2010年10月アーカイブ

やんばる ロード 1

沖縄滞在も70日が過ぎようとしていた。沖縄にいられるのもあと2週間ほどとなってしまった。

また東京の友人から筆者がいるうちに遊びに来たいという電話も入ってきた。外国を飛び回っているその友人は、香港から東京経由で那覇に飛んでくるため、合流できるのはほとんど最後の1週間になるだろう。

友人は鑑賞ターゲットを世界遺産にしぼって希望しているので、レンタカーで走り回ることが想定される。つまり筆者の単独旅行はあと1週間になることも意味していた。少しだけ焦らなければならなくなってきた。

こちらの単独行動も車で回らなければならないところばかりが残ってしまっている。どうせ借りる車ならとすぐに予約した。そしてさっそく車で向かったのは、もちろん最北端の「辺戸岬(へどみさき)」である。

やんばる路への入口、「津波」の海岸

レンタカー初日のドライブ計画は本島最北端の辺戸岬を目指すこと。往路は西海岸を北上し、復路は東海岸を南下という「やんばる」の海岸ロードを一周するシンプルなプランだ。

この2カ月間バスと徒歩による旅を敢行していたので、バスの都合(ダイヤ)に関係なく出発できるのが とてもありがたくもあり新鮮でもあった。

また車なら比較にならないほど多くの場所と風景に出会えることも確かだろう。その代わり今までの”バス歩き旅”で味わえた温度感や手触り感は希薄になり遠のいてしまうのも確かだ。

ということで始まった車旅だが、この日は早朝より起き出してひたすら北へと走った。

その甲斐あって名護市を過ぎ、やんばる路の入口とも云える津波の町に入った時刻がまだ午前中だった。

この日、最初の休憩がこの津波の海岸。岩場のある磯遊びができそうな浜だった。


広義では名護市以北が「やんばる」と呼ばれるが、筆者はやはり400m以上の山麓が連なり、裾野には大自然の残る原生林が横たわる地域を「やんばる」としたい。つまり今いる大宜味村(おおぎみそん)、東隣りの東村(ひがしそん)、そして最北の国頭村(くにがみそん)の3つである。

ドライブを再開し国道58号線を北上する。視界は良好で、右は山並みと民家が、左は東シナ海が後ろへと流れてゆく。

前方に小さな橋が見えてきた。その橋の向こうには飛び島のような小島があり、その島をまたぐように長い橋が架かり道はふたたび本島沿岸沿いを北へとつづいている。

長い橋を渡ると足が自然にブレーキにかかり、道沿いにある駐車スペースへと車を進入させていた。

塩屋橋の向こうは塩屋湾(左上)、橋のたもとの洒落た休憩所(左下)、塩屋の浜辺(右)

飛び島は「宮城島」という小島であった。短い橋が宮城橋、長い橋が塩屋橋という。陸地に食い込んだところが塩屋湾だが、湾をショートカットするため飛び島「宮城島」を利用したというわけである。

海中道路でつながれた平安座島と伊計島に挟まれた島も宮城島であった。沖縄では同名の場所が複数あるので留意しなければならない。塩屋橋を渡った先には塩屋の澄んだ浜辺が漁港の方まで伸びており、遊泳ビーチにしたいくらい透明な海だった。

クーラーを止め窓を全開にして運転を再開、身体をすべる風がとても心地よかった。イヤーホンから流れてきたのは、ホール&オーツの 《After The Dance》。さすがの青い眼をしたソウル・デュオでも、やはりマービン・ゲイには かなうわけがない。フロントに注意しながらアイポッドのシャッフルボタンを押した。

ここまで北部に来ると本島の大動脈58号線といえどもガラガラである。すれ違う車も追いかけてくる車もほとんどない。たまにすれ違えば地元車ばかりだった。

                       波よけの石組がきれいな大宜味の海辺

右側に ”おおぎみ道の駅” と書かれた売店があらわれたので、涼をとることにした。

かき氷を掻き込み、さらに冷たい水のペットボトルを片手に国道沿いに広がるビーチへと出た。

真っ青な海に白い波よけの石が組まれ突き出ている。

その上を歩き先端まで行くとポツンと海の中に取り残された感覚になってくる。

そこから振り返るとゆうに1kmは超える大宜味の浜辺が迫っていた。

なおも北上をつづける。今朝運転していて再確認できたことがある。徒歩1時間で行ける距離は3〜3.5kmだが、車だと時速40kmも出せば4、5分で着いてしまう。こんな当たり前のことを再認識したのだ。

この2か月は本当によく歩いた。1kmがどれほどの距離なのか頭ではなく身体が覚えてしまった。だからこうして運転していると、過ぎてゆく風景の声や感触や匂いが両の手からこぼれ落ちてゆくようだ。

そのいい証明がある。2年半ほど米国ロスで生活したことがあったが、今でも懐かしく手に取るように想い出せる場所はサンタモニカ、メルローズなど数か所しかない。いずれも自分の足で歩き回ったところばかりである。

毎日のように車で通った大通りや街でも景色はおろか何ひとつ憶えていないのである。憶えているのはフリーウェイの番号と乗り換え手順くらいのものか。

バーチャルリアリティを何百回経験しても何も経験していないし、頭だけで判っていても実は何も判ってはいないのだ。人間とはそうした生き物だと思う。

まもなく本島では一番北の地域「国頭村」に入る。絶滅危惧種に指定されているヤンバルクイナが飛び出してくるかもしれない。気を付けて運転せねば...


やんばる ロード 2

飾り気のない田嘉里(たかざと)の浜

国道58号線を北上中、田嘉里というバス停留所近くの海が気に入り、少しだけ停車することにした。

砂地一面にはハマヒルガオのつるが張っていた。どこか懐かしい風景の浜辺だった。

この田嘉里は大宜味村(おおぎみそん)と国頭村(くにがみそん)にまたがった町らしい。

いよいよ本島北端の地、「国頭村」である。


沖縄での村は東京で云う区や市に相当するのだが、国頭村区域はかなり個性的と云える。まず全体の25%を米軍に占有され、そして残り面積の95%が森林に覆われているのだ。

標高500mを超える本島最高峰の与那覇岳を筆頭に西銘岳・伊湯岳などが脊柱をつくるように連なり、そこを分水嶺として多くの河川が東シナ海、太平洋の両海へ注ぎこんでいる。

世界の動植物学者が注目する生物が、この地に生息するのもうなずけるというものである。

国頭村に入るとすぐ目に飛び込んでくるのが生物保護の大看板。その後も種々の注意標識が掲げられていた。この幹線道路の58号線で轢死する生物、つまりロードキルが跡を絶たないからだ。

しかしカニに注意しろと云われても、どう走ればよいのか途方に暮れてしまう。以前テレビでカニ専用の道路を掘っているユニークなニュースが報道されていた。

”オカガニ”という防風林の根元に巣をつくる大きなカニは夏の産卵期に海へ向かうという。そのため多くのカニが道路を横断しなくてはならずロードキルに遭うらしい。そこでカニ専用道路の設置をするというわけである。

しかしその後完成したかどうかは未確認なので、やはり注意をしなければいけない。カニと云えば海側を注視してしまうが、この場合は山側から出現するのだろう。そんなことを考えているうちに奥間まで来てしまった。あの「オクマビーチ」のある地である。そのビーチから北東2kmのところが沖縄本島主要バスの北の終点、辺土名(へんとな)バスターミナルがある。

                 洒落たコテージのあるホテル敷地内を通り抜ける道路

奥間の交差点、右に行けば比地大滝、左に曲がればオクマビーチ。

左折するとすぐにホテルの敷地内へと道路がつづいていた。

ホテルは「オクマビーチ」をプライベートビーチとしている「JALプライベートリゾートオクマ」である。

このホテルはコテージが集落のように設営されメインビルのような高い建物はいっさい見当たらない。

そのためフロントのあるメインオフィスが見つけにくく通り抜けてしまった。

車中で地図を再チェックすると、この道の先に赤丸岬なるポイントがある。間違ったのを幸いにオクマビーチの前にそこを訪れるべく車を先へと走らせた。

しばらく走るとこの一本道が米軍施設のようなゲートへと伸びていた。筆者の地図には米軍基地など記載はなく、ただ「赤丸岬」とだけあった。

戻るにしても Uターンしなければならないわけで、道路上で出来なくはないが どうせするなら広い方がよい。かまわず進入した。

ゲートをくぐると いきなり大声で止められた。駆け寄ってきたセキュリティガードの説明でそこが米海軍の保養施設であることが判明した。保養地なら赤丸岬の見学と撮影を許可してほしいと申告。

最初こそポカンとした顔をしていたこのアメリカ人、すぐに猛烈な勢いでNGを出し レギュレーションの説明が始まってしまった。まったく愛想の無い軍人だ。世界一愛想が無いと定評のある中国人女性となんら大差がないのである。

このまま規則話を聞いても時間の無駄なので 『退散する』 と伝えるとトタンに笑顔になった。やれば出来るではないか! 彼の話で役にたったのは「赤丸岬」が《アカマル》と発音するという確認くらいのものだった。

建物に囲まれた池に咲く1輪の熱帯睡蓮

ホテルのメインオフィスに入るとごく普通のフロントがあり、物静かで落ち着いた空気があたりを支配していた。

低層建築物をつなぐ回廊が植物園のように緑と花で覆われている。

フロント近くのラウンジ、”ファウンテン”で小休止を取ることにして窓側の席に着く。このラウンジは夕刻から BAR に変貌するようだ。

大理石の敷かれたフロアとたっぷり距離を取った席間隔、窓外には内庭のような造りの池に熱帯睡蓮が1輪だけ薄青の花を咲かせていた。

米軍より返還されたこの地にホテルが開業されたのは1978年だという。その後何度も保全・拡張の改修を施したようだ。

琉球紅茶を飲んだあと、さっそくホテル敷地を見学しながらビーチへと向かう。


                           カジュアルなパームコテージ

海浜リゾートと云えばお約束のように高層建築からのオーシャンビューが重要視されてきた。

しかし近年ではヴィラ、コテージ、ログキャビンなど低層建築の宿舎も見直されてきており、ヴィラタイプなどは丸ごと一棟を専用するリッチさを味わえるので、高層のペントハウス(最上階)よりもトッププライスである。

こちらのゲストルームもすべて低層タイプで設計されており、ヴィラスタイルからカジュアルなコテージまで4ゾーンに分けられていた。

それぞれのコテージ群が植物庭園の中に散りばめられたようで、周りには空を遮る高いものもなく自然の只中にいる感覚をもたらしてくれる。

ただしパームコテージと呼ばれるカジュアルなコテージ群は水色と白で明るく彩色された低層アパートメントで外観から観るかぎりリッチ感は無い。周りに配した水辺だけが救いになっているように思う。

屋外プールを眺めながら海岸へ出ると広々とした浜辺が1キロ近くも展開していた。砂浜は人工ビーチのように岩礁ひとつなく真っ白である。しかしここは自然が創った正真の天然ビーチであった。

遠浅で奥行きのある浜辺が、やはり広く高い青空にとても似合っている。ビーチに設備されているものもコンパクトなマリンハウスと海に突き出した白い桟橋のみと、いたってシンプルで好印象のビーチであった。

マリンハウスをのぞくと壁に案内があり、マリンアクティビティー、親水プログラム、自然体験ツアーなど潤沢なメニュー(ガイドページ参照)がびっしりと並んでいた。また一般ビジターにも開放されているので、車さえあれば北部やんばる地の唯一のリゾートビーチを存分に楽しめるのだ。

駐車場には来た時と違うコースを通りながら戻ったが、とにかくホテル敷地内はどこを歩いても したたるほどの緑に溢れて自然を身近に感じられる。非日常体験やプレジャーも大いに魅力的ではあるが、もしかすると本当の贅沢というのは何もせずに居られる場所に身を置くことかもしれない。

               太陽と緑がいっぱいのホテル敷地内


「JALプライベートリゾートオクマ〜オクマビーチ」のガイドページへ


やんばる ロード 3

JALプライベートリゾートオクマを離れ、国道58号線に戻り車を一路北へと向ける。10分くらいで58号線はふたたび海岸線に出た。与那と呼ばれる地区だった。

砂浜がほとんど無く、石積みの護岸になっている。しかし海はどこまでも穏やかで車を停めて眺めたくなるほど青く澄んでいる。

                       謝敷の海岸線

しばらく走ると、ありったけのテトラポッドを浜辺にぶちまけたような海岸線が見えてきた。

バス停の少し先に車を停め、停留所を確認すると謝敷(じゃしき)と書かれている。

地図でチェックすると名護市からちょうど北へ20キロ地点の海岸であった。

ビーチに出てみた。磯近くでは緑がかった海の色も20m先の沖合では泡立つ波間を境に真っ青な色へと変貌している。

波下にはサンゴの環礁ができているのだろう。

車に戻りドライブを再開していると、無意識に片手運転をしていることに気付いた。

米国では左運転席なので右利きの筆者には、左手をウインドーに乗せての片手運転が楽で、すっかりその当時の悪いクセが身についてしまっていた。

レンタカーは国産車で右の運転席だったが身体は自然に対応していた。もっとも左手一本でも楽に運転できるコースだったからかもしれない。

今日の目的地である辺戸岬の前に行きたいところがあった。観光スポットとしても知られる「茅打バンタ(かやうちばんた)」である。あたかもアミューズメントのような響きだが、実は本島でも有名な難所のことなのだ。バンタとは琉球の方言で崖を意味する。

昔から最北の地へ出るためには必ず通らなければならなかった絶壁をつたう細い断崖道。地元では「戻る道」と呼ばれ、人がすれ違えないほど道幅が無く一方が戻らねばならないほど狭隘険路であったという。

宜名真トンネル

茅の束もバラバラにする強風が断崖道を吹き上げることから「茅打バンタ」と名付けられたこの難所も、今では山塊をぶち抜く「宜名真(ぎなま)トンネル」が開通しているので山越えする人はほとんどいない。

その難所へ上がる入口を探して走っていたが、いきなり「宜名真トンネル」が目の前に現れてしまった。

「茅打バンタ」への入路を見逃したのだ。県下一長い1キロのトンネルをくぐったが、出たところからすぐにUターンをする。

バンタ探しのため58号線を戻ったのだが、右手に宜名真の漁港と防波堤が見えたのでまたまた寄り道となった。

    宜名真漁港の防波堤内

少し回り込むが防波堤にも出られる。防波堤では2組の釣り人が釣果はまだ無かったが楽しんでいた。ここは釣り客にも有名なポイントであることを教えてもらった。

防波堤で寝ころび入道雲をな眺めていたが、コンクリートから伝わってくる地熱が動悸のように背中を打ってくる。しだいにドライフルーツのような気分になってきて車の冷房が恋しくなってきた。

大急ぎで車に戻り、運転再開と同時に冷房も全開にした。好きなときに冷房に逃げ込み、好きなときに移動できる車の便利さを、つくづく再認識させられてしまう。人間も堕落したものである。

やっと見つけた「茅打バンタ」への枝道。最初こそ なだらかだった坂道がしだいに斜度を増してゆく。馬車や車が通れるほど道幅が広がったのは大正期のことらしい。かなり登ったところの崖上にその名高い難所、「茅打バンタ」はあった。

断崖の端には事故防止の柵が設けられているが、ところどころ柵の無いところから下をのぞくと、噴き上がる強い風と峻嶮な景観に思わず引き込まれてしまう。今までいた防波堤が箱庭のような世界の中に小さく収まっていた。

茅打バンタの崖上から臨む宜名真漁港

今ではこの崖上も園地として整備され東屋の休憩所やトイレなどが設けられ、観光客が訪問しやすい環境になっている。東屋から見る空も一気に近づいたのか雲もひときわ大きく見える。

この園地には遊歩道もあるので真南の宜名真漁港から北西の伊平屋島までの180度のパノラマ景観を十二分に満喫できる。

水平線が極端に丸く見えてしまうのも、屹然とそびえる断崖からの景色だからなのだろう。中天に浮かぶ白雲から足元に広がる東シナ海まで大自然が手の届くところにあった。


「茅打バンタ」のガイドページへ


やんばる ロード 4

                           童話に出てくるような可愛い辺戸岬灯台

ようやく見つけた。

細い道の先には真っ白でジオラマで見るような灯台が静かにたたずんでいた。

本島最北の半島のような海岸線西岸にある辺戸岬(へどみさき)灯台である。

かねてより那覇で知り合った知人から聞いていた灯台だ。地図にも載っていない上、現地でも何の案内板も無いと聞いていた。その通りだった。

ここに灯台があると知らなかったら、確実に見逃していただろう。

1972年5月15日、業務開始とあった。高さ11mの小さな灯台で、周りを1m半くらいの塀が取り囲んでいた。

最近塗りなおされたのか目にも鮮やかな白さである。まるでジュブナイルに登場しそうな灯台だった。

停めてある車までの戻り道が遠かった。道が細く雑草におおわれていたので、ずいぶん手前に駐車してしまったようだ。

この次のポイントはいよいよ辺戸岬である。西岸側にあった辺戸岬灯台から辺戸岬への入口となる東岸へと車を飛ばした。走ること数分で辺戸岬の看板が飛び込んできた。案内の方向へと曲がると大きな駐車場へと進入して行った。

お休み処を備えた高速道路にあるPAのような風景だった。車を駐車し、さっそく岬突端へと歩を進めた。とても広い岬でプロムナードが縦横に走っており、遊歩道沿いには多くの記念碑やオブジェが設置されていた。

辺戸岬の崖上から

石碑などの見学は後回しにして岬台地の北端まで歩きつづけた。そしてたどり着いた崖の端から見た海は青くて丸かった。薄くけぶった水平線は明らかに丸く、地球が球体であることを肉眼で見せてくれているようだった。

沖縄本島北端の岬に立っていることも手伝い、日本本土へとつづく大海原を見入っているうちに少しだけ感傷に浸ることができた。

人には《果て》という未知と隣りあわせている限界点に挑戦する本能があるらしい。エベレスト登頂、北極・南極制覇、宇宙航行、深海探査など、その本能の要求するところに従ってきた。

その未知のポイントを制覇してもおそらく何も特別なものは無いのだろう。精神的充足と記録が残る以外は。しかしこの飽くことのない本能だけは消失することはないだろう。

沖縄本島の最北端など可愛らしいものだが、最北とか最南ポイントとか聞くと無性に行きたくなってしまう行動をとるのも、そんなところに原因があるのかもしれない。

1976年4月に造られた「祖国復帰闘争碑」

プロムナードを歩いていて、檄文とも云うべき激しい論調の碑文に出会った。

祖国復帰闘争碑とあった。

『吹き渡る風の音に耳を傾けよ
権力に抗し復帰をなし遂げた
       大衆の乾杯の声だ』

で始まる文は、しだいに熱を帯び

『戦後は屈辱的な米国支配の鉄鎖につながれ その傲慢な支配は沖縄県民の自由と人権を蹂躙した...祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた』 とつづく。


日本への復帰を願いながらこの辺戸岬から灯を焚き、与論島(奄美群島)の人たちと呼応したという。双方から船に乗り海上で集合し祖国復帰を目指したと伝わっている。

与論島はひと足早く1953年に日本復帰がかなったが、沖縄の復帰はそれから19年もかかり1972年に実現する。

碑文はさらに激しさを加えてつづく。

『1972年5月15日 沖縄の祖国復帰が実現した
しかし県民の平和の願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化された』

『この碑は喜びを表明するためではなく まして勝利を記念するためにあるのでもない
生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きるための警鐘を鳴らさんとしてある』

この碑文が色あせることもなく、戦後65年も経った今も胸に刺さるのは、普天間問題で判るように沖縄の戦争がいまだ終わっていないからだろう。

祖国を慕う気持ちがまだ健在だった頃、この辺戸岬から22キロも離れた与論島の人たちと海上で落ち合う風景はどんなであったろう。映画のワンシーンのように純粋で美しかったに違いない。

                          展望台の大ヤンバルクイナの足元

岬からの絶景を存分に堪能したあと、パーキングロットへと戻ったのだが、その途中に面白いものを発見した。

遠景ながら山の中腹に巨大なヤンバルクイナが見えたのである。

岬の近くにあると聞いていた「ヤンバルクイナ展望台」だと判ったが、まさか岬から見えるとは思っていなかった。

駐車場に着いたが、レストハウスに貼られていたかき氷の字につられて水分補給をすることにした。

急いでかきこんだせいで頭の奥に激震が走り、頭をかかえながら勘定を済ませることになってしまった。

岬から展望台までやはり5、6分で着いてしまった。車もたまには爽快なものである。長い階段を登ると11.5 m のヤンバルクイナが立っていた。訪問者は誰もいない。

コンクリート造りの巨大ヤンバルクイナで胸のところが展望窓になっている。胴体内部は3層構造になっており、胴体側部に併設された階段で移動できる。

さっそく内部に入って最上部へと進入した。中はガランとして置き忘れられたように警備員の敬礼している絵看板が床に転がっている。その看板を拾い展望室のベンチに寝かせ、窓外に目をやると青を背景にした辺戸岬の全景が前方に浮かびあがっていた。

「辺戸岬」のガイドページへ


ヤンバルクイナ展望台

住所 国頭郡国頭村辺戸
施設
 駐車場無料(10台)・休憩所
問合せ
 0980-41-2101 国頭村役場)
交通


那覇空港より175分 那覇IC−許田IC 間は高速利用−国道58号線を北上−辺戸岬手前を右折スグ


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