数少ない金武の海辺、屋嘉ビーチに立つ        〜沖縄ちょぼ旅 BLOG 77〜

沖縄本島中北部の北西海岸一帯に広がる恩納村。その反対側の南東部に位置する金武(きん)。その金武にある鍾乳洞見学を終え、北へとぶらぶらと歩いている。

大昔このあたりは17の村から構成されていたが、しだいに「恩納村(おんなそん)」、「宜野座村(ぎのざそん)」、「金武町(きんちょう)」という3つに整理されていった。

東シナ海の美しい夕景を強みに恩納村には高級リゾート環境が完備されホテルやビーチが綺羅星のごとく並んでいる。一方、反対側の太平洋に面したこちらの宜野座村や金武町は昔ながらの飾り気のない素朴な表情をしている。

また太平洋側の宜野座村や金武町には米軍施設が多く、その影響か遊泳ビーチが極端に少ないように思う。

道端に咲いていた真っ白なハイビスカスの花
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さっそくぶつかってしまったのが「米軍施設キャンプハンセン」だった。

この時点では敷地の大きさが判らず、右折し基地に沿って歩いてみた。

しかし、これがどこまでも行っても終わらないのだ。

途中に出会った純白のハイビスカスがとても清楚で、この花のそばで小休止をとってしまった。見慣れたカラフルで派手なハイビスカスとは印象がガラリと変わる。

陽の陰りを感じ始めたので、”キャンプ沿い散歩”を切り上げ次の目的地へ向かうことにした。

この米軍キャンプをあとで調べたら、驚くなかれ何と5140ヘクタールもある広大な敷地であった。

東京ドーム1000個を軽く呑み込んでしまう大きさである。

早々に進路変更した判断が正しかったことを知ると同時に、金武の町歩きに失敗したことも判明した。どうやら とても興味深い地区を見逃してしまったようなのだ。

「米軍キャンプハンセン」の第1ゲート前には金武の新開地と呼ばれる歓楽ストリートがあったのである。知っていれば間違いなく尋ねていただろう。

沖縄がまだ米国であった頃、駐留米人の遊興で隆盛を極め、ドル経済を謳歌した新開地。それが今なお健在であることを知った。

もちろん往時の勢いは無いものの面影は色濃く残っており、今や沖縄名物として東京の飲食店でも登場している”タコライス”発祥の地としても知られてきたという。

米軍キャンプにぶつかった最初の場所を右折しないで、左折して”キャンプ沿い散歩”をしていれば確実に新開地を通ることになっていたのだ。

予習不足が原因ながら、残念というほかない。再訪を期し旅のリポートをつづけよう。

キャンプハンセンを離れたあと目指したのは「屋嘉(やか)ビーチ」だった。

金武町でも南西の端にあるビーチだが、この地域には遊泳ビーチがほとんど無く貴重な海浜のひとつである。

距離にして10 km弱はあるので、バスに乗り直して向かった。

バス停「屋嘉入口」がちょうどビーチの真ん前であった。

白砂に遠浅の海というリゾートビーチとは趣を異にする浜辺が目の前に広がっていた。

岩場のある磯やハマカンダー(昼顔の一種)のうっすらとした緑が這う砂浜。人工ビーチの対極にある海岸線が南へと伸びていた。

会話も無く背中を寄せ合ったカップルが無理なく自然に溶け込んでいる。

砂地へ出て南へ歩いて行くと岩場のないところでは30人ほどの人たちが海を楽しんでいた。よく見ると水着を着けているのは子供たちだけである。

全員が地元の人たちであることがひと目でわかる。子供を遊ばせながら自らも涼んでいるといった風情だ。

パラソルやゴムボートで水遊びをしているのだが、浜辺のどこにも遊泳客用の施設が見当たらない。おそらく自宅から車に搭載して来訪したに違いない。

このビーチを本日の最終地と思い、のんびりと時間をやり過ごしていたら、あることに気が付いた。

この2ヶ月の間、西海岸つまり東シナ海ばかりを眺めていたことが多く、日暮れとなると海に沈む太陽が常態となっていた。

しかしここ東海岸では太陽を背負う格好になるので海を見ていても太陽は見当たらず、見えるのは刻々と変わる自分と樹木の影だけ。砂地に映る影が、またたく間に背丈を伸ばし海面へと成長してゆくのだ。

確かな記憶には無いのだが、遠く幼い頃に見たような既視感をゆっくりとノックされているようだった。


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