世界遺産で最後のグスク、中城城を訪ねる       〜沖縄ちょぼ旅 BLOG 82〜

沖縄の世界遺産は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として9つの遺跡がセットで指定された。2000年12月、第24回世界遺産委員会ケアンズ会議での決定だった。

その9つの中で拝所を持つ城郭としてのグスクが5つ選ばれている。「首里城」を筆頭に「座喜味城(ざきみじょう)」、「今帰仁城(なきじんじょう)」、「勝連城(かつれんじょう)」そして今回訪問した「中城城(なかぐすくじょう)」の各跡である。

絢爛な正殿の復元で首里城が群を抜いて目立ち、その他のグスクは城郭・城壁のみの復元なので一見似たような印象を持ってしまう。しかしそれぞれのグスクをじっくりとゆっくりと鑑賞してゆくと、その個性的な違いが見えてくる。

裏門は見事なつくりのアーチ(拱門)

県道146号線から少し入ると丁寧に相方積みにされた波打つ城壁が見えた。

城壁の右にはアーチ門があったが、裏門と書かれていた。

正門は最上部にあるようで、グスク城郭に沿って別の坂道が上部に向かってつづいている。

やはり正門より入城したく、その坂道を上ってみることにした。

世界遺産のグスクはここ中城城跡以外はすべて訪問をし、ここが最後になる。


                              最上部にある正門へとつづく脇道

ひとつづつグスクを訪ねてゆくうち、グスクの住人であった往時の城主たちにまで想像をたくましくするようになってくる。

長期にわたり王府となった首里城には個性的な城主の顔が容易に見えてこない。

無理して想像すれば、最初に統一王朝を果たした商才に長けた尚巴志(しょうはし)くらいか。

それに比べ勝連城の城主であった阿麻和利(あまわり)や座喜味城を造った護佐丸(ごさまる)らは、圧倒的な人間臭さで鮮やかな像を結んでくれる。

野望とロマンと夢を真正面から見据えて疾駆していった男たち。

琉球王朝の系譜には統一を果たした巴志も、第二王朝を築いた金丸(後の尚円)からも、そのワイルドな鼓動は聞こえてこない。

廃屋となってしまった 「中城高原ホテル」

脇道を7、8分も歩いたろうか、原っぱのような高台に出た。

まるで山頂からの眺めのような光景が正面に広がっている。

前面の山肌に縫い付けられたように大型の建物が建っていた。

この建物は後日判明したのだが、沖縄海洋博を当て込み建設されていた「中城高原ホテル」の廃屋であった。

完成前に建設中止となり、今や廃屋アドベンチュラーの絶好のターゲットになっているという。

その広場の反対側に「中城城」の正門があった。

正門を入ると西の郭と呼ばれる兵馬の調練に利用していたらしい細長い郭に入る。

正門を入ったすぐ右手には一段と高くなった南の郭、一の郭に昇る石段がある。やたらに縦長な西の郭の探索は後回しにして南の郭そして一の郭へと階段を上がった。

本土でいうところの本丸に相当する一の郭はさすがにたっぷりとした広さのある郭であった。太平洋側に向いた一の郭の眺望の素晴らしさは云うまでもない。

今まで見学したグスク本丸での眺望は素晴らしく、訪問者の眼を楽しませてくれた。5つのグスクからの風景はいずれも甲乙つけがたく、情趣あふれるものだった。

長期滞在の効用なのか、グスクの大観をゆっくりと巡るうち もうひとつの愉しみ方を味わえるようになった。グスクの住人であった当時の城主たちが、この同じ眺望の中に何を見ていたのかを想像することだった。

ここの城主は前述の武将、護佐丸である。彼は尚巴志の琉球統一を助けた最大の功労者であった。

北、中、南の有力豪族が覇を競っていた三山戦国時代。統一の重要な拠点である北山の大城である今帰仁城を陥落させた護佐丸は、巴志の依頼でそのまま北を守るため今帰仁城主となっている。

北部の治安も安定すると、護佐丸は自分の郷里である読谷(よみたん)の座喜味城に戻った。しかしその後 首里王府の命で、自ら築城した座喜味城から城替えとなり再び転地となった。それがここ中城城であった。

その時の王位は巴志の七男である尚泰久(しょうたいきゅう)であったが、彼は王位への野心を持つ勝連城主の阿麻和利を恐れ、自己の居城の首里と勝連城のちょうど中間に位置する中城城へ大物武将である護佐丸を配置したというのが容易に推定される。

しかし護佐丸と云えども戦国武将であり、王位をうかがうほどの実力者なのである。野望も人一倍胸に秘めていたに相違なく、この配置はきわめて危険な一手と云うほかない。

護佐丸も宴を催したであろう観月台

今、一の郭城壁の端に立ち北東から南東にかけ太平洋上に眼を滑らせてみる。

北は勝連城のある与勝半島の根元が視認でき、南の方面には南城市の知念岬まで遠望できた。

当然ながら那覇首里城のおおよその位置も見当がつく。

一の郭南側に少し突き出た場所があり、観月台との案内板があった。

数段高い位置に一席の宴が催せるほどの高見が造られていた。

名築城家としても知られる護佐丸の意匠だろうか。

護佐丸もよく宴を開いたと伝わるこの望楼で飲む酒はどんな味だったのか、眼には何が映っていたのか、今はただ想像を巡らせるばかりである。

正殿跡を見学したあと、拱門でつながる二の郭を鑑賞する。護佐丸の居館でもある正殿に至るには、二の郭か南の郭を経由しなければならない造りであった。

二の郭の城壁の曲線は一層深く波打っており、布積みにされた石灰岩がひときわ美しかった。くびれた曲線の城壁からは弓矢の横打ちが可能で、有事の際の防衛ラインが確保されている。

                    護佐丸の増設した三の郭

中城城は現在6つの連郭で構成されているが、三の郭と北の郭は移封となった護佐丸が城主となってから増設された。

北の郭内には湧水井戸を取り込んでいたり、南の郭には武具や農具工作用の鍛冶屋が隣接されている。

城壁などの石組みも、野面積み、布積み、相方積みの3種すべてを鑑賞できるので築城技術の粋を存分に愉しめる。

黒船来航ですっかり日本人にもお馴染みのぺりー提督一行も1853年琉球に立ち寄っているが、その折りにこの中城城の調査をし築城の素晴らしさに驚嘆していると記録にある。

中城城の完成度を限りなく高めた護佐丸だったが、勝連城の阿麻和利から夜襲をうけ追いつめられた彼はついに自刃してしまった。その勢いを駆って阿麻和利は首里王府を倒さんと試みたが敗れ、護佐丸を追うように倒れてしまう。1458年のことであった。

琉球王であった尚泰久の思惑どおり戦国の豪勇2人が共倒れとなったのだが、皮肉なことに 尚氏第一王朝はこの11年後に完全滅亡することとなった。

端麗な曲線が美しい中城城の外観


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