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いよいよ今日から那覇から離れた旅を始める。しかもバスで行くのんびり旅だ。今回は南部方面に決め、本島で一番南のポイントをたずねることにした。ガイドブックによると喜屋武岬(きゃんみさき)とあるが、地図を見るとこの喜屋武岬よりやや東の荒崎という地域が最南端であることが判る。しかしその最南端ポイントまでの道が無いことも判った。やはり喜屋武岬を目指そう。

那覇バスターミナルから糸満BT(バスターミナル)行きのバスに飛び乗り小一時間ほどで終点に着いた。この糸満BTで乗り継ぎ、喜屋武まで一気に足を伸ばす。糸満BTを出発したバスは糸満ロータリーで国道331号線に乗り入れ南下して行く。しだいに鄙びた景色に変化し、ゆるゆる走るバスをその飾り気のない地色が 包み込んでゆく。

地元とおぼしき乗客を入れ替えながら走り続けたバスもようやく喜屋武のバス停に着いた。糸満BTから30分ほどの時間距離になる。降りたバス停は小さな広場にあり、幾筋もの道が町中へと繋がっている。その中から案内のあった岬へと続く道に踏み入った。ものの数分で町を通り抜けてしまい、あとはどこまでも連なる白い舗装道路。

15分歩き続けているが風景は変わらず、真っ青な空と大地の緑、そして長く引かれた一本道。ガイドブックには徒歩15分と記されているが、見渡すかぎり海岸線の気配など微塵も無い。時々観光と思われる車が何台も追い越して喜屋武岬方面に走り去る。

舗装された道は一本なのだが、いくつかの細い未舗装道路を通り過ぎてきたので間違えたかと思い始めた頃、手書きの案内板を発見(左写真)。意を強くし再び歩き続けるが、太陽のきつい照り返しが舗装道路から這い上がってくる。吐く息も熱く、まるでゴジラだ。

人家もまばらになるが、やはりあたりには、いっこうに岬に着く気配が無い。無意識に自販機を探す目。こんな人家もまばらな野中の一本道に自販機などあるはずもない。

飲み物を携行しなかった自分を呪いながら歩いていると、前に追い越して行った車が戻ってきた。岬の観光を終えての帰り道なのだろう。こちらに近づくにしたがいスピードを落としてきた。車を止め何かを尋ねるかと思いきや、そのまま走り去ってしまった。車中はカップルの観光客のようだった。

大量の発汗で体力も消耗し、いまだ目的地に到着しないため、那覇の金城石畳坂道でのひどい有様が再現されつつある。2台目の車が戻ってきたが、やはりスピードを極端に落としてすれ違って行く。決して徐行などではない。

やっと事態が理解できた。観察されていたのだ。こんな長い一本道を歩いている観光客など普通いないのである。筆者は外見からも地元ではなく訪問者であることは一目瞭然で、炎天下をただひたすらに歩いている酔狂な旅人に映ったのだろう。 車中の旅行者が行きにテクテク歩く変人を追い越し、帰りにもまだちょぼちょぼ歩いていたら顔のひとつも見たくなるのが人情というもの、何の不思議もない。 よし! カッコつけて元気に歩こう。

前方に何やら作業をしている集団が視角に入った。道路を塞ぐように伸びた樹木の剪定作業だった。早速尋ねると目的地は目と鼻の距離...遂に到着だ。これだけ苦労すると到着の嬉しさもひとしおである。

そこは断崖の上の小さな広場といった印象だった。片側には休憩所のかわいい東屋がある。その前で一台のワゴン車が旅行者のために飲料やスナックを臨時販売している。飛びつくように買い求めた水を一息に飲んだ。冷たい水が干上がった身体に沁みわたってゆく。

 喜屋武岬の崖上からの眺望

太平洋戦争末期にはこの崖上から軍人のみならず住民の多くも投身し玉砕したという。今その場所には”平和の塔”碑が建てられている。記念碑の先には東シナ海と太平洋がぶつかる大海原がどこまでも静かに広がっている。

苦労した分眺望を楽しみ充分に休憩したあと、近くの具志川城跡に向かった。もちろん帰路用の飲料は確保済みである。


喜屋武岬のガイドページへ

国道331号線を東へ向かって走行する南部循環バス。今まで閑散とした道路沿いが急に賑わってきた。車内の案内では次の停留所 「ひめゆりの塔前」 が表示されていた。バスを降り国道沿いに「ひめゆりの塔」の方向へ歩いたが、居並ぶ店の表情や観光客を呼び込む声などまるで温泉街の感がある。

ひめゆりの塔の敷地入口では献花用の花束を売っている。売っているのは見るからに元気な ”おばー” が2人。沖縄では中高年の女性をそう呼ぶ。彼女たちは長い間培った知識のすべてを次世代の ”おばー” へと伝えてゆく強力なコミュニティを形成しているのである。この慣習形態は沖縄全域に及ぶ。

筆者も花束を求め、しばらく ”おばー” と立ち話をしたが、実にたくましく威勢がよい。たくましいという傾向だけなら、なにも沖縄に限ったことではないが。

「ひめゆりの塔」の前に献花台が置かれていた。 黙祷したあと気が付いたのだが、「ひめゆりの塔」の真ん前にぽっかりとマンホールのように口を開けている洞窟があった。柵から身を乗り出して覗いたが、かなり深く中は漆黒の闇へとなだれ込んでいた。

その闇の中の洞窟こそが、「ひめゆりの塔」 の最後の舞台となった陸軍病院第3外科壕であった。

太平洋戦争末期、激しい地上戦が展開される中、看護活動のため学徒動員された222人の少女たち。上陸した米軍の激烈な一掃作戦に追われ、遂には南のこの地まで追い詰められてゆく。大体の経緯は映画や書物などで知っていたが、その知識たるや表層のほんの一部分でしかなかった。

ひめゆり平和祈念資料館

少女たちで編成された”ひめゆり学徒隊” の凄惨な3ケ月を、過不足のない事実だけで淡々と伝える 「ひめゆり平和祈念資料館」。慰霊碑に隣接するように設けられたこの資料館は館内撮影禁止のためサイトページではご覧頂けないが、展示室ごとにテーマを分けコースを巡るだけで当時の実態が理解できるようになっている。

初期の写真に見るあどけない少女たちの笑顔。大量に運び込まれる負傷兵の看護の日々。暗い壕の中で激務に追われ心身ともに疲弊してゆく少女たち。そして突然の ”解散命令” で戦場を彷徨する終章。


コース途中に壕(”がま”とも云う)の実物大のジオラマがあった。彼女たちが立ち働いた洞窟のジオラマである。そこを覗くと暗闇の中にひとすじの光が天井から降っている。その天井の光源はさきほど地上で見た足元のマンホールのような穴から射す陽光を想定して造られていた。

そして館内には説明員たちが常駐しており、その大半がしらゆり学徒隊の生存者たちで構成されている。彼女たちの説明の中でつぶやくように「生きてしまった」という言葉が何度か聞かれた。「生き延びた」や「生き抜いた」ではない。目の前で失った友人のこと、あるいは軍の強制的な解散命令のため負傷して動けない友人を残し逃げざるを得なかったことなどへの積年の思いが込められているに違いない。そのひとつの静かなつぶやきは百の説明以上の力で真実を伝えてくれた。

いずれにせよ、この資料館は沖縄最終戦の3ケ月をひめゆり学徒隊を中心に据え、あますところなく沖縄戦の実態を伝えている。風化することがないよう願うばかりである。
表に出て歩くうち、目の前に赤いポストが飛び込んできた。その微笑ましい姿に思わずホッとする。

「ひめゆりの塔」のガイドページへ

沖縄にとっての終戦記念日は6月23日になる。太平洋戦争末期、日本国防衛の最重要拠点としての重責を担い、沖縄全島が戦火に巻き込まれゆく。しかし軍と沖縄総出の必死の防衛も空しく凄惨な沖縄戦も米軍制圧という結末を迎える。昭和20年(1945)6月23日、太平洋戦争終結の2ケ月ほど前のことであった。

毎年この日に”慰霊の日”として沖縄全戦没者追悼式が糸満市にある平和祈念公園で挙行される。今日はこの平和祈念公園を訪問し、たっぷり半日くらいの時間を使うつもりで出掛けてきた。平和集会の模様が毎年全国報道されていたので、かなり広い公園で美しい海に面していていたのを記憶していたからだ。

バスを乗り継いで1時間強で平和祈念堂前のバス停に着いた。幅広い国道331号線は真夏のような太陽を照り返し、空は抜けるような青色。その空へ真っ白な塔が伸び上っている。平和祈念堂である。

前日ネットで平和祈念公園を予習すると、その敷地の広大さは筆者の想像をはるかに超えるものだった。だからおおよその回遊順序を決めていた。 ...のだが、平和祈念堂の裏手に見える深緑の野原に誘われ脱線しそうだ。


やはり脱線してしまい、緑あふれる野原を歩き回るうち、計画コースなど雲散霧消してしまった。重要な施設は中心部に集中しているのだが、周辺には多目的広場、ピクニック林間広場、展望広場など多く、自分の位置などは当然見失い、どの広場なのかもわけが分からなくなるのである。

野原の一本道を歩いていても、暑さを削ぎ取ってくれるように風が通り過ぎてゆく。ところどころで海が視界に入ってきたりと実に心地よい時間がゆっくり進む。

外郭のいくつかの広場を散策した後、平和祈念堂に戻り入館する。照明を落とした内室に入ると、両手を合わせ祈りを捧げる12mもの座像が鎮座していて堂内を圧していた。大きな坐像そばから地下へ降りる階段があった。まるで潜水艦のブリッジへ降りる階段のように極端に狭い。案内板があり、世界各地から寄贈された世界平和の願いを込めた霊石が展示されているとのこと。

ショウケースに陳列されている72ヶ国158ヶ所から寄せられた石たち。太古の昔より石や岩などには霊力や神異が宿る伝承が世界各地に残されている。様々な表情をした石を眺めているとそんなことがふっと頭の片隅をよぎって行く。

堂外に出ると太陽の強い日差しが一瞬まぶしく、しばらく佇んでいるとこの位置が公園内でもけっこう高台にあることが判った。南東方向にうっすらと蜃気楼のように浮かんでいるモダンな建物が 「沖縄県平和祈念資料館」 に違いない。次に向かうターゲットにした。

イギリス、スウェーデンなどから寄贈された霊石  平和祈念堂から見た資料館


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リゾートホテル然とした近代建築の建物が 「沖縄県平和祈念資料館」 である。大型でどっしりとした建築は充分過ぎるほど立派だが、内容が小型軽量過ぎるのでは.....というのが正直な感想だった。

決して比較するものではないが、はるかに小さい建物で運営する「ひめゆり平和祈念資料館」の平和を希求する必死さと切実さは鑑賞するものの心を打つ迫力があった。こちらの資料館の内容が小型軽量などと表現したのは、そのせいだろうか。

写真左:平和祈念資料館の入口  右:展示されている魚雷と背景の大型建物が資料館

資料館から内側すなわち海側には全面芝を敷き詰めた内庭のようになっており、建物前には戦争で使用された赤く錆びついた魚雷や機銃が展示されていた。そこから海側へ向かうとおびただしい数の花崗岩の石板が並んでいた。ここが「平和の礎(へいわのいしじ)」と呼ばれる公園でも重要な場所のひとつだ。

この沖縄戦で犠牲になった戦没者は攻守合わせて24万人以上になるという。しかもその大半が沖縄住民の犠牲者で4人に1人が落命したと聞いた。

石碑には沖縄戦での戦没者攻守共に2万4千人あまりの氏名が刻まれている。今なお犠牲者の詳細が判明すると刻銘追記が続いている。

刻銘碑にあるネームリストを食い入るように探す若いアメリカ人カップルがいた。名前を探すということは家族か親戚がこの地で亡くなったからだろう。
日米肩を並べて名を探す光景は、一瞬戦争を遠い過去のものに思わせてくれる。しかし沖縄の受けた傷を完全に癒やすには、さらなる歳月が必要となるだろう

「平和の礎」からすこし南の方向に丘が見える。「摩文仁の丘(まぶにのおか)」と呼ばれる、平和祈念公園の最も奥まったところに位置する聖域である。太平洋を一望する高所で、1km近く続く細長い傾斜面には数えきれないほどの慰霊碑や塔が建つ。

そこは戦没者墓苑になっていて、県ごとの区域に分かれ各県の意匠による慰霊碑が建立されていた。その先は山肌を縫うように小道が整備され、途中には休憩できる東屋、壕跡へ続く階段なども発見できた。あたりは静謐な空気が支配しているが、自然の息づかいを感じられる穏やかさがあった。気が付くと 「摩文仁の丘」 だけで2時間もの時がさらっと流れてしまっていた。

「沖縄平和祈念公園」のガイドページへ

原稿の締切に追われ徹夜になってしまった。なんとか明け方に送付したが、すっかり午前中が台無しになってしまった。

淹れたばかりのコーヒーを抱え、バルコニーで意識を覚醒させていると、大きな音が耳に突き刺さった。バルコニーがら見下ろすと乗用車とバイクの接触であったようだ。でも大丈夫、幸いに両者とも無事なようだった。

                                博物館横の新都心公園へつづく道

我が宿舎にしている長期旅行者用マンションのある”おもろまち”はかなりの交通量がある。那覇の新都心として定着し最近では人の出入りが多いと聞く。

今日は午後しか自由時間がないので、今まで行けなかった近所にある博物館を訪ねることにした。

このあたりは戦後、米軍の住宅地として40年ものあいだ接収されていた地区であった。

昭和62年(1987)5月に全面返還されたが、那覇新都心開発整備事業は平成に入ってから実施されたものである。

博物館のまわりに配置された合同庁舎や新都心公園なども新しい町だけにゆとりのある区画整備がされており、道路も線を引いたように真っ直ぐ伸びている。

沖縄県立博物館は宿舎のマンションから徒歩で7、8分のところにある。今まで日々の買い物で何回通り過ぎたことか。今日初めて入館することになる。

軽い運動がてら新都心公園経由で博物館へ出発する。しっかり汗をかいたあと博物館に到着。ゲートをくぐると正面入口の手前がパティオのようになっており、そこは琉球民家や高倉を設置した屋外展示場になっていた。

琉球の古城(グスク)をイメージしてデザインされた大型建物で、左翼は博物館、右翼は美術館として使い分けていた。

前庭エリアの屋外展示場

内部展示は分野別に整理されているのは云うまでもないが、その網羅ぶりの豊かさには驚いた。

沖縄に関わる人文科学、自然科学、両系統を細大漏らさず封じ込めたように思えるほどだった。

お手軽なテーマパークもよいが、たまには真摯に博物館と向き合うのも深い。

どっぷりと沖縄の勉強をし博物館を出ると、太陽が傾き始めていた。


日が沈むまでにはもうしばらく時間がありそうなので、この近所で以前より気になっていた場所へと向かった。

博物館から”ゆいレール”のおもろまち駅方面へ歩くと6、7分で右手に小高い丘が見えてくる。丘の上には個性的な形状をしたタンクが遠目にも見てとれる。

このタンクには旅行第1日目に気付いていたので、すぐに調べて那覇市水道局の給水タンクであることを知っていた。しかしその後滞在中に調べていた沖縄戦争の資料に、この丘のことが記述されており重要な事実が浮かび上がっていた。

それからはこの丘のことが気になり、県庁前にある那覇市歴史博物館などをのぞきながら少しづつだが調べていた。

3ヶ月におよぶ沖縄戦の中盤に戦局を左右する極めて重要な戦いが、この丘で繰り広げられていたという事実である。昭和20年(1945)5月12日から1週間にわたって日米両軍がこの丘を取り合い激戦となった。

この丘を米軍は「シュガーローフ」と名付け、日本軍は「安里(あさと)52高地」とか「擂鉢山(すりばちやま)」と呼んでいた。ちなみに硫黄島で獲り合った小高い山も「擂鉢山」と云った。

  現在のシュガーローフ、頂上に造られた白い給水タンクが夕陽に赤く染まり始める

丘に着いたのでさっそく登り階段を上がってみた。下から見上げたときは小高いという表現をしたが、実際に登ってみると相当な高度があり視界域も広かった。戦時下では重要なポイントになったであろうことが理解できた。

米軍のノルマンディー上陸が世に云う ”D−デイ” だが、それをはるかに超える規模で沖縄進攻作戦の上陸 ”L−デイ” が敢行された。その沖縄戦で最も米軍がてこずり、多数の死傷者と心神耗弱者を出すほど恐怖したのがこのシュガーローフの戦いであったと米軍側の記録にある。

日本軍は硫黄島に匹敵するほどの戦いを展開し、米軍はこの小さな丘を制圧するのに1週間の時を費やし、初動に投入した中隊が小隊、分隊となり、ついには丘の土に消えていったと米軍人の手記も残されていた。

一方日本側も正確な記録こそ残されていないが多大な犠牲を払ったことは云うまでもない。

硫黄島は1949年にジョン・ウェイン主演による「硫黄島の砂」で映画化され、最近ではクリント・イーストウッドにより映画化されるほど有名だが、「シュガーローフの戦い」を知る人はほとんどいない。

シュガーローフが制圧された後、日本軍は首里を捨て南部への消耗戦へと展開し ”ひめゆり”を代表とする南部各地での悲惨な戦禍が現出してゆく。しかし実際のところ、ここシュガーローフでの決戦で事実上の決着がついていたと云えるだろう。

今は給水タンクで占められ、まわりには可愛い展望台と一握りほどの安里配水池公園があるばかり。両軍が多大な犠牲を払った丘は、今は何事も無かったように夕景のなかで静まりかえっていた。


参考文献:「沖縄シュガーローフの戦い−米海兵隊地獄の7日間」 J.H. ハラス著 光人社刊
       「新都心物語」 那覇新都心地主会発行
       「那覇市史 通史篇 第3巻 現代史」 那覇市歴史資料室 市史編集委員会


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100段以上の長い階段を降りるとヒンヤリとした空気が坑道に充満していた。

地上から落差30mもある地下道は、靴音まで沈黙させる静けさが支配する。

壕内は通路が縦横に走り、掘削されたいくつかの小部屋が復元公開されていた。

階段を降りきったところにある”作戦室”から”幕僚室”、”暗号室”、”医療室”とつづき”下士官兵員室”、”司令官室”の各室が見学できる。

米軍による沖縄への総攻撃が始まったのが1945年3月23日、実質的な沖縄戦争の終了が6月23日。

このたった3ヶ月の期間に繰り広げられた太平洋戦争沖縄戦は酸鼻を極め、戦後65年経つ今も消えない深い傷跡を残した。

この海軍の地下陣地が山根部隊によって造営されたのは、終戦の前年になる1944年である。

地下壕へとつづ く入口の階段

当時、標高74mの高さから「74高地」と呼ばれたこの高台に海軍の防衛線が敷かれた。

8月から着手し、地下深くかまぼこ型の横穴をうがち、コンクリートと杭木で固めながら総合距離にして450mの海軍司令部壕が完成したのは12月のことであった。

年の改まった1月に、佐世保鎮守府から転任した大田實海軍少将が着任した。そしてこの壕が彼の終焉地となってしまった。

                           大田實少将の司令官室

大田は千葉県出身の軍人で、他を批判したり責めたりすることのない人格者であったという。

後世有名になる電文も彼の人柄を示す一例であろう。電文とは戦局も終盤の6月6日、大田が海軍次官宛てに送電した電報のことである。

しだいに追い詰められ他を思う余裕のまったく無い戦況下にあっても、沖縄県民の献身的支援と犠牲を連々と訴え、

「....(沖縄)県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」 と電文を締めくくっている。

米国の総攻撃から3ヶ月弱この地で防衛ラインを維持したが、遂に支えきれず6月13日未明に大田はこの壕で自決した。

同じく他の幕僚6名も手榴弾で自爆し果てている。

そしてその10日後には第32軍の牛島満陸軍中将が摩文仁(まぶに)にて自決し、沖縄戦の戦闘は事実上の終了を迎えることとなった。

この地下壕に収容した将兵の数は4000名にものぼり、横たわるスペースも無く立ったままで睡眠をとりながら最後まで戦ったと伝えられている。驚くべきことに、大田司令官以下数千の遺骨が収容されたのは戦後8年も経ってからだった。

幕僚室では自爆したときに刻まれた破片痕が、司令官室では大田少将が残した壁の墨書が、寡黙なまでに重い何かを伝えてくる。テーブル上に手向けられた花でさえ、この空気を和らげることはできない。

旧海軍司令部壕のある「海軍壕公園」からの眺望

地下壕から表に出ると、それまで身体を包んでいた重苦しい空気から解放される。そこはかつて74高地と呼ばれていた高台に設備された海軍壕公園である。

豊見城(とみぐすく)の市街地はもちろん、遠く北西方向には那覇空港からその先の東シナ海まで見通せる。夜ともなると那覇の街に点る灯が宝石のように輝き、夜景眺望の絶好のポイントになるという。

平和そのものに見えるこの場所で、旧海軍司令部壕とその上部に設営された資料館だけが戦火の痕を伝えていた。

普天間問題で右往左往する政治家やマスコミを、たった65年ですっかり軟弱になってしまった日本を、大田少将らの英霊たちはどこかで見ているのだろうか。


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