眠りつづける太平洋戦争の跡、旧海軍司令部壕   〜沖縄ちょぼ旅 BLOG 71〜

100段以上の長い階段を降りるとヒンヤリとした空気が坑道に充満していた。

地上から落差30mもある地下道は、靴音まで沈黙させる静けさが支配する。

壕内は通路が縦横に走り、掘削されたいくつかの小部屋が復元公開されていた。

階段を降りきったところにある”作戦室”から”幕僚室”、”暗号室”、”医療室”とつづき”下士官兵員室”、”司令官室”の各室が見学できる。

米軍による沖縄への総攻撃が始まったのが1945年3月23日、実質的な沖縄戦争の終了が6月23日。

このたった3ヶ月の期間に繰り広げられた太平洋戦争沖縄戦は酸鼻を極め、戦後65年経つ今も消えない深い傷跡を残した。

この海軍の地下陣地が山根部隊によって造営されたのは、終戦の前年になる1944年である。

地下壕へとつづ く入口の階段

当時、標高74mの高さから「74高地」と呼ばれたこの高台に海軍の防衛線が敷かれた。

8月から着手し、地下深くかまぼこ型の横穴をうがち、コンクリートと杭木で固めながら総合距離にして450mの海軍司令部壕が完成したのは12月のことであった。

年の改まった1月に、佐世保鎮守府から転任した大田實海軍少将が着任した。そしてこの壕が彼の終焉地となってしまった。

                           大田實少将の司令官室

大田は千葉県出身の軍人で、他を批判したり責めたりすることのない人格者であったという。

後世有名になる電文も彼の人柄を示す一例であろう。電文とは戦局も終盤の6月6日、大田が海軍次官宛てに送電した電報のことである。

しだいに追い詰められ他を思う余裕のまったく無い戦況下にあっても、沖縄県民の献身的支援と犠牲を連々と訴え、

「....(沖縄)県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」 と電文を締めくくっている。

米国の総攻撃から3ヶ月弱この地で防衛ラインを維持したが、遂に支えきれず6月13日未明に大田はこの壕で自決した。

同じく他の幕僚6名も手榴弾で自爆し果てている。

そしてその10日後には第32軍の牛島満陸軍中将が摩文仁(まぶに)にて自決し、沖縄戦の戦闘は事実上の終了を迎えることとなった。

この地下壕に収容した将兵の数は4000名にものぼり、横たわるスペースも無く立ったままで睡眠をとりながら最後まで戦ったと伝えられている。驚くべきことに、大田司令官以下数千の遺骨が収容されたのは戦後8年も経ってからだった。

幕僚室では自爆したときに刻まれた破片痕が、司令官室では大田少将が残した壁の墨書が、寡黙なまでに重い何かを伝えてくる。テーブル上に手向けられた花でさえ、この空気を和らげることはできない。

旧海軍司令部壕のある「海軍壕公園」からの眺望

地下壕から表に出ると、それまで身体を包んでいた重苦しい空気から解放される。そこはかつて74高地と呼ばれていた高台に設備された海軍壕公園である。

豊見城(とみぐすく)の市街地はもちろん、遠く北西方向には那覇空港からその先の東シナ海まで見通せる。夜ともなると那覇の街に点る灯が宝石のように輝き、夜景眺望の絶好のポイントになるという。

平和そのものに見えるこの場所で、旧海軍司令部壕とその上部に設営された資料館だけが戦火の痕を伝えていた。

普天間問題で右往左往する政治家やマスコミを、たった65年ですっかり軟弱になってしまった日本を、大田少将らの英霊たちはどこかで見ているのだろうか。


「旧海軍司令部壕」のガイドページへ


HOME




ガイドページ


旅BLOGの記事一覧

東京おもしろ図鑑のサイトへ