客以外にも開放している。


石臼と石垣で組み上げられた門をくぐると、300坪ほどの園内に池や資料館があり、泡盛資料館には古酒をはじめ1000本もの泡盛が展示されていた。休みがてら、のぞいて見るのも一手。

再び坂道を上るが、なだらかに見えた坂も昇るにつれ、傾斜がしだいにきつくなり汗が流れ落ちる。建造から500年以上も経つこの石畳の坂道を、いったいどれほどの人馬が行き交ったのだろう。

行程の半分ほども上っただろうか、暑さとタフな坂道でダウン寸前の筆者の目の前に 「金城村屋(かねぐしくむらや)」 と書かれた建物が...

下りてきた時には特に意識もせずに通り過ぎたが、この地区の公的建物を休憩所として開放したものであった。じりじりと太陽に灼かれながら急坂を上る身にとって、これほどありがたい休憩所はなかった。

人心地つくと、今度は猛烈な喉の渇きを覚え自販機探しの路地探索を始める。自販機で求めたよく冷えた水を片手に、近所を歩くうち、金城樋川(かねぐしくひーじゃー)という湧水の水場を発見。昔からこのあたりの広場で、坂の往来をする人馬が水を使い足を休めたという。さきほどの休憩所がちょうど石畳の坂道の中間点になるらしい。

敢然と後半戦の行程に向かったが、ますます坂は勾配を増し、水分を補強したせいか汗は噴き出す有様。下りるときの風景を楽しむ余裕など微塵もなくなっている。ほとんど倒れそうになった頃、例の樹木が覆う緑のアーケード階段にたどり着いた。木陰のありがたさを、これほど実感できるとは想像もしていなかった。

ぼろぼろヨレヨレになって、やっと出発点の入口に上り着いた。日頃恵まれすぎた環境にどっぷり浸かっているため、完全に野生の遺伝子は退化してしまったようだ。


「金城石畳道」のガイドページへ

石畳道で思わぬ道草をしたため、本来の目当てであった首里城観光ができそうもなくなってきた。首里城は夜間まで入場できるが、陽が落ちてしまうと城内はともかく城郭内をゆっくり鑑賞できないと考えたからだ。

何はともあれ石畳道での大汗で絞り出した水分を補給するため、首里城近くの小さなオープンカフェに飛び込んだ。ご主人お薦めのフレッシュな亜熱帯果物ジュースの誘惑を乗り越え、やはりここはマンゴーのかき氷をオーダーする。口中で溶けるかき氷のなんと美味いことか、石畳道での奮闘が報われると云うものだ。

玉陵(東室)の模型(15分の1スケール)

お店のご主人と話しているうちに、本日最後の鑑賞ターゲットを世界遺産にも登録されている琉球歴代の王たちが眠る「玉陵(たまうどぅん)」に決めた。首里城は近いうちにたっぷり時間をつくり再訪しよう。

玉陵は首里城から数分のところにあり、観光客もあまり多くないとのこと。そしてアドバイスもひとつ貰った。陵墓域に入場する前に必ず資料館を訪問することが最上の鑑賞方法とのアドバイスだった。

資料館は券売窓口のある建物の地下にあった。アドバイスが無ければ確実に通り過ぎている。そこには第2尚氏王朝の簡単な年譜から15分の1縮尺の陵墓の模型までが展示されており、一目で陵墓内の構造がわかるようになっていた(左写真)。


資料館(本館)を出て少し歩くと正面の門が現れ、両脇に番所の建物を従えている。門をくぐるとそこは中庭となり陵墓域への入口となる中門が見える。観光客の姿が一人もいない。陵墓にふさわしい聖域としての空気が充満していた。

中門の左脇には碑文があり、この玉陵に葬られる資格者の規定文が石に刻まれている。建造時1501年の石碑である。中門を抜けると足元には珊瑚砂利が敷き詰められ、眼前には琉球石灰岩で組み上げられた陵墓がいっぱいに広がっていた。

写真左:中門とその先の玉陵(東室) 写真右:玉陵(中室と西室)

建造されたのは350年の永きにわたって続いた第2尚氏王朝の初期、1501年である。陵墓は向って左から東棟・中央棟・西棟の3基に分かれており、歴代の王が眠るのは東室になる。近づけるのは陵墓前までなので、景観から想像を巡らすわけだが、資料館での予備知識が無ければ表層を眺めるだけに終わっただろう。

まだ観光客はひとりも訪れない。守礼門近くには人波がうねるほどの人混みだったのに...。
まったくの貸し切り状態に嬉しくなり、長居を決め込み、あいかた積みの石壁をじっくり鑑賞したり、番所を見学したりと、おかげで静寂の中、500年という悠久の昔を思い遊ぶことができた。

                      番所から景観


首里城公園〜首里城のガイドページへ

いよいよ今日から那覇から離れた旅を始める。しかもバスで行くのんびり旅だ。今回は南部方面に決め、本島で一番南のポイントをたずねることにした。ガイドブックによると喜屋武岬(きゃんみさき)とあるが、地図を見るとこの喜屋武岬よりやや東の荒崎という地域が最南端であることが判る。しかしその最南端ポイントまでの道が無いことも判った。やはり喜屋武岬を目指そう。

那覇バスターミナルから糸満BT(バスターミナル)行きのバスに飛び乗り小一時間ほどで終点に着いた。この糸満BTで乗り継ぎ、喜屋武まで一気に足を伸ばす。糸満BTを出発したバスは糸満ロータリーで国道331号線に乗り入れ南下して行く。しだいに鄙びた景色に変化し、ゆるゆる走るバスをその飾り気のない地色が 包み込んでゆく。

地元とおぼしき乗客を入れ替えながら走り続けたバスもようやく喜屋武のバス停に着いた。糸満BTから30分ほどの時間距離になる。降りたバス停は小さな広場にあり、幾筋もの道が町中へと繋がっている。その中から案内のあった岬へと続く道に踏み入った。ものの数分で町を通り抜けてしまい、あとはどこまでも連なる白い舗装道路。

15分歩き続けているが風景は変わらず、真っ青な空と大地の緑、そして長く引かれた一本道。ガイドブックには徒歩15分と記されているが、見渡すかぎり海岸線の気配など微塵も無い。時々観光と思われる車が何台も追い越して喜屋武岬方面に走り去る。

舗装された道は一本なのだが、いくつかの細い未舗装道路を通り過ぎてきたので間違えたかと思い始めた頃、手書きの案内板を発見(左写真)。意を強くし再び歩き続けるが、太陽のきつい照り返しが舗装道路から這い上がってくる。吐く息も熱く、まるでゴジラだ。

人家もまばらになるが、やはりあたりには、いっこうに岬に着く気配が無い。無意識に自販機を探す目。こんな人家もまばらな野中の一本道に自販機などあるはずもない。

飲み物を携行しなかった自分を呪いながら歩いていると、前に追い越して行った車が戻ってきた。岬の観光を終えての帰り道なのだろう。こちらに近づくにしたがいスピードを落としてきた。車を止め何かを尋ねるかと思いきや、そのまま走り去ってしまった。車中はカップルの観光客のようだった。

大量の発汗で体力も消耗し、いまだ目的地に到着しないため、那覇の金城石畳坂道でのひどい有様が再現されつつある。2台目の車が戻ってきたが、やはりスピードを極端に落としてすれ違って行く。決して徐行などではない。

やっと事態が理解できた。観察されていたのだ。こんな長い一本道を歩いている観光客など普通いないのである。筆者は外見からも地元ではなく訪問者であることは一目瞭然で、炎天下をただひたすらに歩いている酔狂な旅人に映ったのだろう。 車中の旅行者が行きにテクテク歩く変人を追い越し、帰りにもまだちょぼちょぼ歩いていたら顔のひとつも見たくなるのが人情というもの、何の不思議もない。 よし! カッコつけて元気に歩こう。

前方に何やら作業をしている集団が視角に入った。道路を塞ぐように伸びた樹木の剪定作業だった。早速尋ねると目的地は目と鼻の距離...遂に到着だ。これだけ苦労すると到着の嬉しさもひとしおである。

そこは断崖の上の小さな広場といった印象だった。片側には休憩所のかわいい東屋がある。その前で一台のワゴン車が旅行者のために飲料やスナックを臨時販売している。飛びつくように買い求めた水を一息に飲んだ。冷たい水が干上がった身体に沁みわたってゆく。

 喜屋武岬の崖上からの眺望

太平洋戦争末期にはこの崖上から軍人のみならず住民の多くも投身し玉砕したという。今その場所には”平和の塔”碑が建てられている。記念碑の先には東シナ海と太平洋がぶつかる大海原がどこまでも静かに広がっている。

苦労した分眺望を楽しみ充分に休憩したあと、近くの具志川城跡に向かった。もちろん帰路用の飲料は確保済みである。


喜屋武岬のガイドページへ

舗装道路の終わったあたりの片隅に、小さな石柱がポツンと立っていた。本当にポツンと表現するほど目立たない。「具志川城跡」とある。しかし回りを見回しても、舗装の終わった土の道路と樹木があるばかり。もう一度石柱に戻ると樹木の中にかすかに道らしき筋があった。その道らしきところに踏み込みしばらく行くと、樹木が途切れていきなり視界が広がった。

崖縁を背景にした小ぶりな岬のような高台の場所だった。白い琉球石灰岩を野面(のづら)積みに組み上げた城壁が見える。


沖縄では ”城” を ”グスク” もしくは ”グシク” と云う。その数は本島だけでも200以上になる。この具志川グスクの規模だが、東西に82m南北に33mの細長い構造になっており、海を一望する崖の地形を最大限活用した造りになっている。しかしまだ城跡としての城郭復元は未完で、今は想像を膨らませるしかない。現在12ヶ年計画で復元工事の真っ最中で、区域内には鉄パイプがところどころ組まれていた。

500年ほど前、久高島を追われた具志川一族がこの地に逃れ築城したと伝えられているがまだ多くの謎を残している。沖縄グスクのほとんどが内陸の小高い山の高所に建造されているが、この具志川城だけは海に面する崖上に建つ。

海面より50m以上はあると思われる断崖より望見する景観は迫力があり、往時には自然を最大活用した堅塁だったのだろう。たまたま遭遇した地元の人に尋ねたら、昔よりこのグスクは居館としての城ではなく物見(見張り)としての城塞であったと伝え聞いているとのことだった。

いつまでも海を眺めていたかったが、喜屋武のバス停まで大汗を流し歩いて戻らねばならない。ぼちぼち腰をあげ出発しよう。
陽はまだまだ高い...次の行き先は歩きながら決めよう。

「具志川城跡」の紹介ページへ

国道331号線を東へ向かって走行する南部循環バス。今まで閑散とした道路沿いが急に賑わってきた。車内の案内では次の停留所 「ひめゆりの塔前」 が表示されていた。バスを降り国道沿いに「ひめゆりの塔」の方向へ歩いたが、居並ぶ店の表情や観光客を呼び込む声などまるで温泉街の感がある。

ひめゆりの塔の敷地入口では献花用の花束を売っている。売っているのは見るからに元気な ”おばー” が2人。沖縄では中高年の女性をそう呼ぶ。彼女たちは長い間培った知識のすべてを次世代の ”おばー” へと伝えてゆく強力なコミュニティを形成しているのである。この慣習形態は沖縄全域に及ぶ。

筆者も花束を求め、しばらく ”おばー” と立ち話をしたが、実にたくましく威勢がよい。たくましいという傾向だけなら、なにも沖縄に限ったことではないが。

「ひめゆりの塔」の前に献花台が置かれていた。 黙祷したあと気が付いたのだが、「ひめゆりの塔」の真ん前にぽっかりとマンホールのように口を開けている洞窟があった。柵から身を乗り出して覗いたが、かなり深く中は漆黒の闇へとなだれ込んでいた。

その闇の中の洞窟こそが、「ひめゆりの塔」 の最後の舞台となった陸軍病院第3外科壕であった。

太平洋戦争末期、激しい地上戦が展開される中、看護活動のため学徒動員された222人の少女たち。上陸した米軍の激烈な一掃作戦に追われ、遂には南のこの地まで追い詰められてゆく。大体の経緯は映画や書物などで知っていたが、その知識たるや表層のほんの一部分でしかなかった。

ひめゆり平和祈念資料館

少女たちで編成された”ひめゆり学徒隊” の凄惨な3ケ月を、過不足のない事実だけで淡々と伝える 「ひめゆり平和祈念資料館」。慰霊碑に隣接するように設けられたこの資料館は館内撮影禁止のためサイトページではご覧頂けないが、展示室ごとにテーマを分けコースを巡るだけで当時の実態が理解できるようになっている。

初期の写真に見るあどけない少女たちの笑顔。大量に運び込まれる負傷兵の看護の日々。暗い壕の中で激務に追われ心身ともに疲弊してゆく少女たち。そして突然の ”解散命令” で戦場を彷徨する終章。


コース途中に壕(”がま”とも云う)の実物大のジオラマがあった。彼女たちが立ち働いた洞窟のジオラマである。そこを覗くと暗闇の中にひとすじの光が天井から降っている。その天井の光源はさきほど地上で見た足元のマンホールのような穴から射す陽光を想定して造られていた。

そして館内には説明員たちが常駐しており、その大半がしらゆり学徒隊の生存者たちで構成されている。彼女たちの説明の中でつぶやくように「生きてしまった」という言葉が何度か聞かれた。「生き延びた」や「生き抜いた」ではない。目の前で失った友人のこと、あるいは軍の強制的な解散命令のため負傷して動けない友人を残し逃げざるを得なかったことなどへの積年の思いが込められているに違いない。そのひとつの静かなつぶやきは百の説明以上の力で真実を伝えてくれた。

いずれにせよ、この資料館は沖縄最終戦の3ケ月をひめゆり学徒隊を中心に据え、あますところなく沖縄戦の実態を伝えている。風化することがないよう願うばかりである。
表に出て歩くうち、目の前に赤いポストが飛び込んできた。その微笑ましい姿に思わずホッとする。

「ひめゆりの塔」のガイドページへ

国道331号線を西に向かって歩いている。タイミングが悪く「ひめゆりの塔前」からのバスがうまく連絡しないので歩くことにしたのだ。太陽が沈むまでまだ時間があり、糸満市の南部町を少し歩いてみたかったこともある。沖縄の日没は本土に比べるとかなりゆっくりとしていて、午後7時を過ぎても十分に明るい。その7時まで時間はまだまだある。

交通量はそれほどでもないが、長く途切れることはない。国道沿いの住宅から南国の花が顔をのぞかせ、その種類の多さには驚かされる。門柱や屋根にはシーサーがどっかりと居座り、門内の入口には ”ヒンプン” と呼ばれる塀のような魔除け板が置かれている。

目にも鮮やかな朱色の建物が見えてきた。正面に琉球漆器と大書してある。店内はアクセサリーから大物の花器まで多品種の漆器で埋め尽くされていた。案内には那覇の国際通りにもお店があり、わざわざここ南部まで出向かなくとも買物が楽しめるとのこと。またこちらでは工場見学や体験学習も可能。

表に出て国道に戻ろうとした時、左手奥に古い建物を発見。しばらく眺めていたら妙に惹かれてしまい、建物の近くまで足を延ばしてしまった。屋根に掲げられた看板には「字(あざ)伊原公民館」とあり、すっかり日焼けして褪せた色が、逆に味のある深い色合いをつくっている。経年の歳月を刻み込んだ建物には風格もあり、周りからは超然として浮かび上がって見える。

建物の脇では、ゴルフ場のキャディ顔負けの日除け重装備に身を固めた ”おばー”(意味はBLOG 18 参照)3人がゲートボールに興じていた。作業休みの楽しみなのだろう。心がなごむ情景の一枚になった。

国道331号線に戻りさらに西を目指している。両側の住宅や建物はゆったりと建っており、過疎と云ってもよいくらい地肌をみせる。風景は概して変化に乏しいが、やはり前述したシーサーと花が一番の変化をもたらせてくれた。

沖縄には古くより伝わる魔除けの慣習が色濃く残っている。シーサーは代表的なものだが、前述した”ヒンプン”もそのひとつだ。門から入った正面にぶつかるように配置された”ヒンプン”は板というより一枚岩を屏風のように置く。中国では屏風を”ひんぷん”というから、ここでも中国の影響が残されている。悪い霊や魔は真っ直ぐにしか動けないという迷信を前提に入口から入れないように正面に配置するのである。もちろん外部からの目隠しの役割も持っている。

また沖縄市街の路地でよく見かける”石敢當”(いしがんとう)も魔除けのひとつである。悪霊や魔が直情型ならぬ直線型の動きをすると信じられていたので、T字路や三叉路のぶつかった家に上がり込まれないように置かれた石標なのである。
この注釈はぜ〜んぶ沖縄の人からの受け売りであるが、信頼できると思われる。 たぶん。

そうこうしているうちに二又道路に着いた。信号のところに南波平と表示されていた。右が331号線国道、左が琉球ガラス村。右は今までの歩行距離の倍する距離を踏破すると糸満市街に至り、左は「琉球ガラス村スグソコ」の看板が出ている。
躊躇なく足は左方向へ歩き始めた。



ガイドページ


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