2010年9月アーカイブ

沖縄の世界遺産は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として9つの遺跡がセットで指定された。2000年12月、第24回世界遺産委員会ケアンズ会議での決定だった。

その9つの中で拝所を持つ城郭としてのグスクが5つ選ばれている。「首里城」を筆頭に「座喜味城(ざきみじょう)」、「今帰仁城(なきじんじょう)」、「勝連城(かつれんじょう)」そして今回訪問した「中城城(なかぐすくじょう)」の各跡である。

絢爛な正殿の復元で首里城が群を抜いて目立ち、その他のグスクは城郭・城壁のみの復元なので一見似たような印象を持ってしまう。しかしそれぞれのグスクをじっくりとゆっくりと鑑賞してゆくと、その個性的な違いが見えてくる。

裏門は見事なつくりのアーチ(拱門)

県道146号線から少し入ると丁寧に相方積みにされた波打つ城壁が見えた。

城壁の右にはアーチ門があったが、裏門と書かれていた。

正門は最上部にあるようで、グスク城郭に沿って別の坂道が上部に向かってつづいている。

やはり正門より入城したく、その坂道を上ってみることにした。

世界遺産のグスクはここ中城城跡以外はすべて訪問をし、ここが最後になる。


                              最上部にある正門へとつづく脇道

ひとつづつグスクを訪ねてゆくうち、グスクの住人であった往時の城主たちにまで想像をたくましくするようになってくる。

長期にわたり王府となった首里城には個性的な城主の顔が容易に見えてこない。

無理して想像すれば、最初に統一王朝を果たした商才に長けた尚巴志(しょうはし)くらいか。

それに比べ勝連城の城主であった阿麻和利(あまわり)や座喜味城を造った護佐丸(ごさまる)らは、圧倒的な人間臭さで鮮やかな像を結んでくれる。

野望とロマンと夢を真正面から見据えて疾駆していった男たち。

琉球王朝の系譜には統一を果たした巴志も、第二王朝を築いた金丸(後の尚円)からも、そのワイルドな鼓動は聞こえてこない。

廃屋となってしまった 「中城高原ホテル」

脇道を7、8分も歩いたろうか、原っぱのような高台に出た。

まるで山頂からの眺めのような光景が正面に広がっている。

前面の山肌に縫い付けられたように大型の建物が建っていた。

この建物は後日判明したのだが、沖縄海洋博を当て込み建設されていた「中城高原ホテル」の廃屋であった。

完成前に建設中止となり、今や廃屋アドベンチュラーの絶好のターゲットになっているという。

その広場の反対側に「中城城」の正門があった。

正門を入ると西の郭と呼ばれる兵馬の調練に利用していたらしい細長い郭に入る。

正門を入ったすぐ右手には一段と高くなった南の郭、一の郭に昇る石段がある。やたらに縦長な西の郭の探索は後回しにして南の郭そして一の郭へと階段を上がった。

本土でいうところの本丸に相当する一の郭はさすがにたっぷりとした広さのある郭であった。太平洋側に向いた一の郭の眺望の素晴らしさは云うまでもない。

今まで見学したグスク本丸での眺望は素晴らしく、訪問者の眼を楽しませてくれた。5つのグスクからの風景はいずれも甲乙つけがたく、情趣あふれるものだった。

長期滞在の効用なのか、グスクの大観をゆっくりと巡るうち もうひとつの愉しみ方を味わえるようになった。グスクの住人であった当時の城主たちが、この同じ眺望の中に何を見ていたのかを想像することだった。

ここの城主は前述の武将、護佐丸である。彼は尚巴志の琉球統一を助けた最大の功労者であった。

北、中、南の有力豪族が覇を競っていた三山戦国時代。統一の重要な拠点である北山の大城である今帰仁城を陥落させた護佐丸は、巴志の依頼でそのまま北を守るため今帰仁城主となっている。

北部の治安も安定すると、護佐丸は自分の郷里である読谷(よみたん)の座喜味城に戻った。しかしその後 首里王府の命で、自ら築城した座喜味城から城替えとなり再び転地となった。それがここ中城城であった。

その時の王位は巴志の七男である尚泰久(しょうたいきゅう)であったが、彼は王位への野心を持つ勝連城主の阿麻和利を恐れ、自己の居城の首里と勝連城のちょうど中間に位置する中城城へ大物武将である護佐丸を配置したというのが容易に推定される。

しかし護佐丸と云えども戦国武将であり、王位をうかがうほどの実力者なのである。野望も人一倍胸に秘めていたに相違なく、この配置はきわめて危険な一手と云うほかない。

護佐丸も宴を催したであろう観月台

今、一の郭城壁の端に立ち北東から南東にかけ太平洋上に眼を滑らせてみる。

北は勝連城のある与勝半島の根元が視認でき、南の方面には南城市の知念岬まで遠望できた。

当然ながら那覇首里城のおおよその位置も見当がつく。

一の郭南側に少し突き出た場所があり、観月台との案内板があった。

数段高い位置に一席の宴が催せるほどの高見が造られていた。

名築城家としても知られる護佐丸の意匠だろうか。

護佐丸もよく宴を開いたと伝わるこの望楼で飲む酒はどんな味だったのか、眼には何が映っていたのか、今はただ想像を巡らせるばかりである。

正殿跡を見学したあと、拱門でつながる二の郭を鑑賞する。護佐丸の居館でもある正殿に至るには、二の郭か南の郭を経由しなければならない造りであった。

二の郭の城壁の曲線は一層深く波打っており、布積みにされた石灰岩がひときわ美しかった。くびれた曲線の城壁からは弓矢の横打ちが可能で、有事の際の防衛ラインが確保されている。

                    護佐丸の増設した三の郭

中城城は現在6つの連郭で構成されているが、三の郭と北の郭は移封となった護佐丸が城主となってから増設された。

北の郭内には湧水井戸を取り込んでいたり、南の郭には武具や農具工作用の鍛冶屋が隣接されている。

城壁などの石組みも、野面積み、布積み、相方積みの3種すべてを鑑賞できるので築城技術の粋を存分に愉しめる。

黒船来航ですっかり日本人にもお馴染みのぺりー提督一行も1853年琉球に立ち寄っているが、その折りにこの中城城の調査をし築城の素晴らしさに驚嘆していると記録にある。

中城城の完成度を限りなく高めた護佐丸だったが、勝連城の阿麻和利から夜襲をうけ追いつめられた彼はついに自刃してしまった。その勢いを駆って阿麻和利は首里王府を倒さんと試みたが敗れ、護佐丸を追うように倒れてしまう。1458年のことであった。

琉球王であった尚泰久の思惑どおり戦国の豪勇2人が共倒れとなったのだが、皮肉なことに 尚氏第一王朝はこの11年後に完全滅亡することとなった。

端麗な曲線が美しい中城城の外観


「中城城跡 −なかぐすくじょうあと−」のガイドページへ


重厚な石灰岩の石壁に囲まれた古民家があった。白い石壁の上からこぼれたフクギの緑色が鮮やかだ。470坪の敷地にゆるりと建つ姿は、風格もあるがそれ以上に確かな生活臭が浸み込んでいた。18世紀中頃に建築された豪農中村家の住宅である。

門から入り石壁に沿って並ぶ偉丈夫そうなフクギを見上げていると、いきなり空から大粒の雨が落ちてきた。沖縄に来て2カ月半が過ぎていたが、今まで雨に遭ったのは3回だけであった。

HARD RAINという言葉がぴったりなほど一気に激しく降るがスコール(豪雨)ほどではない。強烈な太陽にさらされ火照った顔には気持ちよかったが、ヒンプン横の中門を抜け内庭から母屋のひさしの下に隠れた。雨の音を聴きながらしばし内庭を眺める。

中庭に面して高倉が付設されていた

内庭を挟むようにしてアシャギと呼ばれる離れ座敷と穀物収蔵の高倉が向かい合って建っていた。高倉の上部が妙に大きくアンバランスに見える。上部の傾斜をつけることによってネズミの侵入を防ぐ工法 ”ネズミ返し” のため多少大きくなっていると案内があった。

沖縄特有のヒンプン(門と屋敷の間 つまり敷地の入り口に配置する魔除けの眼隠し塀)を右手に入ると母屋の一番座(客間)に出て、そこから左へ二番座(仏間)、三番座(居間)と部屋が並ぶ。ヒンプンを左に入ると台所のあるエリアへと向かう。そのためか男性は右から、女性は左から入ると云われている。

始まった時と同じように急速に雨足が細くなった。雨を浴びたフクギの緑や遠くに咲く花の赤が輝いていた。屋内の見学を始めるため母屋に入ることにした。

一番座の奥には裏座の2部屋が

ヒンプンを配置するような本土にない沖縄民家構造の特徴がもうひとつある。

普通に一見するだけでは気がつかないのだが、実は屋内には玄関に相当するものが見当たらないのである。

この滞在中にも何度か住居に訪問する機会があったが、いずれも客間とか居間などに直接あがり込むことになった。

ほとんどが戸を開け放ち光と風を取り込んでいるので、基本的にはどこからでもアプローチ可能な造りなのである。

ここ沖縄で玄関に相当するものをあえて挙げるとすれば、敷地内に入る門とヒンプンしか見当たらないのだ。

このことに気づいたとき、またひとつ沖縄を肌で理解でき近づけたような気になった。

沖縄の民家は平屋が基本なので敷地面積の割には部屋数も少なく以外にこぢんまりとしている。

そして一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)と右から左へ並ぶ。そして台所や土間や板の間が付属する。この古民家も同様で玄関などは無く、典型的な沖縄民家を保存維持しているようだ。

母屋はこの他に裏座と呼ばれる寝室など2部屋が、勝手まわりとして台所や板の間がそれぞれ公開されていた。台所ではカマドや酒器などが鑑賞でき、屋根裏の様子も窺うことができた。

                                台所まわりにある備品の展示

この中村家住宅の由来は古く、500年以上も昔にまでさかのぼる。

1440年、読谷村の有力豪族の護佐丸が首里王府の命で、この地の中城城へと配置替えとなったことから始まる。

中村家の先祖がこの護佐丸に同行し移住したと記録にある。しかし1458年護佐丸が倒れたあと王府の手から逃れるように一家は離散している。

ところが中村家の血脈はしたたかにタフだったのか、250年も経った1720年頃 同地で地頭として復活するのである。

この古民家の建築が18世紀中頃というからちょうどその時代に建てられたのだろう。

実際にその当時の建築物は母屋だけらしく、爾後しだいに増やされていったと聞いた。

      井戸とその奥の建物はメーヌヤー(家畜舎)

勝手口から表に出ると、すっかり雨は上がり、陽が勢いを盛り返しつつあった。目の前には大きな井戸が見え、右側にはメーヌヤーとよばれる家畜舎が付設されていた。

その奥にはフール(養豚場)まであり、居住地内ですべてを自己完結する昔日の生活様式にただただ脱帽。生活をするという単純な行為が、どれほどすごみのあることなのかを改めて教えてもらったようだ。

シーサーの護る屋根では赤瓦に棲み着いた苔が雨露できらきら光り、むしょうに陽の逆光が眼に痛かった。

「中村家住宅 −なかむらけじゅうたく−」のガイドページへ


健康食品

普天間の町並みは米軍キャンプ地の町らしい表情をのぞかせる

中城城(なかぐすくじょう)跡と中村住宅の見学のあと、普天間の町を少しだけ散策をすることにした。バスが中城城跡まで運行していないので、普天間近くの安谷屋(あだにや)のバス停から往復したため帰りに寄り道をしたくなったのだ。

普天間のある宜野湾(ぎのわん)市の中心に広大な面積を有する米軍施設《普天間飛行場》がドーンと居座っていた。その広さ、480ヘクタールもあるというから、ちょうど東京ドームが100個も入る巨大さだ。

そして宜野湾市の北部はやはり米海兵隊司令部などの軍中枢部があるキャンプ瑞慶覧(ずけらん)が東西に長く横たわっている。その広さ、普天間飛行場基地をはるかに上回る640ヘクタール。

このふたつの軍施設に はさまれた狭く細長い地区に、市民が密集するように形成した普天間の町がある。宜野湾市の全面積の3分の1が米軍施設だという。

                 アンティークショップなど米人向けのお店が目を引く

町を東西につらぬくメインの「でいご通り(県道81号線)」から「万年通り」、「すずらん通り」、「旧局前通り」など路地から路地へとあてもなく歩いてしまった。

町の人に町一番の高台を教えてもらい「嘉数高台公園」にも登ってみた。

悲しくなるほど日本人の土地が無かった。

現在沸騰している移転問題がいやでも想い起こされてくる。

ここで何を述べようが、決して当事者にはなりえない単なる傍観者の一意見にしかならないだろう。

一過性の旅行者が軽々に語れるほど単純ではない錯綜した年輪を、この町は重ねている。じかに普天間の町に触れ、あらためてそのことを痛感した。

普天満宮境内の様子

県道81号線に戻り、途中素通りしてしまった普天満宮に入り小休止を取った。

この社の起源は古く、沖縄特有の聖なる洞窟より始まったようだ。

全長280mにおよぶその洞窟聖域は今も残っていると案内板にあった。

15世紀中頃 熊野権現と合祀され、以来現代にいたるまで維持されてきた古社である。

街中に充満していたアメリカンテイストも、ここ普天満宮の敷地には一歩も侵入できないかのように、境内は静謐な和に包まれていた。

そんな中にも石造りのお水舎やシーサーが、沖縄であることを思い起こさせてくれる。

本殿は平成17年に改築されたばかりのものだという。


流麗な破風の下に掲げられた扁額には鮮やかな緑色で普天満宮と書かれ、白い木地と相まってとても美しかった。

普天満宮の周りを歩くとすぐにキャンプ瑞慶覧にぶつかってしまった。普天満宮の真裏には広大な米軍キャンプが広がっていたのだ。このキャンプは1972年にキャンプ瑞慶覧とキャンプフォスターが統合された施設なので、今でも両方の名が生きている。

戻りながらもう一度正面を振り返ると、まるで小さな普天満宮が巨大な米軍を一身で受け止めているようにさえ見えてくる。この勝負、普天満宮の勝ちだろう。所詮、愚かな所業を繰り返す人間が神を超えられるはずもない。


普天満宮

住所 宜野湾市普天間1-27-10

電話 098-892-3344

施設 駐車場あり/参拝自由
    洞穴見学 10:00~17:00

交通
 那覇空港より 50分(国道58号線を北上−伊佐の信号を右折スグ)

BUS 那覇BT 45分(名護東線21番など)− 「普天間」 下車3分


沖縄本島の中南部は米軍施設が多く、観て回れる場所が意外と少ない。歩いてみたいと思っていたポイントも おおよそ回ることができた中南部地区だが、まだひとつ訪れたいところが残っていた。

北谷町にある「アラハビーチ」である。"ARAHA BEACH”ではなく"ALAHA BEACH” と表記したくなるほどハワイにありそうなビーチの響きがする。単純にハワイの挨拶 《アロハ》 に似ていることもあるが...

すこし横道にそれてしまうが、ハワイ語ではアルファベットを12文字しか使用しないことをご存知だろうか。子音で H・K・L・M・N・P・W の7文字と母音 A・I・U・E・O の5文字だ。

HAWAII、WAIKIKI、MAUI などの地名に始まり、挨拶の ALOHA や魚の MAHIMAHI、首飾りの LEI など、12文字ですべてを表わすことができる。嘘だと思うなら今すぐハワイの地図を広げるとよろしい。端から端までこの法則にしたがい表記されている。

地名に付いている BEACH や BAY とか アメリカ人が勝手に付けたDIAMOND HEAD などはハワイ語ではなく英語表記なので念のため。マウイ島で知り合った LOKO(地元住民)から教えてもらった時はそのシンプルさにある種の感動さえ覚えたことを記憶している。


頭にハワイを描きながら現地の北谷(ちゃたん)に着くと ビーチに沿って綺麗な公園があった。

看板がポツンと立っており、そこには「安良波公園」とあった。

「アラハ」がどういう漢字を当てていたのか判明すると同時に、ハワイから急に日本に戻って来てしまった。

気を取り直し、公園を突っ切り浜辺へと出てみた。

けっこうな人出で賑わっていたが、混雑しているようには見えない。それほどビーチはゆったりとしていた。

ここよりすこし北にある 「サンセットビーチ」 と同じように、このビーチも人の手が加えられた遊泳ビーチだが、表情はこちらの方がはるかに豊かだ。

第一印象でこのアラハビーチを気に入ってしまった。浜辺にあった軽食店でしばらく海を眺めていると、見る間に空の雲が厚くなってゆく。30分ほどですっかり色感の乏しい風景へと変貌した。

今にもバケツをひっくり返したような雨が落ちてきそうで身構えていたが、なんとか持ちこたえている。沖合では落ちてきている雲を水平線上の海がやっと支え雨漏れを押さえているように見える。

暗雲が垂れこみモノクロームの風景となったアラハビーチ

雨が落ちてこないうちに公園を歩くことにした。「安良波公園」は2000年にできたばかりの現代的な公園だった。

公園途中にバスケットリングを発見。バスリングというのはときどき町中で見かけるバスケットゴールの金属輪のことだが、ここには5つもあった。12歳以下のミニバスケットリングが2つ、公式用リングが3つも設置されていた。

ストリートバスケ・ファンと思しき3人のアメリカ人が、舗装された屋外床でボールを獲り合っている。周りを見わたすと訪問者の半分近くがアメリカ人のようだ。公園そばをつらぬく国道58号線から東は広大な米軍キャンプフォスターが横たわっていることを思い出した。

インディアンオーク号を模して造られた帆船
Araha-beach3_blog.jpg

そこを離れ公園中央へ向かうと、大きな帆船の姿が視界に入ってきた。

後で判明した大型帆船が置かれている理由は以下のとおりだった。

時をさかのぼること170年、1840年の真夏に英国船 ”インディアンオーク号” がこの沖合で座礁した。

当時欧州近海では海賊行為が堂々と横行していた時代で、特に英国は国家レベルの海賊行為が有名でその歴史がつづいていた。

現在の英国博物館の大半がこの海賊行為によって収得したものと影で云われているほどだ。

遭難した67人の乗組員は北谷の領民によって保護された時、皆殺しにされることを覚悟していたに違いない。

ところが、殺戮されるどころか滞在した45日間にわたり手厚い世話をうけた上に、帰国用の船造りまで援助されたという。


おそらく 彼ら67人の全員が激しく感動したことだろう。

この事件以来、長きにわたり北谷町と英国との友好関係がつづいているとのことで、公園が造られる機会にインディアンオーク号を模したモニュメントとして造営されたのだ。

今は子供たちのアスレティック設備のある格好の遊び場になっていた。

この他にも貝殻をテーマにした流水階段、ブルーを基調にした野外ステージ、噴水池など現代的なデザイン設計の公園に仕上がっている。

モモタマナの木陰で海を眺めていると、少しづつ空が明るくなってきた。

ビーチに戻り白砂を踏みながら水ぎわを歩いていると、空がうっすらと色づいてくるのがわかった。

子犬が転げまわるように3人のこどもたちが駆けぬけてゆく。アメリカの少年だ。

見わたす限りの風景が朱色に染まり、赤の陰影がつくる濃淡だけの世界になってしまった。

東シナ海に落ちる太陽の足は速く、見る間に水平線の彼方に沈んだ。しかし赤く塗られた情景が色を失うまでには、東京の夕暮れでは考えられないほど時間を費やしてくれた。

《暮れなずむ》という言葉にふさわしい天工の夕景で、事実、思考が止まるほど豊饒の時間をもたらしてくれた。

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