外交の舞台となった王府の庭、”識名園”       〜沖縄ちょぼ旅 BLOG 32〜

バスが勾配のある坂道を昇りつづけてしばらくたつ。けっこうな高所まで来ているに違いないが、窓の外にはお墓ばかりが目立っている。沖縄独特の町の中でもお目にかかる例の箱庭のようなお墓である。どこでも対面できるが、ここはかなりの数なので霊園なのだろう。

やっと目的の”識名園前”のバス停に着いた。首里城の南に琉球王朝の”識名園(しきなえん)”という庭があるというのでやって来たのだが、その庭園は想像以上に閑静な高台にあった。

番屋からの坂道、樹林の影を落とした涼しげな石畳道

一般観光用ゲートが駐車場の脇にあり、そこを抜けると木陰が溜まった小道がくねくねとつづいている。

庭園では、散策が単純にならないよう直線ではなく、懐を深くみせるためS字を描くように小道を造る。

入ってすぐ右手に正門があらわれたが、屋根を乗せた屋門(やーじょー)という形式の門でかつて琉球王や中国からの正使がくぐったと案内板にあった。

本土では控柱がなく屋根の付いた棟門(むなもん)と呼ぶ形式の門に相当する。

庭園の造りはやはり本土でお馴染みの大名庭園と同じ池泉回遊式であった。ひとつの大きな池が中心に居座り、その周りにさまざまな景色が展開されている。

しかも池のまわりには松が植樹されて和を醸し出している。池から離れて外周に向かうと、歩くにつれ、進むにつれ、新たな風景が生成されてゆく。


歴史上400年の永きにわたり一度の亀裂もなく中国と国交を続けたのは琉球だけである。琉球の国風と文化が中国に合っていたと云うほかない稀有な例だ。しかしその裏には琉球の政治的苦労や努力があったことは云うまでもない。ちょうど徳川家康が三河の小さな一豪族だった頃、近隣の尾張の織田家と駿河・遠江の今川家に挟まれ政治に腐心した情況に酷似している。

                          中国風”六角堂”へはアーチ型石橋で渡る

中国からの正使を接待したこの識名園にはそうした苦労のあとが随所に残されている。

「茶の湯」でも接待したというこの庭園の和趣味は、中国からの客人に琉球のうしろには日本国が控えているいることを暗に匂わすため。

また池のほとりには中国を思わせる黒色瓦2層屋根の”六角堂”が建ち重要な添景となっている。

こういった中国と日本本土を意識したバランス感覚が造園風景でも絶妙な調和を生み出す。そういった面で鑑賞すると実に興趣の湧く庭である。

池の外周南側は庭内で一番の高台になっているが、その那覇市街を展望できる”勧耕台”に面白いエピソードがひとつあった。

ときの琉球王がこの高台で中国からの使節を接待したわけだが、ここからの展望では海がまったく見えない。わざわざ海が見えないところに展望スペースを造ったという。


島国ながらその領土がいかに広大であるかを強調せんがための方便なのだが、そのかいあってか中国の記録には朝貢する国々の中では台湾よりも上位の日本本土に次ぐ位置であったようだ。なんとも微笑ましいアナログ感覚あふれる外交ではないか。

1回の使節団で数百人という中国人が長期間(航海時期が季節で決まっていたため)滞在するわけで、中国からの影響が今もなお色濃く残るのも当然ことなのだろう。ちなみに滞在中の中国高官たちのお気に入り散策コースが首里城からここ南の識名園、そしてもうひとつは首里城の北に位置する”末吉宮(琉球八社のひとつ)”を目指す北コースのふたつであったようだ。

中国との関係を想像しながら庭内を歩くうち、「桔梗」を見つけた。その深くて淡い青の花、日本を強く感じさせる花、まごうことなくここは日本なのだ。

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