2010年2月アーカイブ

美ら海水族館を出て海岸側へ下る長いエスカレーターに乗った。水平線にはうっすらと伊江島の島影が浮いていた。午後深くなっているが、いまだ陽射しは衰えず波立つ海面でキラキラと踊っている。

500mほど北にあるというエメラルドビーチへと歩いていると、海亀ばかりが泳ぐ水槽がいくつも並んでいた。”アオウミガメ”、”タイマイ”、”クロウミガメ”、”ヒメウミガメ”....海亀だけでこれほど種類があるのかと思うほど集められていた。

ゆらりゆらりと涼しげに泳ぐ姿を上から覗き込んでいたら、違う位置からも見学できることを発見した。

ここの施設も水槽底部の横に観察室が設けられており、そこからも観賞できるような設計であった。


産卵時以外陸上にはあがらない海亀。今ではどの種の海亀も世界の絶滅危惧種のリストに指定されているという。

江戸の昔より ”タイマイ” の甲羅を張り合わせ作られる見事な細工の玉かんざしなどが、吉原の一流花魁(おいらん)の髪を飾っていた。ますます べっ甲の装飾品が貴重になってゆくのだろう。

このウミガメ館からすぐのところに「亀の浜(カーミヌハマ)」という名の浜辺があった。遊泳禁止になっているが、浜の表情に変化がありとても綺麗なポイントである。

砂浜の両側が岩礁で閉じられ、岩場の上には多種の植物がたくましく繁っている。季節ごとに色づく花や実をつけそうな景色だ。本当に小さなプライベートビーチと云ってもよい場所だった。

          小さな入り江のような「亀の浜}

なおも北へ進むと今度は 「マナティー館」 なるものが建っていた。この海洋博記念公園がぜいたくなほどの敷地を余すことなく最大有効活用していることが実感される。

さてマナティー館だが一度は通り過ぎたものの、やはり気になり Uターンをした。過去一回だけ見たことがあるが、その時はどこから見ても人魚のモデルになった生物とは思えなかったのだ。

 マナティー館                    メキシコから贈られたアメリカマナティー

今回はじっくり観察したのだが、どんなに想像をたくましくしても人魚にはたどり着けなかった。草食ほ乳類のマナティーの性格はとても穏やかで平和志向、決して他の生物を襲わないとあった。にもかかわらず、このマナティーは海亀以上に種の絶滅が深刻で危惧されている。

我々も少しはマナティーを見習ったほうがよいのだが、瞬間学習はできても持続せず過ちを繰り返すのが人類。残念ながら、そのなおしようのない悪しき本能は歴史が証明している。

今も自然保護で集まった世界会議で展開するのは国益主張の論争ばかり。集まった目的の第一主題は横に置かれたままの議場風景が報道されたりしている。もっとも滑稽な生物は人類だ。


マナティー館から200mほど北に歩くとしだいに緑が多くなり、小さな森のような茂みの隙間から白い砂浜がちらちらと見えてくる。

”オオハマボウ”という常緑樹が巻貝のような黄色い大きな花をつけていた。

芝が整備された公園のような区域に入り、大きくカーブしているところを左へ曲がるとやっとエメラルドビーチが出現。

このビーチは南北に大きく広がった海洋博記念公園の北の終着ポイントでもあった。


遠浅の白い浜辺に出ると海上を渡ってきた潮風が顔をなでてゆく。やや湿気を帯びてはいるが首すじを抜ける風の強さが心地よかった。

ビーチでは浜に立てたコートで4人の若者がビーチバレーに熱中している他は、ひとにぎりの遊泳客が点在する程度であった。ここがあまりに静かで、水族館での人混みがまるで嘘のよう。

どこの位置から眺めても白砂と海がフラットに広がっており、心ばかりの樹木以外岩礁ひとつ無く変化に乏しい浜辺である。リゾートのような美しさはあるものの、人工ゆえのやや無機質な表情を見せる。

盛りを過ぎるときに放つ強い陽射しが海面を焼いている。本日の終着駅になるこのエメラルドビーチでゆったりと休息をとった。

ある外国の港町にあった言い伝えに、海辺にいると一日のある短い時間帯だけ自分の帰りたい過去への扉が開くという。

その時間帯を土地の老人は風の止まる朝と夕の凪(なぎ)の瞬間だと云い、若者は潮の干満の交代する瞬間だと主張した。

つまり若者の主張は、潮の干満は月の引力と地球の自転による遠心力のなせる技であり、地球の自転は24時間、月が地球を1周するのは24時間と50分かかるわけで、潮目の変わるこの余分の50分間だと云ってはばからなかった。

港町の住人が若者の主張の方がありえると口ぐちに噂をするようになった頃、凪だと主張していた老人が町から消えてしまう。そして数年後、空瓶に入った老人の手紙が岸に流れ着く。そんな民話だ。

このエメラルドビーチでも今は風が止んでいる。海風から陸風へ変わる凪になったようだ。


「海洋博記念公園」のガイドページへ


本日の訪問地は恩納村(おんなそん)で唯一訪れていなかった真栄田岬(まえだみさき)。

本島中北部の東シナ海に面した恩納村はリゾートビーチを数多く有していることで名高い。

しかし断崖がそびえ立つ絶景の岬となると、名勝「万座毛」 と今日ターゲットにしているこの「真栄田岬」のふたつくらいのものである。

少し前に恩納村のビーチ巡りを敢行した時は、北部の「かりゆしビーチ」から何日もかけ南部の「ルネッサンスリゾート」まで歩き通したが、最後の南地区にある「真栄田岬」だけを残してしまっていた。

バス停 「久良波」で降り 岬へ強行アクセスすると、まもなく岬へとつづく遊歩道が見つかった。

綺麗に整備された遊歩道は深閑と静まり、葉陰を焼き付けた路はどこまでも長く伸びている。

途中に東屋風の休憩所もあり、とても歩き心地のよいプロムナードだ。


ところどころ東シナ海を見下ろす絶景の場所に出たり、再び樹林の繁るドーム路になったり、また時には”キバナランタナ”や”テイキンザクラ”の花が色づいていたりと、まことに飽きさせない道程(みちのり)である。

         キバナランタナ               テイキンザクラ

路にかぶさるように繁っている木々の向こうから、うっすらと笑い声が聞こえてきた。遊歩道に入ってから初めて聞く人声だった。

広く開かれた場所に出ると、崖上から100段近い階段が一気に海まで下っている光景が目に入ってきた。シュノーケルやダイビングスーツを身に付けた人たちが元気よく階段を降りている。階段先の海に接するところがダイバーたちのエントリーポイントになっているようだ。

階段を通り越しそのまま進むと「真栄田岬」と刻まれた石標が置かれ、その向こうには建物がひとつ現れた。まだ建って間がないのか太陽のもと白い壁がまぶしいほど輝いていた。

中ではダイビング用品がズラリと並べられたショップや軽食が取れるテーブル席のあるコーナーが設けられており、オープン・フリー・スペースではダイビング講習がグループごとに展開されていた。この施設は恩納村の村営であるらしい。

                           小屋掛けの簡易食堂から撮った村営施設

ふと見ると建物のそばに よしず張りの小屋掛けが仮設されている。東京の祭礼時に見かけるくらいの微笑ましい簡易食堂だった。

そのつましいたたずまいに親近感を覚え、小休止を取ることにする。

休憩しながら近くにあるという「青の洞窟」の場所などの情報を店主に尋ねてみた。「青の洞窟」というのは、真栄田岬に多くのダイバーが集まる大きな理由のひとつだ。

海に半没した洞窟で、上部に開いたところから射し込む太陽光が白砂の海底に反射し海面が青く光り、とても幻想的だという。沖縄有数の人気スポットらしい。

先ほど通り越してきた階段から80mほど北にあるとのこと。つまり今まで歩いてきた遊歩道の崖下にあったというわけだ。もっとも崖上からはアクセスできないのだが。


その洞窟へは船かダイビングでアクセスするが、干潮時にはあの階段下から崖下の岩場沿いに行くことができるので、気軽にシュノーケリングで楽しむ人も多いとか。

また洞窟に限らずこのあたりには多種の海洋生物が生息するらしく初級・ベテランを問わず多くダイバーが集まる大人気のマリンスポットになっている。

休憩後は岬の遊歩道散歩を再開。崖上の展望台からは南西に読谷村の残波岬、北東には万座毛、海上には伊江島が臨める。崖下では底まで透き通るような海で魚と遊ぶ人たちの風景が展開していた。

この真下に青の洞窟が             ただ今、シュノーケリングに熱中

途中遊歩道からはずれ、海面に近いところまで降りてみた。凹凸の激しい岩肌が先端まで続いており、ところどころに海水溜まりができている。海からとり残された魚たちがひなた水で機嫌よく泳いでいた。

足元さえ注意すれば、ダイバーでなくとも充分海を楽しめる岬海岸である。およそ3時間にわたり楽しんだ真栄田岬に別れを告げるべく遊歩道を戻っていると崖上を舞うパラグライダーに出会った。崖上ぎりぎりを風にのり滑空してゆく。頭上を過ぎる瞬間、空中と地上で暗黙のHELLOが交叉する。

崖の上や下で気持ち良く舞っている人たちが、とても似合う真栄田岬だった。


「真栄田岬」のガイドページへ


真栄田岬を訪れたついでに「琉球村」に寄ってみた。今まで恩納村まで出かけるたびにバスの窓越しに見えていた「琉球村」だった。

建物内に入ったが内部はショップやレストランばかりの明らかに観光客目当てのものばかりが並んでいる。

文化の香りなぞ、かけらも見当たらない。中ほどに「琉球村」の入口が設けられていた。

建物内部が二重構造になっており、観光客向けのフロアを通らなけらば「琉球村」に入れない商売っ気の強いつくりなのである。

Uターンして他を回ることも頭をよぎったが、真栄田岬で時間を使い過ぎていたため陽射しも傾き始めていた。仕切り直しをするほどの時間は残されていない。今日は流れのままで行こう。

入口横で入場券を求め「琉球村」に入場すると、入口から細く地味な一本道がつづき石垣にぶつかりながら右へ大きくカーブしているのが見える。観光客向けのフロアの雰囲気とは一変していた。

壁を埋め尽くす魚の絵

単なる石垣と思っていた壁にはすごい数の魚の絵が描かれており、ほのぼのとした いい味の絵ばかりだ。魚名も沖縄での呼び名が書き込まれているので、ゆうに100を超えるこれらの魚介類はすべて沖縄の海で捕れるのだろう。

「琉球村」のメイン展示は築100年以上の古民家であるらしい。200年も経つ旧中曽根家では上がり込んでお茶も飲めるらしく、すでに先客がおさまっていた。他の古民家でも機織りや紅型、藍染めなどの教室が開かれている。

琉球音楽をやっている旧島袋家の向こうには池が設けられていたが、古民家の見学よりもなんでもない池のほとりの一風景に惹かれた。

                  池の近くにはこんな情景も

7軒の古民家の終わるところにあったのは小規模ながら製糖工場。その前で さとうきびを搾る砂糖車を曳いている水牛が古き良き琉球を偲ばせる。

そして順路の最後は沖縄の陶芸 ”やちむん” だった。細長く横たわる陶芸工房の中では焼き物の制作も触れることもできるが、触る程度で焼き物が判るはずもなくサラリと見学。

興味を覚えたのは屋根の赤瓦に飾られた作品の数々。すべてこの工房で創られたシーサーばかりだ。実にユニークな作品が多く、「琉球村」で一番気に入ってしまった。

さらりと回ったためか、あっという間に見学が終わってしまった。しかし長い壁画の魚たちや赤瓦の上にいたシーサーたちとの遭遇は良い出会いであった。

日が暮れるまで今すこし時間があるようなので、この山田という町を歩くことにした。「琉球村」のあるところはうっそりと樹林が繁る山間なので、住宅地のある北に向かって歩くことにした。

花にさほどの関心があるわけでもないのに、道端に咲く花がやたらに目につくというのはどういうわけなのだろう。沖縄という環境変化のせいなのか、見慣れぬ花のせいなのか。

東京にいるときは、桜だ、牡丹だ、菊だ、と大向こうをうならす花ばかりを見ていた筆者には、野辺に咲く花が妙にまぶしく映る。また見知らぬ町の民家で舞う風見鶏まで、とても新鮮な情景のように映じていた。


「琉球村」のガイドページへ


沖縄へ来て1ヶ月が過ぎようとしていた。移住したわけでもないが、すっかり沖縄の空気に慣れてしまった。まだしばらくはここ那覇にいられそうなので、バスや歩きを中心にした ”ちょぼ旅” をつづける。

本島を巡るとき幹線道路となる国道58号線だが、何度バスで往復したことか。窓外に広がる沖縄の風景のなかで、前から気になっていた広大な敷地を占有している米軍基地。

Marine Corps Air Station (普天間海兵隊飛行場)

那覇から58号線を北へ向かうと浦添のキャンプキンザー、宜野湾の普天間飛行場、北谷(ちゃたん)のキャンプフォースター、嘉手納(かでな)の飛行場と延々とつづいている。

戦後65年も経つが、多くの米軍基地が本島のいたるところを占有している限り、県民にとって忘れたい戦争の記憶も薄まりようがないのではなかろうか。

本日は日本復帰前の町並みを想起させる宜野湾の町歩きを思い立ったので、58号線沿いの大山でバスを降りてみた。

まるで米国ロス郊外に見られるような町並みだった。

出入国を繰り返す米軍駐留のアメリカ人向けのためか、店頭の看板はほとんど英語で表記されている。家具やキッチンウェアから古着まで多種の店が軒を並べていた。

戦火で荒れた町をいち早く復旧するためには、駐留米人の消費は欠くことのできない絶対条件であったろうことは想像に難くない。長い風雪を刻みながら復旧し変遷してきた名残りのようなものをこの町から感じとれる。

このあたりは観光地区ではないが、軍から払い下げられた品や古着など面白いものが多く発見できるので旅行者にとっても気軽にショッピングができる通りである。またハーレーダビッドソンや美術彫像や大型置物の専門店なども点在しているのでお好きな向きにはけっこう楽しめる穴場ではなかろうか。

                            国道から海岸へ向かう静かな横道

58号線沿いに普天間飛行場への入口を示す案内があった。

移転問題ですっかり有名になったこの長大な敷地の米軍海兵隊施設は宜野湾市の中央部をほとんど占有している。

基地はいずれもセキュリティで固められており、せいぜい広大な敷地の外周をめぐるのみであった。

外周を歩いて想い起こされたのは、東京朝霞の米軍キャンプのことだ。今は東京都に返還され 「光が丘公園」 となり、都民の憩いの場として利用されている。

朝霞米軍キャンプの跡地を歩き、その広さに改めて驚いたことを鮮明に記憶している。一日でも早く普天間の米軍施設地が返還され、県民に活用されることを願うばかりだ。

しばらく国道58号線を歩いたが変化がなくなってきたので、宜野湾警察の先を西の海岸方面に曲がってみた。

その通りは国道58号線とはうって変わって、静かで緑たっぷりの道だった。ところどころに置かれた像がポーズをとっている。

その通りの右手に県立の宜野湾高校が現れた。道路沿いに飾られている生徒の絵がどこまでも長くつづいている。グラウンドでは生徒が放課後の活動に熱中しており、どこか のどかな風景で懐かしささえ感じとれる。

『この地域は太平洋戦争後 米国に接収され、キャンプマーシーが建設された。そして30年の歳月が過ぎた昭和51年3月31日にようやく返還され、市立真志喜中学校、市立総合グラウンド、県立宜野湾高校、宜野湾警察署など公共施設がいち早く建設された』と記念石碑に刻み込まれていた。




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