2010年5月アーカイブ

    このむせ返るような緑の光景は県道84号線沿いの中山あたり

周りの景色を見ながら歩いているとジャングルにいるような気分に陥る。県道が無ければ確実に方向感覚を失ってしまうだろう。

伊豆味パイン園から県道84号線を歩き、本部町から名護市に入ったばかりの中山地区だ。大自然の中を歩いているようだが、この通り沿いには一定の間隔でショップや観光用スポットがあったりして退屈することはない。

今もまた新たな看板が見えてきた。「OKINAWA ゴーヤーパーク」とあり、水耕栽培されているゴーヤーの菜園らしい。藤棚のようなところからぶら下がるゴーヤーを観ても、あまり感動するとも思えないのでパス。

沖縄そばの前を過ぎた時、山羊(ヤギ)の鳴き声が聞こえ慌てて立ち止まった。

声のした方を振り向くと子ヤギの可愛い瞳がこちらをじっと見ている。

遠目にそば屋があることは判っていたが道の反対側を見ながら歩いていたので視野に入っていなかったのだ。

そば屋の前にまるで番犬でもつなぐように無造作につながれていた。

あまりの人なつっこさにほだされ、しばらく子ヤギ相手に遊んでしまった。

沖縄ではヤギのことを ”ヒージャー” と云う。この沖縄とヤギの関わりは歴史も古く、また深い。沖縄の食文化を語るうえで欠かせないものである。この慣習は本土には無く、日本では沖縄だけのものと云ってよい。

しかしアジア圏ではほとんどの国が常食としており、一般的でないのは日本本土くらいのようだ。沖縄では古くより良質のタンパク源として重宝され、大きい豚は売却用、小さいヤギは家庭用として飼育されてきた歴史を持つ。

しかしディープな沖縄食文化に挑戦するほど食い意地は張っていないうえに、こうやって親しく子ヤギと遊んでしまった。今回の沖縄旅行では間違いなく、この食文化の冒険はパスすることになるだろう。

可愛いので頭などをなでたりしてしまうが、しばらく放っておくと逆にいたずらを仕掛けてくる。思わず店主と交渉して連れて帰りたくなってしまう。しかし連れて返る家がない身なのだ。

名残りは惜しかったが、すっかり親しくなった子ヤギに別れを告げ旅を再開した。

しばらく歩いていると「為又北」と書かれた交差点にぶつかった。北は読めるが為又を何と読むのか。

どんなに想像をたくましくしても ”びいまた” などと読めるわけもない。

漢字をあてないで ひらがなで表記してもらいたいものだ。

左手に「名桜大学」への案内があった。 《キャンパス風景もまた楽し》 である。 「びいまたきた」を左折し寄り道をすることにした。

名桜大学の野球場に着いた頃、空模様が急変してきた。沖縄に来て1ヶ月半だが雨に降られたのは2度だけである。まったく台風にも遭遇しないというラッキーの連続であった。

だが少ない雨だが降ったらすごい。英語でどしゃ降りを 《Cats & Dogs》 と表現したりするが、ここの雨はそんな小動物の可愛らしいものではない。ド迫力のシャワーだ。

一瞬の躊躇もなくUターンし、県道84号線に戻るべく道を急いだ。青空だった中天が今は雲で覆われ白黒映画の一シーンのように見える。片道は確か10分ほどであったはずだから急げば6,7分で県道へ戻れる。交差点には雨宿りの建物が何かあったはずだ。

走ればすぐに戻れるが雨が降らないと走らない、でも雨をシャワーのように浴びるのはいや、まったく我ながら勝手なものである。生来がなまけ者なのだろう。

                          一天にわかにかき曇り大雨が落ちそう

雨が落ちる前に県道84号へ戻ることができた。

しかし空は水を吸い込んだたゴム毬が破裂寸前といった様相だ。

交差点近くにあった「OKINAWA フルーツらんど」という施設に飛び込もうと決め、歩をゆるめスナップショットを1枚。

これがいけなかった。シャッターを押した瞬間にポタ! ボタ! バタ! ザバー!...最悪の直前シーンが右の写真である。

思いっきり走ったが目の前の「フルーツらんど」に飛び込むまでの10数秒で全身が泳いだあとのようにズブ濡れになってしまった。

しばらく亜熱帯のシャワーを眺めながら、子ヤギはどうしているかと考えていた。

困っているのか喜んでいるのか想像をめぐらせていたが、いっこうに雨は止む気配を見せない。

とてもヒマなので入園することにした。入園料は800円もした。


入口を通り抜けると長い歩廊の両側には熱帯植物が空間を占有するように溢れ出していた。トロピカルフルーツばかりが大集合している。

「フルーツらんど」内をゆっくり観て歩くと小一時間ほどかかる。入口の間口に比べ、内部は奥行きも深く結構な広さだった。

パパイヤの未成熟の実がすずなりに

ドラゴンフルーツ、レンブ、パッションフルーツ、グァバ、マンゴー、スターフルーツ、パラミツなどトロピカルフルーツの果樹園が前部を占め、その向こう側に鳥と蝶のエリアがある。

存在は知っていても食べたことのないものばかりが、たわわに実っている。気が向けばこの施設にあったフルーツパーラーで試食をしてもよい。

ところで沖縄ではパパイヤを二通りの食べ方をする。ひとつ目はお馴染みの熟したものをフルーツとして、もうひとつは未熟果の青いものを野菜のように食する。

まだまだ青いパパイヤを千切りにし油で炒めると、沖縄独特の一皿となる。

パパイヤはタンパク質を分解するパパイン酵素を多く含むため、肉などと合わせると柔らかになった肉と食感のよいパパイヤの乙な料理が出来上がるという。

熟したパパイヤにはこの酵素がまったく無くなるので未熟果のみできる料理である。

ところがマーケットに並ぶパパイヤは通常オレンジ色に熟したパパイヤばかり。そのせいか沖縄の個人宅の庭にはパパイヤの木が普通に植わっている。

果園を抜けると「バタフライゾーン」という場所に行きあたり、その入口の歩廊にはおびただしい数の蝶の標本が展示されていた。

蝴蝶園の中では生きた大きな蝶 ”オオゴマダラ” が室内中を舞っている。その頼りなげに飛ぶ蝶を観察しようと、隅に置かれた椅子に座ろうと近づくとすでに先客がいた。

 自由奔放に舞うオオゴマダラ(左) SF映画に登場しそうな黄金のサナギ(右)

何匹ものオオゴマダラが椅子にとまっている。羽を休める蝶を追い立てる気にならず、他を見学するため移動した。蝴蝶園の一隅にオオゴマダラの”さなぎ”が大事に保育されていた。黄金色に輝いていた。まるでSF映画のひとコマのようだった。

バタフライゾーンの右翼にはバードゾーンがあり、フクロウの ”アオバズク” やヤンバルクイナの親戚 ”シロハラクイナ” などけっこうな数の鳥類も飼育されている。

表に出るとすっかり雨は上がっており、ちょうど手頃な雨宿りとなった。バス停に向かいかかったが、雨上がり直後の空気がとても気持ちよく、一気に名護市街地を目指して歩き始めていた。


「OKINAWAフルーツらんど」のガイドページへ


原稿の締切に追われ徹夜になってしまった。なんとか明け方に送付したが、すっかり午前中が台無しになってしまった。

淹れたばかりのコーヒーを抱え、バルコニーで意識を覚醒させていると、大きな音が耳に突き刺さった。バルコニーがら見下ろすと乗用車とバイクの接触であったようだ。でも大丈夫、幸いに両者とも無事なようだった。

                                博物館横の新都心公園へつづく道

我が宿舎にしている長期旅行者用マンションのある”おもろまち”はかなりの交通量がある。那覇の新都心として定着し最近では人の出入りが多いと聞く。

今日は午後しか自由時間がないので、今まで行けなかった近所にある博物館を訪ねることにした。

このあたりは戦後、米軍の住宅地として40年ものあいだ接収されていた地区であった。

昭和62年(1987)5月に全面返還されたが、那覇新都心開発整備事業は平成に入ってから実施されたものである。

博物館のまわりに配置された合同庁舎や新都心公園なども新しい町だけにゆとりのある区画整備がされており、道路も線を引いたように真っ直ぐ伸びている。

沖縄県立博物館は宿舎のマンションから徒歩で7、8分のところにある。今まで日々の買い物で何回通り過ぎたことか。今日初めて入館することになる。

軽い運動がてら新都心公園経由で博物館へ出発する。しっかり汗をかいたあと博物館に到着。ゲートをくぐると正面入口の手前がパティオのようになっており、そこは琉球民家や高倉を設置した屋外展示場になっていた。

琉球の古城(グスク)をイメージしてデザインされた大型建物で、左翼は博物館、右翼は美術館として使い分けていた。

前庭エリアの屋外展示場

内部展示は分野別に整理されているのは云うまでもないが、その網羅ぶりの豊かさには驚いた。

沖縄に関わる人文科学、自然科学、両系統を細大漏らさず封じ込めたように思えるほどだった。

お手軽なテーマパークもよいが、たまには真摯に博物館と向き合うのも深い。

どっぷりと沖縄の勉強をし博物館を出ると、太陽が傾き始めていた。


日が沈むまでにはもうしばらく時間がありそうなので、この近所で以前より気になっていた場所へと向かった。

博物館から”ゆいレール”のおもろまち駅方面へ歩くと6、7分で右手に小高い丘が見えてくる。丘の上には個性的な形状をしたタンクが遠目にも見てとれる。

このタンクには旅行第1日目に気付いていたので、すぐに調べて那覇市水道局の給水タンクであることを知っていた。しかしその後滞在中に調べていた沖縄戦争の資料に、この丘のことが記述されており重要な事実が浮かび上がっていた。

それからはこの丘のことが気になり、県庁前にある那覇市歴史博物館などをのぞきながら少しづつだが調べていた。

3ヶ月におよぶ沖縄戦の中盤に戦局を左右する極めて重要な戦いが、この丘で繰り広げられていたという事実である。昭和20年(1945)5月12日から1週間にわたって日米両軍がこの丘を取り合い激戦となった。

この丘を米軍は「シュガーローフ」と名付け、日本軍は「安里(あさと)52高地」とか「擂鉢山(すりばちやま)」と呼んでいた。ちなみに硫黄島で獲り合った小高い山も「擂鉢山」と云った。

  現在のシュガーローフ、頂上に造られた白い給水タンクが夕陽に赤く染まり始める

丘に着いたのでさっそく登り階段を上がってみた。下から見上げたときは小高いという表現をしたが、実際に登ってみると相当な高度があり視界域も広かった。戦時下では重要なポイントになったであろうことが理解できた。

米軍のノルマンディー上陸が世に云う ”D−デイ” だが、それをはるかに超える規模で沖縄進攻作戦の上陸 ”L−デイ” が敢行された。その沖縄戦で最も米軍がてこずり、多数の死傷者と心神耗弱者を出すほど恐怖したのがこのシュガーローフの戦いであったと米軍側の記録にある。

日本軍は硫黄島に匹敵するほどの戦いを展開し、米軍はこの小さな丘を制圧するのに1週間の時を費やし、初動に投入した中隊が小隊、分隊となり、ついには丘の土に消えていったと米軍人の手記も残されていた。

一方日本側も正確な記録こそ残されていないが多大な犠牲を払ったことは云うまでもない。

硫黄島は1949年にジョン・ウェイン主演による「硫黄島の砂」で映画化され、最近ではクリント・イーストウッドにより映画化されるほど有名だが、「シュガーローフの戦い」を知る人はほとんどいない。

シュガーローフが制圧された後、日本軍は首里を捨て南部への消耗戦へと展開し ”ひめゆり”を代表とする南部各地での悲惨な戦禍が現出してゆく。しかし実際のところ、ここシュガーローフでの決戦で事実上の決着がついていたと云えるだろう。

今は給水タンクで占められ、まわりには可愛い展望台と一握りほどの安里配水池公園があるばかり。両軍が多大な犠牲を払った丘は、今は何事も無かったように夕景のなかで静まりかえっていた。


参考文献:「沖縄シュガーローフの戦い−米海兵隊地獄の7日間」 J.H. ハラス著 光人社刊
       「新都心物語」 那覇新都心地主会発行
       「那覇市史 通史篇 第3巻 現代史」 那覇市歴史資料室 市史編集委員会


「県立博物館」のガイドページへ


沖縄の歴史を調べると、ある特徴に気がつく。どこの国よりもどの地域よりも、戦いつまり戦争が極端に少ないのである。

しかし日本本土や各国の中世史にみる戦乱期の例にもれず、沖縄にも戦国時代はある。その時代に相当するのが13〜15世紀の北、中部、南に有力地方豪族が覇を競った三山時代である。沖縄の長い歴史の中で戦争らしい戦いはこの時くらいなものである。

太平洋戦争の沖縄戦、江戸初期の薩摩・島津軍の侵攻などは外的理由による戦いで彼らの望んだことではなかった。

そんな沖縄の戦国史の中で王朝系譜以外で名をとどめている武将が2人だけいた。ひとりは”護佐丸”、すでに座喜身城や今帰仁城の記事でふれた。琉球尚氏王朝の礎に貢献した第一功労者である。そしてもうひとりがここで紹介する勝連城跡の城主であった”阿麻和利(あまわり)”だ。

青空に溶けるようにそびえる勝連城の石壁

阿麻和利が最後の城主となったのだが、それまで9代の城主が入れ替っている。

民からすっかり信望を失っていた前城主を計略をもって滅ぼし、その座を奪取した阿麻和利はまさに戦国乱世に生きた梟雄と云える。

しかし一方では地元の民を助けたり、城下町として発展繁栄させる手腕も優れていたと思われる。

往時には本土の鎌倉にも匹敵するにぎわいを見せていたと記録にある。

阿麻和利の出自は判然としないが、西部北谷(ちゃたん)の出身者で若くしてこの地へ移住、身分は一介の平民であったという。

そんな勝連城を那覇から1時間半もバスに揺られて訪ねてみた。

本島中部の東側にある与勝半島、その根元に位置する勝連城跡は絶好の立地に恵まれていた。

標高100m に満たない高台に築城されているが、周りには眺望を妨げるものも無く四方の見晴らしは素晴らしい。しかも南西の足下には港まで備えている。

用途に応じて城内の敷地を囲い込んだ石垣や土壁を郭と呼ぶが、ここ勝連城では曲輪(くるわ)と称していた。このグスクはもともと5つの曲輪で構成されていたようだが、現在は3つまで調査・復元されており、半世紀を超えた発掘調査は今もつづいている。

県道から少し入ると城壁が見える。まだ入城していないと思っていたら、そこがすでに四の曲輪内であった。今この四の曲輪が発掘調査中とのこと。順次段々畑のように石段を昇り一の曲輪の最上段へと至る。

                         「四の曲輪」の景観

階段を昇り城壁内に踏み入るとそこが三の曲輪になる。

ここの用途は時代の変遷とともに変化したようだが後期は舎殿前広場として儀式などを執り行っていたと推定される。

小階段を昇ると二の曲輪の領域である。

城内でメインの建物になる舎殿は二の曲輪に建っていたが、今は礎石のみが残っている。

一番の高所となる一の曲輪は見るからに手狭な平地であった。当時は何連かの建物が建っていたようだ。

眺望は素晴らしく、南西方向には中城湾、その先の陸影には中城城(なかぐすくじょう)までが視認できる。

15世紀のことである。琉球王府のあった那覇首里城と猛将の阿麻和利のいたこの勝連城、距離にして20kmあまり。そしてそのちょうど中間に位置する中城城には王位をうかがうほどの実力者、護佐丸がいた。

尚巴志(しょうはし)が護佐丸と共に三山を統一し琉球王朝の覇者となって30年が過ぎようとしていた。王位には巴志の七男、尚泰久が継承していたが、護佐丸と阿麻和利の両者に対する警戒心はかなり強かったことが想定される。

そしてこの三者は微妙な外戚関係にあった。護佐丸の娘を妃にしていた尚泰久はすでに娘をもうけており、その百十踏揚(ももとのふみあがり)という名の娘を政略結婚として阿麻和利に嫁がせてもいたのだ。つまり琉球王であった尚泰久にとって義理の父が護佐丸で、義理の息子が阿麻和利ということになる。

 勝連城から南西方面を望むと中城湾が広がり、その向こうには中城城が遠望できる

1458年、その危うい均衡が崩れた。阿麻和利が護佐丸の中城城を急襲したのである。その変に応じきれず、三山時代以来の雄であった護佐丸は自刃した。

阿麻和利のこの行動には諸説あり、護佐丸の叛意を王府へ報告し急襲する許可を願い出て許されたという説や尚泰久がそうなるように阿麻和利へ画策したとの説などがある。いずれにせよ警戒していた両者を戦わせるのは王府にとって最上策であったことは疑いようがない。

阿麻和利は護佐丸を倒した勢いを駆って、今度は王位を狙い王府首里城を目指した。しかし夫の反逆を察知した王女の百十踏揚が、武将 大城賢勇ひとりを伴いひそかに勝連城を脱出。そしてひと足早く王府首里へ帰城していた。

万全を期して迎え撃った王府軍が大勝したことは云うまでもない。尚泰久の王府軍は勝連城に退散した阿麻和利を猛追し、遂にこの城を陥落させた。

王座を狙うほどの阿麻和利だったが、王女ひとりの心が獲れなかったのである。

1458年という年に、戦国乱世に生きた実力者2人が相前後して落命することになった。

これで尚氏王朝の安定と繁栄が約束されたと誰しも思ったに違いない。ところがこれより10年ほど経った1470年には、この王朝は滅び第二尚氏王朝にとって代わられるのである。

ゆっくりと時間をかけて郭内を散策しながら、そんな当時の出来事に思いを馳せる。

二の曲輪の北側にはウシヌジガマと呼ばれる小さな洞窟があった。この洞穴は脱出用のものらしく城外へと通路がつながっているという。

                                ウシヌジガマ

なぜ阿麻和利がこの脱出口を利用しなかったのだろう。

己が天命をここまでと思い定めたのか、王府軍の攻め方と包囲網が凄まじかったのか、今となれば想像を巡らせるばかりだった。

一方自分の行動で未亡人となった百十踏揚のこと。名に付いているように百を十回くりかえすほど”とこしえ”に、踏みあがるとは他より優れているという意で”美”を備えた王女は再婚をしている。

相手は勝連城からの脱出行を共にした大城賢勇だった。しかし大城もその後起こった王府内乱で落命をしてしまうという、どこまでも良縁には恵まれない王女であった。

織田信長の妹、お市の方がたどった生涯に酷似している。お市も越前浅井長政に嫁し、実兄信長に攻め滅ぼされ夫を失い、後添いとなった柴田勝家も短命であった。

違うことはお市は勝家の死とともに自害し、百十踏揚は静かに余生を送ったことか。

同じ二の曲輪には幅17m、奥行き14.5mの舎殿跡がある。礎石が残りその遺構から建物の大きさが想像しやすい。そこにじっと立っていると、当時の生きていた彼らの鼓動が聞こえてきそうだった。

    二の曲輪跡、礎石が残り舎殿規模が判る


「勝連城跡」のガイドページへ


早いもので沖縄に来て1ヶ月半も経ってしまった。これくらい滞在するとそれなりに知り合いができるものである。そして些少ながら知識も増えてゆく。

やはり年配の方から教えていただくことが多く、質問の連射にも根気よくお付き合いを頂いている。ときどき困るのは”ウチナーグチ”と呼ばれる沖縄方言にぶつかり何度も聞き返してしまうことだった。そして未だに沖縄方言だけは頭の中で整理はおろか脈絡すら ついていない。

本日の訪問地は北谷(ちゃたん)の町にした。その北谷町にあるアメリカンビレッジやサンセットビーチなどを訪ねてみるつもりでバスに乗った。

フェンスで固くガードされた米軍キャンプ内には軍用車両が

本島をあちこち廻りながら不思議に感じていたのが、本島における米軍施設の多さである。各米軍敷地の広さも半端ではない。

戦後65年もの歳月が流れているにもかかわらず、国道58号線沿いだけでもその占有ぶりは旅行者の目には異常に映るほどだ。

これが日米条約による防衛戦略上のものだと理解しているが、現実の沖縄を見ると占領下にあった沖縄の風景にダブってしまう。

もっとも実際の占領統治下の沖縄はこんなものではなかったと思うが、イメージが同盟というより統治下の占有に近い。

58号線ルートにも占領下の名残りなのか、「航空隊入口」とか「軍病院前」という名のバス停がある。今日訪問しようとしている”アメリカンビレッジ”はこの「軍病院前」が近いが、少し米軍キャンプの周辺を歩きたかったのでひとつ手前の「北谷(ちゃたん)」で降りた。

国道58号線沿いには切れ目なく米軍キャンプが連なっていた。”キャンプフォースター”、”キャンプレスター”、”嘉手納エアベース”と北へつづく米軍キャンプは、いずれも広大な敷地を有していた。フェンス越しに見ただけでも、かくも広き土地が必要なのかと思えるほどだ。

                               バス停 「軍病院前」

軍病院前のバス停に着くと大きな観覧車が見えてきた。観覧車が複合施設アメリカンビレッジの目印だ。

観覧車のある方へ向かうと、小さな川が流れており両側にはショップやシネコンなどの建物が密集している。フードコートにボウリング場まであった。

ショップはアンティークジーンズから輸入雑貨まで幅広く、ウィンドウショッピングだけでも楽しめるだろう。

食事も方もかなりの種類を網羅したフードコートになっており、ガイドページでもすこしふれたがデポズ・ガーデンというレストランでは典型的なアメリカンプレートも体験できる。

ちょうどお昼どきだったのでメキシコ料理のタコスをテイクアウトし、川のそばに設置されている屋外テーブルで楽しんだ。

食後軽く一周したが米国都市にあるショッピングモールと同種の匂いであった。

アメリカンビレッジは2004年に完成した施設だ。1981年に返還された米軍施設”ハンビー飛行場”の跡地が再開発され、このアメリカンビレッジと南部の北谷公園が造成されたのである。

ちなみにこの北谷町の半分以上がまだ米軍施設によって占有されている。文字通り、このあたりはアメリカ村なのである。

アメリカンビレッジに隣接してサンセットビーチがあるので、そちらの海岸線へ向かった。

こぢんまりとした人工ビーチが出迎えてくれた。町なかにある利便性の高いビーチらしく機能を重視した造りである。

足まわりが良いので簡単に夕景を楽しんだり、ビーチでバーベキューパーティーを開いたりと手軽に利用できる施設になっていた。


ビーチそばには あたりを睥睨するようにひとつの高層ビルが建っている。ザ・ビーチタワー沖縄というホテルだった。周辺は都市型リゾートの環境が整っているので短期滞在には手頃の宿舎になるだろう。

 清潔で可愛らしいサンセットビーチ

今日は格別に暑かった。湿度をたっぷりと含んだ空気が陽にあぶられて一気に温度を上げているようだ。ビーチぎわにちょうどよい木陰を見つけたのでしばらく涼をとることにした。

夏を誇示する入道雲を眺めているうちに、セミの声を追いかけていた遠い日に戻っていた。気がつくと空いていたビーチがしだいに混み始めている。沖縄駐留の米人家族と思しき客の多いこと。

このサンセットビーチやアメリカンビレッジを中心にした北谷町は北に浜川漁港、南には北谷公園を有している。どちらに向かうか迷いながら、騒がしい英語が飛び交うビーチを後にした。


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