2010年7月アーカイブ

マングローブ林をひと目見たくてやってきた東村の慶佐次(げさし)だったが、片道3時間半の旅とあってはマングローブ林だけでは帰れない。

ヒルギ群生のマングローブに堪能したあと国道331号を横切り、民家のある方へと散策をはじめてみた。民家の密集しているところは、ほんの一握りほどの地区でしかなかった。

そこを過ぎると急に視界が広がり、どこまでも一面に畑が広がっている。一瞬戻ろうかとも考えたが、さしあたって他に行くあてもなく、そのまま道なりに散歩をつづけることにした。

手づくりの果樹園 「やんばる翠苑」

畑の中を東へ歩いていると、一角に小さな植物菜園のような施設にでくわした。

入口に大きく「やんばる翠苑」と大書されており、花と熱帯果樹の楽園 入場料500円とあった。

先日、名護市の「沖縄フルーツらんど」という似たような施設を訪問したばかりだったが、かまわず入場。

苑内には他の入場者の姿もなく、静かに回遊できそうだ。

カニステル、レイシ、ドラゴンフルーツ、アセロラなどトロピカルフルーツが顔を揃えている。


苑内にはビオトープが造られていたり、山羊がいたり、小さな小さな池があったりと、顔がほころんでしまうような手づくりぶりなのだ。

果樹だけでなく相当な種類の花も目を楽しませてくれるので、花好きな人には飽きのこない小苑と云える。

苑内を見終わったあと、入口近くの休息所に入るとご主人が待っていてくれた。

テーブルにはパッションフルーツなどいくつかのトロピカルフルーツを一皿に盛ってあった。

ここで収穫されたトロピカルフルーツを来苑者の方に味わってもらうのがシステムだとご主人が説明してくれた。

パッションフルーツはスプーンですくいながら食べるなどのアドバイスを聞きながらいろいろ味見をしたが、いずれも美味で南国の味を素直に満喫できた。

これだけの果樹苑をご夫婦お二人で世話をしているとのことだった。その維持管理と育成には気の遠くなるような根気と計りきれないほどの愛情が要求される。並みの覚悟ではできないことを知った。


「やんばる翠苑」を出て東側の道路を歩いていると看板が目に入った。

看板には「慶佐次ふれあいウッパマ公園」とある。しかし道路わきに細長い緑地があるだけ。

緑地の端にはアダンの樹木が視界をさえぎっており、熟したアダンの実があちこちに落ちていた。

そのうちのひとつに取り付いて食事をしていたヤドカリ。海岸近くで陸上棲息する”オカヤドカリ”だ。

ヤシガニが好物にしているアダンの実だが、雑食のオカヤドカリも食べるようだ。

このアダンは日本では沖縄と鹿児島のほぼ中間に位置する奄美大島以南でしか自生しない。

一見パインのように見える果実だが、まったく別種の植物なので現在では一般常食していない。

沖縄ではアダンの葉を使用したパナマ帽とか強靭な繊維質を有する幹は健在にと、ひところアダン産業として隆盛だった。

またアダンは毛筆としても利用されていた。江戸時代の昔、動物の毛を使用した筆がとても高価なのでアダンの気根(地上に露出している支柱根)を利用したアダン筆が代用されたという。雨月物語で知られる作家、上田秋成も琉球から渡来したこのアダン筆を愛用したという記録が残る。

一般の毛筆が安価になり普及するとともに市井から消えていったアダン筆だったが、最近になり嘉手納町に本拠を置く”琉球大発見”という工房が復活させ、その筆の味わいが見直されてきている。

アダンのすき間から砂地が見えてきたので樹幹をくぐり抜けると、いきなり広々とした海岸に出た。誰もいない波音も届かないほど静かな海だった。予想だにしていなかったためか、突然の海との出会いに大きく胸を揺さぶられた。

適当な岩を見つけ腰をおろした。島ひとつない見渡すかぎりの太平洋の海原だった。左手に見える陸影は本島最北部のやんばる地域だろう。右手は大きくえぐれているため陸影は見えない。

よく考えればアダンの木がかたまって自生しているのだから、海岸が近いことを予告してくれていたのだろう。アダンが風防樹としても優れていることを失念していた。

おりよく散歩で浜辺に立ち寄った地元の人と話すことができ、いくつかの知識をいただく。浜辺の名前は「ウッパマビーチ」といった。ウッパマとは大きな浜を意味することも知った。沖縄方言にもうすこし明るければ、最初に見た案内看板の「ウッパマ公園」で海岸を連想できたはずだ。

しかし何であれ「ウッパマビーチ」に迷い込むことができたことを感謝しよう。凪が終わり風が吹き始めてきた。風の感触だけでなく音まで心地よかった。

「慶佐次湾のマングローブ林」のガイドページへ


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沖縄本島北部の東海岸を巡りはじめたのだが、慶佐次(げさし)のマングローブ観賞ですっかり限界を感じた。那覇を宿舎にしているため移動だけの往復で6〜7時間もかかるバス旅行のタイムロスを痛感してしまったのだ。

しかし「ちょぼ旅」という ”のんびり旅”をテーマにした旅行。バスと歩きの旅ができる場所がある限りその方針を変える気はさらさら無い。 まだ少しバス旅行のできる場所が残っているハズ。

県下最大の闘牛場である名護市の「ゆかり牧場」も観たかったが、やはりバス便では遠すぎたのでターゲットを中北部へとさらに南下させる。

今 報道でたびたび登場するキャンプシュワーブの少し南にある漢那ビーチを訪れることにした。


那覇からバスで揺られて2時間、漢那バス停に到着。

海岸へと歩いて行くと砂浜の周りを青いフェンスが取り囲むように設置されている。

フェンスの出入り口を見つけ漢那ビーチの砂浜へと出ると、先客の一団が自ら張ったテントの日陰で涼をとっていた。

その光景を見たとたん、汗が一気に吹き出してきた。冷房の効いたバスに2時間もいたので、暑さ加減が遅れてやってきた。

ビーチには他に2組だけという静かなビーチだった。とても落ち着く素朴な海だ。

しばらく水辺で遊んだが、とにかく凄い暑さで、砂や海面からの強い照り返しが身体に張りついてくる。

紺碧の太平洋が広がる正面には、4.7kmもある海中道路で本島とつながる伊計島と平安座島(へんざじま)が遠望できた。晴れ上がった空と海の青が濃淡で競い合っている。島々の影がその青に上下から挟まれ薄く平たく見える。

水辺の日陰を探したが、それらしいものが見当たらず、青いフェンスの外側に出なければ木陰に逃げ込むことができないようだ。


どちらかと云えば小ぶりなビーチの東端に赤瓦の目立つ建物があった。

もちろん青いフェンスの外側ではあるがほぼ砂浜に接するほどの近さだ。

日陰が恋しくて探しまわっていたので、躊躇なくこの建物に潜り込むことにした。

浜辺から見えていたのは建物の裏手にあたっていたので、正面アプローチ側へと急ぐ。

入口には「かんなタラソ沖縄」とあった。

まだこの時点では100%、テラススタイルの小ホテルと思い込んでおり、冷たいドリンクで小休止を取るべく入館した。

高い天井の1階ホールに入ると、ホテルフロントの光景には見えるが、どこか雰囲気が違うのだ。

細部にわたり観察すると美容とセラピーをテーマにした県下有数の施設であることが判った。

少し館内を見学しながら、係員にも少し質問などをしてみた。沖縄の方言と思っていた”タラソ”がギリシャ語で”海”を意味し、健康と美容にも海水の持つ浮力など海の特性を生かしていることを知った。

以前漢那ビーチにあった遊泳客用施設が今は無く、代わりにこの施設が利用できることも判った。

大変親切な係員が、3層からなる施設には屋外ジェットバスから25m級の室内プール、海水を利用した特別プールなど相当数のバスとプールを完備していることなどを丁寧に解説してくれた。

男性美容の話が始まってしまった。しかし健康にも いわんや美容などというものにも、まるで関心はなく、そろそろ退散の潮時になったようだ。早く冷房バスに乗り込み、次の目的地「金武(きん)」へ向かうとしよう。

    「かんなタラソ沖縄」の正面玄関


「漢那」のガイドページへ


珍しくバスの連絡がよく、待つ間もなく「金武(きん)」方面へのバスがやってきた。バスは「漢那ビーチ」を離れ、一路東へと向かう。左側が太平洋になるので車内後方の左窓ぎわの席に着いたのだが、あいにくバスは海岸線をどんどん離れ内陸へと入り込んでゆく。

あとで判ったのだが、このあたりの海岸側は金武岬(きんみさき)となり、その一帯が米軍施設ギンバリー訓練所として占有されていたのだ。億首川(おくくびがわ)という大きな川に架けられた金武大橋をわたり、バスは乗車して10分くらいでバス停「金武」に着いた。

降り立った国道329号線は住宅はあるものの静まりかえり、眠っているような印象の町だった。眠ると云えば、ここ金武の町にある「観音寺」にはとんでもない数のクースー(泡盛古酒)が眠っているという。

観音寺は国道から少し北に歩いたところに、樹林に抱かれるように建っていた。

『寺の中に大量の酒を秘蔵するなど けしからん』 とお思いの方もおありだろうが、正確にお伝えすると中ではなく、地下なのだ。

『中でも地下でも同じではないか』 とのご意見もあろうが、ここはいったん是非論は横に置き 境内に入ることにする。

入口近くの参道に健気な姿を見せてくれた350年も経つフクギの古木。

それ以外はほとんどお寺にありがちな石像や石碑もなく簡素な寺院だった。

創建は16世紀で、日秀上人という僧侶が1552年に中国からの帰路で遭難し、この地に流れ着き 創ったとある。

彼が棲み布教活動に専念した拠点がこの観音寺の地下に広がる鍾乳洞だったと案内にあった。しかも大蛇退治の話まである。

マイソロジーのような民話と歴史が渾然一体となっているようだ。

この謂われの説明で、筆者が事実ではなかろうかと思うことがある。紀州出身の僧、日秀上人の漂着した年号のことだ。

16世紀という1500年代の室町幕府で、当時中国の明貿易を独占していた実力者は大内氏だが、その大内一族が滅亡したのが1551年だった。そして以降中国の明との国交が途絶えてしまったというのが歴史事実として伝わっている。

観音寺本殿、右隣りに見えるのが茶屋

僧侶日秀が翌年やむなく帰国の途に着き、遭難した可能性はかなり高いと考えられる。

事実がどうであったかはともかく、そういう由緒をもつ寺であった。

本殿には先客がいた。ひとりの参詣女性が静かに正座し礼拝していた。

真剣に集中している気配は後姿からも うかがえ、静寂を守りながら本殿には黙礼のみで離れることにした。

本堂からすぐのところに鍾乳洞の入口を発見。

見学するには境内にある茶屋で入洞料金を払うよう案内が出ていた。

さっそく茶屋に行き料金を支払い、鍾乳洞へと引き返す。入口から地下へと階段が造られており、パイプのてすり柵が設けられていた。

地上ではまぶしいほどの陽光が入口近くの階段を照らし、階段下方の洞内では闇がうずくまっている。

鍾乳洞へとつづく細い階段を降りてゆくと空気の流れが鈍くなり止まってしまった。まったく動きを止めた空気が今度は温度を下げてゆく。

洞内に入ると所々に灯された照明はあるものの、全体に薄暗く目が慣れるまでにしばらくの時を要した。

奥へと進むと、いよいよ空気がひんやりとしてきた。温度は下がっているが、滞留したままの空気にたっぷりと湿気が含まれているためか涼味は感じられない。

かなり進んだあたりに伽藍のようにやや広い場所に出た。そこにはおびただしい数の泡盛焼酎の瓶が並んでいる。

ひとつひとつにネームタグが付けられ書庫のように整理された棚ニ眠りつづけている。

これらのボトルはここを訪問した人たちが記念で購入した泡盛をクースー(古酒)になるまで醸成させている場所なのである。

鍾乳洞内が保存・醸成環境に適しているため、同じ金武町にある”金武酒造”が運営管理をしているようだ。


ちなみにボトルは5年貯蔵(1万円)と12年貯蔵(2万円)の2コースで、さきほど登場した茶屋で受け付けている。5年後や12年後に何かを期し、記念ボトルを貯蔵してもらう仕組みなのである。

評判も上々ということが頷ける、なかなか粋な計らいではないか。しかし今回 筆者は申し込みをせず見送った。

もともと気短かな性質(たち)なのか、それとも情緒が希薄なのか、飲みたくなったら待てないのである。その時は手段を選ばずどこからかクースーを見つけてしまうのである。

洞内のいたるところに小規模だが鍾乳石が観賞でき、数か所には拝所まで設けられている。地元民から聖域として尊崇されていることが十分に感じられる情景でもあった。

昔より社寺境内を浄域として飲酒を戒める傾向はあるが、ここでは大らかに大量の酒を包蔵する。その大らかさが逆に良い味を醸しており、好印象と云える。

”百薬の長”になったり、”お清め”にも利用されたり、酒は人により千変万化するもの。善悪などの概念で縛るものでもない。

ここの鍾乳洞では入洞料はとるが入口に ”もぎり” はおろか人っ子ひとりいない。チェックなど不要と云わんばかりの呑気さだ。申告し料金を払って入るか、黙って入るか、人まかせなのである。

以前ニューヨークで運転した折、ケネディ空港へのフリーウェイで料金所があった。普通フリーウェイと云うくらいだから無料なのだが、ここだけは料金ゲートが設けてあった。

しかしそこには係員は存在せず大きな袋のようなバスケットが置かれているだけであった。通行者は車の窓から、そのバスケットへコインを投げ込むのである。その大まかなシステムに感激したことがあった。

個人まかせというのは自由度が高くなる分、責任が伴う。”社会人としての良識”という銃で背中から狙われているようで、精神が引き締まってくるではないか。


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沖縄本島中北部の北西海岸一帯に広がる恩納村。その反対側の南東部に位置する金武(きん)。その金武にある鍾乳洞見学を終え、北へとぶらぶらと歩いている。

大昔このあたりは17の村から構成されていたが、しだいに「恩納村(おんなそん)」、「宜野座村(ぎのざそん)」、「金武町(きんちょう)」という3つに整理されていった。

東シナ海の美しい夕景を強みに恩納村には高級リゾート環境が完備されホテルやビーチが綺羅星のごとく並んでいる。一方、反対側の太平洋に面したこちらの宜野座村や金武町は昔ながらの飾り気のない素朴な表情をしている。

また太平洋側の宜野座村や金武町には米軍施設が多く、その影響か遊泳ビーチが極端に少ないように思う。

道端に咲いていた真っ白なハイビスカスの花
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さっそくぶつかってしまったのが「米軍施設キャンプハンセン」だった。

この時点では敷地の大きさが判らず、右折し基地に沿って歩いてみた。

しかし、これがどこまでも行っても終わらないのだ。

途中に出会った純白のハイビスカスがとても清楚で、この花のそばで小休止をとってしまった。見慣れたカラフルで派手なハイビスカスとは印象がガラリと変わる。

陽の陰りを感じ始めたので、”キャンプ沿い散歩”を切り上げ次の目的地へ向かうことにした。

この米軍キャンプをあとで調べたら、驚くなかれ何と5140ヘクタールもある広大な敷地であった。

東京ドーム1000個を軽く呑み込んでしまう大きさである。

早々に進路変更した判断が正しかったことを知ると同時に、金武の町歩きに失敗したことも判明した。どうやら とても興味深い地区を見逃してしまったようなのだ。

「米軍キャンプハンセン」の第1ゲート前には金武の新開地と呼ばれる歓楽ストリートがあったのである。知っていれば間違いなく尋ねていただろう。

沖縄がまだ米国であった頃、駐留米人の遊興で隆盛を極め、ドル経済を謳歌した新開地。それが今なお健在であることを知った。

もちろん往時の勢いは無いものの面影は色濃く残っており、今や沖縄名物として東京の飲食店でも登場している”タコライス”発祥の地としても知られてきたという。

米軍キャンプにぶつかった最初の場所を右折しないで、左折して”キャンプ沿い散歩”をしていれば確実に新開地を通ることになっていたのだ。

予習不足が原因ながら、残念というほかない。再訪を期し旅のリポートをつづけよう。

キャンプハンセンを離れたあと目指したのは「屋嘉(やか)ビーチ」だった。

金武町でも南西の端にあるビーチだが、この地域には遊泳ビーチがほとんど無く貴重な海浜のひとつである。

距離にして10 km弱はあるので、バスに乗り直して向かった。

バス停「屋嘉入口」がちょうどビーチの真ん前であった。

白砂に遠浅の海というリゾートビーチとは趣を異にする浜辺が目の前に広がっていた。

岩場のある磯やハマカンダー(昼顔の一種)のうっすらとした緑が這う砂浜。人工ビーチの対極にある海岸線が南へと伸びていた。

会話も無く背中を寄せ合ったカップルが無理なく自然に溶け込んでいる。

砂地へ出て南へ歩いて行くと岩場のないところでは30人ほどの人たちが海を楽しんでいた。よく見ると水着を着けているのは子供たちだけである。

全員が地元の人たちであることがひと目でわかる。子供を遊ばせながら自らも涼んでいるといった風情だ。

パラソルやゴムボートで水遊びをしているのだが、浜辺のどこにも遊泳客用の施設が見当たらない。おそらく自宅から車に搭載して来訪したに違いない。

このビーチを本日の最終地と思い、のんびりと時間をやり過ごしていたら、あることに気が付いた。

この2ヶ月の間、西海岸つまり東シナ海ばかりを眺めていたことが多く、日暮れとなると海に沈む太陽が常態となっていた。

しかしここ東海岸では太陽を背負う格好になるので海を見ていても太陽は見当たらず、見えるのは刻々と変わる自分と樹木の影だけ。砂地に映る影が、またたく間に背丈を伸ばし海面へと成長してゆくのだ。

確かな記憶には無いのだが、遠く幼い頃に見たような既視感をゆっくりとノックされているようだった。


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