グスク/世界遺産の最近のブログ記事

石畳道で思わぬ道草をしたため、本来の目当てであった首里城観光ができそうもなくなってきた。首里城は夜間まで入場できるが、陽が落ちてしまうと城内はともかく城郭内をゆっくり鑑賞できないと考えたからだ。

何はともあれ石畳道での大汗で絞り出した水分を補給するため、首里城近くの小さなオープンカフェに飛び込んだ。ご主人お薦めのフレッシュな亜熱帯果物ジュースの誘惑を乗り越え、やはりここはマンゴーのかき氷をオーダーする。口中で溶けるかき氷のなんと美味いことか、石畳道での奮闘が報われると云うものだ。

玉陵(東室)の模型(15分の1スケール)

お店のご主人と話しているうちに、本日最後の鑑賞ターゲットを世界遺産にも登録されている琉球歴代の王たちが眠る「玉陵(たまうどぅん)」に決めた。首里城は近いうちにたっぷり時間をつくり再訪しよう。

玉陵は首里城から数分のところにあり、観光客もあまり多くないとのこと。そしてアドバイスもひとつ貰った。陵墓域に入場する前に必ず資料館を訪問することが最上の鑑賞方法とのアドバイスだった。

資料館は券売窓口のある建物の地下にあった。アドバイスが無ければ確実に通り過ぎている。そこには第2尚氏王朝の簡単な年譜から15分の1縮尺の陵墓の模型までが展示されており、一目で陵墓内の構造がわかるようになっていた(左写真)。


資料館(本館)を出て少し歩くと正面の門が現れ、両脇に番所の建物を従えている。門をくぐるとそこは中庭となり陵墓域への入口となる中門が見える。観光客の姿が一人もいない。陵墓にふさわしい聖域としての空気が充満していた。

中門の左脇には碑文があり、この玉陵に葬られる資格者の規定文が石に刻まれている。建造時1501年の石碑である。中門を抜けると足元には珊瑚砂利が敷き詰められ、眼前には琉球石灰岩で組み上げられた陵墓がいっぱいに広がっていた。

写真左:中門とその先の玉陵(東室) 写真右:玉陵(中室と西室)

建造されたのは350年の永きにわたって続いた第2尚氏王朝の初期、1501年である。陵墓は向って左から東棟・中央棟・西棟の3基に分かれており、歴代の王が眠るのは東室になる。近づけるのは陵墓前までなので、景観から想像を巡らすわけだが、資料館での予備知識が無ければ表層を眺めるだけに終わっただろう。

まだ観光客はひとりも訪れない。守礼門近くには人波がうねるほどの人混みだったのに...。
まったくの貸し切り状態に嬉しくなり、長居を決め込み、あいかた積みの石壁をじっくり鑑賞したり、番所を見学したりと、おかげで静寂の中、500年という悠久の昔を思い遊ぶことができた。

                      番所から景観


首里城公園〜首里城のガイドページへ

舗装道路の終わったあたりの片隅に、小さな石柱がポツンと立っていた。本当にポツンと表現するほど目立たない。「具志川城跡」とある。しかし回りを見回しても、舗装の終わった土の道路と樹木があるばかり。もう一度石柱に戻ると樹木の中にかすかに道らしき筋があった。その道らしきところに踏み込みしばらく行くと、樹木が途切れていきなり視界が広がった。

崖縁を背景にした小ぶりな岬のような高台の場所だった。白い琉球石灰岩を野面(のづら)積みに組み上げた城壁が見える。


沖縄では ”城” を ”グスク” もしくは ”グシク” と云う。その数は本島だけでも200以上になる。この具志川グスクの規模だが、東西に82m南北に33mの細長い構造になっており、海を一望する崖の地形を最大限活用した造りになっている。しかしまだ城跡としての城郭復元は未完で、今は想像を膨らませるしかない。現在12ヶ年計画で復元工事の真っ最中で、区域内には鉄パイプがところどころ組まれていた。

500年ほど前、久高島を追われた具志川一族がこの地に逃れ築城したと伝えられているがまだ多くの謎を残している。沖縄グスクのほとんどが内陸の小高い山の高所に建造されているが、この具志川城だけは海に面する崖上に建つ。

海面より50m以上はあると思われる断崖より望見する景観は迫力があり、往時には自然を最大活用した堅塁だったのだろう。たまたま遭遇した地元の人に尋ねたら、昔よりこのグスクは居館としての城ではなく物見(見張り)としての城塞であったと伝え聞いているとのことだった。

いつまでも海を眺めていたかったが、喜屋武のバス停まで大汗を流し歩いて戻らねばならない。ぼちぼち腰をあげ出発しよう。
陽はまだまだ高い...次の行き先は歩きながら決めよう。

「具志川城跡」の紹介ページへ

知念岬公園から国道331号線に戻り国道沿いの知念郵便局を右折した。単調な道だったが、時々道端に咲く南国の花が迎えてくれる。けっこうな上り勾配をダラダラ歩いて行くと老人ホームのちょっと先に斎場御嶽(せいふぁうたき)の文字を発見した。やっと到着したようだ。車なら数分の距離だが歩けばタフな距離だ。

右には駐車場、左手には斎場御嶽への入路になる建物 ”緑の館・セーファ” がある。建物への入館料を入口で支払うのだが、これが斎場御嶽への入場料に相当する。館内を通り抜けないと地域内へ入れないルートになっているからだ。

歩きで大汗をかいたのでその館内でしばしクールダウン。休憩室はそれほど大きくないが、自販機や壁には経路マップや説明書きが展示されている。

山間にある広大な聖域。琉球石灰岩を敷いた道を進むにしたがい、鬱蒼とした樹林や巨岩が霊威を感じさせる。

古代から中世初期にかけては、洋の東西に限らず神と政治は密接に結びついていた。琉球王府もその例にもれず、”祝女(のろ)”と呼ばれる巫女が活躍をしたようだ。なかでもその最高位とされていた”聞得大君(きこえおおきみ)”は強大な権力を有していたという。

そしてその職位は代々王族の女子が継承するが、継承式は国家的祭事として盛大に挙行されている。その舞台がここ斎場御嶽だった。

左:三庫理 右:三庫理の奥にある遥拝所で久高島が望める

国家的祭祀場であった斎場御嶽にはとくに霊威の強い神域がいくつかあり、そこが拝所になったとある。そのひとつ ”三庫理(さんぐーい)” は特に印象深い。

巨大な鍾乳石の石板が片側にもたれ、三角のアーチができている。そこをくぐり奥へ入ると1,2名しか座れない拝所があった。正面には岩陰を覆うような樹の枝が緑の窓をつくっていて、窓からは久高島の島影が見ることができた。

琉球を創った祖先神”アマミキヨ”ガ「久高島」に降臨し、後に本島南部に移動し七嶽(ななたき)を創ったと伝承されているが、その七嶽の最大なものがここ斎場御嶽と信じられてきた。

敷地内を歩くと空を塞ぐように伸びた樹木のせいで熱気も地上まで届かないのか、空気がひんやりとして聖域らしい空気が充満していた。短い訪問ではあったが、少し気を養うことができたように感じる。いや単に気のせいでそう感じただけかもしれない。

斎場御嶽を後にして国道331号線にもどるべく歩くうち急激に空腹を覚え、来る時見たこの道沿いのお店に入ることにした。ログキャビン風のお店の名は「Roaster Cafe Jyo Goo.」。焙煎コーヒーカフェ、ジョーグーと看板にあるが、もちろん食事もできる。

早速入店しパスタと食後のコーヒーをオーダー。メニューにはオムライスなどの洋食プレートもあり守備範囲は広い。表からは2階建に見えたが、実際は3層になっていた。店内も個性があり、雰囲気もかなり良く居心地は悪くない。

今日は朝の安座真港からずっと「久高島」の名がついてまわる1日だった。しかしたった1日で、このちょぼちょぼ旅が終わるまでに行かねばならない場所として心に居座ってしまったようだ。

運ばれてきたパスタを一口食べると、これがイケる。食後の焙煎コーヒーもさらにGOOD。テラスから海面を眺めながら閉店時間を尋ねると、日没という粋な答え。すっかり嬉しくなり、今日の旅は終わりにし看板まで居座ることにした。


「斎場御嶽」のガイドページへ


Roaster Cafe Jyo Goo.

住所 南城市知念久手堅311
電話 098-949-1080
営業時間 11:00〜日没
        月曜定休
交通
  那覇空港より60分(国道329号線を与那原方面へ−与那原警察署前で国道331号線へ−体育センター入口の郵便局を右折
BUS 那覇BTから60分−バス停 「体育センター入口」 徒歩2分

午前中に終わる予定だった所要が午後にまでこぼれてしまった。今日はターゲットにしていた南部への旅をあきらめよう。そこで近場の中で以前訪問できなかった首里城を訪ねることにした。

前回の首里訪問では石畳道に時間をかけすぎて、守礼門前のお店でかき氷を食べながら眺めるだけに終わってしまった首里城。今日は首里城でゆっくりしよう。

今回は首里駅から歩きでなくバスを利用し無事到着。TVや雑誌ですっかりお馴染みになっている守礼門をくぐり城郭の方へ歩いて行くと、沿道左側に世界遺産の案内が目にとまった。

園比屋武御嶽石門の門内

世界遺産に指定されたこの園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)の内側には茂み豊かな深い杜(もり)が横たわっているだけ。

御嶽は神への祈りを捧げる聖なる場所を指す。城に付きものと云ってしまえばそれまでだが、この杜には拝殿も本殿も無い。杜そのものを本殿となし、この石門を拝殿としていたと伝わっている。

石門の前を通り越すといよいよ城内への第1門となる”歓会門”が右手に見えてきた。と同時に左手には杜を分断するような石階段が人を誘うように下っている。

気持ちは首里城ながら、足は階段を降りて行く。単調な風景ならすぐにでも引き返そうと及び腰で降りはじめたのだが、下るにしたがい美しい視界が広がり結局のところ石階段を元気よく降りきってしまった。

                           立ち止まりこちらを観察するバリケン  

階段下の道はふたつの池に挟まれた白い道。左は濃い緑色を湛えた”龍譚池(りゅうたんいけ)”、右には陽の照り返しを水面に溜めた”円鑑池(えんかんち)”と仲良く並んでいる。

本当に素晴らしい眺めだった。人っ子ひとりいない。動くものは池のほとりをのんびり歩く水鳥のバリケン(鴨の一種)だけである。

このあたりのバリケンは近づいてもまるで怯えることもなく、とても人懐っこい動きをする。そのヨタヨタとした歩き方やひょうきんな表情は見ていて飽きない。龍譚池の方に多く棲みついているようだ。

”円鑑池”の中に浮島のように小さな御堂(弁財天)が建てられていた。浮島へ架けられた天女橋は琉球石灰岩を切石積みにした橋で、苔むした橋脚が時代の推移を伝えてくれる。


    円鑑池に浮かぶ弁財天堂

このふたつの池はいずれも人造池で、築造されたのが1502年というから、本土では室町時代後期のことである。首里城に近い円鑑地が少し高い地にあり、3mの深さをもつ円鑑池から溢れた水は隣の龍譚へ流れるように造られている。

今立っているふたつの池を分ける道が、実は小高い土手になっており”龍淵橋(りゅうえんきょう)”と呼ばれる橋だった。この橋から龍譚の水辺まで降りられるようになっている。降りて土手を見上げると、水位調整用の穴が穿たれた橋であることがあらためて判る。

あっちでウロウロ、こっちで何かを発見、そんな散策ができる場所だった。首里訪問の折にはこの場所へ立ち寄ることを強くお薦めしたい。

首里城正門になる ”歓会門”

寄り道から軌道修正し、首里城郭への第1門になる”歓会門(かんかいもん)”の前までたどり着いた。日頃見慣れた城門とは一線を画している。本土の城郭建築によく見られる渡り櫓門(わたりやぐらもん)ではなく、石造りの拱門(アーチ)上に木の櫓という重厚な門だ。両脇を堅牢な石像シーサーが固めている。

面白くなってきた。さっそく門をくぐり入城しよう。


「首里城公園〜首里城」のガイドページへ

首里城の復元整備工事が今なお続いていることをご存知だろうか。沖縄戦線で形あるものはすべて焼失し灰燼に帰した首里城。それから優に半世紀以上の歳月が流れている。気が遠くなるほどの根気と努力で忠実に復元されてきたに違いない。

1992年完成区域から順番に開園し、復元工事のまだ半ばの2000年に世界遺産に登録されている。世界遺産の厳しい審査基準は、その修復・復元において可能なかぎり当時の建材・工法・構造の採用まで細部にわたって求めている。この世界遺産登録で復元された首里城などの真実性が世界的に裏打ちされたわけである

”瑞泉門”、そして左に見える修復中の”漏刻門”

現在復元されているのは首里城全域の6割ほどで、これから新たに復元される門や御殿が順次公開されてゆくとのことであった。

さて首里城訪問の続きを始めよう。

”歓会門(かんかいもん)” を抜けると上り石段が目の前にあり、見上げると上にもうひとつ新たな門が待っていた。第2の門になる ”瑞泉門(ずいせんもん)” である。

石階段右脇にある”龍樋(りゅうひ)”と呼ばれる湧水場からこの名が付いたのだが、500年も枯れることなく湧き出る水は下方の ”円鑑池(えんかんち)”へと注いでいた。

修復中の”漏刻門(ろうこくもん)”、”広福門(こうふくもん)”を連続してくぐり抜けると”下之御庭(しちゃぬうなー)”と呼ばれる大きな広場に出た。


この広場は城内の各区域へとつながっており、ひと休みもできるエリアとなっている。方角で簡単に説明すると、今通り抜けてきた”広福門”が広場の北になり、南には祭祀域の”京の内”、西には素晴らしい夕景が見られる展望台”西のアザナ”、そして東が首里城中心部の正殿へ続く”奉神門(ほうしんもん)”という配置である。

                      この”奉神門”より奥が有料区域

有料ゾーンの入口になる”奉神門(ほうしんもん)”をくぐると広場があり、正面に正殿、左に北殿、右に南殿・番所と広場を囲むように建てられている。この広場を御庭(うなー)と呼び、重要な式典はここで実施された。

有料区域の鑑賞ルートは南殿から入室し、時計回りに正殿、北殿へと巡る。南殿は番所として利用された場所だったが現在は展示室となっており、ここだけ撮影禁止になっていた。

この南殿に並ぶように築営されているのは王が執務したという書院で、薩摩からの使節などもこの区域で接待したとある。

正殿は王の政治執行の表舞台だったためか内外ともに華麗な造りになっている。正殿の表には3mを超える一対の砂岩大柱が立ち、王の象徴である龍が彫られている。雲型飾り瓦や本瓦を葺いた屋根には金のシャチホコならぬ龍頭が三体。

また内部2階の玉座両脇にも黄金の龍像が控えていた。係員に尋ねてみたら実に正殿だけで33体もの龍が潜んでいるとのことだった。同時に係員から後戻りはできないと釘を刺された。奔放な行動をしかねない顔をしていたのだろうか。次の機会に恵まれたら数えてみよう。

正殿の表と1階内部

朱色と金色で彩色された内部は照明で光輝いており、華美な中にも重厚さを失わず見事な誂えで造り込まれていた。正殿は三層の建築だが、3階は公開されておらず風や通気を考慮した吹き抜けの屋根裏部屋になっているらしい。

そして北殿へとコースをたどる。往時ではこの北殿の建物が一番活気があり人で賑わっていたようで、中国皇帝からの冊封使(さっぽうし)を接待したところでもある。幕末の頃、来島したペリー提督もこの館で宴に興じたとある。

                      新たに甦る”淑順門”

北殿を出ると ”右掖門(うえきもん)”、”久慶門(きゅうけいもん)” を抜ける一本道となり城外へ出てしまった。この有料区域に入ると順路通りに回ったあと、城郭外に直行することになるので注意を要する。

首里城の復元工事は現在も続いているが、出口に向かう途中”右掖門”の奥に切り出された石灰岩が積み上げられ新たに”淑順門(しゅくじゅんもん)”が甦りつつあった。着実に再生されている。

城外へ出されたついでに例の守礼門前の店でかき氷のショートブレイク。しばらくご主人と雑談後、再び城郭内へ向かう。陽光も陰りを見せはじめ、暑さも落ち着きを取り戻してきた。

”奉神門”前の広場に戻り、祭祀域の”京の内”から見学を再開。深緑の森がけっこうな範囲で広がり城内とは思えない雰囲気が漂っていた。聖域内をゆっくり散策し、森を抜けると”西のアザナ”に行きついた。城郭の西端に位置し130mの標高を持つ物見台だったが、現在はバリヤフリーに対応した木造りの展望台に生まれ変わっている。

那覇市街とその先の東シナ海を一望できる眺望がしだいに夕景に染め上げられてゆく。その昔はここで時を知らせる鐘が打ち鳴らされていたらしい。訪問者が頻繁に入れ替わるが、時折ひとりだけになる。そんな瞬間には自分が自然の一部に取り込まれてゆく感覚になる。

とっぷりと日が暮れるまでここにいようと、心のどこかで決めていた。


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バスが勾配のある坂道を昇りつづけてしばらくたつ。けっこうな高所まで来ているに違いないが、窓の外にはお墓ばかりが目立っている。沖縄独特の町の中でもお目にかかる例の箱庭のようなお墓である。どこでも対面できるが、ここはかなりの数なので霊園なのだろう。

やっと目的の”識名園前”のバス停に着いた。首里城の南に琉球王朝の”識名園(しきなえん)”という庭があるというのでやって来たのだが、その庭園は想像以上に閑静な高台にあった。

番屋からの坂道、樹林の影を落とした涼しげな石畳道

一般観光用ゲートが駐車場の脇にあり、そこを抜けると木陰が溜まった小道がくねくねとつづいている。

庭園では、散策が単純にならないよう直線ではなく、懐を深くみせるためS字を描くように小道を造る。

入ってすぐ右手に正門があらわれたが、屋根を乗せた屋門(やーじょー)という形式の門でかつて琉球王や中国からの正使がくぐったと案内板にあった。

本土では控柱がなく屋根の付いた棟門(むなもん)と呼ぶ形式の門に相当する。

庭園の造りはやはり本土でお馴染みの大名庭園と同じ池泉回遊式であった。ひとつの大きな池が中心に居座り、その周りにさまざまな景色が展開されている。

しかも池のまわりには松が植樹されて和を醸し出している。池から離れて外周に向かうと、歩くにつれ、進むにつれ、新たな風景が生成されてゆく。


歴史上400年の永きにわたり一度の亀裂もなく中国と国交を続けたのは琉球だけである。琉球の国風と文化が中国に合っていたと云うほかない稀有な例だ。しかしその裏には琉球の政治的苦労や努力があったことは云うまでもない。ちょうど徳川家康が三河の小さな一豪族だった頃、近隣の尾張の織田家と駿河・遠江の今川家に挟まれ政治に腐心した情況に酷似している。

                          中国風”六角堂”へはアーチ型石橋で渡る

中国からの正使を接待したこの識名園にはそうした苦労のあとが随所に残されている。

「茶の湯」でも接待したというこの庭園の和趣味は、中国からの客人に琉球のうしろには日本国が控えているいることを暗に匂わすため。

また池のほとりには中国を思わせる黒色瓦2層屋根の”六角堂”が建ち重要な添景となっている。

こういった中国と日本本土を意識したバランス感覚が造園風景でも絶妙な調和を生み出す。そういった面で鑑賞すると実に興趣の湧く庭である。

池の外周南側は庭内で一番の高台になっているが、その那覇市街を展望できる”勧耕台”に面白いエピソードがひとつあった。

ときの琉球王がこの高台で中国からの使節を接待したわけだが、ここからの展望では海がまったく見えない。わざわざ海が見えないところに展望スペースを造ったという。


島国ながらその領土がいかに広大であるかを強調せんがための方便なのだが、そのかいあってか中国の記録には朝貢する国々の中では台湾よりも上位の日本本土に次ぐ位置であったようだ。なんとも微笑ましいアナログ感覚あふれる外交ではないか。

1回の使節団で数百人という中国人が長期間(航海時期が季節で決まっていたため)滞在するわけで、中国からの影響が今もなお色濃く残るのも当然ことなのだろう。ちなみに滞在中の中国高官たちのお気に入り散策コースが首里城からここ南の識名園、そしてもうひとつは首里城の北に位置する”末吉宮(琉球八社のひとつ)”を目指す北コースのふたつであったようだ。

中国との関係を想像しながら庭内を歩くうち、「桔梗」を見つけた。その深くて淡い青の花、日本を強く感じさせる花、まごうことなくここは日本なのだ。

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機嫌良く過ごせた残波岬から一路 「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」を目指すため、県道6号線をてくてくと読谷BTまで戻り、バスで高志保まで乗り継ぎ座喜味城跡公園に到着。これに要した時間90分。とにかく歩きでの沖縄は広いのだ。


目の前に広がる公園のどこかに城跡があるはずだ。案内板を探したが周りには見当たらないので、公園奥につづくプロムナードに沿って歩くことにした。

歩くにつれ高度を増すがいっこうに城壁などは現れず、深い緑の胸に潜り込むように道がつづくばかりだ。

実は歴史が好きなので、昨夜はこのグスク(城)については予習をしてきた。

この城を造った”護佐丸”という男はこの一帯を領していた豪族(琉球では按司という)であった。

15世紀初頭の話である。やまと本土では南北朝が統一されたばかりの室町幕府時代の頃だ。

琉球では群雄割拠の時世であったが、初めて巴志(はし)と云う名の男が統一を果たすことになる。

この商才に長けた巴志を、右腕となって統一を助けたのがこの護佐丸で、琉球史にいきなりその名が登場することになった。


まるで信長亡き後、商才と人間学に長けた秀吉の天下取りを助けた福島正則や石田三成のようではないか。やはり彼ら福島や石田も名門の血統ではなく、護佐丸同様、忽然と歴史上に登場している。

そんな護佐丸の手ずから造った城がどんなものか見たくなるのが当然というもの。しかも予習で知ったのだが彼は城造りの名手らしい、いよいよ興味がつのる。

空にかぶるような緑の葉陰を抜けるといきなり右手に布積みの城壁が出現した。

かなり唐突な感で出会った城壁であったが、それは5mはありそうな、独特なカーブをもった石壁であった。

城壁の向こう側から城の説明をする大声が降ってくる。ガイドか誰かが解説しているようだ。

郭内に入る石門を見つけた。形の整った上品な風情の拱門(アーチ)である。


門をくぐり城壁内に入城すると正面にはもうひつの拱門が見えた。本丸へとつづく門だ。この城は小ぶりな二連郭構成つまり本丸と二の丸だけの山城なのである。

護佐丸は巴志を助け、統一の仕上げとなる北山の今帰仁城(なきじんじょう)を攻め落とした。この地よりかなり北部にある大城である。統一を果たした巴志の依頼で、しばらくの間その攻め取った北山の城に北山監守として駐在することになる。

護佐丸はこの時期に座喜味城の造成を始めたのである。座喜味に近い山田に父祖伝来の城があったがその城の石を再利用し、勢力下にあった喜界島や沖永良部島などの民にも手伝わせ築城している。

    座喜味城、一の郭(本丸)への出入り口となるアーチ門から見た二の郭の風景

最も高所となる「一の郭」内には記念石灯篭が残されており、中央部には建物跡の石印が置かれていて城の規模が判る。また一の郭城壁は登ることができるようになっていた。

先ほどの大声の主が城壁上にいた。学生と思しき若者6人が取り巻くように話に聴き入っている。ゼミナールの真っ最中といったところか。

壁の厚さがかなりたっぷりとあるので、城壁に上がると戦火の際には偉丈夫が走りながら楽にすれ違うことができそうなほどに広い。


何よりも特徴のある波うつカーブが美しい城壁は、敵が迫った時に横矢を射れるようにとの戦略から生まれた造形だという。

そして今なお健在なのは、眺望の素晴らしさだ。

南西には那覇方面、さらにその西には洋上にうっすらと慶良間諸島が遠望でき、北に展開する東シナ海には伊江島・伊是名島がくっきりと浮かぶ。

護佐丸の見た風景はどんなものであったのか。

標高120mのこのあたりは今でも鬱蒼とした濃い緑の樹林に囲まれているが、当時は原生林が覆う小高い台地に近い環境ではなかったろうか。

北山監守の任を解かれた護佐丸は造成されたばかりのこの座喜味城に戻り、読谷山の按司(あぢ)として18年間居住している。


しかしその後、首里王府の命という形で、王府のある首里に近い中城(なかぐすく)へ移封となり城代えをしている。琉球王の巴志と共に戦った護佐丸は王位をうかがうほどの実力者だったのだろう。

琉球王位を継承していた巴志の七男になる泰久はそれを恐れ、機先を制するように勝連城主を使って護佐丸のいる中城に夜襲をかける。そして....ついに護佐丸は自刃した。1458年のことだった。

城壁上からの景観、本丸に相当する”一の郭”

「夏草や兵どもが夢の跡」 芭蕉が源義経の終焉地となった高館(たかだて)の丘を訪れた時に、義経主従を儚み詠んだ有名な句だ。

南国の地にも、漢(おとこ)たちの夢やロマンの跡はさまざまなところに色濃く残っている。時には感傷過多になりながらの古跡訪問も興趣が変わり面白い。


「座喜味城跡」のガイドページへ

名護バスターミナルから乗り継いだバスに揺られ40分ほど経ったろうか、ようやく今帰仁村(なきじんそん)に入ったようだ。北岸沿いに走る循環バスから見えた羽地内海にすっかり気をとられ、村役場前の案内でやっと気がついたのだ。

それから10分くらいで今帰仁城跡入口の停留所に到着した。降り立った国道505号線から城跡のある県道へ入ると、ゆるやかだが登りの坂道がえんえんとつづいている。


県道入口にあった北山病院の建物を見たあとは、行けども行けども家ひとつ見当たらない。

しだいに緑が濃くなり、気がつくと道以外見渡すかぎり緑一色に埋められていた。(写真右)

かなり歩いてやっと一軒の建物に出会えた。入口には小さな可愛い看板があり、Cafe イングリッシュローズとあった。

国道から歩いてゆうに20分をこえる道のりにポツンと建つ白い一軒家の Cafe 。 興味がわくだけでなく、散々歩いたあとだけに一杯のアイスコーヒーにも惹かれた。

しかし今帰仁城へのはやる気持ちに押されて、カフェを通り過ぎ先を急ぐことにした。なおも歩くと遂に分かれ道のところに今帰仁城跡の文字を見つけた。城壁のように石を積み上げた大きな案内石碑だった。

まわりは山並みがくっきりと空に浮かび、ほとんど山中にいる感覚である。

なだらかではあるが30分近く上ってきたので、それなりの高度に達しているのだろう。

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分かれ道を城跡の方へ曲がると、閉じられたままのお店が数軒、そしてその前には今帰仁城跡の模型が屋外展示してあった。

城郭へ入る前にはすごく役立つ案内模型だった。模型の城郭構造を十分頭におさめ入口へ向かう。遠目にも城壁の曲線がとても美しい。

今帰仁城の正門にあたる「平郎門(へいろうもん)」そばのショップで入城料を支払っていると、足元で猫の声がする。見ると子猫がジャレつき、まわりには5、6匹の猫一家が陣取り休憩中だった。

入城前に城郭全域がわかる 1/100 の案内模型(左) 足元で機嫌よく遊ぶ子猫(右)

今帰仁グスクの大手門にあたる「平郎門」をくぐり抜けると、真っ直ぐ伸びた石畳道が奥へつづいている。城内はいくつかのエリアを石積みで区切った郭に分かれており、その石畳道を挟むように郭が並ぶ。

「平郎門」を入って最初の郭が「大隅(うーすみ)」と呼ばれる兵馬など軍事調練をした場所だった。そして最終的に一番気に入った郭にもなった。

この郭の入路がやや草木が繁り岩肌もあったりで多くの観光客がパスして行くのを尻目に奥まで潜りこんでみた。そこは平坦でなく高低差の大きい郭で、ところどころ岩が顔を出している。

原風景を思わせる野趣に富んだ風景が心地良かった。岩棚でゴロリと寝ころぶと、空からこぼれそうな大きな大きな白い雲が浮かんでいた。

    大隅の斜面から岩棚が突き出た西側部分

次の場所は石畳道のぶつかった階段を昇りきったところにあった「大庭(うーみゃー)」だ。この場所は、首里城に例えて云うなら正殿前のあの広場に相当するものである。

そして「大庭」の北側に隣接する「御内原(うーちばる)」へとつづく。女官たちが起居し生活したところで男子禁制の郭であった。城内屈指の眺望が愉しめる高台で、眼下の東シナ海には伊是名島などの島影まで遠望できる。また古生代石灰岩を野面(のづら)積みにしたという外壁の全景も見渡せた。

                「御内原」からの眺望

「大庭」、「御内原」の奥に本丸になる主郭が現れた。

居館の正殿跡を示す礎石が残されているが、思いのほか小規模な正殿であった。

しかしグスク内全域を巡ってみると、北部最大と云われているだけに広大な領域をその城壁に囲い込んでいるのが判る。

また幾度かの戦火をくぐり抜けてきた古豪の城でもある。三山時代の終焉となる攻防戦を経験し、江戸に徳川幕府が開かれた頃1609年に薩摩軍から侵攻され一度炎上もしている。

その後1665年には長く駐在していた北山監守が琉球王府の命で首里に引き上げ、ここは無人の城となった。それをしおに城郭内に「火神の祠(ひのかんのほこら)」が造られ、以降神域として地域住民から手厚く守られ現在にいたっているという。

 今帰仁城跡から200mの位置にある Cafe イングリッシュ ローズ

帰路、来る途中に発見したカフェに立ち寄ってみた。ここはお茶も食事もできるので、今帰仁城跡を訪問する際のよい休憩ポイントなので最後にご紹介しておこう。

白い一軒家のカフェ、一歩室内にはいるとそこはまるで映画のセットのようだった。間違いなく女性客が喜ぶインテリアだろう。窓から見えるパティオも申し分のないほど手入れがゆきとどいている。

メニューを少しご紹介する。お茶はディカフェ(カフェインレス)からハーブティーまであり、食事はナスのトマトソースパスタ、色どり鮮やかな野菜カレー、ポテトグラタンなど体に良い料理が並ぶ。お奨めはアフターヌーンティーセットで、お茶にサラダ、サンドイッチ、ケーキなどで充分ランチになる。

表の看板にこうあった。閉店時間....SUNSET。


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Cafe イングリッシュローズ

住所 国頭郡今帰仁村今泊1609-1
電話 0980-56-2350
営業時間 11:00〜SUNSET
        金曜土曜定休
駐車場 15台 
交通
 那覇空港より 160分(国道58号線を北上−名護宮里3丁目の信号左折し国道449号線に入る−屋部の信号を右折し県道72号線を北上−国道505号線にぶつかり左折−今帰仁城跡入口の県道115号線を左折スグ右手)

BUS 那覇BT 120分(名護西線20番)−名護BT 40分(66番系統循環線に乗り継ぎ)−今帰仁城跡入口下車徒歩20分


沖縄の歴史を調べると、ある特徴に気がつく。どこの国よりもどの地域よりも、戦いつまり戦争が極端に少ないのである。

しかし日本本土や各国の中世史にみる戦乱期の例にもれず、沖縄にも戦国時代はある。その時代に相当するのが13〜15世紀の北、中部、南に有力地方豪族が覇を競った三山時代である。沖縄の長い歴史の中で戦争らしい戦いはこの時くらいなものである。

太平洋戦争の沖縄戦、江戸初期の薩摩・島津軍の侵攻などは外的理由による戦いで彼らの望んだことではなかった。

そんな沖縄の戦国史の中で王朝系譜以外で名をとどめている武将が2人だけいた。ひとりは”護佐丸”、すでに座喜身城や今帰仁城の記事でふれた。琉球尚氏王朝の礎に貢献した第一功労者である。そしてもうひとりがここで紹介する勝連城跡の城主であった”阿麻和利(あまわり)”だ。

青空に溶けるようにそびえる勝連城の石壁

阿麻和利が最後の城主となったのだが、それまで9代の城主が入れ替っている。

民からすっかり信望を失っていた前城主を計略をもって滅ぼし、その座を奪取した阿麻和利はまさに戦国乱世に生きた梟雄と云える。

しかし一方では地元の民を助けたり、城下町として発展繁栄させる手腕も優れていたと思われる。

往時には本土の鎌倉にも匹敵するにぎわいを見せていたと記録にある。

阿麻和利の出自は判然としないが、西部北谷(ちゃたん)の出身者で若くしてこの地へ移住、身分は一介の平民であったという。

そんな勝連城を那覇から1時間半もバスに揺られて訪ねてみた。

本島中部の東側にある与勝半島、その根元に位置する勝連城跡は絶好の立地に恵まれていた。

標高100m に満たない高台に築城されているが、周りには眺望を妨げるものも無く四方の見晴らしは素晴らしい。しかも南西の足下には港まで備えている。

用途に応じて城内の敷地を囲い込んだ石垣や土壁を郭と呼ぶが、ここ勝連城では曲輪(くるわ)と称していた。このグスクはもともと5つの曲輪で構成されていたようだが、現在は3つまで調査・復元されており、半世紀を超えた発掘調査は今もつづいている。

県道から少し入ると城壁が見える。まだ入城していないと思っていたら、そこがすでに四の曲輪内であった。今この四の曲輪が発掘調査中とのこと。順次段々畑のように石段を昇り一の曲輪の最上段へと至る。

                         「四の曲輪」の景観

階段を昇り城壁内に踏み入るとそこが三の曲輪になる。

ここの用途は時代の変遷とともに変化したようだが後期は舎殿前広場として儀式などを執り行っていたと推定される。

小階段を昇ると二の曲輪の領域である。

城内でメインの建物になる舎殿は二の曲輪に建っていたが、今は礎石のみが残っている。

一番の高所となる一の曲輪は見るからに手狭な平地であった。当時は何連かの建物が建っていたようだ。

眺望は素晴らしく、南西方向には中城湾、その先の陸影には中城城(なかぐすくじょう)までが視認できる。

15世紀のことである。琉球王府のあった那覇首里城と猛将の阿麻和利のいたこの勝連城、距離にして20kmあまり。そしてそのちょうど中間に位置する中城城には王位をうかがうほどの実力者、護佐丸がいた。

尚巴志(しょうはし)が護佐丸と共に三山を統一し琉球王朝の覇者となって30年が過ぎようとしていた。王位には巴志の七男、尚泰久が継承していたが、護佐丸と阿麻和利の両者に対する警戒心はかなり強かったことが想定される。

そしてこの三者は微妙な外戚関係にあった。護佐丸の娘を妃にしていた尚泰久はすでに娘をもうけており、その百十踏揚(ももとのふみあがり)という名の娘を政略結婚として阿麻和利に嫁がせてもいたのだ。つまり琉球王であった尚泰久にとって義理の父が護佐丸で、義理の息子が阿麻和利ということになる。

 勝連城から南西方面を望むと中城湾が広がり、その向こうには中城城が遠望できる

1458年、その危うい均衡が崩れた。阿麻和利が護佐丸の中城城を急襲したのである。その変に応じきれず、三山時代以来の雄であった護佐丸は自刃した。

阿麻和利のこの行動には諸説あり、護佐丸の叛意を王府へ報告し急襲する許可を願い出て許されたという説や尚泰久がそうなるように阿麻和利へ画策したとの説などがある。いずれにせよ警戒していた両者を戦わせるのは王府にとって最上策であったことは疑いようがない。

阿麻和利は護佐丸を倒した勢いを駆って、今度は王位を狙い王府首里城を目指した。しかし夫の反逆を察知した王女の百十踏揚が、武将 大城賢勇ひとりを伴いひそかに勝連城を脱出。そしてひと足早く王府首里へ帰城していた。

万全を期して迎え撃った王府軍が大勝したことは云うまでもない。尚泰久の王府軍は勝連城に退散した阿麻和利を猛追し、遂にこの城を陥落させた。

王座を狙うほどの阿麻和利だったが、王女ひとりの心が獲れなかったのである。

1458年という年に、戦国乱世に生きた実力者2人が相前後して落命することになった。

これで尚氏王朝の安定と繁栄が約束されたと誰しも思ったに違いない。ところがこれより10年ほど経った1470年には、この王朝は滅び第二尚氏王朝にとって代わられるのである。

ゆっくりと時間をかけて郭内を散策しながら、そんな当時の出来事に思いを馳せる。

二の曲輪の北側にはウシヌジガマと呼ばれる小さな洞窟があった。この洞穴は脱出用のものらしく城外へと通路がつながっているという。

                                ウシヌジガマ

なぜ阿麻和利がこの脱出口を利用しなかったのだろう。

己が天命をここまでと思い定めたのか、王府軍の攻め方と包囲網が凄まじかったのか、今となれば想像を巡らせるばかりだった。

一方自分の行動で未亡人となった百十踏揚のこと。名に付いているように百を十回くりかえすほど”とこしえ”に、踏みあがるとは他より優れているという意で”美”を備えた王女は再婚をしている。

相手は勝連城からの脱出行を共にした大城賢勇だった。しかし大城もその後起こった王府内乱で落命をしてしまうという、どこまでも良縁には恵まれない王女であった。

織田信長の妹、お市の方がたどった生涯に酷似している。お市も越前浅井長政に嫁し、実兄信長に攻め滅ぼされ夫を失い、後添いとなった柴田勝家も短命であった。

違うことはお市は勝家の死とともに自害し、百十踏揚は静かに余生を送ったことか。

同じ二の曲輪には幅17m、奥行き14.5mの舎殿跡がある。礎石が残りその遺構から建物の大きさが想像しやすい。そこにじっと立っていると、当時の生きていた彼らの鼓動が聞こえてきそうだった。

    二の曲輪跡、礎石が残り舎殿規模が判る


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沖縄の世界遺産は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として9つの遺跡がセットで指定された。2000年12月、第24回世界遺産委員会ケアンズ会議での決定だった。

その9つの中で拝所を持つ城郭としてのグスクが5つ選ばれている。「首里城」を筆頭に「座喜味城(ざきみじょう)」、「今帰仁城(なきじんじょう)」、「勝連城(かつれんじょう)」そして今回訪問した「中城城(なかぐすくじょう)」の各跡である。

絢爛な正殿の復元で首里城が群を抜いて目立ち、その他のグスクは城郭・城壁のみの復元なので一見似たような印象を持ってしまう。しかしそれぞれのグスクをじっくりとゆっくりと鑑賞してゆくと、その個性的な違いが見えてくる。

裏門は見事なつくりのアーチ(拱門)

県道146号線から少し入ると丁寧に相方積みにされた波打つ城壁が見えた。

城壁の右にはアーチ門があったが、裏門と書かれていた。

正門は最上部にあるようで、グスク城郭に沿って別の坂道が上部に向かってつづいている。

やはり正門より入城したく、その坂道を上ってみることにした。

世界遺産のグスクはここ中城城跡以外はすべて訪問をし、ここが最後になる。


                              最上部にある正門へとつづく脇道

ひとつづつグスクを訪ねてゆくうち、グスクの住人であった往時の城主たちにまで想像をたくましくするようになってくる。

長期にわたり王府となった首里城には個性的な城主の顔が容易に見えてこない。

無理して想像すれば、最初に統一王朝を果たした商才に長けた尚巴志(しょうはし)くらいか。

それに比べ勝連城の城主であった阿麻和利(あまわり)や座喜味城を造った護佐丸(ごさまる)らは、圧倒的な人間臭さで鮮やかな像を結んでくれる。

野望とロマンと夢を真正面から見据えて疾駆していった男たち。

琉球王朝の系譜には統一を果たした巴志も、第二王朝を築いた金丸(後の尚円)からも、そのワイルドな鼓動は聞こえてこない。

廃屋となってしまった 「中城高原ホテル」

脇道を7、8分も歩いたろうか、原っぱのような高台に出た。

まるで山頂からの眺めのような光景が正面に広がっている。

前面の山肌に縫い付けられたように大型の建物が建っていた。

この建物は後日判明したのだが、沖縄海洋博を当て込み建設されていた「中城高原ホテル」の廃屋であった。

完成前に建設中止となり、今や廃屋アドベンチュラーの絶好のターゲットになっているという。

その広場の反対側に「中城城」の正門があった。

正門を入ると西の郭と呼ばれる兵馬の調練に利用していたらしい細長い郭に入る。

正門を入ったすぐ右手には一段と高くなった南の郭、一の郭に昇る石段がある。やたらに縦長な西の郭の探索は後回しにして南の郭そして一の郭へと階段を上がった。

本土でいうところの本丸に相当する一の郭はさすがにたっぷりとした広さのある郭であった。太平洋側に向いた一の郭の眺望の素晴らしさは云うまでもない。

今まで見学したグスク本丸での眺望は素晴らしく、訪問者の眼を楽しませてくれた。5つのグスクからの風景はいずれも甲乙つけがたく、情趣あふれるものだった。

長期滞在の効用なのか、グスクの大観をゆっくりと巡るうち もうひとつの愉しみ方を味わえるようになった。グスクの住人であった当時の城主たちが、この同じ眺望の中に何を見ていたのかを想像することだった。

ここの城主は前述の武将、護佐丸である。彼は尚巴志の琉球統一を助けた最大の功労者であった。

北、中、南の有力豪族が覇を競っていた三山戦国時代。統一の重要な拠点である北山の大城である今帰仁城を陥落させた護佐丸は、巴志の依頼でそのまま北を守るため今帰仁城主となっている。

北部の治安も安定すると、護佐丸は自分の郷里である読谷(よみたん)の座喜味城に戻った。しかしその後 首里王府の命で、自ら築城した座喜味城から城替えとなり再び転地となった。それがここ中城城であった。

その時の王位は巴志の七男である尚泰久(しょうたいきゅう)であったが、彼は王位への野心を持つ勝連城主の阿麻和利を恐れ、自己の居城の首里と勝連城のちょうど中間に位置する中城城へ大物武将である護佐丸を配置したというのが容易に推定される。

しかし護佐丸と云えども戦国武将であり、王位をうかがうほどの実力者なのである。野望も人一倍胸に秘めていたに相違なく、この配置はきわめて危険な一手と云うほかない。

護佐丸も宴を催したであろう観月台

今、一の郭城壁の端に立ち北東から南東にかけ太平洋上に眼を滑らせてみる。

北は勝連城のある与勝半島の根元が視認でき、南の方面には南城市の知念岬まで遠望できた。

当然ながら那覇首里城のおおよその位置も見当がつく。

一の郭南側に少し突き出た場所があり、観月台との案内板があった。

数段高い位置に一席の宴が催せるほどの高見が造られていた。

名築城家としても知られる護佐丸の意匠だろうか。

護佐丸もよく宴を開いたと伝わるこの望楼で飲む酒はどんな味だったのか、眼には何が映っていたのか、今はただ想像を巡らせるばかりである。

正殿跡を見学したあと、拱門でつながる二の郭を鑑賞する。護佐丸の居館でもある正殿に至るには、二の郭か南の郭を経由しなければならない造りであった。

二の郭の城壁の曲線は一層深く波打っており、布積みにされた石灰岩がひときわ美しかった。くびれた曲線の城壁からは弓矢の横打ちが可能で、有事の際の防衛ラインが確保されている。

                    護佐丸の増設した三の郭

中城城は現在6つの連郭で構成されているが、三の郭と北の郭は移封となった護佐丸が城主となってから増設された。

北の郭内には湧水井戸を取り込んでいたり、南の郭には武具や農具工作用の鍛冶屋が隣接されている。

城壁などの石組みも、野面積み、布積み、相方積みの3種すべてを鑑賞できるので築城技術の粋を存分に愉しめる。

黒船来航ですっかり日本人にもお馴染みのぺりー提督一行も1853年琉球に立ち寄っているが、その折りにこの中城城の調査をし築城の素晴らしさに驚嘆していると記録にある。

中城城の完成度を限りなく高めた護佐丸だったが、勝連城の阿麻和利から夜襲をうけ追いつめられた彼はついに自刃してしまった。その勢いを駆って阿麻和利は首里王府を倒さんと試みたが敗れ、護佐丸を追うように倒れてしまう。1458年のことであった。

琉球王であった尚泰久の思惑どおり戦国の豪勇2人が共倒れとなったのだが、皮肉なことに 尚氏第一王朝はこの11年後に完全滅亡することとなった。

端麗な曲線が美しい中城城の外観


「中城城跡 −なかぐすくじょうあと−」のガイドページへ


樹木に囲まれジオラマのような景観の浦添市美術館

長期滞在中の筆者を訪ねるという友人からの電話を待っていた。3ヶ月になんなんとする沖縄滞在もあと1週間ほどとなってしまった。友人は筆者の最後の1週間に訪れようというわけである。香港から東京へ戻り、寸暇なく乗り継ぎ那覇へ来るというから、相当バタバタしているのだろうか。

空港までピックアップに行くつもりであったので、、遠出もならず近場に出かけることにした。心の片隅にしまっておいた訪問したいある場所を思い出した。那覇の隣街になる浦添にある美術館である。

美術館尖塔内部のらせん階段

お目当てはその美術館が収蔵している葛飾北斎の描いた「琉球八景」である。以前より 『北斎漫画(スケッチ画集)』 にぞっこん惚れこんでいた勢いでひと目 観たいと思っていた。

ただしこの「琉球八景」は北斎の妄想の産物である。彼はただの一度も沖縄に来島せず、生来の好奇心に背中を押されて「琉球八景」を描いたと云われている。

美術館に着くと、その建物の外観の美しさにしばし時間を忘れ外周を回ってしまった。まるでアラビアンナイトの挿絵にしてもいいような風景であった。

北斎のためにこの美術館を訪問したのだが、ついこの新しい建築物の方に強く惹きつけられていた。

尖塔に入ると、上へ上へとつづく らせん階段を無意識に登っていた。何ひとつ目をひくものの無い簡素な階段がかえって小気味がよい。

塔の最上階にうがたれた小窓から外を覗きこむと、雲が垂れこむ空に塔がアニメのような情景をつくっていた。


静まりかえった塔内で電話の受信を知らせる振動音が、異常なほど大きく響いた。

待っていた友人からだった。驚いたことにすでに那覇に着き ホテルに入ったばかりだという。

宿は那覇に着いてから決めたらしい。筆者の滞在する「おもろまち」からひと駅の「安里(あさと)」にあるホテルとのことだった。

かなりの強行軍だったらしく今日はホテル周辺で静かにしていると殊勝な雰囲気だ。

翌朝そのホテルへ車でピックアップに行くことを約して電話を切った。旅慣れた友人の鮮やかな訪問ぶりだった。

おかげで半日の自由時間ができたので、世界遺産にこそなっていないが、目下復元中と聞いている本島南部の知念城跡を訪ねることにした。

「琉球八景」の鑑賞を早く済ませようと美術館入口へと急いだ。

正面ゲートの入口に着くと、想像だにしていなかった 《四大浮世絵師展》 のポスターが貼りだされていた。

この企画展覧会は2ヶ月前、すでに東京の大丸ミュージアムで鑑賞していた。中右(国際浮世絵学会常任理事 中右氏)コレクションが全国を巡業しており沖縄まで来ていたのである。

美術館正面入口には 《四代浮世絵師展》 の ポスターが

東洲斎写楽、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重の4人展だ。

たった10ヶ月だけ活動し145点の作品を残し忽然と姿を消した写楽。

正体不明の写楽がミステリアスなことは周知の通りだが、作品の多面性やその生きざまでもっともミステリアスなのは北斎が群を抜いている。

東京での中右コレクション展示は、ビギナーに優しいだけでなく内容も充実していた。

係員に「琉球八景」のことをたずねるとこの期間には展示される予定はないとのこと。

躊躇なく南部の南城市にある知念城跡に照準を切り替える。国道330号線に出ると一路南をめざしてアクセルを踏み込んだ。

首里近くの鳥堀交差点を過ぎる頃には頭上ちかくまで垂れこんでいた雨雲がすっかり雲散霧消していた。陽光をとり戻した空の下、さらに30分のドライブ。ようやく着いた知念城跡はまさに工事中といった風情をぷんぷん匂わせていたが、多くの来訪者で賑わっている。

城跡に着くまでは山中での工事現場を歩くか、心細くなるよう山道を歩くかのようであった。石組が見えはじめて城跡にたどり着いたと実感できるような復元途中の城跡であった。

そこは聖地の久高島や斎場御嶽(せいふぁーうたき)も みはるかすことのできそうな高所であった。すでに復元工事が始まって時が経っているはずだがいっこうに進捗がない感であった。

               鋭意 復元中の知念城跡

眺望を愉しんでいると後ろから声がかかった。振り返ると満面に笑みを浮かべた老爺が立っている。還暦をとうに超えたと思しき、小柄だが真っ黒に日焼けした偉丈夫だった。話しかけてくれているが言葉の方言の強さでほとんど理解できなかった。

しかし、こちらの返答の有無など気にもかけずに語りかけてくれた。それがとても嬉しかった。

彼の後ろで寄り添っていた老婦人が、標準語を探すように とつとつと通訳をしてくれた。無口な様子の彼女が見るにみかねてその労をとってくれたのだ。

知念城跡での酒宴の場所から臨む海原

お二人はご夫婦で幼い頃より大好きであったこの城跡を訪ね、酒盃をかさねることが唯一の楽しみだと教えてもらった。

見ると足元に焼酎の一升瓶が一本立っている。彼らは大切な酒宴になぜか筆者を選んでくれた。

勧められたお酒は「車で移動しているから」と断ったのだが、なぜか去りがたく、彼らとしばらく時間を一緒に過ごすことにした。

突然 話は変わるが、以前米国ロスに駐在中、何度も本気でアメリカ人と口論をしたことがある。

ネイティブスピーカー(母国語を話す人)でもない日本人の我々にとって、喧嘩の時ほど外国語が通用しないことを痛感させられたことはない。


英語での表現を考えているうちに怒りの感情が急速に引いてしまうからだ。感情の表現は理屈ではないのである。

怒りの表現が相手に伝わらなくなってしまうから日本語でもかまわないから怒りにまかせて吠え声をあげることが肝要なのだと直感した。語調や表情から十二分にその感情の迫力がアメリカ人に伝わってゆく。その反動のおかげで、アメリカに友人ができたりもするのである。

間違いなく言語を超える瞬間というものが世の中にはある。人間が持つささやかで数少ない能力のひとつなのだと思う。

知念城跡の酒席で彼らと過ごすうちにそんなことを想い出していた。言葉を必要としない芳醇な時が小一時間近く流れていた。

まぶしいほど直線的な彼らのまなざしに別れを告げ、熱くなった気持ちを糸満港の「丸三冷物店」の大盛りかき氷で少し冷やして帰ることにした。



浦添市美術館

住所 浦添市仲間1-9-2
電話 098-879-3219
観覧料
一般 150円 大学 100円 以下無料
開館時間

9:30~17:00 (金曜 ~19:00)

交通
 車 那覇空港より 30分(国道330線を北上)

 BUS 那覇BT 35分(城間線91番・牧港線55番他)バス停 「美術館前」下車徒歩5分



知念城跡

住所 南城市知念字知念上田原
電話 098-947-1100(南城市観光・文化振興課)

見学自由

交通
 車 那覇空港より 55分(国場から南風原へ国道331線を南下

 BUS 那覇BT 65分(志喜屋線38番)バス停 「久美山」下車徒歩20分




ガイドページ


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