2009年9月アーカイブ

首里城の復元整備工事が今なお続いていることをご存知だろうか。沖縄戦線で形あるものはすべて焼失し灰燼に帰した首里城。それから優に半世紀以上の歳月が流れている。気が遠くなるほどの根気と努力で忠実に復元されてきたに違いない。

1992年完成区域から順番に開園し、復元工事のまだ半ばの2000年に世界遺産に登録されている。世界遺産の厳しい審査基準は、その修復・復元において可能なかぎり当時の建材・工法・構造の採用まで細部にわたって求めている。この世界遺産登録で復元された首里城などの真実性が世界的に裏打ちされたわけである

”瑞泉門”、そして左に見える修復中の”漏刻門”

現在復元されているのは首里城全域の6割ほどで、これから新たに復元される門や御殿が順次公開されてゆくとのことであった。

さて首里城訪問の続きを始めよう。

”歓会門(かんかいもん)” を抜けると上り石段が目の前にあり、見上げると上にもうひとつ新たな門が待っていた。第2の門になる ”瑞泉門(ずいせんもん)” である。

石階段右脇にある”龍樋(りゅうひ)”と呼ばれる湧水場からこの名が付いたのだが、500年も枯れることなく湧き出る水は下方の ”円鑑池(えんかんち)”へと注いでいた。

修復中の”漏刻門(ろうこくもん)”、”広福門(こうふくもん)”を連続してくぐり抜けると”下之御庭(しちゃぬうなー)”と呼ばれる大きな広場に出た。


この広場は城内の各区域へとつながっており、ひと休みもできるエリアとなっている。方角で簡単に説明すると、今通り抜けてきた”広福門”が広場の北になり、南には祭祀域の”京の内”、西には素晴らしい夕景が見られる展望台”西のアザナ”、そして東が首里城中心部の正殿へ続く”奉神門(ほうしんもん)”という配置である。

                      この”奉神門”より奥が有料区域

有料ゾーンの入口になる”奉神門(ほうしんもん)”をくぐると広場があり、正面に正殿、左に北殿、右に南殿・番所と広場を囲むように建てられている。この広場を御庭(うなー)と呼び、重要な式典はここで実施された。

有料区域の鑑賞ルートは南殿から入室し、時計回りに正殿、北殿へと巡る。南殿は番所として利用された場所だったが現在は展示室となっており、ここだけ撮影禁止になっていた。

この南殿に並ぶように築営されているのは王が執務したという書院で、薩摩からの使節などもこの区域で接待したとある。

正殿は王の政治執行の表舞台だったためか内外ともに華麗な造りになっている。正殿の表には3mを超える一対の砂岩大柱が立ち、王の象徴である龍が彫られている。雲型飾り瓦や本瓦を葺いた屋根には金のシャチホコならぬ龍頭が三体。

また内部2階の玉座両脇にも黄金の龍像が控えていた。係員に尋ねてみたら実に正殿だけで33体もの龍が潜んでいるとのことだった。同時に係員から後戻りはできないと釘を刺された。奔放な行動をしかねない顔をしていたのだろうか。次の機会に恵まれたら数えてみよう。

正殿の表と1階内部

朱色と金色で彩色された内部は照明で光輝いており、華美な中にも重厚さを失わず見事な誂えで造り込まれていた。正殿は三層の建築だが、3階は公開されておらず風や通気を考慮した吹き抜けの屋根裏部屋になっているらしい。

そして北殿へとコースをたどる。往時ではこの北殿の建物が一番活気があり人で賑わっていたようで、中国皇帝からの冊封使(さっぽうし)を接待したところでもある。幕末の頃、来島したペリー提督もこの館で宴に興じたとある。

                      新たに甦る”淑順門”

北殿を出ると ”右掖門(うえきもん)”、”久慶門(きゅうけいもん)” を抜ける一本道となり城外へ出てしまった。この有料区域に入ると順路通りに回ったあと、城郭外に直行することになるので注意を要する。

首里城の復元工事は現在も続いているが、出口に向かう途中”右掖門”の奥に切り出された石灰岩が積み上げられ新たに”淑順門(しゅくじゅんもん)”が甦りつつあった。着実に再生されている。

城外へ出されたついでに例の守礼門前の店でかき氷のショートブレイク。しばらくご主人と雑談後、再び城郭内へ向かう。陽光も陰りを見せはじめ、暑さも落ち着きを取り戻してきた。

”奉神門”前の広場に戻り、祭祀域の”京の内”から見学を再開。深緑の森がけっこうな範囲で広がり城内とは思えない雰囲気が漂っていた。聖域内をゆっくり散策し、森を抜けると”西のアザナ”に行きついた。城郭の西端に位置し130mの標高を持つ物見台だったが、現在はバリヤフリーに対応した木造りの展望台に生まれ変わっている。

那覇市街とその先の東シナ海を一望できる眺望がしだいに夕景に染め上げられてゆく。その昔はここで時を知らせる鐘が打ち鳴らされていたらしい。訪問者が頻繁に入れ替わるが、時折ひとりだけになる。そんな瞬間には自分が自然の一部に取り込まれてゆく感覚になる。

とっぷりと日が暮れるまでここにいようと、心のどこかで決めていた。


「首里城公園〜首里城」のガイドページへ

再び南部にやって来た。那覇BT(バスターミナル)から50分ほども乗ったろうか、垣花(かきのはな)というバス停に着いた。垣花は前に訪問した本島南部東海岸の知念岬の少し南に位置している。

この場所には日本最南端の名水百選と謳われている”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”という湧水場がある。本日の第一番目の目標地にしたスポットだ。案内板に沿って路地を歩くが周りは民家もまばらで大自然の中に家が点在しているような地域である。

垣花城跡

途中に ”垣花城跡” があった。しかしその場所には石碑が建っているだけで、城郭跡のようなものは一切見当たらない。

記録には2500坪を超える城郭とあるが、今は郭跡のような平地に熱帯樹が繁茂しているだけであった。

そこを過ぎて、なおも行くとログキャビン風のカフェ 「風樹」 にぶつかった。


案内板に従い左へ道なりに進むとまもなく”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”へと下る坂道の入口が現れた。坂道は琉球石灰岩が敷き詰められ勾配も急である。両脇をガジュマルやアカギなどの樹林の葉が覆い、坂道に涼しげな木陰をつくっている。ちょうど首里金城の石畳道のような景観である。

                         坂の途中で入口方面を振り返る

坂道には1本の太いケーブルが打ち捨てられたように置かれ、延々と坂下まで続いている。後で分かったのだが、この管は湧水場から汲み上げられた水を上の集落へ運ぶ送水管であった。

分厚く凹凸のある石灰岩なので慣れないものには足元が安定しない坂道だ。また石灰岩は濡れると滑りやすく皮靴やハイヒールの使用は怪我のもとになる。

注意深く降りるうち、足元が明るくなり周りの視界が一挙に広がる。その場所は太平洋に面した山の中腹斜面にできた自然の小広場であった。

広場の小高いところに清水が音をたてながら溢れ出ている水場が2か所ある。左が女川(イナグンカー)、右が男川(イキガンカー)と呼ばれ、昔は名の示す通りそれぞれ使い分けていたようだ。

その清水が流れ込む水だまりが小池となっている馬浴川(ンマミシガー)には沢ガニなどが住みついていた。渇水の地として長い歴史を持つ沖縄では、貴重な生活用水を得られる湧水場として昔より大事に守られてきた”垣花樋川”。

  写真左:男川 写真右:垣花樋川からの眺望(中央の小池が馬浴川)

山肌から湧きだす水が単調で眠気を誘うような音を立てている。水の音には独特の振幅数が含まれるのか、気持ちを落ち着かせる効果がある。樹齢古いアカギの幹には蔦(つた)が絡み、鬱蒼とした緑の中に可憐な野花がところどころ色を添えている。

名高い観光スポットにもかかわらず施設などは一切無く、昔日の自然がそっくり残っている。沢ガニを捕まえたり水遊びに興じたあとは、水の音をBGに一面の海を眺める。のどが乾いてもふんだんの名水が目の前にあり、ペットボトル入りでない自然から直接享受できる水のなんと甘露なことか。そんな極上の時間をたっぷり味わった後、すっかり重くなった神輿(みこし)を上げた。さあ気合いを入れ直して急坂の道を登らねば...

やはり急坂の登りはかなりタイトなもどり道だった。一気には登りきれず、昔行き交った人々と同じように途中の休み石で一息入れながらの復路となった。

往路で目印になったカフェ 「風樹」 だが、トイレなど施設の無い垣花樋川へのベースキャンプとして活用できるのでご紹介しよう。全体が空間たっぷりの木造りで、内装は大きな居間を思わせる落ち着きがあり居心地がよい。テラスや2階のバルコニーなど自然とも調和し、眺望は素晴らしい。カフェとなっているが14:30まではランチもでき、もちろんスイーツやかき氷も楽しめる。


「垣花樋川」のガイドページへ


カフェ 風樹

住所 南城市玉城字垣花8-1
電話 098-948-1800
営業時間 11:30~18:00
お休み 火曜定休
駐車場 10台
交通
 BUS  那覇BTから50分(百名線39号)−バス停 「垣花」 下車5分
 車 那覇空港より 40分(国場から与那原町経由南城市を目指す−県道137号線を垣花まで)

垣花樋川の見学後、地図をにらみながら次のコースをイーストコースト沿いに南下することに決める。この一帯の海岸線にビーチスポットが集中しているようだ。

地図で一番近い百名(ひゃくな)ビーチから南下しようと県道137号線のバス停 「垣花」 に戻ったが、あいにくバスの待ち合せが悪くまたまた歩くことにした。のんびり急がずダラダラと歩くうち20分ほど経ったろうか、「百名入口」のバス停にたどり着いた。

海岸に向かって歩いているのだがいっこうに着く気配がない。いやむしろ緑が濃くなり森の中へ入ってゆく感じである。引き返そうとした時、小さな案内板が目に留まった。聞きなれない言葉でひとこと 「ヤハラヅカサ」 とだけ書かれていた。


のちに 「ヤハラヅカサ」 が琉球創始神が降り立った場所のしるしとして浜辺に建てられた碑であることが判るのだが、この時点では何のことやら判らず、あたり一帯を散策することとなった。

そして古く自然のままの石階段を発見した。石段下には水の湧き出る音がかすかに聞こえてくる。1時間ほど前まで垣花樋川の湧水場でずっと聞きつづけていた音なので間違えようもない。水のせせらぎに誘われるように石階段を降りてゆくと、砂浜が現われその先には真っ青な海が広がっていた。

やはり石段の下には清水が湧き出ていたが、この周辺はビーチであると同時に霊域らしく地元住民の手で清潔に維持されている場所だった。期せずして神聖なるところからの百名ビーチ入りとなってしまった。


奥行きも幅もかなりの広さを感じさせるビーチに数組だけの遊泳客という、なんともぜいたくな光景が展開していた。ちょうど干潮時であったため砂地が広く見えたこともあるが、それを割り引いても広い浜であることは確かだ。自然のままのビーチといった風情のある浜辺で、リゾートビーチとは一線を画す。

干潮だったのでこれさいわいにと干潟のようになった砂地へ出てみた。あちこちにできた水だまりに小魚やカニの顔が見え、かたちの良い貝殻も目にとまる。童心に返りけっこう遊べる浜辺だ。

沖の浜辺にとがった石が屹立し、そこには 「ヤハラヅカサ」 と書かれていた。近くにいた先客が地元の人らしく琉球始祖の謂われを親切に説明してくれた。満潮時には海中に没し、参拝するには干潮時を待たねばならないとのこと。この岩が 「ヤハラヅカサ」 の碑塔(ガイドページ参照)だったのである。

Hyakuna-beach3_blog.jpg

海岸線を南へ南へと下りてゆくと浜をさえぎるような大きな岩にぶつかった。砂上に浮くように海際まで突き出している石灰岩を回り込むと、浜辺はさらに南へとどこまでもつづいている。この岩を境に新原(みーばる)ビーチになることは先ほど出会った人から仕入れたばかりの情報だった。

地形特徴は同じビーチなのにまるで空気感の違うふたつのビーチ。神聖霊域のためか人工的なものや遊泳関連施設など一切無い自然のままの百名ビーチに比べ、新原ビーチにはシャワー・更衣室などの遊泳用施設に加えグラスボート専用桟橋やマリンスポーツまでそろっている。

共通点は干潮時に露呈するたっぷりとした砂地の広さだった。歩いてリーフ近くまで行けるとの情報もやはりさきほどの親切な地元の人から。

この海岸には百名より入り新原ビーチから出ることになったのだが、ここを訪ねるには百名より新原ビーチ入口からアクセスする方が楽でわかり易いことを最後にお伝えしておく。

「百名ビーチ〜新原ビーチ」のガイドページへ

”新原ビーチ”から”玉泉洞”へと至るコースは、車で行けばものの10分ほどの距離だ。しかしバスで行こうとすると、これがやっかいなルートになる。直行するバスルートが無いため、まず百名方面へ歩いて少し戻り、百名出張所というバス停から長毛まで行き、玉泉洞線82番ルートに乗り換え終点まで行く面倒なコース。

バス停 「長毛」 前の雄樋川

手間もかかるが時間はもっとかかる。バスの待ち合せ時間が思うようにならないからだ。しかし待っている時間を有効に活動してみたら、いくつか発見や収穫もあった。

百名では「焚字炉(ふんじろー)」というものを発見した。名前の通り[字を焼く炉]で、字の書かれた不用紙を路上などに捨てず、敬意をもって処分するよう造られたものである。

4枚の石灰岩平石で組んだだけの簡素な造りで高さ1mくらいの炉だ。これも中国からの冊封使の影響によるもの。


また長毛ではバス停の前を悠然たる雄樋川が流れており、バスを待つあいだ、この川沿いの散歩がけっこう楽しめた。川のせせらぎに押されるように足にまかせてぶらつくだけの、のどかな散策である。

終着のバス停 「玉泉洞前」 に下り立ったが、停留所のある県道17号線のあたりはがらんとした風景が広がっていた。がらんとしているが殺風景ではない。「おきなわワールド」のゲートを過ぎると正面口まで整然としたアプローチがしばらくつづく。

                 「おきなわワールド」の正面口、美しく整備されたアプローチ

園内に一歩入るとがらりと空気が変わり、観光地特有の雑然とした景観の中に人が溢れかえっていた。

広大な敷地内にはテーマパークらしく、鍾乳洞の ”玉泉洞” を目玉に、”ハブ博物公園”、沖縄各地から移築した古民家集落、伝統工芸工房から”熱帯フルーツ園”まで設けられ渾然一体となっている。

観光客向けと云わんばかりの雰囲気に少々げんなりとし、一路”玉泉洞”へと急いだ。

ゲームセンターかと見紛うばかりの ”玉泉洞” 入口を通り抜けながら、秋芳洞の10分の1でも情緒がほしいなどと考えていると視界に留まったものがある。シーサーのレリーフだった。鍾乳洞内につづく回廊の壁にずらりと飾られていた。それらの表情に妙に惹かれ、見逃したシーサーを鑑賞するため入口近くまで戻ってしまった。

沖縄では門柱や屋根、路上と当たり前のようにシーサーが居座っているが、旅行者にはもの珍しいオブジェに映る。魔除けの風習として歴史が長いので、その形体やデザインなどの意匠は千変万化しており、沖縄旅行の楽しさのひとつにもなってくれる。

 玉泉洞の回廊を飾るシーサーのレリーフ

玉泉洞は全長4.5 kの鍾乳洞で、現在のところ国内7番目の長さになる。そのうちの890mだけが一般に公開されている。入口から入ってすぐのところにある「東洋一洞」が最大の見どころと云われ、広さ高さともに東洋一で美しいと案内にある。

洞内に入るとひんやりとしているが湿度が一気に跳ね上がる。鉄パイプを組み上げた階段が下方に連なっていた。薄暗がりに目が慣れてくると、淡い照明の鍾乳洞が浮き上がってきた。「東洋一洞」は確かに広く天井も20mの高さで伽藍を思わせる佇まいだ。


珊瑚を主成分にした琉球石灰岩の溶食は、他の鍾乳洞に比べ石筍の成長が速いようだ。自然が悠久の歳月をかけて創りあげたさまざまなオブジェが洞内890mに展開する。

つらら石の「槍天井」、大石筍の林立する「東洋一洞」、巨大なリムストーンの「黄金の盃」、洞壁から浸み出した硬水や湧水が溜まった「青の泉」、洞内に設けられた「古酒蔵」。

それほど歩いた感覚のないまま出口のエスカレーターに到着してしまった。身体にまとわりつくような湿気のなか、全行程を泳ぐように歩ききっていた。

玉泉洞を出ると、そこから出口まで熱帯フルーツ園、ショップ、古民家の工芸工房などがびっしりと並ぶ。出口近くで人だかりがしていたので潜り込んでみたら、なんと全身真っ白な大蛇。やや苦手なヘビだが、この錦ヘビは特におとなしく神々しい容姿をしている。思わずカメラを手にしたら、隣に立っていた女性スタッフから 「撮影は1000円、いただきます!」。

なんともたくましいではないか、やはり観光地はこうでなくっちゃ。


「玉泉洞」のガイドページへ

バスが勾配のある坂道を昇りつづけてしばらくたつ。けっこうな高所まで来ているに違いないが、窓の外にはお墓ばかりが目立っている。沖縄独特の町の中でもお目にかかる例の箱庭のようなお墓である。どこでも対面できるが、ここはかなりの数なので霊園なのだろう。

やっと目的の”識名園前”のバス停に着いた。首里城の南に琉球王朝の”識名園(しきなえん)”という庭があるというのでやって来たのだが、その庭園は想像以上に閑静な高台にあった。

番屋からの坂道、樹林の影を落とした涼しげな石畳道

一般観光用ゲートが駐車場の脇にあり、そこを抜けると木陰が溜まった小道がくねくねとつづいている。

庭園では、散策が単純にならないよう直線ではなく、懐を深くみせるためS字を描くように小道を造る。

入ってすぐ右手に正門があらわれたが、屋根を乗せた屋門(やーじょー)という形式の門でかつて琉球王や中国からの正使がくぐったと案内板にあった。

本土では控柱がなく屋根の付いた棟門(むなもん)と呼ぶ形式の門に相当する。

庭園の造りはやはり本土でお馴染みの大名庭園と同じ池泉回遊式であった。ひとつの大きな池が中心に居座り、その周りにさまざまな景色が展開されている。

しかも池のまわりには松が植樹されて和を醸し出している。池から離れて外周に向かうと、歩くにつれ、進むにつれ、新たな風景が生成されてゆく。


歴史上400年の永きにわたり一度の亀裂もなく中国と国交を続けたのは琉球だけである。琉球の国風と文化が中国に合っていたと云うほかない稀有な例だ。しかしその裏には琉球の政治的苦労や努力があったことは云うまでもない。ちょうど徳川家康が三河の小さな一豪族だった頃、近隣の尾張の織田家と駿河・遠江の今川家に挟まれ政治に腐心した情況に酷似している。

                          中国風”六角堂”へはアーチ型石橋で渡る

中国からの正使を接待したこの識名園にはそうした苦労のあとが随所に残されている。

「茶の湯」でも接待したというこの庭園の和趣味は、中国からの客人に琉球のうしろには日本国が控えているいることを暗に匂わすため。

また池のほとりには中国を思わせる黒色瓦2層屋根の”六角堂”が建ち重要な添景となっている。

こういった中国と日本本土を意識したバランス感覚が造園風景でも絶妙な調和を生み出す。そういった面で鑑賞すると実に興趣の湧く庭である。

池の外周南側は庭内で一番の高台になっているが、その那覇市街を展望できる”勧耕台”に面白いエピソードがひとつあった。

ときの琉球王がこの高台で中国からの使節を接待したわけだが、ここからの展望では海がまったく見えない。わざわざ海が見えないところに展望スペースを造ったという。


島国ながらその領土がいかに広大であるかを強調せんがための方便なのだが、そのかいあってか中国の記録には朝貢する国々の中では台湾よりも上位の日本本土に次ぐ位置であったようだ。なんとも微笑ましいアナログ感覚あふれる外交ではないか。

1回の使節団で数百人という中国人が長期間(航海時期が季節で決まっていたため)滞在するわけで、中国からの影響が今もなお色濃く残るのも当然ことなのだろう。ちなみに滞在中の中国高官たちのお気に入り散策コースが首里城からここ南の識名園、そしてもうひとつは首里城の北に位置する”末吉宮(琉球八社のひとつ)”を目指す北コースのふたつであったようだ。

中国との関係を想像しながら庭内を歩くうち、「桔梗」を見つけた。その深くて淡い青の花、日本を強く感じさせる花、まごうことなくここは日本なのだ。

「識名園」のガイドページへ

単に「観光客相手の繁華な通り」というのが、国際通りに対する率直な印象である。しかし名産やお土産を買うなら大変便利な通りともいえる。沖縄の名産・工芸品から泡盛古酒(クースー)までほとんどが揃っている。

県庁前から国際通りに入りしばらく歩いたが、似たような店が並んでいるせいかすぐに飽きてしまう。ひと通り歩いたあと、国際通りに繋がっている無数の路地に踏み込んでみた。

国際通りから南へ入る”龍宮通り”

東西に走る国際通りの北側は総じて直線路が多く迷わないが、南側は曲がりくねった路が多く10分も歩いているとまったく方向感覚を失ってしまった。

向き合わないとすれ違うこともできないほど路が狭くなったり、どこへ出るのか見当もつかない。まるで那覇ワンダーランドといってもよいほど次にくる風景の予想がつかない面白さがある。

公設市場へ行く市場本通りや焼物で有名なやちむん通りにぶつかる平和通りのような大きな通りもあるが、葉脈のようにどこまでも細くつながる小路が面白いのだ。

太平洋戦争の想像を超える被災で那覇市街は全面焼け野原となった。その中でいち早く復興したのがこの国際通りと云われており、通りの距離1600mがちょうど1マイルに相当することから駐留していた米国人記者から「奇跡の1マイル」と呼ばれた。


しかしその復興の影には、近くにあった「やちむん(焼物)」の再開や闇市の発生が強く影響したという。

そのせいかこのあたり一帯はしぶとさのある生活臭が沁み込んだ町並みで、小路ぞいの住宅などはどんなに古くても風化など微塵も感じさせない。とくに壺屋近くの瓦葺きの古民家などは年輪を重ねた風格さえある。

一方国際通りに近いほど繁華街の香りが強く、竜宮通りからグランドオリオン通り、桜坂通りのあたりは戦後昭和の風合が漂っており味わい深い地域である。

名もなき小路はさらに面白く、素顔のように飾り気のない素朴さが印象に残る情景ばかりであった。

国際通りの買物は手早くすませ、あとの時間は路地探索にすべてを使おう。迷いこむのを承知で足にまかせて歩いてみれば、心ひかれる何かを発見できる。


路地探索の途中で発見したお店がある。変わった名前であることと、店の中に大きな冬瓜(とうがん)が飾ってあったことが入店のきっかけになった。名を「謝花きっぱん店」といい、300年以上つづいている沖縄の伝統銘菓の店だ。扱っているのはふたつの銘菓で、橘餅(きっぱん)と冬瓜漬(とうがんづけ)。

「きっぱん」は中国福州より伝来し琉球王府でも高位のものしか口にできなかった貴重なもので、今では作れるお店がここの一軒だけになったという。沖縄産のミカンでつくられた甘さをかなり抑えた柑橘の芳香を楽しむ上品な菓子。

「冬瓜漬」は冬瓜を砂糖煮したもので口に入れると濃厚で深い甘さが口中いっぱいに広がる。菓子には長い歴史を持つ京都からもお茶請けによいとわざわざ注文がくるとご主人が教えてくれた。

写真のお菓子は「冬瓜漬」

「国際通り」のガイドページへ


謝花きっぱん店
−じゃはなきっぱんてん−

住所 那覇市松尾1-5-14
電話 098-867-3687
営業時間 9:30〜19:00(電話での注文可)   日曜定休

交通
 ゆいレール 県庁前駅・美栄橋駅から7分
 BUS 那覇BTから7分(ルート便多数)−バス停 「松尾」 下車2分
 車 那覇空港より 20分(国道331号線を北上−国道58号線から国際通り方面へ−国際通り周辺に多数あるコインパーキング利用が便利)

国際通り周辺の路地散策についつい夢中になり、時計の針はすでに午後3時を指していた。時間が分かったとたん空腹をおぼえ、牧志公設市場をのぞくことにした。市場本通りのアーケード街はさすがに混んでおり、大半が観光客で占められゆっくりと行き交っている。

市場本通りのアーケード街

第一牧志公設市場の建物の周りにはびっしりと店が並び食材で埋められていた。まだ若い緑色のバナナが房でぶら下がり、マンゴー、パパイヤ、ドラゴンフルーツなど原色鮮やかな果実が山のように積まれ、思わず手が伸びてしまいそうな光景がつづく。フルーツだけでも何店も軒を連ねており、商売になるのかといらぬ心配までしてしまうほどだ。


あとで判ったのだが、公設市場内で売られているのは鮮魚・精肉・総菜・漬物・乾物のみで野菜・果物などは外周の店で補っているようである。その屋内の鮮魚売場にはフルーツ以上にカラフルな魚介が並び、名前も聞き慣れないものが多い。

「オニダルマオコゼ」、「オジサン」、「インディアンミーバイ」、「夜光貝」、「ノコギリガザミ」 ...??? 知っているのは沖縄県魚のグルクンとハリセンボンそして伊勢エビくらいのものだった。

「この赤い魚は何?」「インディアンミーバイさあ〜」「なんでインディアンなの?」「派手だからさあ〜」「....(ハデならインディアンなの?)」

店先で次から次へとしつこく質問しているうちにますます空腹感がつのり、2階食堂で調理してくれるという勧めに素直に乗ってしまった。

左写真:ミーバイ(中央)、赤い魚がインディアンミーバイ 右写真:ミーバイの煮付け

1階店舗で魚を選び料理の種類を決め精算をする。その店の係員が提携している2階の食堂へ案内してくれると同時に食堂へ品物を手渡し料理種類を伝えてくれる手軽なシステムになっている。

ちなみに2階のフロアは7軒の食堂が共同営業しており、その他はお菓子売場、市場管理事務所、トイレなどがある。実はこのあと食べた料理が旨くて、沖縄滞在中ここに3度も通うことになったのである。

左上:伊勢エビとセミエビ 右上:伊勢エビのバター焼 左下:オジサン煮付け 右下:伊勢エビの味噌汁


「第一牧志公設市場」のガイドページへ

牧志公設市場でレイトランチをとったあと、さらに南の奥へと探索の足を伸ばした。細い抜け道や裏道がアリの巣のように走っている。公設市場というと食材だけと思っていたが、奥には雑貨部や衣料部まであることを発見。そしてその奥には新天地市場、農連市場とまだ市場がひかえていた。

小路をめぐるうち”やちむん通り”に出た。

公設市場からほど近いところにあるのだが雰囲気は一変している。あわただしさなど毛ほどもなく、ゆるりとした空気が流れている。

沖縄では陶器焼物を親しみをこめ「やちむん」と呼ぶ。

道の両側にはやちむんの直売所や製陶工房が点々と個性的な看板を掲げている。

軒を連ねるような混んだ建て方ではなく、十分の距離を取って店を構えているので、客も落ち着いて鑑賞できる間がある。


やちむん通りに入ってすぐのところに壺屋焼物博物館がある。細長くひょろっと高い建物なのですぐに見つかる。壺屋焼をはじめ陶器焼物のことが短時間で簡潔に理解できる。

筆者のように焼物に門外漢なら格好の簡易学習センターになってくれる。知識を少し仕入れてからお店を回ると、お店からの説明まで面白くなるから不思議なものだ。

日差しの中に白く浮き上がる東ヌ窯のある建物

焼物もさることながら、製陶工房などの建物も実に個性的。新旧がうまく折り合いをつけたような独特の風情がある。

中でもひときわ年輪を重ねた外観の建物がある。「東ヌ窯(あがりぬかま)」と呼ばれる数多くの名品を生んだ製陶の窯がある建物で、私有地のため外観鑑賞のみとなっていた。

300年以上もつづいたこの焼物の町も太平洋戦争で一面焼け野原となったが、奇跡的に被災を免れたのがこの「東ヌ窯」だった。

ここに陶工が戻り、焼け残った窯で生活道具を焼き始めたのが戦後復興の端緒になったという。

1974年の廃窯になるまで活躍をつづけたこの名窯は、枯淡の瓦が美しい建物のなかで休息をとっている。

周りをぐるりと囲う石垣があるが、その中に組み入れられたシーサーが今ではすっかり風化してしまい獅子のレリーフをとどめていない。

じっくり観察すると、石灰岩の中にかすかに他と違う石が見つかり、うっすらとシーサーの姿が見えてくる...

瓦屋根のシーサーは時代がかなり下った後期に飾られたもので、それでも100年以上は経っているとか。


ひめゆり通りに接するところでやちむん通りが終わるのだが、その端に300年前に掘られたという共同井戸があった。沖縄は昔から渇水傾向にあり、ライフラインである飲料水など用水の確保は最重要事であった。そして水のあるところ必ずあるのが拝所という沖縄の風土。

今まで歩いてきた首里や南部でも、そしてここにもあった。水を享受する素直な感謝が”かたち”になっている。ここの「東ヌカー(あがりぬかー)」は本土と同じ汲み上げポンプの水場になっており、沖縄に来て初めて見たポンプ井戸だった。

今日の午後半日は国際通り、市場、やちむん街と歩き廻ってしまった。観光が前面に出された地域だが、一歩路地に入り込むと街角や路地裏にはしがみつくように生活臭が満ちていた。生活という2文字の漢字はそれぞれに「いきる」と書く。「いきる」ために費やされたエネルギーの跡がたしかにあった。

やちむん通りの案内(拡大)

写真左:ポンプ式共同井戸と拝所         右:焼物の案内板(クリックすると拡大)


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