2010年6月アーカイブ

北谷公園内にある屋内運動場

北谷(ちゃたん)の町で一番のスポットと云われる繁華なアメリカンビレッジを離れ、北谷公園の中を歩き回ってみた。

遠目ではあるが、まず目に飛び込んできたのは、宜野湾にあったコンベンションセンターのような建物と大きな風力発電施設のぷろぺらであった。

建物はまだ新しさの残る白亜の屋内運動場であった。隣地の桑江中学校の校庭グラウンドは授業中なのか静まりかえっている。

園内をひとめぐりしてみたが、公園内の施設はすべてスポーツ関連であった。

陸上競技場、北谷野球場、テニスコート、屋内運動場、ソフトボール場、プールの各施設を備えている。

野球場では中日ドラゴンズの春季・秋季キャンプで使用されるほか高校野球沖縄大会の決勝戦なここで開催される。

なかなか質実な公園でスポーツをめざす人たちにきっちり向き合う施設を提供している硬派の公園だった。別名運動公園とも呼ばれているらしい。

公園の西南へと歩くとテトラポッドを積み上げた海岸べりに出る。石塀を乗り越えてなんとかブロックの上に休憩場所を見つけた。

目の前は”青がいっぱい”の世界。青の濃淡の中に浮かぶ真っ白な雲が、ゆっくり形を変えながら流れてゆく。誰も来ない最高のシーサイド・スポットになった。

北谷町の中央に位置する北谷公園。公園から南へ向かうと「アラハビーチ」、北には観光スポットらしきものは何もない。

普通ならここは南の「アラハビーチ」への進路を選ぶ....ところだが、北へと向かうことにした。「浜川漁港」という小さな漁港があるからだ。

テトラポッドの消波ブロックでのんびりしている時、地図を見ていて漁港を見たくなり決めていたのだ。

                 アメリカンビレッジの大観覧車が遠望できる浜川漁港

近所だと軽く考え出発したのだが、歩くとこれがかなりの距離であった。

最短のルートで歩いたが、しっかり40分近くかかったのである。

しかしそのおかげで、観光地や人気スポットにはない北谷の自然な表情をした町を味わうことができた。

しかも目的地の浜川漁港もまた特別なものではなく、普通すぎるほど普通の漁港だった。

特別な施設などいさぎよいほど何も無い。

あったのは漁協婦人部が運営するという食堂がひとつあったが、それもまったく気取りのない構えをしていた。「お魚屋」というその食堂では魚介の地元料理を楽しめそうだったが、残念ながら本日は営業を終了していた。

いずれにせよ、この漁港には構えたところが無く、不思議なほど居心地がよかった。しかも散策途中に釣り人とも出会ったりなどして、この漁港で思わぬ時間を過ごしてしまった。気がつくと、陽が傾きを知らせる朱を帯び始めていた。

釣り人曰く、「この辺でもっとも美しい夕焼けが観られるのは”アラハビーチ”だろう」。 絶品の夕景であるという。これから ”アラハビーチ” へ向かっても、もはや手遅れだ。

別の日にもう一度北谷町の”アラハビーチ”を訪れ、その絶品の夕焼けをカメラに閉じ込めてみよう。凪が終わり、身体に心地よい風を受けているうちに、遠くに見えていた観覧車に灯が点った。

さあ、ゆるゆると夜のアメリカンビレッジに戻り、アメリカンキュイジーヌの食事でもしよう。ロス駐在中は味気ないアメリカンレストランの食事に飽き飽きしていたが、今ではすっかり懐かしい味のひとつになっていた。

           夜のアメリカンビレッジ


「北谷 −ちゃたん−」のガイドページへ


浜川漁港

住所 中頭郡北谷町字港4


交通
 那覇空港より 45分(国道58号線を北上−浜川交差点の信号を左折スグ)

BUS 那覇BT 45分(名護西線20番など)− 「伊平」 下車5分


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100段以上の長い階段を降りるとヒンヤリとした空気が坑道に充満していた。

地上から落差30mもある地下道は、靴音まで沈黙させる静けさが支配する。

壕内は通路が縦横に走り、掘削されたいくつかの小部屋が復元公開されていた。

階段を降りきったところにある”作戦室”から”幕僚室”、”暗号室”、”医療室”とつづき”下士官兵員室”、”司令官室”の各室が見学できる。

米軍による沖縄への総攻撃が始まったのが1945年3月23日、実質的な沖縄戦争の終了が6月23日。

このたった3ヶ月の期間に繰り広げられた太平洋戦争沖縄戦は酸鼻を極め、戦後65年経つ今も消えない深い傷跡を残した。

この海軍の地下陣地が山根部隊によって造営されたのは、終戦の前年になる1944年である。

地下壕へとつづ く入口の階段

当時、標高74mの高さから「74高地」と呼ばれたこの高台に海軍の防衛線が敷かれた。

8月から着手し、地下深くかまぼこ型の横穴をうがち、コンクリートと杭木で固めながら総合距離にして450mの海軍司令部壕が完成したのは12月のことであった。

年の改まった1月に、佐世保鎮守府から転任した大田實海軍少将が着任した。そしてこの壕が彼の終焉地となってしまった。

                           大田實少将の司令官室

大田は千葉県出身の軍人で、他を批判したり責めたりすることのない人格者であったという。

後世有名になる電文も彼の人柄を示す一例であろう。電文とは戦局も終盤の6月6日、大田が海軍次官宛てに送電した電報のことである。

しだいに追い詰められ他を思う余裕のまったく無い戦況下にあっても、沖縄県民の献身的支援と犠牲を連々と訴え、

「....(沖縄)県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」 と電文を締めくくっている。

米国の総攻撃から3ヶ月弱この地で防衛ラインを維持したが、遂に支えきれず6月13日未明に大田はこの壕で自決した。

同じく他の幕僚6名も手榴弾で自爆し果てている。

そしてその10日後には第32軍の牛島満陸軍中将が摩文仁(まぶに)にて自決し、沖縄戦の戦闘は事実上の終了を迎えることとなった。

この地下壕に収容した将兵の数は4000名にものぼり、横たわるスペースも無く立ったままで睡眠をとりながら最後まで戦ったと伝えられている。驚くべきことに、大田司令官以下数千の遺骨が収容されたのは戦後8年も経ってからだった。

幕僚室では自爆したときに刻まれた破片痕が、司令官室では大田少将が残した壁の墨書が、寡黙なまでに重い何かを伝えてくる。テーブル上に手向けられた花でさえ、この空気を和らげることはできない。

旧海軍司令部壕のある「海軍壕公園」からの眺望

地下壕から表に出ると、それまで身体を包んでいた重苦しい空気から解放される。そこはかつて74高地と呼ばれていた高台に設備された海軍壕公園である。

豊見城(とみぐすく)の市街地はもちろん、遠く北西方向には那覇空港からその先の東シナ海まで見通せる。夜ともなると那覇の街に点る灯が宝石のように輝き、夜景眺望の絶好のポイントになるという。

平和そのものに見えるこの場所で、旧海軍司令部壕とその上部に設営された資料館だけが戦火の痕を伝えていた。

普天間問題で右往左往する政治家やマスコミを、たった65年ですっかり軟弱になってしまった日本を、大田少将らの英霊たちはどこかで見ているのだろうか。


「旧海軍司令部壕」のガイドページへ


人気ビーチのほとんどが東シナ海に面した西海岸に集中する沖縄本島。

本島中南部の東海岸、中城湾(なかぐすくわん)に新しく開発中の海浜緑地があるというので、さっそく出掛けてみた。

すでに西原町には完成した「西原マリンパーク」が2007年春にスタートしており、地元住民に人気のスポットとなっていた。

那覇から東へ10 km ほどの距離にあり、車でもバスでも30分位で行く。

ただし、目の前までゆくバスは本数が少ないので事前に確認したほうが賢明である。

筆者の場合、思いつきと物の弾みで動いているので「西原マリンパーク」前までのバスに乗れず、国道329号のバス停 我謝(がじゃ)入口から歩くことになってしまった。

バス停からちょうど1kmの距離をのんびりと20分歩きマリンパークに到着。中央正面の丸い建物に入ると、そこはサービス棟の機能を持つビーチハウスだった。

シャワールームからフードコートまで完備されており、遊泳客には過不足のない施設になっている。ビーチハウスを通り抜け、ビーチに出ると全長550mのゆったりとした広い砂浜が広がっていた。

          透明感のある海水に陽光が躍る「西原きらきらビーチ」

「西原きらきらビーチ」と名付けられたこの人工ビーチは想像以上に透明度の高い水質だった。

真正面には遊歩道を備えた突堤が海に突き出し、ビーチを右翼と左翼に分けていた。左翼は遊泳、右翼はマリンスポーツ専用と浜辺を使い分けている。

右翼ビーチに設置されたゴールネットの前で若者数名がビーチサッカーに夢中だ。彼らの邪魔にならないよう迂回し、水辺に出てみると揺れる波間で乱反射する陽光が眩しいほどきらめいている。


遠浅なので素足になり裾をまくりあげ水ぎわを歩いてみた。

心地よい水の感触を愉しみながら南へと歩いてゆくと右翼ビーチが終わり、テトラポッドを積み上げた護岸ラインへとつながる。

なおも南へ進むと芝を敷きつめた緑の多目的広場に。野球場が2面できている。

その先の東浜(あがりはま)にはマリーナのような港が遠望できたが、きらきらビーチへ引き返すことにした。

ビーチを中心にこの多目的広場や公園などの複合施設を「西原マリンパーク」と称しているが、実はこのマリンパークを包み込むようにまだ開発が進行中である。

西原町と与那原町にかけて一大「マリンタウン」を形成する開発事業が17年間にわたりつづけられてきたという。観光事業を視野に置くだけでなく、地元住民が住める新しい町づくりでもある。

完成したものから順次オープンしており、すでに”うちなーんちゅ(沖縄県人)”の人気エリアとして多くの地元客を集めている。

きらきらビーチ と あがりティーダ公園をつなぐ雄飛橋

強い日射しと照り返しで上下からこんがり焼かれ、ビーチまで戻ると思いっきり干上がってしまった。

ビーチハウスのフードコートでかき氷をほお張りながら小休止。

汗が退くのを待って、今度は左翼ビーチを海岸沿いに北東方面へと探索を開始した。

左翼ビーチの端には右翼と対をなすようにやや小型の軽運動広場が隣接している。

広場をパスし、その左に見えている橋に向かう。


「雄飛橋」という橋はまだ新しく、埋め立てによりできたと思われる運河のような川をまたいで海岸べりに見えている公園へと道をつくっている。

とても小さくて細長いその公園をすっかり気に入ってしまった。特別なものは何もない。少しの南国風緑地と300mほどのプロムナード、そして海岸にできた磯だまりの岩場だけ。

「あがりティーダ公園」というのがその公園に付けられた名前だった。沖縄方言で《あがり》は《東》を、《ティーダ》は《太陽》を意味する。さしずめ”太陽の昇る公園”という意か。

                 公園から護岸階段を降りるとそこには磯が広がっている

人工ビーチも悪くないが、見る分には綺麗だが何も語りかけてはこない。

自然なままの海岸ほど雄弁なものはない。

白砂が敷かれた人工リゾートビーチに海藻や木枝が流れ着くとまるで異邦人のように目立つのである。

岸に流れ着いた貝殻や木片が風景の中に違和感なく溶け込むのはやはり自然のままの浜辺だ。

季節や時の移ろいを表情にして語りかけてくれる。

その言葉を聴きながら岩場を動き回ったり、休んだりで、時計を見るとアッという間に2時間が過ぎていた。

ここの海岸はそんな海岸だった。

さらに北東へと歩を進めると「西原船だまり」という係船港に行きあたった。つまりマリーナのことだ。きらきらビーチの南側に遠望した東浜にもマリーナがあったと記憶しているが、ここにもマリーナが?

どちらの土地も埋立て地で新しいはずだから、新旧の交代ではなさそうだ。少し散策したがやはりこの船だまりは新しかった。那覇で夕食がてらにゆく飲み屋で知り会った人の顔が頭をよぎった。

「マリーナの経営は年毎に厳しくなっているんです!」と話していた顔が。彼はその関連の仕事をしており、人柄も言葉のように何の飾り気もない好青年だ。

落ち着きを取りもどした陽だまりでそんなことを考えていた。陸揚げされたボートのスクリューから眺める海はどこまでも穏やかだった。


「西原マリンパーク」のガイドページへ


「遠〜いッ!」 バス停「慶佐次(げさし)」を降りた時の偽らざる感想である。

那覇BTを出発して3時間半もかかってたどり着いたのだ。往復だけで1日の3分の1を費やしてしまうのである。新幹線なら東京から大阪まで行ってお釣りがきてしまう。

バス移動もそれなりに楽しいのだが、目的地での行動時間を一挙に削られてしまうこと、それがとても大きなロスと感じてしまった。

この2ヶ月ものあいだバス旅行にこだわって廻ってきたが、本島北部をバスで回るにはそろそろ限界になってきたのだろうか。そんなことを考えながら国道331号線を歩いていると大きな河とそこに架かる橋が見えてきた。

橋の名は「慶佐次大橋」、河の名は「慶佐次川」。とてもシンプルで覚えやすいネーミングだ。

橋の下ではカヤックの集団が漕ぎ方の実習中で、楽しげな笑い声が水面を滑ってゆく。その先にはマングローブが群生していた。初めて見るマングローブだった。

                     河の両側を覆うように広がるヒルギのマングローブ林

緑色の絵具をあたり一面にぶちまけたようにマングローブが広がっている。

昨夜予習した情報によると、10ヘクタールとあった。東京ドーム2個分の広さである。

3時間半のモヤモヤがどこかへ消え、とたんに楽しくなってきた。

アイポッドから流れてきた音もちょうどいいBGM になった。アル・ジャロウがゆるく "This Time" と唄っている。

さっそくマングローブへと向かうと「ふれあいヒルギ公園」というところを通り抜けることになった。

公園の一角で、カヤックに使用するダブルパドルを持ちながら講習を受けている一団に遭遇。しばらく眺めていたがまったく面白くないので先へと急いだ。

マングローブの目の前まで到着すると、群生するそのヒルギ林の中へと遊歩道が設置されていた。しかもウッドデッキスタイルのプロムナードである。アイポッドのスイッチをオフにして木製通路へと踏みこんだ。

デッキを奥へ奥へと進み緑一色の中へ埋没してゆく。あたりは静かで人っ子ひとりいない。遠くに講習会の一団が騒ぐざわめきがわずかに聞こえるだけだった。

自然の中の沈黙に包まれると、世界に絶対無音というものが無いことを改めて知る。

ヒルギの根元を洗う水、風でこすれ合うヒルギの葉、ときどき唄う虫の声、かすかな音量だが雄弁に語りかけてくる。

ここのヒルギ林は3種だった。”オヒルギ”は身にいっぱいの花をつけている。下方を向いた筒状で3cmほどの花弁が赤く色づいていた。

一方 ”メヒルギ”は白い清楚な花をつけている。ヒルギは夏に花を咲かせる。

ちなみに名の[オ]と[メ]は雌雄の別ではなく、まったく別種のヒルギである。(写真はガイドページに)

そして3つ目は”ヤエヤマヒルギ”という種で、やはり白い花をつけるが3種ともに形状は違う。

水位を見るとかなり低くなっている。干潮が始まったのだ。

ウッドデッキの遊歩道の端まで行き、ヒルギ林を眺めているうちにもっと奥へ入ってみたくなった。手段はカヤックしかない。干潮が進みすぎるとカヤックに乗れなくなるので、急いで公園まで戻ることにした。

最初こそバランスの取り方や両側に水かきのついたダブルパドルの漕ぎ方にとまどうが、水辺に出ればなんとかなってしまうのだ。

水辺から見るヒルギ林は見下ろしの風景よりも素顔に近い表情をしている。

汽水域(河口の淡水と海水の混じり合う水域)ながら水面下で塩分に抗しながら成長をつづける幹がタコの足のように交叉する。

上部からは緑多く花まで見せるヒルギだが、水面まで視点を下げると逞しい姿を見せてくれる。

ヒルギは他の植物に比べ二酸化炭素をはるかに多く吸収し、人類に必要な酸素を多く生成してくれるまことにありがたい樹木なのだ。

今まで東南アジアなどの亜熱帯地域に群生して、地球環境の保全に貢献してくれていたのだが、最近では海老の養殖場のため伐採され急激に減少しているという。

日本ではあまり馴染みがないため外国でのニュース出来事として知る程度だったが、しだいに国単位のレベルではなく地球規模の危機として意識されるようになってきた。

しかしマングローブ保護の意識が低いと云うだけで安易に責めることはできない。人間は頭で理解できても、身体で実感しないと本気にならない習性がある。自国にないものが危機に瀕していても実感の持ちようが無い。

郷里の自然が消失して初めてその価値を知る。ここ東村のヒルギ林は今話題になっている普天間基地の代替え案になっている名護市辺野古とは10kmほどの距離。いつ何時、人間の身勝手な理由で消失の危機に見舞われないとも限らないのである。

人間は忘れることも速いが、順応性も速い。こうして自然のマングローブ林に触れることでその危機感や保護意識の向上は確実に増すことになるだろう。

水上遊覧を愉しんでいたのだが、干潮が進み やむなく陸上に引き上げる。干潮の様子を観察するため再度プロムナードを歩くことにした。途中階段が設けてあり下に降りられる箇所があった。

もちろん階段最下段には柵止めがされており外にまで出ることはかなわないが、干潟地を観察するには十分だ。早くも干潟になった泥地から顔を出した小動物が活動を始めていた。

”シオマネキ”、”ミナミトビハゼ”に加え、鳥や昆虫まで発見できる。けっこうな種類の生物が生息しているようだ。もうしばらく彼らとつきあっていこう。


「慶佐次湾のマングローブ林」のガイドページへ


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