2010年12月アーカイブ

ヤンバル地の入口にもなる名護市北部にある離島、屋我地島(やがぢしま)、古宇利島(こうりじま)。以前より訪問したかったのだが、バスが途中までしか運行されていないので後回しになっていたポイントだ。

午前中から車を飛ばし、比地大滝を訪れ大汗をかいてしまったが、まだまだ陽は高い。迷うことなくこの橋づたいの離島めぐりを即決した。

橋つづきの離島は「うるま市」にある海中道路で本島とつながる「伊計島」に似ている。そこでは平安座島・宮城島・浜比嘉島・伊計島の4島がつながっていた。北部のここでは、奥武島(おうじま)・屋我地島・古宇利島の3つの離島だ。

本島と離島に囲まれた羽地内海が引き潮で干潟の表情を見せる

屋我地島・古宇利島方面への橋のそばにはロードパークがあった。そこで停車しマップを広げて確認すると、その橋の左側に展開する海は本島と離島に囲まれた「羽地内海(はねぢないかい)」だと判った。

内海という文字を見たとたん、その海に接してみたくなり駐車場に車を停めた。ひとくちに内海と云ってもいくつかの種類があるのをご存知だろうか。日本でもっとも有名な内海は瀬戸内海だろう。瀬戸内海のように大きな陸地と陸地に挟まれた水域も内海のひとつ。

そして陸地にもぐり込むように袋状に入った水域である《湾》も、実は内海のひとつなのだ。そして島や半島と大陸に囲まれ、海峡を通して外洋に繋がるここのような水域も内海という。ちなみに潟は海とつながっていても沼湖に類別される。

                        ロードパークの前に広がる羽地内海

湾に関しては全国の相当な数の経験を持つが、小島と陸地に囲まれる種類のこの内海は初体験であった。

内海を鑑賞するにはほどのよい遊歩道があり、ついつい長居をしてしまった。

しかし山陰の荒い日本海を見て育った筆者には、静かすぎるこの内海は少々物足りなかった。

潮の満ち引きだけがつくる表情の変化は、まるで能舞台で舞う能面のように、心情変化を寡黙に語る静けさだった。

橋を渡るとそこは奥武島と云う小さな小さな島で、まるで屋我地島への踏み台にされているような飛び島であった。

周りにはお墓ばかりの、車で通り過ぎれば誰もが気が付かないほど短い距離の島である。沖縄では小島がよく墓場として利用されることを...後で知った。その時はそんな因習などを知るはずもなく、無邪気に歩き回ってしまった。

屋我地大橋

墓と云えば昔から伝承されている説話に こんな話がある。

墓穴を掘ったあと そこを埋めると不思議なことに必ず土が足りなくなるという。棺を納めているにもかかわらずである。

墓穴など掘ったこともなく、ことの真偽を確かめたわけではないが、残っている墓守(はかもり)の証言記録ではどうもそのようである。

魂の抜けたあとにできた別世界へとつながるパイプ、そのパイプがふさがるまでのほんの少しの間に土が別世界へこぼれ落ちてしまうのだろうか。

奥武島(おうじま)から屋我地大橋がまっすぐに次への島へと架かっていた。

この全長300mの橋上を通る県道110号線を北上し、屋我地島へと上陸するとすぐに目に入ってくるのが屋我地ビーチ。


                 屋我地ビーチ

入口にはゲートがあり、有料となっていた。

入場料大人500円、小人300円とある。つまり遊泳料のことだろうか。

また駐車料は自動車600円、単車300円。遊泳料も駐車料もダブルでかかるビーチだった。

海岸線は干潟のような浜辺で、磯近くまで まばらな樹木が立ち茂り、沖の近場には緑をかぶる岩礁がいくつも点在している。

水辺はまるで干潮時のような景観を見せていた。遠浅の砂地が岩礁までつづいており、磯遊びもできそうである。南北に展開する全景が南海のビーチというよりは、本州日本海に見られる風景に近い。早々に退散し車に戻ることにした。

5分も走ると県道110号線の右側に立つ看板が目に入った。「済井出ビーチ」と書かれていたが どう読んでいいのか判らないまま その案内のあった方へと右折していた。

すぐに青地にマリンスポーツと書かれた幟(のぼり)が目印となり駐車スペースへ車をパークさせる。駐車料も300円と手頃な料金だ。

浜辺の手前には”モクマオウ”の樹が適度な木陰をつくってくれている。そこを抜け海岸に出ると透明度の高い海が待っていた。しかもとんでもなく遠くの沖合まで遠浅がつづいていた。

20 mくらい沖合でも家族とおぼしき一団が水中に立ったままでシュノーケル遊びをしているのが見てとれる。何かを発見した子供たちの興奮した声が水面を滑ってきて、こちらまで楽しくなってくる。

このビーチ、「すむいで(済井出)ビーチ」と読むらしい。裸足になり裾をまくって、しばらく遊んでゆくことにしよう。

           済井出ビーチ


「屋我地島」のガイドページへ


ASICS FAMILY CLUB  アシックスファミリークラブ

橋つづきの離島 「屋我地島(やがぢしま)」にある済井出(すむいで)ビーチで磯遊びをしているうちに、思いがけず浜づたいにかなり北まで歩いていた。

捕まえたカニに逃げられ、新たなカニを探してかなり北まで来てしまったのだ。その行動たるや ほとんど児童レベルになっていた。あわてて駐車場へ戻ることにした。

「屋我地島」から次の離島である「古宇利島(こうりじま)」へ渡るべく車をとばしていると前方に十字路が見えてきた。左は古宇利島、まっすぐは「国立療養所愛楽園」とあった。

地図を見ると その療養所の裏になる北側には弓なりになった浜辺がある。携帯ネットで調べると 「愛楽園」 はどうやら ”ハンセン病” の療養所のようだった。迷惑にならないでその浜へ行けるか試すことにして直進する。

ぶつかった療養所の外周道路を建物沿いに左側へ回り込むと大きなパーキングロットがあった。ガラガラに空いていたのを幸いに駐車し、海岸を目指した。

古宇利大橋の全景が鑑賞できる「国立療養所愛楽園」裏の海岸

丈のある草むらを抜けると いきなり絶勝の景観が目に飛び込んできた。2 kmもあろうかという古宇利大橋が海上を真一文字に走り「古宇利島」へと架かっていた。

療養所の裏ということもあり、ほとんど訪れる人がいないのだろう。砂地に生えた草が踏まれていないので伸び伸びとしていた。ハマヒルガオまで妙に生き生きとしている。誰もいない淋しい浜なのにどこか温かいものを感じ、ひと目でこの浜辺を気に入ってしまった。

”ハンセン病”と呼ばれる病気のことを知ったのは、はるか昔の子供の頃だった。多感だったその頃にこの病にからむ事柄でふたつほど深い感銘を受けたことがあった。

今でこそ治療により快癒するようになったし、日本での発症例もほとんどなくなっているが、以前 ”らい病”と呼ばれたこの病気は伝染性の難病として広く知られていた。症例記録は紀元前まで遡るほど古く、発症範囲は全世界の広域に見られる名うての悪病として恐れられていた。

                 目一杯 元気なハマヒルガオ

その病名を初めて聞いたのはアカデミー賞を11部門も独占した「ベン・ハー」という映画であった。

ドラマ後半に主人公ジュダ・ベン・ハーの最愛の母と妹がこの病気にかかり、死の谷に隔離され死を待つばかりという設定のところだ。

伝染する恐怖をものともせず死の谷に踏み入り、重篤の家族と再会を果たす主人公。

そして神による慈雨で快癒してゆく感動的なラストは、子供心にも強烈な印象となって脳裏に焼き付いてしまっていた。

それから間もない頃、またこの病名に遭遇することになった。

少年時代 やや早熟であったのか日本史に傾倒し溺れていた時期があった。

戦国時代に登場する白頭巾の武将 大谷吉継(おおたによしつぐ)に興味を持ち、調べてゆくうちにふたたびその病名を聞くことになる。彼はこの病気に感染していたのだ。

親交のあった徳川家康も一目置くほど文武に明るく聡明な武将であった吉継。しかし豊臣政権下での活躍中はすでにこの病気に侵され、頭巾で顔を隠していたため他の武将たちには周知のこととして広く知れ渡っていた。

秀吉主催による、点てたお茶を一口づつ喫してゆく大阪城での茶会においてのことである。吉継が飲んだあと感染を恐れ たじろぐ武将の居並ぶ中で、ただ一人平然とそのお茶を喫した武将がいた。 石田三成であった。 その何事もなかったようにふるまう三成の姿に吉継は激しく感動したに違いない。

古宇利島(左奥)も見える愛楽園裏のビーチ

爾後、親交を深めたふたりには友情が芽生え、関ヶ原の戦いでは家康との交誼があったにもかかわらず石田三成側に立った。

戦闘人員の数から見れば東軍(徳川家康)より圧倒的に有利な西軍(石田三成)に味方することは当たり前のようにも思える。

しかし聡明な大谷吉継は大軍を擁する西軍(石田側)でも負けるであろうことを鋭く予測しているのである。

敗戦のおそれとなるところの補強戦略を、言葉を尽くし三成を説諭している。そのことがいくつか歴史記録として残っている。

にもかかわらず石田に付き、結果西軍は彼の懸念通り大敗してしまう。そして最後には従容と潔く自刃するという乱世では稀有の武将、大谷吉継であった。

この吉継の行動に、やはり気持ちを強く揺さぶられ感動したことを覚えている。

以上のようなことからこの病名にまつわる特別な感情が幼い心に焼印のように残された。

ネットによると、ここの沖縄愛楽園の創設が昭和13年というから、戦争前の時代に開設され70年以上も歴史を刻んでいるようだ。

おそらくその頃の感染者は世間から隔絶され隠れるように療養生活を送っていたのだろう。施設に隣接するこの穏やかな浜辺で、罹患した療養者たちが静かに残された時を過ごしていたことが想像される。

浜の中ほどに打ち捨てられたように木椅子が置かれていた。ちょうどいい所に椅子があると思い座ってみようと近づいたのだが、きちんと海を向いたその椅子はまるで主人が座るのを待っているような風情に映って見えた。

椅子の隣りの草地に腰をおろし、この椅子の主人が見たであろう磯景色を眺めることにした。


西側の古宇利ビーチ

定規で引いたような古宇利大橋を渡ると、古宇利島に渡った橋のたもとには遊泳客でにぎわうビーチがあった。橋脚の左右に展開する小ざっぱりとした古宇利ビーチである。

古宇利大橋をはさみ両側のビーチにはパラソルの花が開き、ビーチ沿いの奥には白くきれいな護岸コンクリートがロードパークのように築かれていた。

ビーチより少し奥まったところにあった駐車場に車を入れ、ゆっくりビーチへと出る。遊泳客のほとんどが西側ビーチに集中していたので、東側のビーチへ出ることにした。

                      比較的ゆったりしていた東側の古宇利ビーチ

砂浜からすぐのところには斜傾の護岸堤が築かれている。

その白い堤が左右の沿岸を蔽うように遠くまでつづいていた。

橋脚近くにはたっぷりとあった砂浜だが、左右に広がるにしたがい奥行きが狭くなり、途中から砂浜が消え護岸堤だけが海に接している。

この堤で寝転がり手枕をすると、海を眺めるに ほどの良い傾斜度であった。


堤には地元の子供がふたりだけ。子犬のように じゃれあっている彼らは、どうやら兄弟のようである。

近くでしばらく遊んでいたが海ぎわの方へと興味が移ったようだ。

遠ざかるふたりの後ろ姿がなぜか懐かしい風景に思えて、急いでカメラを取り出しシャッターを押していた。

朝早くから起き出し比地大滝を歩きまわったせいか、寸刻で眠りに落ちたらしい。

あまりの暑さで目が覚めた。全身ぐっしょりと汗にまみれている。

慌てて日陰を探すため あたりを見回したが、らしきものはいっさい見当たらない。橋向こうの東海岸線の端に樹林が見えるが相当な距離だ。

どうやら逃げ場は車しか無いようだ。しかし陽を避けるような建物が無いからこその離島でもある。車にもどる前に海にひと目会ってゆこうと浜へ下りた。

            遠浅のビーチの向こうには屋我地島、沖縄本島が

底が透けてどこまでも見える遠浅の水ぎわだった。トルコ石のような青色の水面で太陽の光が泳いでいる。水平線の向こうには屋我地島、その奥には沖縄本島の陸影が浮かぶ。

車までもどりエアコンを最強にして、汗だくの身体に涼をとらせる。外周が8kmほどの島なので時計回りで一周すべくスタートさせた。

屋我地島の愛楽園の浜辺で見た古宇利島は底の深いお皿を伏せたような形状をしていた。車で回って観察すると海岸段丘となった隆起サンゴ礁の円形の島だった。

道の脇にはサトウキビや紅いもと思われる畑が広がっているが、ほぼ海岸線に沿ったのどかなドライブが楽しめる。途中で小高い丘を発見し、古宇利島最後の休憩をとることにした。

ちょうどいいタイミングなことに、陽が急速に傾きはじめ暑さも落ち着いてきた。その丘からは海をはさんで正面に本島の今帰仁村(なきじんそん)が見える。

足元の海上を滑るように船が入ってきた。そして羽地内海へとつづく海峡へと消えてゆく。ここを通る船は今帰仁村にある運天港とここより30km北に位置する離島「伊是名島」をつなぐ航路だけだ。伊是名島から帰ってきた定期便のフェリーなのだろう。

急に南の洋上に浮かぶ久高島のことが思い出された。沖縄を来訪してまだ間もない頃に立ち寄った安座真フェリー港で日帰り可能な久高島を知った。滞在中に必ず訪れようと決めた離島だった。

あれから2ヶ月以上も経ち、滞在残り日数も数えるほどになってしまっている。さっそく明日には神の島 「久高島」 を訪れることにしよう。

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