夢と野望に散った戦国武将のグスク、勝連城     〜沖縄ちょぼ旅 BLOG 68〜

沖縄の歴史を調べると、ある特徴に気がつく。どこの国よりもどの地域よりも、戦いつまり戦争が極端に少ないのである。

しかし日本本土や各国の中世史にみる戦乱期の例にもれず、沖縄にも戦国時代はある。その時代に相当するのが13〜15世紀の北、中部、南に有力地方豪族が覇を競った三山時代である。沖縄の長い歴史の中で戦争らしい戦いはこの時くらいなものである。

太平洋戦争の沖縄戦、江戸初期の薩摩・島津軍の侵攻などは外的理由による戦いで彼らの望んだことではなかった。

そんな沖縄の戦国史の中で王朝系譜以外で名をとどめている武将が2人だけいた。ひとりは”護佐丸”、すでに座喜身城や今帰仁城の記事でふれた。琉球尚氏王朝の礎に貢献した第一功労者である。そしてもうひとりがここで紹介する勝連城跡の城主であった”阿麻和利(あまわり)”だ。

青空に溶けるようにそびえる勝連城の石壁

阿麻和利が最後の城主となったのだが、それまで9代の城主が入れ替っている。

民からすっかり信望を失っていた前城主を計略をもって滅ぼし、その座を奪取した阿麻和利はまさに戦国乱世に生きた梟雄と云える。

しかし一方では地元の民を助けたり、城下町として発展繁栄させる手腕も優れていたと思われる。

往時には本土の鎌倉にも匹敵するにぎわいを見せていたと記録にある。

阿麻和利の出自は判然としないが、西部北谷(ちゃたん)の出身者で若くしてこの地へ移住、身分は一介の平民であったという。

そんな勝連城を那覇から1時間半もバスに揺られて訪ねてみた。

本島中部の東側にある与勝半島、その根元に位置する勝連城跡は絶好の立地に恵まれていた。

標高100m に満たない高台に築城されているが、周りには眺望を妨げるものも無く四方の見晴らしは素晴らしい。しかも南西の足下には港まで備えている。

用途に応じて城内の敷地を囲い込んだ石垣や土壁を郭と呼ぶが、ここ勝連城では曲輪(くるわ)と称していた。このグスクはもともと5つの曲輪で構成されていたようだが、現在は3つまで調査・復元されており、半世紀を超えた発掘調査は今もつづいている。

県道から少し入ると城壁が見える。まだ入城していないと思っていたら、そこがすでに四の曲輪内であった。今この四の曲輪が発掘調査中とのこと。順次段々畑のように石段を昇り一の曲輪の最上段へと至る。

                         「四の曲輪」の景観

階段を昇り城壁内に踏み入るとそこが三の曲輪になる。

ここの用途は時代の変遷とともに変化したようだが後期は舎殿前広場として儀式などを執り行っていたと推定される。

小階段を昇ると二の曲輪の領域である。

城内でメインの建物になる舎殿は二の曲輪に建っていたが、今は礎石のみが残っている。

一番の高所となる一の曲輪は見るからに手狭な平地であった。当時は何連かの建物が建っていたようだ。

眺望は素晴らしく、南西方向には中城湾、その先の陸影には中城城(なかぐすくじょう)までが視認できる。

15世紀のことである。琉球王府のあった那覇首里城と猛将の阿麻和利のいたこの勝連城、距離にして20kmあまり。そしてそのちょうど中間に位置する中城城には王位をうかがうほどの実力者、護佐丸がいた。

尚巴志(しょうはし)が護佐丸と共に三山を統一し琉球王朝の覇者となって30年が過ぎようとしていた。王位には巴志の七男、尚泰久が継承していたが、護佐丸と阿麻和利の両者に対する警戒心はかなり強かったことが想定される。

そしてこの三者は微妙な外戚関係にあった。護佐丸の娘を妃にしていた尚泰久はすでに娘をもうけており、その百十踏揚(ももとのふみあがり)という名の娘を政略結婚として阿麻和利に嫁がせてもいたのだ。つまり琉球王であった尚泰久にとって義理の父が護佐丸で、義理の息子が阿麻和利ということになる。

 勝連城から南西方面を望むと中城湾が広がり、その向こうには中城城が遠望できる

1458年、その危うい均衡が崩れた。阿麻和利が護佐丸の中城城を急襲したのである。その変に応じきれず、三山時代以来の雄であった護佐丸は自刃した。

阿麻和利のこの行動には諸説あり、護佐丸の叛意を王府へ報告し急襲する許可を願い出て許されたという説や尚泰久がそうなるように阿麻和利へ画策したとの説などがある。いずれにせよ警戒していた両者を戦わせるのは王府にとって最上策であったことは疑いようがない。

阿麻和利は護佐丸を倒した勢いを駆って、今度は王位を狙い王府首里城を目指した。しかし夫の反逆を察知した王女の百十踏揚が、武将 大城賢勇ひとりを伴いひそかに勝連城を脱出。そしてひと足早く王府首里へ帰城していた。

万全を期して迎え撃った王府軍が大勝したことは云うまでもない。尚泰久の王府軍は勝連城に退散した阿麻和利を猛追し、遂にこの城を陥落させた。

王座を狙うほどの阿麻和利だったが、王女ひとりの心が獲れなかったのである。

1458年という年に、戦国乱世に生きた実力者2人が相前後して落命することになった。

これで尚氏王朝の安定と繁栄が約束されたと誰しも思ったに違いない。ところがこれより10年ほど経った1470年には、この王朝は滅び第二尚氏王朝にとって代わられるのである。

ゆっくりと時間をかけて郭内を散策しながら、そんな当時の出来事に思いを馳せる。

二の曲輪の北側にはウシヌジガマと呼ばれる小さな洞窟があった。この洞穴は脱出用のものらしく城外へと通路がつながっているという。

                                ウシヌジガマ

なぜ阿麻和利がこの脱出口を利用しなかったのだろう。

己が天命をここまでと思い定めたのか、王府軍の攻め方と包囲網が凄まじかったのか、今となれば想像を巡らせるばかりだった。

一方自分の行動で未亡人となった百十踏揚のこと。名に付いているように百を十回くりかえすほど”とこしえ”に、踏みあがるとは他より優れているという意で”美”を備えた王女は再婚をしている。

相手は勝連城からの脱出行を共にした大城賢勇だった。しかし大城もその後起こった王府内乱で落命をしてしまうという、どこまでも良縁には恵まれない王女であった。

織田信長の妹、お市の方がたどった生涯に酷似している。お市も越前浅井長政に嫁し、実兄信長に攻め滅ぼされ夫を失い、後添いとなった柴田勝家も短命であった。

違うことはお市は勝家の死とともに自害し、百十踏揚は静かに余生を送ったことか。

同じ二の曲輪には幅17m、奥行き14.5mの舎殿跡がある。礎石が残りその遺構から建物の大きさが想像しやすい。そこにじっと立っていると、当時の生きていた彼らの鼓動が聞こえてきそうだった。

    二の曲輪跡、礎石が残り舎殿規模が判る


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