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青黒い大鳥居をくぐり、ゆっくりと石段を上る。「波之上宮」の鳥居は石造りや木材ではなく鉄製のため、黒色の重厚な顔をしている。戦争で社殿などほとんどが焼失したが、完全に復旧できたのは50年後の平成6年とある。くろがねの鳥居も比較的新しいに違いない。

沖縄総鎮守で正月などには人出で溢れかえるほど人気のある神社らしいが、社殿も境内もそれほど大きくはない。

本殿に詣でたあと、境内を巡り裏側に回りこむと、断崖の上に建つ神社だとわかる。かつては並ぶものがないほどの景勝地という案内に、ようやく納得することができた。振り返り神社を背にすると目の前には「波の上ビーチ」が広がっていた。

しかし、浜辺は目一杯のクレーンや機械で占拠され、大がかりな何かの工事の真っ最中だ。このあと行こうと思っていたが、今日は止めてルート変更をしよう。


ルート変更し隣接する 「護国寺」 を訪問した。 「波之上宮」 の別当寺として建てられた沖縄最古の寺である。このあたり一帯は旭ヶ丘公園となっており、寺の周りには碑が多く、高低差のある変化に富んだ緑地になっている。風の音や野鳥の鳴き声だけが聞こえる心地よい静けさだった。

さらに南に下ると、孔子廟と書かれた自然石が通り沿いに置かれていた。正面の門は固く閉じられており、門の上に 「至聖廟」 と大書された扁額がかけられている。

儒教の祖である孔子を祀った霊廟は日本各地に点在し、東京の湯島聖堂もその一例である。中国のものが日本にできたのは、徳川幕府が存続安泰に有効な ”論語” の儒家思想を正統な学問として奨励したことに始まった。

至聖廟(久米孔子廟)の大成殿

本門わきに小さな扉が開いているのを発見したが、勝手に入るのも憚りがあり、また去りがたくもあり、うろうろ躊躇していると、中から談笑する大きな声が聞こえてきた。2つの観光グループが鑑賞回遊中に発した声であることを確認し、意気軒昂に入場。

中はパティオ風の敷地内に堂や廟の建物が4つ、孔子を祀った大成殿を正面に据え両翼に並んでいた。

案内図

[写真をクリックすると大型に]

天尊廟の中に三国志で広く知られる関羽が祀られていた。学問の象徴が孔子であるのに対し武の象徴が義に生きた関羽である。しかし孔子廟はともかく、この関帝廟(中国人は関羽を祀る霊廟をそう呼んでいる)は中国ではポピュラーでも日本では馴染みもなく、横浜中華街のような中国人街にあるだけである。早速訊いてみることに....

やはりこちらの至聖廟は日本人が学問所のそばに建てたような孔子廟ではなかった。現在地より南に2ブロックくらい下がった場所に久米という地区があり、昔は中国皇帝からの正使や派遣された中国人がそこに居留し、時代が下るにしたがい自然に住み着いていったとのこと。そこで建てられた孔子廟だったが、太平洋戦争で全焼失し、1975年に現在のところに復元したようである。孔子廟ひとつの背景でも歴史の永さと戦火の大きさを感じさせられる話であった。

孔子廟を後にし、そろそろ探索も終わりにしようとまっすぐ国道58号線の方へと足を向けた。夕暮れが近いというのに暑さはいっこうに衰えない。久米南の交差点を渡ると右側に「かき氷」の文字を見つけた。店の名は ”千日” という。躊躇なく店に飛び込む。

やや広めの食堂といった感じで丸テーブルに真っ白な椅子が涼しげに並ぶ。扇風機がゆるゆると回っていて、気さくでのんびりとした雰囲気だ。セルフサービスなので厨房カウンターに行き、数種類あるかき氷のメニューから「氷いちご(300円)」をオーダーする。創業は50年以上も前でぜんざい中心のお店らしい。

氷の掻く音が心地よく、あたりの暑気をはらってくれる。「できました!」の声に誘われ、カウンターまで取りに行くと大きな山のようなかき氷が待っていてくれた。口の中でほどけて溶けてゆくその冷たさは、なによりの御馳走だった。
泊港から始まった「ちょぼちょぼ旅」も本日は店じまいにしよう。


「波之上宮」のガイドページへ


千 日

住所 那覇市久米1−7−14
電話 098−868−5387
営業時間 11:30〜20:00
        月曜定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩15分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車1分
 車 那覇空港より 15分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点の
    手前左手)

沖縄の幹線道路とも云うべき国道58号線からやや西に入った所に、松山と久米を分ける通りがあり、その一画に、緑がこぼれるように多い場所がある。片側には”福州園”、もう片側には福州園に倍する松山公園が横たわる。

福州園を囲む白亜の壁の上から高い樹林が顔を出し、緑をばらまいている。壁には等間隔に花窓のような透かし彫り窓がうがたれ、庭内の様子をうかがえるようになっている。入口では石造りのシーサーが訪問者を迎えてくれる。

入場料は無料だが入口で記帳を求められる。1992年9月開園当初は入場料300円を取っていたようだが、現在は無料。

一歩入るともうそこは小中国だった。東京の大名庭園に慣れてしまった目には、異彩を放つ中国庭園がすこぶる新鮮に感じられた。

設計から石材まで那覇市の友好都市である中国福建省福州市の手により造園されている。

庭園の造形は福州市を模しており、三山・二塔・一流を表現し四季の変化を感受できる贅沢な造りである。山などの高低変化、水の動と静の変化、草花樹林の四季変化。観る者の視点で千変万化する庭に仕立てられている。三山のひとつ ”冶山(やざん)” から流れ落ちる滝の裏にさえ、洞窟を設け砕け落ちる水のきれぎれに滝前の ”飛虹橋” を眺めることができる。

2500坪の庭園全域の隅々にまで堂、橋、塔が設置されているが、それらの細部に中国の匠の技が発見できる。堂の廂(ひさし)、門の飾り、橋の欄干を飾る石像、透かし彫り窓、石柱彫刻....挙げたら限りがない。

観光客もそこそこいるのだが一か所で混み合うこともなく、ゆっくりと自分のペースで回遊できるので2周もしてしまった。最初の一周では景観を、次の一周は上記写真にある細部まで精巧なつくりを鑑賞。2周目の終わり頃になり、気がついたことがある。東京の大名庭園と雰囲気が大きく違うのは、中国風建築物のせいばかりではなく植栽されている草花樹木がまったく違うことにも原因があると云うことである。

東京にある庭園や公園は梅から始まり藤、つつじ、牡丹など定番の花で季節を楽しむのだが、ここの庭園にある植物はまるで違うのである。

例えば黄色いラッパのような花をつける ”キバナキョウチクトウ” は温室栽培の花だが、ここでは戸外の庭園で平然と咲いている。また6月頃より花が咲き盛夏過ぎに実をつけるはずの石榴(ざくろ)がすでに実をつけているのである。亜熱帯沖縄の魅力のひとつを発見した思いだった。

”ツワブキ”という植物がある。沖縄では”ちいぱっぱ”と呼ぶらしい。花を見るより大判で艶のある葉を愛でる植物である。波打つ白壁に沿って群生している”ツワブキ”の、なだれ落ちるような葉が印象的だった。そろそろ閉園時間になる。本日のちょぼちょぼ旅も店じまいにしよう。


「福州園」のガイドページへ

本日は一日オフになったので、午前中はマンションホテルのバルコニーで日光浴をしながら読書をする。昼前には出掛けるつもりだったのだが、読み始めたスティーヴン・キングが止まらず、午前中は目一杯日光浴となってしまった。

午後一番には首里に向けて行動開始。いつものように「おもろまち駅」(ゆいレール)を利用し初めての「首里駅」を目指す。10分弱で到着した「首里駅」でバスを利用するか徒歩にするか、一瞬迷ったがやはり徒歩で首里城に向かう。駅前から首里城を通り那覇市街中心部へと伸びる県道29号線。駅近くの鳥堀の交差点を突っ切りその県道をひたすら首里城のある西の方向へ歩き続ける。

首里城も見たいが、その前に行きたい場所がある。金城町の石畳道(いしだたみみち)だ。城の南から始まる坂道で、戦争でも唯一戦禍を免れ歴史を忠実に残している場所なのだ。

それにしても暑い。梅雨のはずだが、沖縄到着以来1週間経つが雨など見たことも無い。15分ほど歩くとやっと左手に深い緑の池が見えてきた。”龍譚(りゅうたん)”と呼ばれる細長い池が、首里城の懐近くまで入り込んでいる。首里城の上部だけが池の向こうにうっすらと姿を現した。

池に見とれていて通り過ぎてから気が付いたのだが、県道の右側つまり龍譚池の北正面に樹木に囲まれた古い館があった。案内の看板を読むと旧県立博物館の建物(写真左上)であった。新しい県立博物館は筆者が逗留しているマンションホテルのある新都心”おもろまち”に新築されている。

周りの石垣などに興味が湧き、うろうろしていると次のようなことが分かった。もともとこの場所は琉球王朝時の世子が住む御殿のあったところで、明治12年(1879)の廃藩置県で城を明け渡した尚王一族が移り住んだ場所でもあった。やはり徒歩の旅には発見が多い、時間と体力は必要だが...

龍譚の少し先から回り込むルートで石畳道に連なる真球道(まだまみち)の入口にたどり着いた。その道に入りしばらく行くと急勾配の坂道があらわれ、石積み階段になっていた。住民はこの坂を島添坂(しましーびら)と呼ぶ。

階段は樹木の青葉に蔽われてアーケードのようになっていて涼しげに見える。この道を下って行くと赤マル宗通りと交差するのだが、そこから先300mほどの道を石畳道と称している。

頭上にかぶる緑のアーケードの石段を抜けると視界が広がった。城下町が目の前下方に現れ、現在地がかなりの勾配を持つ高所であることがたちどころに実感できる。

琉球石灰岩を丁寧に敷き詰めた道は艶消しの風合いを持ち、両側に建つ住宅の赤や白縁の瓦と相まって観るものを立ち止まらせるような景観を生成する。

浮き上がる光と影の濃淡の中、白い石畳道がずっと続いている。

(石畳道の続きへ)


「金城石畳道」のガイドページへ

つやの無い白い琉球石灰岩を敷き詰めた長い坂道をゆっくり下って行くと金城ダム通りにぶつかる。

そこが石畳道の出入り口(写真左)になる。首里城に戻るには、ここでUターンし300m以上の坂道を上らねばならない。

楚々とした美しさがある石畳道だが、華美からは対極にある。

ややもすると単調になりがちな道に南国の花と鮮やかな屋根瓦が良い添景になっている。

石畳道沿いに 「首里殿内」 という店があるが、この沖縄料理店は敷地内に”泡盛”と”民族”というふたつのテーマを持つ資料館を有しており、食事客以外にも開放している。


石臼と石垣で組み上げられた門をくぐると、300坪ほどの園内に池や資料館があり、泡盛資料館には古酒をはじめ1000本もの泡盛が展示されていた。休みがてら、のぞいて見るのも一手。

再び坂道を上るが、なだらかに見えた坂も昇るにつれ、傾斜がしだいにきつくなり汗が流れ落ちる。建造から500年以上も経つこの石畳の坂道を、いったいどれほどの人馬が行き交ったのだろう。

行程の半分ほども上っただろうか、暑さとタフな坂道でダウン寸前の筆者の目の前に 「金城村屋(かねぐしくむらや)」 と書かれた建物が...

下りてきた時には特に意識もせずに通り過ぎたが、この地区の公的建物を休憩所として開放したものであった。じりじりと太陽に灼かれながら急坂を上る身にとって、これほどありがたい休憩所はなかった。

人心地つくと、今度は猛烈な喉の渇きを覚え自販機探しの路地探索を始める。自販機で求めたよく冷えた水を片手に、近所を歩くうち、金城樋川(かねぐしくひーじゃー)という湧水の水場を発見。昔からこのあたりの広場で、坂の往来をする人馬が水を使い足を休めたという。さきほどの休憩所がちょうど石畳の坂道の中間点になるらしい。

敢然と後半戦の行程に向かったが、ますます坂は勾配を増し、水分を補強したせいか汗は噴き出す有様。下りるときの風景を楽しむ余裕など微塵もなくなっている。ほとんど倒れそうになった頃、例の樹木が覆う緑のアーケード階段にたどり着いた。木陰のありがたさを、これほど実感できるとは想像もしていなかった。

ぼろぼろヨレヨレになって、やっと出発点の入口に上り着いた。日頃恵まれすぎた環境にどっぷり浸かっているため、完全に野生の遺伝子は退化してしまったようだ。


「金城石畳道」のガイドページへ

再び南部にやって来た。那覇BT(バスターミナル)から50分ほども乗ったろうか、垣花(かきのはな)というバス停に着いた。垣花は前に訪問した本島南部東海岸の知念岬の少し南に位置している。

この場所には日本最南端の名水百選と謳われている”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”という湧水場がある。本日の第一番目の目標地にしたスポットだ。案内板に沿って路地を歩くが周りは民家もまばらで大自然の中に家が点在しているような地域である。

垣花城跡

途中に ”垣花城跡” があった。しかしその場所には石碑が建っているだけで、城郭跡のようなものは一切見当たらない。

記録には2500坪を超える城郭とあるが、今は郭跡のような平地に熱帯樹が繁茂しているだけであった。

そこを過ぎて、なおも行くとログキャビン風のカフェ 「風樹」 にぶつかった。


案内板に従い左へ道なりに進むとまもなく”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”へと下る坂道の入口が現れた。坂道は琉球石灰岩が敷き詰められ勾配も急である。両脇をガジュマルやアカギなどの樹林の葉が覆い、坂道に涼しげな木陰をつくっている。ちょうど首里金城の石畳道のような景観である。

                         坂の途中で入口方面を振り返る

坂道には1本の太いケーブルが打ち捨てられたように置かれ、延々と坂下まで続いている。後で分かったのだが、この管は湧水場から汲み上げられた水を上の集落へ運ぶ送水管であった。

分厚く凹凸のある石灰岩なので慣れないものには足元が安定しない坂道だ。また石灰岩は濡れると滑りやすく皮靴やハイヒールの使用は怪我のもとになる。

注意深く降りるうち、足元が明るくなり周りの視界が一挙に広がる。その場所は太平洋に面した山の中腹斜面にできた自然の小広場であった。

広場の小高いところに清水が音をたてながら溢れ出ている水場が2か所ある。左が女川(イナグンカー)、右が男川(イキガンカー)と呼ばれ、昔は名の示す通りそれぞれ使い分けていたようだ。

その清水が流れ込む水だまりが小池となっている馬浴川(ンマミシガー)には沢ガニなどが住みついていた。渇水の地として長い歴史を持つ沖縄では、貴重な生活用水を得られる湧水場として昔より大事に守られてきた”垣花樋川”。

  写真左:男川 写真右:垣花樋川からの眺望(中央の小池が馬浴川)

山肌から湧きだす水が単調で眠気を誘うような音を立てている。水の音には独特の振幅数が含まれるのか、気持ちを落ち着かせる効果がある。樹齢古いアカギの幹には蔦(つた)が絡み、鬱蒼とした緑の中に可憐な野花がところどころ色を添えている。

名高い観光スポットにもかかわらず施設などは一切無く、昔日の自然がそっくり残っている。沢ガニを捕まえたり水遊びに興じたあとは、水の音をBGに一面の海を眺める。のどが乾いてもふんだんの名水が目の前にあり、ペットボトル入りでない自然から直接享受できる水のなんと甘露なことか。そんな極上の時間をたっぷり味わった後、すっかり重くなった神輿(みこし)を上げた。さあ気合いを入れ直して急坂の道を登らねば...

やはり急坂の登りはかなりタイトなもどり道だった。一気には登りきれず、昔行き交った人々と同じように途中の休み石で一息入れながらの復路となった。

往路で目印になったカフェ 「風樹」 だが、トイレなど施設の無い垣花樋川へのベースキャンプとして活用できるのでご紹介しよう。全体が空間たっぷりの木造りで、内装は大きな居間を思わせる落ち着きがあり居心地がよい。テラスや2階のバルコニーなど自然とも調和し、眺望は素晴らしい。カフェとなっているが14:30まではランチもでき、もちろんスイーツやかき氷も楽しめる。


「垣花樋川」のガイドページへ


カフェ 風樹

住所 南城市玉城字垣花8-1
電話 098-948-1800
営業時間 11:30~18:00
お休み 火曜定休
駐車場 10台
交通
 BUS  那覇BTから50分(百名線39号)−バス停 「垣花」 下車5分
 車 那覇空港より 40分(国場から与那原町経由南城市を目指す−県道137号線を垣花まで)

ミーバイの煮付けが旨かった。本土ではハタの名で知られた白身の美味しい魚だ。少し大きいミーバイを選んだがペロリと平らげてしまった。

この食堂の味付けは濃からず薄からずで白身の旨さを引き立てる仕上がりだ。ここは牧志公設市場の2階食堂である。この市場食堂は2回目の訪問だが、ますますクセになりそうな予感がする。(料理の写真はBLOG 34 に掲載)

今日は2時間ほどしか自由時間が無いので、食後の運動を兼ね那覇市街のこの近場を探索することにした。地図を眺めながら、前回このあたりを訪れたとき行けなかった「崇元寺石門」に決める。

国際通りを牧志公園まで行って、あとは安里川に沿って少し下れば着く。ゆっくり歩いても30分もかからない距離だ。

安里川に架けられた橋をわたると道沿いの白い石門が見えてきた。中央に三連の切石積みアーチ門。その門を支えるように脇に伸びた<あいかた積みの石垣。

歴代の王を祀った菩提寺「崇元寺(そうげんじ)」の第一門である。門そばにある説明碑によるとこの崇元寺は戦争で全焼し、この石門の東脇に建っている下馬碑(馬を降り礼をとるよう指示した碑)だけが戦災を免れたとある。

そして石門だけが再建されたが、建物は復元されず現在に至っている。しかし創建が1527年というから、この地はまがうことなく500年近くの星霜を越えてきた霊廟地である。

アーチ門の中に足を踏み入れると表の喧騒がふっと遠のく。そこにはガジュマルの木と7段ほどの石階段があるだけの簡素な広場。地図には崇元寺公園とあるから公園なのだろうが、らしき設備もないうえ、今は誰ひとりいないせいかガランとした空地の印象である。

時に置き忘れられたような空間が広がるばかりだが、なぜか心落ち着く場所でもある。1歩出れば交通量の激しい県道なのだが、不思議なほどに騒音が届いてこない。もの静かな木陰にいると、ありし日の典雅な堂宇や荘厳な霊廟が偲ばれる。

崇元寺石門は駆け抜けて観るような観光場所ではなく、立ち止まってはじめて味わえる旧跡だった。

崇元寺石門
−そうげんじいしもん−

住所 那覇市泊1−9−1
電話 098−868−4887
見学 鑑賞自由
交通
 ゆいレール 牧志駅・美栄橋駅より
         徒歩10分
 BUS バス停 「崇元寺」 下車スグ
 車 那覇空港より 25分(国道58
    号線北上−泊交差点の信
    号を右折し県道29号線に入る
    −直進し左手)

名護市役所から市街地の中心と云われる名護十字路の交差点へ向かった。落ち着いた町並みを歩いていると 「港川」 という細い川にぶつかった。何のへんてつもない普通の川なのだが、どこかで聞いたことのある名だ。

                           名護市内を縦断する港川

思い出せないのがもどかしく、つい川に沿って河口方面へ歩いてしまった。川沿いの道は妙に静かで せせらぎの音ひとつしない。

川巾が広くなった河口近くでルアーをキャスティングする釣り人がいた。遠目でも視認できるほどの獲物を挙げている。

こんな小さな川でも釣れるから沖縄は面白い。釣りを眺めているうちに、ようやく 「港川」 のことを思い出した。

南部の玉泉洞を訪れる途中で散策した雄樋川の流れている地区を港川と云っていた。

なんでも縄文以前の古代人の骨が発見された場所で、その古代人が港川人と呼ばれていることもあわせて思い出された。


これですっきりとし再び繁華な名護十字路を目指す。10分も歩くと かなり商店街の通りらしくなったのだが、シャッターを下ろしたままの店が目立つ。

シャッターには売店舗の紙が貼られていた。、また貼り紙も無くシャッターが閉じられている店も、定休日ではなさそうな気配である。なにやらこの通り全体が開店休業に近いムードであった。


賑やかで混んでるところはあまり好みではないが、本来人混みが想定される商店街通りが空いていると、どこか寂しげなのである。

ちょうど飲食店に飛び込みで入店したら客がひとりもいなかったときの空気感に似ている。

それでもしぶとく名護十字路の交差点を中心に商店街歩きを敢行。


すっかり汗を出し切り、のどがカラカラに干上がってしまった。涼をとるため開いている喫茶店を捜し飛び込んだ。喫茶店というよりは甘党のお店といった感じだったがそこで小休止をとることにした。

充分に冷えた水とジュースで生き返り、次の目標地選定のため地図を引っ張り出す。テーブルに広げた地図をにらみながら、店主に相談すると強力に推薦されたのが名護城跡。

一も二も無く名護城跡に決めた。人間、ときには子供のように素直になれるときがある。長く大人を演じている身には貴重な瞬間だ。

城跡は名護岳という山の中腹に設けられた中央公園の一画にあるという。早速、その登り階段のある東江(あがりえ)中学校の裏手を目指して出発した。距離にして1km弱の道程だから10分ほどで行けるだろう。

中学校の脇を抜けると川沿いの道と合流した。港川と同様に市内を縦断する「幸地川」だった。

その川沿い道を上流に少し歩くと、登り口の階段を発見した。

階段にかぶさる樹林のおかげで石段には葉陰のまだら模様が映り、強い直射日光を和らげてくれていた。

途中に車道を横切ったりしながら果てしのないような階段を登りつづけた。


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さすがに登りの連続であごを出してしまったが、ほどなく石造りの鳥居と拝所のような建物が視界に入ってきた。鳥居をくぐると神社のように御堂と思しき祠とその前部には参詣人の奉納を受ける賽銭箱が置かれた建物があったが、屋根だけは琉球赤瓦が葺かれていた。

そしてそこから参道のように石燈籠が並ぶ脇道が伸び、先にはさらに上部へと つながる階段が待っていた。両脇を石灯籠で固めたこの階段が名護城跡へ登る最後の石段であった。

やっと最上部に位置する名護城の跡地に登り着く。しかしそこには何も無かった。城壁の石積みはもちろん遺構すら残っていなかった。(ガイドページに写真)

隅にあった案内板によると、琉球でも珍しく城壁を有せず二重の掘り切りだけを防御ラインにした土塁グスクで、城跡にはいくつかの拝所のみが存在するとあった。

実際のところ その主郭となる敷地もそれほど広くもなく、山の傾斜や樹林などの自然要害を利用した城塞であったのか。こういう時こそ人類に備わった特殊能力、つまり想像力をフル活動させなくてはと変に張り切ってしまった。

唯一の防御線であった掘割の位置を見学しようと、ハブが出そうな原生林のような中を探訪したり、他に攻略ルートは無いのかと道なき道を繰り返し歩いたりと夕刻近くまで居てしまったのである。

山を下りた頃には名護の街なかにネオンが点り、こころなしか活気が戻っていた。そしてこころ残りはただひとつ、サンセットビーチでのサンセットを見逃してしまったことだった。


「名護市街」のガイドページへ



重厚な石灰岩の石壁に囲まれた古民家があった。白い石壁の上からこぼれたフクギの緑色が鮮やかだ。470坪の敷地にゆるりと建つ姿は、風格もあるがそれ以上に確かな生活臭が浸み込んでいた。18世紀中頃に建築された豪農中村家の住宅である。

門から入り石壁に沿って並ぶ偉丈夫そうなフクギを見上げていると、いきなり空から大粒の雨が落ちてきた。沖縄に来て2カ月半が過ぎていたが、今まで雨に遭ったのは3回だけであった。

HARD RAINという言葉がぴったりなほど一気に激しく降るがスコール(豪雨)ほどではない。強烈な太陽にさらされ火照った顔には気持ちよかったが、ヒンプン横の中門を抜け内庭から母屋のひさしの下に隠れた。雨の音を聴きながらしばし内庭を眺める。

中庭に面して高倉が付設されていた

内庭を挟むようにしてアシャギと呼ばれる離れ座敷と穀物収蔵の高倉が向かい合って建っていた。高倉の上部が妙に大きくアンバランスに見える。上部の傾斜をつけることによってネズミの侵入を防ぐ工法 ”ネズミ返し” のため多少大きくなっていると案内があった。

沖縄特有のヒンプン(門と屋敷の間 つまり敷地の入り口に配置する魔除けの眼隠し塀)を右手に入ると母屋の一番座(客間)に出て、そこから左へ二番座(仏間)、三番座(居間)と部屋が並ぶ。ヒンプンを左に入ると台所のあるエリアへと向かう。そのためか男性は右から、女性は左から入ると云われている。

始まった時と同じように急速に雨足が細くなった。雨を浴びたフクギの緑や遠くに咲く花の赤が輝いていた。屋内の見学を始めるため母屋に入ることにした。

一番座の奥には裏座の2部屋が

ヒンプンを配置するような本土にない沖縄民家構造の特徴がもうひとつある。

普通に一見するだけでは気がつかないのだが、実は屋内には玄関に相当するものが見当たらないのである。

この滞在中にも何度か住居に訪問する機会があったが、いずれも客間とか居間などに直接あがり込むことになった。

ほとんどが戸を開け放ち光と風を取り込んでいるので、基本的にはどこからでもアプローチ可能な造りなのである。

ここ沖縄で玄関に相当するものをあえて挙げるとすれば、敷地内に入る門とヒンプンしか見当たらないのだ。

このことに気づいたとき、またひとつ沖縄を肌で理解でき近づけたような気になった。

沖縄の民家は平屋が基本なので敷地面積の割には部屋数も少なく以外にこぢんまりとしている。

そして一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)と右から左へ並ぶ。そして台所や土間や板の間が付属する。この古民家も同様で玄関などは無く、典型的な沖縄民家を保存維持しているようだ。

母屋はこの他に裏座と呼ばれる寝室など2部屋が、勝手まわりとして台所や板の間がそれぞれ公開されていた。台所ではカマドや酒器などが鑑賞でき、屋根裏の様子も窺うことができた。

                                台所まわりにある備品の展示

この中村家住宅の由来は古く、500年以上も昔にまでさかのぼる。

1440年、読谷村の有力豪族の護佐丸が首里王府の命で、この地の中城城へと配置替えとなったことから始まる。

中村家の先祖がこの護佐丸に同行し移住したと記録にある。しかし1458年護佐丸が倒れたあと王府の手から逃れるように一家は離散している。

ところが中村家の血脈はしたたかにタフだったのか、250年も経った1720年頃 同地で地頭として復活するのである。

この古民家の建築が18世紀中頃というからちょうどその時代に建てられたのだろう。

実際にその当時の建築物は母屋だけらしく、爾後しだいに増やされていったと聞いた。

      井戸とその奥の建物はメーヌヤー(家畜舎)

勝手口から表に出ると、すっかり雨は上がり、陽が勢いを盛り返しつつあった。目の前には大きな井戸が見え、右側にはメーヌヤーとよばれる家畜舎が付設されていた。

その奥にはフール(養豚場)まであり、居住地内ですべてを自己完結する昔日の生活様式にただただ脱帽。生活をするという単純な行為が、どれほどすごみのあることなのかを改めて教えてもらったようだ。

シーサーの護る屋根では赤瓦に棲み着いた苔が雨露できらきら光り、むしょうに陽の逆光が眼に痛かった。

「中村家住宅 −なかむらけじゅうたく−」のガイドページへ


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