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青黒い大鳥居をくぐり、ゆっくりと石段を上る。「波之上宮」の鳥居は石造りや木材ではなく鉄製のため、黒色の重厚な顔をしている。戦争で社殿などほとんどが焼失したが、完全に復旧できたのは50年後の平成6年とある。くろがねの鳥居も比較的新しいに違いない。

沖縄総鎮守で正月などには人出で溢れかえるほど人気のある神社らしいが、社殿も境内もそれほど大きくはない。

本殿に詣でたあと、境内を巡り裏側に回りこむと、断崖の上に建つ神社だとわかる。かつては並ぶものがないほどの景勝地という案内に、ようやく納得することができた。振り返り神社を背にすると目の前には「波の上ビーチ」が広がっていた。

しかし、浜辺は目一杯のクレーンや機械で占拠され、大がかりな何かの工事の真っ最中だ。このあと行こうと思っていたが、今日は止めてルート変更をしよう。


ルート変更し隣接する 「護国寺」 を訪問した。 「波之上宮」 の別当寺として建てられた沖縄最古の寺である。このあたり一帯は旭ヶ丘公園となっており、寺の周りには碑が多く、高低差のある変化に富んだ緑地になっている。風の音や野鳥の鳴き声だけが聞こえる心地よい静けさだった。

さらに南に下ると、孔子廟と書かれた自然石が通り沿いに置かれていた。正面の門は固く閉じられており、門の上に 「至聖廟」 と大書された扁額がかけられている。

儒教の祖である孔子を祀った霊廟は日本各地に点在し、東京の湯島聖堂もその一例である。中国のものが日本にできたのは、徳川幕府が存続安泰に有効な ”論語” の儒家思想を正統な学問として奨励したことに始まった。

至聖廟(久米孔子廟)の大成殿

本門わきに小さな扉が開いているのを発見したが、勝手に入るのも憚りがあり、また去りがたくもあり、うろうろ躊躇していると、中から談笑する大きな声が聞こえてきた。2つの観光グループが鑑賞回遊中に発した声であることを確認し、意気軒昂に入場。

中はパティオ風の敷地内に堂や廟の建物が4つ、孔子を祀った大成殿を正面に据え両翼に並んでいた。

案内図

[写真をクリックすると大型に]

天尊廟の中に三国志で広く知られる関羽が祀られていた。学問の象徴が孔子であるのに対し武の象徴が義に生きた関羽である。しかし孔子廟はともかく、この関帝廟(中国人は関羽を祀る霊廟をそう呼んでいる)は中国ではポピュラーでも日本では馴染みもなく、横浜中華街のような中国人街にあるだけである。早速訊いてみることに....

やはりこちらの至聖廟は日本人が学問所のそばに建てたような孔子廟ではなかった。現在地より南に2ブロックくらい下がった場所に久米という地区があり、昔は中国皇帝からの正使や派遣された中国人がそこに居留し、時代が下るにしたがい自然に住み着いていったとのこと。そこで建てられた孔子廟だったが、太平洋戦争で全焼失し、1975年に現在のところに復元したようである。孔子廟ひとつの背景でも歴史の永さと戦火の大きさを感じさせられる話であった。

孔子廟を後にし、そろそろ探索も終わりにしようとまっすぐ国道58号線の方へと足を向けた。夕暮れが近いというのに暑さはいっこうに衰えない。久米南の交差点を渡ると右側に「かき氷」の文字を見つけた。店の名は ”千日” という。躊躇なく店に飛び込む。

やや広めの食堂といった感じで丸テーブルに真っ白な椅子が涼しげに並ぶ。扇風機がゆるゆると回っていて、気さくでのんびりとした雰囲気だ。セルフサービスなので厨房カウンターに行き、数種類あるかき氷のメニューから「氷いちご(300円)」をオーダーする。創業は50年以上も前でぜんざい中心のお店らしい。

氷の掻く音が心地よく、あたりの暑気をはらってくれる。「できました!」の声に誘われ、カウンターまで取りに行くと大きな山のようなかき氷が待っていてくれた。口の中でほどけて溶けてゆくその冷たさは、なによりの御馳走だった。
泊港から始まった「ちょぼちょぼ旅」も本日は店じまいにしよう。


「波之上宮」のガイドページへ


千 日

住所 那覇市久米1−7−14
電話 098−868−5387
営業時間 11:30〜20:00
        月曜定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩15分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車1分
 車 那覇空港より 15分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点の
    手前左手)

沖縄の幹線道路とも云うべき国道58号線からやや西に入った所に、松山と久米を分ける通りがあり、その一画に、緑がこぼれるように多い場所がある。片側には”福州園”、もう片側には福州園に倍する松山公園が横たわる。

福州園を囲む白亜の壁の上から高い樹林が顔を出し、緑をばらまいている。壁には等間隔に花窓のような透かし彫り窓がうがたれ、庭内の様子をうかがえるようになっている。入口では石造りのシーサーが訪問者を迎えてくれる。

入場料は無料だが入口で記帳を求められる。1992年9月開園当初は入場料300円を取っていたようだが、現在は無料。

一歩入るともうそこは小中国だった。東京の大名庭園に慣れてしまった目には、異彩を放つ中国庭園がすこぶる新鮮に感じられた。

設計から石材まで那覇市の友好都市である中国福建省福州市の手により造園されている。

庭園の造形は福州市を模しており、三山・二塔・一流を表現し四季の変化を感受できる贅沢な造りである。山などの高低変化、水の動と静の変化、草花樹林の四季変化。観る者の視点で千変万化する庭に仕立てられている。三山のひとつ ”冶山(やざん)” から流れ落ちる滝の裏にさえ、洞窟を設け砕け落ちる水のきれぎれに滝前の ”飛虹橋” を眺めることができる。

2500坪の庭園全域の隅々にまで堂、橋、塔が設置されているが、それらの細部に中国の匠の技が発見できる。堂の廂(ひさし)、門の飾り、橋の欄干を飾る石像、透かし彫り窓、石柱彫刻....挙げたら限りがない。

観光客もそこそこいるのだが一か所で混み合うこともなく、ゆっくりと自分のペースで回遊できるので2周もしてしまった。最初の一周では景観を、次の一周は上記写真にある細部まで精巧なつくりを鑑賞。2周目の終わり頃になり、気がついたことがある。東京の大名庭園と雰囲気が大きく違うのは、中国風建築物のせいばかりではなく植栽されている草花樹木がまったく違うことにも原因があると云うことである。

東京にある庭園や公園は梅から始まり藤、つつじ、牡丹など定番の花で季節を楽しむのだが、ここの庭園にある植物はまるで違うのである。

例えば黄色いラッパのような花をつける ”キバナキョウチクトウ” は温室栽培の花だが、ここでは戸外の庭園で平然と咲いている。また6月頃より花が咲き盛夏過ぎに実をつけるはずの石榴(ざくろ)がすでに実をつけているのである。亜熱帯沖縄の魅力のひとつを発見した思いだった。

”ツワブキ”という植物がある。沖縄では”ちいぱっぱ”と呼ぶらしい。花を見るより大判で艶のある葉を愛でる植物である。波打つ白壁に沿って群生している”ツワブキ”の、なだれ落ちるような葉が印象的だった。そろそろ閉園時間になる。本日のちょぼちょぼ旅も店じまいにしよう。


「福州園」のガイドページへ

本日は一日オフになったので、午前中はマンションホテルのバルコニーで日光浴をしながら読書をする。昼前には出掛けるつもりだったのだが、読み始めたスティーヴン・キングが止まらず、午前中は目一杯日光浴となってしまった。

午後一番には首里に向けて行動開始。いつものように「おもろまち駅」(ゆいレール)を利用し初めての「首里駅」を目指す。10分弱で到着した「首里駅」でバスを利用するか徒歩にするか、一瞬迷ったがやはり徒歩で首里城に向かう。駅前から首里城を通り那覇市街中心部へと伸びる県道29号線。駅近くの鳥堀の交差点を突っ切りその県道をひたすら首里城のある西の方向へ歩き続ける。

首里城も見たいが、その前に行きたい場所がある。金城町の石畳道(いしだたみみち)だ。城の南から始まる坂道で、戦争でも唯一戦禍を免れ歴史を忠実に残している場所なのだ。

それにしても暑い。梅雨のはずだが、沖縄到着以来1週間経つが雨など見たことも無い。15分ほど歩くとやっと左手に深い緑の池が見えてきた。”龍譚(りゅうたん)”と呼ばれる細長い池が、首里城の懐近くまで入り込んでいる。首里城の上部だけが池の向こうにうっすらと姿を現した。

池に見とれていて通り過ぎてから気が付いたのだが、県道の右側つまり龍譚池の北正面に樹木に囲まれた古い館があった。案内の看板を読むと旧県立博物館の建物(写真左上)であった。新しい県立博物館は筆者が逗留しているマンションホテルのある新都心”おもろまち”に新築されている。

周りの石垣などに興味が湧き、うろうろしていると次のようなことが分かった。もともとこの場所は琉球王朝時の世子が住む御殿のあったところで、明治12年(1879)の廃藩置県で城を明け渡した尚王一族が移り住んだ場所でもあった。やはり徒歩の旅には発見が多い、時間と体力は必要だが...

龍譚の少し先から回り込むルートで石畳道に連なる真球道(まだまみち)の入口にたどり着いた。その道に入りしばらく行くと急勾配の坂道があらわれ、石積み階段になっていた。住民はこの坂を島添坂(しましーびら)と呼ぶ。

階段は樹木の青葉に蔽われてアーケードのようになっていて涼しげに見える。この道を下って行くと赤マル宗通りと交差するのだが、そこから先300mほどの道を石畳道と称している。

頭上にかぶる緑のアーケードの石段を抜けると視界が広がった。城下町が目の前下方に現れ、現在地がかなりの勾配を持つ高所であることがたちどころに実感できる。

琉球石灰岩を丁寧に敷き詰めた道は艶消しの風合いを持ち、両側に建つ住宅の赤や白縁の瓦と相まって観るものを立ち止まらせるような景観を生成する。

浮き上がる光と影の濃淡の中、白い石畳道がずっと続いている。

(石畳道の続きへ)


「金城石畳道」のガイドページへ

つやの無い白い琉球石灰岩を敷き詰めた長い坂道をゆっくり下って行くと金城ダム通りにぶつかる。

そこが石畳道の出入り口(写真左)になる。首里城に戻るには、ここでUターンし300m以上の坂道を上らねばならない。

楚々とした美しさがある石畳道だが、華美からは対極にある。

ややもすると単調になりがちな道に南国の花と鮮やかな屋根瓦が良い添景になっている。

石畳道沿いに 「首里殿内」 という店があるが、この沖縄料理店は敷地内に”泡盛”と”民族”というふたつのテーマを持つ資料館を有しており、食事客以外にも開放している。


石臼と石垣で組み上げられた門をくぐると、300坪ほどの園内に池や資料館があり、泡盛資料館には古酒をはじめ1000本もの泡盛が展示されていた。休みがてら、のぞいて見るのも一手。

再び坂道を上るが、なだらかに見えた坂も昇るにつれ、傾斜がしだいにきつくなり汗が流れ落ちる。建造から500年以上も経つこの石畳の坂道を、いったいどれほどの人馬が行き交ったのだろう。

行程の半分ほども上っただろうか、暑さとタフな坂道でダウン寸前の筆者の目の前に 「金城村屋(かねぐしくむらや)」 と書かれた建物が...

下りてきた時には特に意識もせずに通り過ぎたが、この地区の公的建物を休憩所として開放したものであった。じりじりと太陽に灼かれながら急坂を上る身にとって、これほどありがたい休憩所はなかった。

人心地つくと、今度は猛烈な喉の渇きを覚え自販機探しの路地探索を始める。自販機で求めたよく冷えた水を片手に、近所を歩くうち、金城樋川(かねぐしくひーじゃー)という湧水の水場を発見。昔からこのあたりの広場で、坂の往来をする人馬が水を使い足を休めたという。さきほどの休憩所がちょうど石畳の坂道の中間点になるらしい。

敢然と後半戦の行程に向かったが、ますます坂は勾配を増し、水分を補強したせいか汗は噴き出す有様。下りるときの風景を楽しむ余裕など微塵もなくなっている。ほとんど倒れそうになった頃、例の樹木が覆う緑のアーケード階段にたどり着いた。木陰のありがたさを、これほど実感できるとは想像もしていなかった。

ぼろぼろヨレヨレになって、やっと出発点の入口に上り着いた。日頃恵まれすぎた環境にどっぷり浸かっているため、完全に野生の遺伝子は退化してしまったようだ。


「金城石畳道」のガイドページへ

ハーフライティングにした部屋で、ガラスの妖しい色が交錯する。かなり広めの部屋だが、パーティションはまったく無く全域をすみずみまで見渡すことができる。抑えめにした照度の展示室で、ダウンライトやディスプレイ台そのものの照明などで、鮮やかに浮かび上がるガラス工芸品。

ラピスラズリ(青金石)を思わせる瑠璃色の大皿が深い青色で周りを染める。真っ赤に見えた花器が近づいて見ると黄色がかった茜色に変わり、さらに立ち位置を一歩動くと紅に変化するといった具合。

ここは琉球ガラス村にあるガラスギャラリーの展示室である。展示室の作品は販売されてもいるが、公募展などで受賞した作品などを含むため撮影が禁止されていた。ここでご覧いただけないのが残念だが、その様々な光と色が網膜に焼き付いてしまうような経験であったことを付記しておく。

ガラス村はエリア内にギャラリー、ガラス工場、ショップ、レストラン、陶器工房などの施設を有している。
    

施設をサラッと観て回ったが、最初に飛び込んだギャラリーの一部作品がとても素晴らしくて印象に残り過ぎたせいか、ショップのガラス製品や他にはほとんど食指が動かなかった。

むしろ施設まわりに施された単なる飾り効果の円柱や壁画のモザイク張りの方が楽しめた。外の回廊のベンチでひと休みした時、ちょうど夕暮れになる直前の陽光がそれらに当たり、装飾以上の効果を演出していた。

喜屋武岬への遠征から始まった一日もようやく終わりが近づいてきたようだ。糸満バスターミナル経由で那覇まで帰らねばならない。バスの連絡も潤沢ではないので、そろそろお神輿をあげよう。

「琉球ガラス村」のガイドページへ


再び南部にやって来た。那覇BT(バスターミナル)から50分ほども乗ったろうか、垣花(かきのはな)というバス停に着いた。垣花は前に訪問した本島南部東海岸の知念岬の少し南に位置している。

この場所には日本最南端の名水百選と謳われている”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”という湧水場がある。本日の第一番目の目標地にしたスポットだ。案内板に沿って路地を歩くが周りは民家もまばらで大自然の中に家が点在しているような地域である。

垣花城跡

途中に ”垣花城跡” があった。しかしその場所には石碑が建っているだけで、城郭跡のようなものは一切見当たらない。

記録には2500坪を超える城郭とあるが、今は郭跡のような平地に熱帯樹が繁茂しているだけであった。

そこを過ぎて、なおも行くとログキャビン風のカフェ 「風樹」 にぶつかった。


案内板に従い左へ道なりに進むとまもなく”垣花樋川(かきのはなひーじゃー)”へと下る坂道の入口が現れた。坂道は琉球石灰岩が敷き詰められ勾配も急である。両脇をガジュマルやアカギなどの樹林の葉が覆い、坂道に涼しげな木陰をつくっている。ちょうど首里金城の石畳道のような景観である。

                         坂の途中で入口方面を振り返る

坂道には1本の太いケーブルが打ち捨てられたように置かれ、延々と坂下まで続いている。後で分かったのだが、この管は湧水場から汲み上げられた水を上の集落へ運ぶ送水管であった。

分厚く凹凸のある石灰岩なので慣れないものには足元が安定しない坂道だ。また石灰岩は濡れると滑りやすく皮靴やハイヒールの使用は怪我のもとになる。

注意深く降りるうち、足元が明るくなり周りの視界が一挙に広がる。その場所は太平洋に面した山の中腹斜面にできた自然の小広場であった。

広場の小高いところに清水が音をたてながら溢れ出ている水場が2か所ある。左が女川(イナグンカー)、右が男川(イキガンカー)と呼ばれ、昔は名の示す通りそれぞれ使い分けていたようだ。

その清水が流れ込む水だまりが小池となっている馬浴川(ンマミシガー)には沢ガニなどが住みついていた。渇水の地として長い歴史を持つ沖縄では、貴重な生活用水を得られる湧水場として昔より大事に守られてきた”垣花樋川”。

  写真左:男川 写真右:垣花樋川からの眺望(中央の小池が馬浴川)

山肌から湧きだす水が単調で眠気を誘うような音を立てている。水の音には独特の振幅数が含まれるのか、気持ちを落ち着かせる効果がある。樹齢古いアカギの幹には蔦(つた)が絡み、鬱蒼とした緑の中に可憐な野花がところどころ色を添えている。

名高い観光スポットにもかかわらず施設などは一切無く、昔日の自然がそっくり残っている。沢ガニを捕まえたり水遊びに興じたあとは、水の音をBGに一面の海を眺める。のどが乾いてもふんだんの名水が目の前にあり、ペットボトル入りでない自然から直接享受できる水のなんと甘露なことか。そんな極上の時間をたっぷり味わった後、すっかり重くなった神輿(みこし)を上げた。さあ気合いを入れ直して急坂の道を登らねば...

やはり急坂の登りはかなりタイトなもどり道だった。一気には登りきれず、昔行き交った人々と同じように途中の休み石で一息入れながらの復路となった。

往路で目印になったカフェ 「風樹」 だが、トイレなど施設の無い垣花樋川へのベースキャンプとして活用できるのでご紹介しよう。全体が空間たっぷりの木造りで、内装は大きな居間を思わせる落ち着きがあり居心地がよい。テラスや2階のバルコニーなど自然とも調和し、眺望は素晴らしい。カフェとなっているが14:30まではランチもでき、もちろんスイーツやかき氷も楽しめる。


「垣花樋川」のガイドページへ


カフェ 風樹

住所 南城市玉城字垣花8-1
電話 098-948-1800
営業時間 11:30~18:00
お休み 火曜定休
駐車場 10台
交通
 BUS  那覇BTから50分(百名線39号)−バス停 「垣花」 下車5分
 車 那覇空港より 40分(国場から与那原町経由南城市を目指す−県道137号線を垣花まで)

”新原ビーチ”から”玉泉洞”へと至るコースは、車で行けばものの10分ほどの距離だ。しかしバスで行こうとすると、これがやっかいなルートになる。直行するバスルートが無いため、まず百名方面へ歩いて少し戻り、百名出張所というバス停から長毛まで行き、玉泉洞線82番ルートに乗り換え終点まで行く面倒なコース。

バス停 「長毛」 前の雄樋川

手間もかかるが時間はもっとかかる。バスの待ち合せ時間が思うようにならないからだ。しかし待っている時間を有効に活動してみたら、いくつか発見や収穫もあった。

百名では「焚字炉(ふんじろー)」というものを発見した。名前の通り[字を焼く炉]で、字の書かれた不用紙を路上などに捨てず、敬意をもって処分するよう造られたものである。

4枚の石灰岩平石で組んだだけの簡素な造りで高さ1mくらいの炉だ。これも中国からの冊封使の影響によるもの。


また長毛ではバス停の前を悠然たる雄樋川が流れており、バスを待つあいだ、この川沿いの散歩がけっこう楽しめた。川のせせらぎに押されるように足にまかせてぶらつくだけの、のどかな散策である。

終着のバス停 「玉泉洞前」 に下り立ったが、停留所のある県道17号線のあたりはがらんとした風景が広がっていた。がらんとしているが殺風景ではない。「おきなわワールド」のゲートを過ぎると正面口まで整然としたアプローチがしばらくつづく。

                 「おきなわワールド」の正面口、美しく整備されたアプローチ

園内に一歩入るとがらりと空気が変わり、観光地特有の雑然とした景観の中に人が溢れかえっていた。

広大な敷地内にはテーマパークらしく、鍾乳洞の ”玉泉洞” を目玉に、”ハブ博物公園”、沖縄各地から移築した古民家集落、伝統工芸工房から”熱帯フルーツ園”まで設けられ渾然一体となっている。

観光客向けと云わんばかりの雰囲気に少々げんなりとし、一路”玉泉洞”へと急いだ。

ゲームセンターかと見紛うばかりの ”玉泉洞” 入口を通り抜けながら、秋芳洞の10分の1でも情緒がほしいなどと考えていると視界に留まったものがある。シーサーのレリーフだった。鍾乳洞内につづく回廊の壁にずらりと飾られていた。それらの表情に妙に惹かれ、見逃したシーサーを鑑賞するため入口近くまで戻ってしまった。

沖縄では門柱や屋根、路上と当たり前のようにシーサーが居座っているが、旅行者にはもの珍しいオブジェに映る。魔除けの風習として歴史が長いので、その形体やデザインなどの意匠は千変万化しており、沖縄旅行の楽しさのひとつにもなってくれる。

 玉泉洞の回廊を飾るシーサーのレリーフ

玉泉洞は全長4.5 kの鍾乳洞で、現在のところ国内7番目の長さになる。そのうちの890mだけが一般に公開されている。入口から入ってすぐのところにある「東洋一洞」が最大の見どころと云われ、広さ高さともに東洋一で美しいと案内にある。

洞内に入るとひんやりとしているが湿度が一気に跳ね上がる。鉄パイプを組み上げた階段が下方に連なっていた。薄暗がりに目が慣れてくると、淡い照明の鍾乳洞が浮き上がってきた。「東洋一洞」は確かに広く天井も20mの高さで伽藍を思わせる佇まいだ。


珊瑚を主成分にした琉球石灰岩の溶食は、他の鍾乳洞に比べ石筍の成長が速いようだ。自然が悠久の歳月をかけて創りあげたさまざまなオブジェが洞内890mに展開する。

つらら石の「槍天井」、大石筍の林立する「東洋一洞」、巨大なリムストーンの「黄金の盃」、洞壁から浸み出した硬水や湧水が溜まった「青の泉」、洞内に設けられた「古酒蔵」。

それほど歩いた感覚のないまま出口のエスカレーターに到着してしまった。身体にまとわりつくような湿気のなか、全行程を泳ぐように歩ききっていた。

玉泉洞を出ると、そこから出口まで熱帯フルーツ園、ショップ、古民家の工芸工房などがびっしりと並ぶ。出口近くで人だかりがしていたので潜り込んでみたら、なんと全身真っ白な大蛇。やや苦手なヘビだが、この錦ヘビは特におとなしく神々しい容姿をしている。思わずカメラを手にしたら、隣に立っていた女性スタッフから 「撮影は1000円、いただきます!」。

なんともたくましいではないか、やはり観光地はこうでなくっちゃ。


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ホテル万座ビーチリゾートを早々に退散し、ビーチ沿いに次の目的地「万座毛」へと出発した。万座ビーチの砂浜が桟橋までつづき、その先は岩場があちこちにある浜辺に変わる。そのあたりが恩納漁港海浜公園と呼ばれている。

58号線に近くなったところに恩納漁港があった。港には漁船よりもマリンクラブの船があちこちに係留してあり、この時も珊瑚礁シュノーケリングのグループがまさに出航するところであった。

恩納漁港で出航準備中の珊瑚礁シュノーケリンググループ

国道58号線に出るとすぐ橋にぶつかった。

橋むこうのたもとには沖縄特有の墓石が川に沿うようにたくさん並んでいた。

今ではすっかり見慣れた可愛いミニチュアハウスのようなお墓だ。

お墓の密集地区を横目に橋を渡ると、やっと万座毛入口の信号にたどり着いた。


信号から北へまっすぐに伸びた一本の道は、ず〜〜〜っとなだらかな上り道。

海がまったく見えない細いなだらかな上り道をただひたすら歩きつづけて15分。やっと坂道の上まで到着すると、そこは駐車場とおみやげショップが混然一体となった広場だった。

この広場の先には風光明媚な万座毛があるはずだが、静けさなぞ微塵も感じられないほど観光地然としたその軽すぎる雰囲気にすっかり出鼻をくじかれてしまった。

しかし雑然と軒を並べる おみやげ屋を抜けると、一面に緑の絨毯を敷き詰めたような草原台地に出ることができた。

隆起した石灰岩礁に自然群生するというコウライシバが、岬先端の台地を眩しいほどの緑色で塗りつぶしていた。

この草原の整備された遊歩道に沿ってそぞろ歩くと岸壁の淵へと向かう。

淵から覗き込むと海上から20mはありそうな眺望で、海が見せてくれる青というひと言では表現できない複雑で深みのある色は何にも代えがたいものであった。

自然だけが創れるアートである。


沖縄へ来て一ヶ月近くになるが、のんびりと行くちょぼちょぼ旅を心がけていると一定のパターンが生じてくる。一日の行程で一番時間をかけてしまう場所が必ず一か所はあるということ。

そしてその場所を本能的に嗅ぎ分けることができてくる。訪問時間をバランスよく振り分けることがどれほど無意味なことかが解ってくるのである。

この万座毛はそのウエイトをかけるべき訪問場所のひとつであった。

万座毛から臨む東シナ海の眺望

岬の先端域は狭くて凹凸の変化が多いというのが通常だが、この万座毛はその名が示すように万人でも坐すことができそうなほど平坦で広々としている。東シナ海の眺望が素晴らしく、逍遥を可能とするこの草原台地は中空のテラスと云える。

遊歩道を歩くだけでも様々な角度からの眺望が楽しめ、海の表情が大きく変化する。さきほどまでいた万座毛のビーチやホテルが対岸に遠望でき、全景が掌にのるほど小さくなっている。また緑の台地もコウライシバだけではなく、見たこともない植物を発見できる..らしい。

白い花弁が可憐な野菊があちこちに咲いていた。熱心に植物を観察していた初老の紳士に尋ねると、海岸崖地にだけ咲く ”イソノギク” だと教えてもらった。またこの草原地にしか群生しない花も鑑賞できると詳しく説明を加えてくれる。聞き慣れない名前をたくさん教えてもらったのだが、覚えられたのは ”イソノギク” だけだった。

たっぷり2時間以上、この青と緑が充満する中空テラスで過ごしたあと、再び南下の旅を始動させた。


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沖縄滞在中にある案内告知が目にとまった。サルバドール・ダリの彫刻作品が33年ぶりに沖縄へ戻るという。1975年に開催された沖縄国際海洋博のためにダリが制作した作品で、スペインから期間限定の里帰りになるらしい。

展示されている場所は北部の本部半島(もとぶはんとう)西海岸にある海洋博公園ということだった。どうしても一目見たくて、中北部探索の旅を一時ストップし急遽北部へ向かうことにした。

那覇から北部までのバス旅行はさすがに距離があり、まずは名護BTまで行き、そこで乗り換えて海洋博公園を目指す。片道3時間という南北縦断の気のなが〜い道のりである。

すっかり午前中の日課になってしまったバルコニーでの日光浴や読書を断念し、早起きし一路「名護」へと出発。今まで何日もかけて歩いた恩納村の海岸線を窓外に眺めながら約2時間、名護のバスターミナルに着いた。

山入端(左)と崎本部(右)の美しい海岸線

一服する間もなく、出発しかけていた本部半島線のバスにあたふたと乗り換えた。バスは国道58号線から国道449号線に進路を変え、本部半島の海岸線を西へと走る。途中に通り過ぎた「山入端(やまのは)」や「崎本部(さきもとぶ)」などはあまり知られていないが、恩納村の海岸線と比べても甲乙つけがたいほど美しかった。

乗り合わせた乗客が皆降りてしまい、車内が筆者ひとりになった。これ幸いに後部座席をルンバ(円盤型の自動掃除機)のごとく渡り歩き、写真を撮りまくっていると運転士から声をかけられた。

てっきり危ないから車内では動き回らないようにとの注意かと思っていたら、想像だにしていないことを質問されてしまった。 「海洋博公園の水族館へ行くんじゃないでしょうね?」と。

質問の真意がわからず、「いえ、そのつもりですが。何か問題でも?」と答えると、このバスはそこまで行かないという。乗った本部半島線という路線は正しかったのだが、ルートがふたつあると説明をしてくれた。

ひとつは本部半島西海岸沿いの外周を巡り海洋博公園経由で名護BTへ戻るルート。

もうひとつはずっと手前の内陸を循環し名護BTへ戻る今乗っているバスのルートである。

海洋博公園に一番近いバス停の浦崎で降りることになってしまった。よくよく歩くことに縁ができてしまったようだ。

しかし親切に声をかけてもらわなければバスターミナルへ戻っていた。


これこそコミュニケーションツールの原点 「人間言語」だと痛感。ツールなど無くても気持ちさえあれば会話は成立するのである。

東京の都バスなどでは味わうことのない経験で、少しだけ豊かになった気持ちを胸に海洋博公園を目指し歩きのスタートをした。バスを降りる際に聞いた話から40分ほどの歩きを覚悟していたのだが、15分ほどで南ゲートに到着してしまった。

おそらく彼の案内はバス停のある正面ゲートまでの距離だったのだろう。ダリを展示してある海洋文化館も正面ゲートに近いが、委細かまわず南ゲートから入園することにした。

公園内に入り最初に迎えてくれたのが熱帯・亜熱帯都市緑化植物園。都市建設や建設計画策定に大活躍していそうな堅いネーミングだが、園内はいたって柔らかで視界に優しい造園設計になっている。

                    動物型トピアリーのある ほのぼのとした装飾庭園

動物型に刈りこんだトピアリーや迷路のような生け垣は、まるでスタンリー・キューブリックの映画 「シャイニング」を想起させる。

が、そんなことを連想するのは一部のマニアックだけで、一般的にはファミリー向けの情景と云える。

この植物園の最大の特徴は台風や潮風などの害に耐性があり亜熱帯地域に最適な植物を、高木・低木・ヤシ・ツタ・芝などの地被類などに分け、見やすく判りやすく植栽展示していることだろう。

最初は樹木にあまり関心が無く、軽く見物がてら通り過ぎるつもりでいた。

しかし高木区域のアカギやガジュマル、ヤシ区域のアダンやココヤシと見学するうちにすっかり引き込まれてしまい、園内を歩き回ってしまった。

屋外の植栽展示のためか、敷地が広すぎて植物園の境界域がわかりにくい。あとで判明したのだが、この植物園の敷地は東京ドームをふたつ合わせた広さだった。

この広大な植物園を一通り見終わる頃には、見やすく判りやすいためか相当な知識が吸収できた気になる。ただ惜しむらくはせっかく仕入れた知識だが、一年も経たぬうちに記憶の彼方へと消えているに違いない。

1時間ほどで植物園をあとにしたのだが、強く印象に残っていたのは つる植物見本区にあったバーゴラの風景だった。バーゴラというのはブドウとか藤などのつる植物が生育できるように設置された棚のことである。

曲がりくねったプロムナード上に造られたバーゴラから下がる見慣れぬ植物のつる。逆光のもとで垂れ下がった”つる”が光る雨のように輝いていた。


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ダリの彫刻展示の告知に誘われやって来た海洋博記念公園だったが、南ゲートから入園したため公園南部にあった熱帯・亜熱帯都市緑化植物園を見学するうちついつい夢中になってしまった。

そこから蘭の楽園と云われる熱帯ドリームセンターへ向かう途中に、汐見台という高台があったので何気なく上ってみると思いのほか大観だった。

汐見台からの眺望

15段ほどの階段を上ったにすぎない高台だが、東シナ海が180度展開しており、瀬底島(せぞこじま)まで遠望できた。

北部では最北端の辺戸岬(へどみさき)に次いで行きたいと思っている瀬底島だ。

橋の先に浮かぶ瀬底島の島影が、碧くけぶった水平線上で はかなげに見える。

彫刻展示をしている海洋文化館のある中央ゲート方面へ歩いていると、旧約聖書に登場する ”バベルの塔” のようなタワーが立ふさがるように中空に現れた。

灯台とか塔など高い建物を見ると、いつも足が勝手に動いてしまう。子供の頃から木登りが好きだったが、この性癖にも困りものだ。一生治らない気がする。

”バベルの塔” に登るためには、蘭の楽園らしい屋内植物園 「熱帯ドリームセンター」に入場しなければならないことが判明。 頭の中ではあまり関心のない蘭や速く逢いたいダリの彫刻のことが浮かんでいるのに、「塔の上にも登れますよ」 と聞くや手が勝手に入場券を買ってしまっている。

5つの温室に池やパティオなども有した巨大な花園であった。中でも蘭に関しては特に充実していると評判。

あまり関心のない蘭だったが、繚乱と咲いた色の洪水に驚いたと云うのが正直な感想だった。温室がむせ返るような空気の中で多種な色の蘭で彩色されている。

紫や黄色とひとことで云っても、直に見る色はそれぞれに複雑で深い色合いをしており、その微妙な美しい色の違いを表現するのに言葉を探さなければならないほど難しい。

紫色をひとつとっても、やや赤みを帯びた ”古代紫”、青が強い ”江戸紫”、そして薄い紫色をした ”若紫” と同系色でもさまざまな色の表情を見せてくれていた。

中でも驚いたのは、ひとつの茎からまったく違う2種の花をつけた蘭があった。背丈は2mを超える1本の太い茎の上部から数本の花茎が垂れ下がって花をつけている。上部にはオレンジ色の花が開き、下部には赤い色の花が数輪咲いている。

         2つの異種の花をつける神秘の蘭

最初は人の手による接ぎ木技術の蘭だろうと観賞していたら、葉影から案内説明板が見えた。早速読んでみると、まったくの自然の産物であることが判った。改めてじっくりと見学をする。

上部の花(花茎が垂れ下がっているので根元に近い花)はオレンジより黄色が立っている”黄丹色(おうにいろ)”に紅の斑点模様で強く甘い香りを放っており、下部の花(花茎の先端部に咲く花)は”薄紅梅”の地に紅のまだら模様で無香。

「ディモルフォキス・ローウィ」という名の蘭で、東南アジアのボルネオにしか自生しないとあった。ボルネオ以外では、なかなか開花しないワンダーフラワーだが、ラッキーなことに今回は開園以来2回目の開花とのことだった。

自然が生み出した2つの顔を持つ神秘の蘭と別れ、バベルの塔 「遠見台」 へと向かう。

水平線が丸く見えた「遠見台」からの眺望

到着すると塔の高さは36mもの高さがあった。まるで巻貝のように、らせん階段が外周のレンガにうがたれていた。

360度の外観を見渡しながら最上階へ。そして頂点で見る水平線は毬のように丸かった。


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サルバドール・ダリの作品にやっと会うことができた。海洋博記念公園の中央ゲートからほど近い場所に建つ 「海洋文化館」 2階の一郭に展示されていた。

ダリの彫刻を収納したガラス・ケースが部屋の中央にたったひとつだけポツンと置かれ、作品のそばにはセキュリティーガードがひとり、静かに脇を固めている。

"Sun God Rising In Okinawa" と題されたダリの彫刻作品

銀色に輝く人魚の形をとった女神が、沖縄の珊瑚に彩られた波間から昇る姿が表現されていた。ダリが71歳の時の作品である。往年のシュールさは無いものの、銀材などを使用しての艶やかさは健在だった。

1975年、沖縄のこの地で開催された国際海洋博覧会に参加したスペインが、自国ブースに展示するため制作依頼したものである。ダリは沖縄が太平洋戦争の凄惨な舞台となったことを承知しており、恒久平和の願いを込めて制作にあたったとある。

今回の展示企画は海洋博以来というから30年以上ぶりの里帰りになる。そんな貴重な作品の出陳にもかかわらず、会場はひっそりとしていた。

本国スペインの彼の郷里フィゲレスにはダリ劇場美術館と隣接した宝飾館がある。

そこはフランス国境に近くバルセロナから電車で2時間もかかるところだが、世界各国からの訪問者が引きも切らず長蛇の列をつくると聞く。

ダリと云えば、あの柔らかくゼリーのようになった時計が枝にかけられた絵画 「記憶の固執」があまりにも有名だが、筆者はなぜか絵画よりもはるかに彫刻や宝飾工芸の方に惹かれる。

シュールなモチーフもさることながら彼の創出する微妙な曲線は観るものを強く引き込む。


建築家のアントニ・ガウディも空中に、えも言われぬ曲線を描き出す。それぞれ世界も個性もまったく別のものだが、曲線の持つ妖しい魅力はジャンルを凌駕する。スペインという地は曲線の天才が生まれる土壌なのだろうか。

驚くことに堪能するまでの40分ほどの時間のあいだ、ただの一人も来場しなかった。ひとりの余人も交えず、ひとつの作品と40分ほども対峙できた経験は初めてであった。しかもその作品は紛れもないダリの彫刻である。

このことを喜んでよいものか、残念に思うものなのか複雑な気持ちが交錯するなか会場を離れた。展示室を出るとき、一言も話さなかったセキュリティーと目が合った。お互いの表情にうっすらと笑顔が宿ったように感じた。

    展示会場になった海洋文化館

※なおこのサルバドール・ダリ企画展は無事終了し、作品も滞在期間を終えスペインに戻っている。現在沖縄関係者により、この作品の恒久的沖縄所蔵を実現するべく努力中とのことだった。

時間が止まったように静まりかえったダリの展示室から出ると、強い陽射しが眼にまぶしかった。展示室のあった海洋文化館から美ら海(ちゅらうみ)水族館の方へ歩くと、周りはしだいに人混みが加速してゆく。

入館するため売券場所まで来たがあまりの混みように気分が変わり、しばらく公園内を探訪することにした。一般の関心は ”ダリ” よりも、どうも ”ジンベエザメ” の方にあるようだ。

正面ゲートの近くにある噴水まで戻るとトピアリーのような動物型植物オブジェが目にとまった。

”ヤンバルテナガコガネ”(左)、”リュウキュウオオコノハズク”(右)

沖縄固有種の”ヤンバルクイナ”をはじめ”ノグチゲラ”など数体がある。

周りを注意して見回すとあちこちにあった。

”マンタ”、”ヤンバルテナガコガネ”など、まるでスタンプラリー状態に距離をとりながら設置されている。

そんなトピアリーを見ながら公園内を散策するうち、「おきなわ郷土村」に着いてしまった。


「熱帯ドリームセンター」を離れた後すぐにぶつかった場所だったが、ダリ作品の観賞を急ぐあまりパスをしてしまったところだ。

知らず知らずに、かなり南まで戻ってきてしまったようだ。ほとんど見学者もいないようだったので、この郷土村を見学することにした。

17世紀頃の琉球民家を再現したものだったが特に興味を引くものは見当たらなかった。郷土史や古民家建築に学殖なき身にはまさに猫に小判だ。

午後も少し深くなったのでそろそろ水族館が空く頃合と踏み、美ら海水族館方面へ向かってダラダラと歩いていると大きく長〜い階段に行きあたった。

階段を下った先はけぶるような青い海、そして水平線上に浮かぶ伊江島。階段を中心にしたシンメトリーが見事に構成されていた。島影まで計ったように対称をなしている。呼吸を忘れるほど異次元の世界だった。

正面ゲートからつづくメインロードの奥には海側へ降りる階段が

誰も来ないことを幸いに階段に陣をとり、i Podを取り出し自分だけの世界の短いブレークをとる。

「世界でどれほどの人が、夢を実現できるのだろう。
           世界でどれほどの人が、叶う夢を腕に抱けるのだろう。

世界中でいったいどれほどの人が、自分の心に正直に行動できるのだろう。
           ほとんどの人は、そんなことも経験しないで過ごすことになるのだろう....」

i Podから流れ出たのはマービン・ゲイの切々と唄いあげるボーカルだった。この曲 "If I Should Die Tonight" が発表されたのは1973年。それから11年後の1984年に、彼は実の父親から射殺され世を去っている。彼が45歳になる誕生日の前日のことだった。

この悲惨な事件からもう四半世紀も過ぎてしまった。眼前のブルーの世界と自動選曲(シャッフル)によるマービンの唄声ですっかり感傷的になってしまった。その時、いきなり7歳位の女の子が目の前に現れた。

音楽に塞がっていた耳には女の子の靴音はもちろんマービンの声以外何も聞こえず、その子の赤い靴が視界をよぎるまで気が付かなかった。

女の子につづいてひと家族がにぎやかに降りてくる。現実に引き戻されてしまった。じっと見ているその女の子に家族にも判らないほどかすかに手をあげ別れのサインを送った。サインを確認したその子は背中を見せるとまた家族の先頭を切るように海の方へ駆け降りて行った。


水族館入口は人の流れや混雑がようやく落ち着いたようだ。

一段と高い水族館前から眺める海面上には、まだまだ衰えを見せない太陽が中天に居座っていた。

入館するとそのフロアの先で、ひとかたまりの人の群れが水槽を取り囲み何やら熱中している。

近づいてみると浅い水槽内はヒトデばかりがまるで置物のように陳列されていた。

星形からほぼ円に近いものまで形は様々で、色は自然ならではの彩色で文章表現域を超え、写真撮影でも伝え切れない微妙な色合いだった。

このコーナーは触れあいの水槽 「タッチプール」 とあり、夜店の金魚すくいと同じような水槽である。いつまで見ていても生きて活動しているとはとても思えないほど沈黙している生物だ。

さっそく水の中に手を入れヒトデに接触。いやな感触ではなかった。触れてはじめて生きているように感じとれた。また上から見下ろすばかりではない違った姿も見れ、次から次へと接触。

気が付くと周りは子供だらけでバツの悪さを覚えたが、今さら気取っても完全に手遅れである。

海底回廊のアクアルーム

水族館は建築面積約10000平米もある4層構造の大きな建物である。

入口は3階より入館し下層へ見学しながら1階出口へと出る順路になっている。ちなみに4階部はレストランとイベントホールのみである。

前述の 「タッチプール」 の後、珊瑚の海・深海の海・黒潮の海と沖縄海域の特性をテーマ別に体感できるような展示がつづく。

そして大水槽上を歩けるようにしたり、深海で発色する生物をプラネタリウムのように観賞したりと工夫されている。

中でも黒潮の海は壮観な眺めであった。


この黒潮の海は高さ10m、幅35mという世界最大級のアクリル大水槽で、8m ものジンベエザメが悠長に泳ぐ。
ジンベエザメは他の水族館でも観ることができるが、複数のジンベエザメやマンタが泳ぐダイナミックな水槽はここだけである。

この水槽の底部に横たわるように透明の回廊が設けられている。アクアルームと名付けられたその回廊にしばらくいると、まるでダイバーになったような感覚に陥る。

館内が少々混雑していたということもあり、かなり早足で回ったが、いくつか印象に残る個性的な生物たちと出会うことができた。

その中でもひときわ心証の良かった魚をひとつご紹介しよう。名は”ねずみフグ”という魚で、表情がなんとも愛らしい”ハリセンボン”の仲間だ。

実はこの魚は那覇の公設市場内にある魚屋で見かけていた。可愛い表情なので憶えていたのだ。泳いでいるのは初めてだったが、生きている方が数倍おもしろい。興味心が強いのか人懐っこいのか水槽ガラスに近づくと寄ってくる。

”ジンベエザメ”よりこちらの”ねずみフグ”の方にたっぷり時間を使ってしまった「美ら海水族館」だった。

      すぐに寄って来てくれる愛嬌たっぷりの”ねずみフグ”


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真栄田岬を訪れたついでに「琉球村」に寄ってみた。今まで恩納村まで出かけるたびにバスの窓越しに見えていた「琉球村」だった。

建物内に入ったが内部はショップやレストランばかりの明らかに観光客目当てのものばかりが並んでいる。

文化の香りなぞ、かけらも見当たらない。中ほどに「琉球村」の入口が設けられていた。

建物内部が二重構造になっており、観光客向けのフロアを通らなけらば「琉球村」に入れない商売っ気の強いつくりなのである。

Uターンして他を回ることも頭をよぎったが、真栄田岬で時間を使い過ぎていたため陽射しも傾き始めていた。仕切り直しをするほどの時間は残されていない。今日は流れのままで行こう。

入口横で入場券を求め「琉球村」に入場すると、入口から細く地味な一本道がつづき石垣にぶつかりながら右へ大きくカーブしているのが見える。観光客向けのフロアの雰囲気とは一変していた。

壁を埋め尽くす魚の絵

単なる石垣と思っていた壁にはすごい数の魚の絵が描かれており、ほのぼのとした いい味の絵ばかりだ。魚名も沖縄での呼び名が書き込まれているので、ゆうに100を超えるこれらの魚介類はすべて沖縄の海で捕れるのだろう。

「琉球村」のメイン展示は築100年以上の古民家であるらしい。200年も経つ旧中曽根家では上がり込んでお茶も飲めるらしく、すでに先客がおさまっていた。他の古民家でも機織りや紅型、藍染めなどの教室が開かれている。

琉球音楽をやっている旧島袋家の向こうには池が設けられていたが、古民家の見学よりもなんでもない池のほとりの一風景に惹かれた。

                  池の近くにはこんな情景も

7軒の古民家の終わるところにあったのは小規模ながら製糖工場。その前で さとうきびを搾る砂糖車を曳いている水牛が古き良き琉球を偲ばせる。

そして順路の最後は沖縄の陶芸 ”やちむん” だった。細長く横たわる陶芸工房の中では焼き物の制作も触れることもできるが、触る程度で焼き物が判るはずもなくサラリと見学。

興味を覚えたのは屋根の赤瓦に飾られた作品の数々。すべてこの工房で創られたシーサーばかりだ。実にユニークな作品が多く、「琉球村」で一番気に入ってしまった。

さらりと回ったためか、あっという間に見学が終わってしまった。しかし長い壁画の魚たちや赤瓦の上にいたシーサーたちとの遭遇は良い出会いであった。

日が暮れるまで今すこし時間があるようなので、この山田という町を歩くことにした。「琉球村」のあるところはうっそりと樹林が繁る山間なので、住宅地のある北に向かって歩くことにした。

花にさほどの関心があるわけでもないのに、道端に咲く花がやたらに目につくというのはどういうわけなのだろう。沖縄という環境変化のせいなのか、見慣れぬ花のせいなのか。

東京にいるときは、桜だ、牡丹だ、菊だ、と大向こうをうならす花ばかりを見ていた筆者には、野辺に咲く花が妙にまぶしく映る。また見知らぬ町の民家で舞う風見鶏まで、とても新鮮な情景のように映じていた。


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渡久地(とぐち)港。変わり映えのしない港だった。しかしどこか懐かしさを感じさせてくれる場所でもあった。

港から洋上を眺めると左手に国道449号線の通る本部(もとぶ)大橋が見える。その沖合 7 kmほどのところには水納島(みんなじま)が浮かぶ。

渡久地港、右に見えるのがフェリーの発着する浮き桟橋

本島から橋でつながる瀬底島の右手に位置するこの小島は形状がパンのクロワッサンに似ているところからクロワッサンアイランドとも呼ばれる。

渡久地港は遊泳ビーチを備えたこの可愛い水納島へ渡る連絡フェリーの発着港でも知られ、夏場のシーズンには混み合うという。

フェリーの券売場に行くと、水納島までフェリーで15分だとわかった。

連絡さえ良ければとその気になり、早速タイムテーブルをチェック。


ちょうど高速フェリー 「ニューウィング・みんな」が出発したばかりで、あと2時間も待たねばならない。そこで得た情報によると、水納島には50人ほどの住人が生活しており、学校と灯台と小さな牧場のほかはコンビニひとつ無い人間の手が加えられていない自然のままの小島だという。

かなり惹かれたが、2時間も待ち島に渡ればすっかり陽が傾いて、すぐに戻りの船に乗らねばならなくなってしまう。今回は見送るしかなかった。


このあとは渡久地の町に出て、そこからバスで本部半島の山間部を横断するつもりだ。

港から県道219号へ向かう途中に本部漁業協同組合の建物のそばを通り抜けた。

年輪を重ねた風貌の建物にしばしワンストップ。ここの港が沖縄の ”かつお”漁の漁業拠点であることをはじめて知った。

県道に出て道沿いにのんびり歩いていると目に飛び込んできた文字があった。「山羊(やぎ)専門料理」とある。

沖縄には個性豊かな食材や料理がずらりと並ぶ。「海ぶどう」、「島らっきょう」、「あぐー(島豚)」、「へちま」、「もずく」、「シークァーサー」、「マンゴー(青いマンゴー)」「島豆腐」....など。

本土でお馴染みになっている「もずく」だが、実は国内消費量の95%が沖縄産である。この山羊料理も沖縄特有のもの。歴史がある分、それはそれはディープなのである。

山羊はまだ未体験ゾーンだ。試食をするチャンスが無かったというよりは腰が引けていたと云う方が正直なところか。

悠々閑々といった風情の渡久地の町

琉球銀行の前にバス停留所を発見。海岸線回りではなく、名護から渡久地の半島中央部をつらぬく瀬底線に乗りたかった。

時刻表を見ると20分ほどで連絡する。お茶をするほどの時間は無いので、そのまま待つことにした。

本部半島には八重岳という山麓があり、いくつかの山塊と連山をなしている。

その連山のふもとに名護、今帰仁(なきじん)、本部などの街が形成されているのである。

だから本部半島の市街地は、こぼれるような緑の山並みを背景に前面はエメラルドグリーンの海という夢のような環境が生み出されている。

これから乗るバスはその八重岳を通り抜け名護へと向かう県道84号をひた走るのである。本部半島の高度のある道を揺られ、バスから山間風景を眺めようというのが今回の”もくろみ”なのだ。

またこの県道84号線沿いにはいくつかのテーマパークや名所があるというから楽しみだ。しかしバス旅行を基本ルールに決め込んだ身には、バスを一度降りると次はいつ乗れるか運まかせ。運に恵まれず連絡が悪ければ名護まで歩くことにもなりかねない。

したがって慎重に選定しなければならないが、今日は気の向くまま動いているので下準備などしていない。降りるポイントは直感にしたがいアドリブで決めるしかないのである。不確かな旅ほどスリリングなものはない。

バスがまだこない。20分はゆうに過ぎている。すでに不確かな旅は始まっているのだ。


渡久地港

住所 国頭郡本部町渡久地
施設 駐車場・トイレ

フェリー関連問合せ
0980−47−5179(水納海運)

交通
 那覇空港より 180分(国道58号線を北上−名護宮里3丁目の信号左折し国道449号線に入り北西へ−大浜の信号を右折し県道219号線に 入る−谷茶のバス停を左折し渡久地港へ)

BUS 那覇BT 120分(名護西線20番)−名護BT 60分(66・67番系統瀬底経由循環線に乗り継ぎ)−谷茶(たんちゃ)下車徒歩5分


遅れていたバスが渡久地(とぐち)のバス停にようやく到着してくれた。乗り込むと最後部の席に着き、広い窓外視野を確保する。

バスはこれから八重岳の山間を縫いながら名護へと戻ってゆく。渡久地を出発したバスは山並みへとしだいに高度をあげ濃い緑の風景へともぐり込む。

八重岳入口というバス停が近づいてきた。琉球寒緋桜の名所で日本一早い桜まつり(1月下旬)を開催する名所で、ふもとから山頂にかけての4kmほどの間に7000本もの寒緋桜があるという。今は季節ではないのでパス。

伊豆味パイン園

バスの窓から年代物の建物が見え、壁中に目一杯の文字が躍っている。

「一九二三年 沖縄パインの発祥地」とあり、指がバスの降車ボタンを押していた。

ハワイから苗を輸入し沖縄でのパイン栽培が始まったとされる伊豆味パイン園だった。

古い建物の横に観光客用のショップがあり、そこがパイン園への出入り口になっていた。

小さなショップモールのような一角ではハブとマングースのプログラムまでやっていた。

ただし現在では動物を戦わせるショウは禁止されているのでそれに近いプログラムなのだろう。しかしこのショウにはまるで食指が動かず見送った。

パイン園へ通じる建物に入ると、中はエコ活動中なのかと思うほど薄暗い。パインに絡むジュースから菓子までの商品がところ狭しと陳列されている。そのまま通り抜け建物の裏にあるというパイン園へ出てみた。

山間の一画にある野原のような場所だった。

背の高い樹木が無いので見晴らしはよく、囲われたところにパイナップルがなっている。

以前アメリカにいた頃、知り合いのアメリカ人に聞いたことがある。

「なぜ英語では”PINE−APPLE/パイナップル”って云うの? PINE(松)は形が松ぼっくりに似ているので理解できるが、なぜAPPLE(りんご)なの?」

彼の答は5歳の幼児ほどの説明でしかなく、味がリンゴに似ているとか、リンゴがフルーツの代表的なものだからだと云う。

味など似ているわけがない。たたみかけるように質問をした。

「味も違うし、果肉の食感も違う。果実の繊維質から考えればむしろオレンジの方に近い。なぜ”PINE−ORANGE/パイノレンジ”じゃいけないの?」

返事に困り果てた彼の顔を想い出し、自然に顔がほころんでいたのだろう、横から気さくに声がかかった。「パイナップル、お好きなのですか?」

真黒に日焼けした顔に優しく笑う眼がこちらを見ていた。

最初はパイン園の人かと思っていたら、彼も訪問者のひとりで、どこかで果樹園の仕事をやっているようだった。

彼は今は咲いていないが、パイナップルも花をつけることを伝えたくて声をかけて下さったようだ。

幸いなことに筆者はハワイで観たことがあった。

松かさのような花序に、円筒形で先の方が青紫に染まった花をびっしりとつけていたことを鮮明に憶えている。

私がパイナップルの花を観ていたことを、彼は我が事のように喜んでくれた。


日頃あまり馴染みのないドラゴンフルーツやパッションフルーツのことを質問すると、何でも教えてくれた。

熱心に全身で答えてくれる彼はトロピカルフルーツのプロだった。

彼にお礼とお別れを告げ表に出ると、県道84号線を挟んだ向かい側に面白いものを発見した。

個人宅なのか公的建物なのか判然としない家の周りには神様の像が張り付いていた。家の守りはシーサーと相場の決まっている沖縄に布袋さま? 何とも奇妙な風景に立ち止まり、スナップショットまで撮ってしまった。

県道84号を名護方面へ向かって歩くことにした。むせ返るような緑の山道をしばらく歩きたかったので、バス停のタイムテーブルはあえて無視した。バスが来る時間を知ってしまうと、その時間に縛られてしまうからだ。

強烈な直射日光は射すが、高地のせいか空気はカラッとしている。県道沿いには一定間隔でショップが並ぶ。ちょうど車での観光客が止まりやすい間隔である。

パイナップルはもちろんビニール紐にぶら下げられたまだ青いバナナの大房、とんでもないほど巨木になるガジュマルの苗木、カブトやクワガタなどの虫とショップごとに特徴があった。

機嫌よく歩いていると頭上に名護市の境を示す標識が現れた。伊豆味パイン園から15分くらいしか経っていないのに本部と名護の境界まで来てしまった。

名護市に入ると右手に黄色い建物が見えてきた。「やんばる亜熱帯園」と大書された看板が上がっていたが、やはり入園するほどの気にならずそのまま通り過ぎる。

名護市に入ったことで益々調子が出てきた歩きを止めたのは大きな石燈籠だった。


県道から少し奥まったところにあった石屋さんの作品が偶然目に飛び込んできたのだ。3m以上もあろうかという石灯籠には龍が絡み獅子(シーサー)が伏臥する。

見事な造りの石灯籠がこともなげに敷地の隅に放り出されているから、ことさら目立ったのかもしれない。石灯籠の近くには、これまた何の気取りも無く ”ハナチョウジ” が滝のような花をつけていた。

こぼれ落ちるような花をつける ”ハナチョウジ ”(左) 精密な細工の石灯籠(右)


伊豆味パイン園
(いこいの駅 いずみ)
  2009年リニューアル

住所 国頭郡本部町伊豆味2821-2
電話 0980-47-3601
パイン園 9:00~18:00 無料
駐車場 30台無料
交通
 那覇空港より 160分(国道58号線を北上−名護バイパス(58号線)の白銀橋東の信号を左折し県道84号線に入り北上−中山交差点を直進−右手)

BUS 那覇BT 120分(名護西線20番)−名護BT 30分(70・76番系統備瀬線・瀬底線に乗り継ぎ)−第一ウジュン原下車スグ


    このむせ返るような緑の光景は県道84号線沿いの中山あたり

周りの景色を見ながら歩いているとジャングルにいるような気分に陥る。県道が無ければ確実に方向感覚を失ってしまうだろう。

伊豆味パイン園から県道84号線を歩き、本部町から名護市に入ったばかりの中山地区だ。大自然の中を歩いているようだが、この通り沿いには一定の間隔でショップや観光用スポットがあったりして退屈することはない。

今もまた新たな看板が見えてきた。「OKINAWA ゴーヤーパーク」とあり、水耕栽培されているゴーヤーの菜園らしい。藤棚のようなところからぶら下がるゴーヤーを観ても、あまり感動するとも思えないのでパス。

沖縄そばの前を過ぎた時、山羊(ヤギ)の鳴き声が聞こえ慌てて立ち止まった。

声のした方を振り向くと子ヤギの可愛い瞳がこちらをじっと見ている。

遠目にそば屋があることは判っていたが道の反対側を見ながら歩いていたので視野に入っていなかったのだ。

そば屋の前にまるで番犬でもつなぐように無造作につながれていた。

あまりの人なつっこさにほだされ、しばらく子ヤギ相手に遊んでしまった。

沖縄ではヤギのことを ”ヒージャー” と云う。この沖縄とヤギの関わりは歴史も古く、また深い。沖縄の食文化を語るうえで欠かせないものである。この慣習は本土には無く、日本では沖縄だけのものと云ってよい。

しかしアジア圏ではほとんどの国が常食としており、一般的でないのは日本本土くらいのようだ。沖縄では古くより良質のタンパク源として重宝され、大きい豚は売却用、小さいヤギは家庭用として飼育されてきた歴史を持つ。

しかしディープな沖縄食文化に挑戦するほど食い意地は張っていないうえに、こうやって親しく子ヤギと遊んでしまった。今回の沖縄旅行では間違いなく、この食文化の冒険はパスすることになるだろう。

可愛いので頭などをなでたりしてしまうが、しばらく放っておくと逆にいたずらを仕掛けてくる。思わず店主と交渉して連れて帰りたくなってしまう。しかし連れて返る家がない身なのだ。

名残りは惜しかったが、すっかり親しくなった子ヤギに別れを告げ旅を再開した。

しばらく歩いていると「為又北」と書かれた交差点にぶつかった。北は読めるが為又を何と読むのか。

どんなに想像をたくましくしても ”びいまた” などと読めるわけもない。

漢字をあてないで ひらがなで表記してもらいたいものだ。

左手に「名桜大学」への案内があった。 《キャンパス風景もまた楽し》 である。 「びいまたきた」を左折し寄り道をすることにした。

名桜大学の野球場に着いた頃、空模様が急変してきた。沖縄に来て1ヶ月半だが雨に降られたのは2度だけである。まったく台風にも遭遇しないというラッキーの連続であった。

だが少ない雨だが降ったらすごい。英語でどしゃ降りを 《Cats & Dogs》 と表現したりするが、ここの雨はそんな小動物の可愛らしいものではない。ド迫力のシャワーだ。

一瞬の躊躇もなくUターンし、県道84号線に戻るべく道を急いだ。青空だった中天が今は雲で覆われ白黒映画の一シーンのように見える。片道は確か10分ほどであったはずだから急げば6,7分で県道へ戻れる。交差点には雨宿りの建物が何かあったはずだ。

走ればすぐに戻れるが雨が降らないと走らない、でも雨をシャワーのように浴びるのはいや、まったく我ながら勝手なものである。生来がなまけ者なのだろう。

                          一天にわかにかき曇り大雨が落ちそう

雨が落ちる前に県道84号へ戻ることができた。

しかし空は水を吸い込んだたゴム毬が破裂寸前といった様相だ。

交差点近くにあった「OKINAWA フルーツらんど」という施設に飛び込もうと決め、歩をゆるめスナップショットを1枚。

これがいけなかった。シャッターを押した瞬間にポタ! ボタ! バタ! ザバー!...最悪の直前シーンが右の写真である。

思いっきり走ったが目の前の「フルーツらんど」に飛び込むまでの10数秒で全身が泳いだあとのようにズブ濡れになってしまった。

しばらく亜熱帯のシャワーを眺めながら、子ヤギはどうしているかと考えていた。

困っているのか喜んでいるのか想像をめぐらせていたが、いっこうに雨は止む気配を見せない。

とてもヒマなので入園することにした。入園料は800円もした。


入口を通り抜けると長い歩廊の両側には熱帯植物が空間を占有するように溢れ出していた。トロピカルフルーツばかりが大集合している。

「フルーツらんど」内をゆっくり観て歩くと小一時間ほどかかる。入口の間口に比べ、内部は奥行きも深く結構な広さだった。

パパイヤの未成熟の実がすずなりに

ドラゴンフルーツ、レンブ、パッションフルーツ、グァバ、マンゴー、スターフルーツ、パラミツなどトロピカルフルーツの果樹園が前部を占め、その向こう側に鳥と蝶のエリアがある。

存在は知っていても食べたことのないものばかりが、たわわに実っている。気が向けばこの施設にあったフルーツパーラーで試食をしてもよい。

ところで沖縄ではパパイヤを二通りの食べ方をする。ひとつ目はお馴染みの熟したものをフルーツとして、もうひとつは未熟果の青いものを野菜のように食する。

まだまだ青いパパイヤを千切りにし油で炒めると、沖縄独特の一皿となる。

パパイヤはタンパク質を分解するパパイン酵素を多く含むため、肉などと合わせると柔らかになった肉と食感のよいパパイヤの乙な料理が出来上がるという。

熟したパパイヤにはこの酵素がまったく無くなるので未熟果のみできる料理である。

ところがマーケットに並ぶパパイヤは通常オレンジ色に熟したパパイヤばかり。そのせいか沖縄の個人宅の庭にはパパイヤの木が普通に植わっている。

果園を抜けると「バタフライゾーン」という場所に行きあたり、その入口の歩廊にはおびただしい数の蝶の標本が展示されていた。

蝴蝶園の中では生きた大きな蝶 ”オオゴマダラ” が室内中を舞っている。その頼りなげに飛ぶ蝶を観察しようと、隅に置かれた椅子に座ろうと近づくとすでに先客がいた。

 自由奔放に舞うオオゴマダラ(左) SF映画に登場しそうな黄金のサナギ(右)

何匹ものオオゴマダラが椅子にとまっている。羽を休める蝶を追い立てる気にならず、他を見学するため移動した。蝴蝶園の一隅にオオゴマダラの”さなぎ”が大事に保育されていた。黄金色に輝いていた。まるでSF映画のひとコマのようだった。

バタフライゾーンの右翼にはバードゾーンがあり、フクロウの ”アオバズク” やヤンバルクイナの親戚 ”シロハラクイナ” などけっこうな数の鳥類も飼育されている。

表に出るとすっかり雨は上がっており、ちょうど手頃な雨宿りとなった。バス停に向かいかかったが、雨上がり直後の空気がとても気持ちよく、一気に名護市街地を目指して歩き始めていた。


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早いもので沖縄に来て1ヶ月半も経ってしまった。これくらい滞在するとそれなりに知り合いができるものである。そして些少ながら知識も増えてゆく。

やはり年配の方から教えていただくことが多く、質問の連射にも根気よくお付き合いを頂いている。ときどき困るのは”ウチナーグチ”と呼ばれる沖縄方言にぶつかり何度も聞き返してしまうことだった。そして未だに沖縄方言だけは頭の中で整理はおろか脈絡すら ついていない。

本日の訪問地は北谷(ちゃたん)の町にした。その北谷町にあるアメリカンビレッジやサンセットビーチなどを訪ねてみるつもりでバスに乗った。

フェンスで固くガードされた米軍キャンプ内には軍用車両が

本島をあちこち廻りながら不思議に感じていたのが、本島における米軍施設の多さである。各米軍敷地の広さも半端ではない。

戦後65年もの歳月が流れているにもかかわらず、国道58号線沿いだけでもその占有ぶりは旅行者の目には異常に映るほどだ。

これが日米条約による防衛戦略上のものだと理解しているが、現実の沖縄を見ると占領下にあった沖縄の風景にダブってしまう。

もっとも実際の占領統治下の沖縄はこんなものではなかったと思うが、イメージが同盟というより統治下の占有に近い。

58号線ルートにも占領下の名残りなのか、「航空隊入口」とか「軍病院前」という名のバス停がある。今日訪問しようとしている”アメリカンビレッジ”はこの「軍病院前」が近いが、少し米軍キャンプの周辺を歩きたかったのでひとつ手前の「北谷(ちゃたん)」で降りた。

国道58号線沿いには切れ目なく米軍キャンプが連なっていた。”キャンプフォースター”、”キャンプレスター”、”嘉手納エアベース”と北へつづく米軍キャンプは、いずれも広大な敷地を有していた。フェンス越しに見ただけでも、かくも広き土地が必要なのかと思えるほどだ。

                               バス停 「軍病院前」

軍病院前のバス停に着くと大きな観覧車が見えてきた。観覧車が複合施設アメリカンビレッジの目印だ。

観覧車のある方へ向かうと、小さな川が流れており両側にはショップやシネコンなどの建物が密集している。フードコートにボウリング場まであった。

ショップはアンティークジーンズから輸入雑貨まで幅広く、ウィンドウショッピングだけでも楽しめるだろう。

食事も方もかなりの種類を網羅したフードコートになっており、ガイドページでもすこしふれたがデポズ・ガーデンというレストランでは典型的なアメリカンプレートも体験できる。

ちょうどお昼どきだったのでメキシコ料理のタコスをテイクアウトし、川のそばに設置されている屋外テーブルで楽しんだ。

食後軽く一周したが米国都市にあるショッピングモールと同種の匂いであった。

アメリカンビレッジは2004年に完成した施設だ。1981年に返還された米軍施設”ハンビー飛行場”の跡地が再開発され、このアメリカンビレッジと南部の北谷公園が造成されたのである。

ちなみにこの北谷町の半分以上がまだ米軍施設によって占有されている。文字通り、このあたりはアメリカ村なのである。

アメリカンビレッジに隣接してサンセットビーチがあるので、そちらの海岸線へ向かった。

こぢんまりとした人工ビーチが出迎えてくれた。町なかにある利便性の高いビーチらしく機能を重視した造りである。

足まわりが良いので簡単に夕景を楽しんだり、ビーチでバーベキューパーティーを開いたりと手軽に利用できる施設になっていた。


ビーチそばには あたりを睥睨するようにひとつの高層ビルが建っている。ザ・ビーチタワー沖縄というホテルだった。周辺は都市型リゾートの環境が整っているので短期滞在には手頃の宿舎になるだろう。

 清潔で可愛らしいサンセットビーチ

今日は格別に暑かった。湿度をたっぷりと含んだ空気が陽にあぶられて一気に温度を上げているようだ。ビーチぎわにちょうどよい木陰を見つけたのでしばらく涼をとることにした。

夏を誇示する入道雲を眺めているうちに、セミの声を追いかけていた遠い日に戻っていた。気がつくと空いていたビーチがしだいに混み始めている。沖縄駐留の米人家族と思しき客の多いこと。

このサンセットビーチやアメリカンビレッジを中心にした北谷町は北に浜川漁港、南には北谷公園を有している。どちらに向かうか迷いながら、騒がしい英語が飛び交うビーチを後にした。


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マングローブ林をひと目見たくてやってきた東村の慶佐次(げさし)だったが、片道3時間半の旅とあってはマングローブ林だけでは帰れない。

ヒルギ群生のマングローブに堪能したあと国道331号を横切り、民家のある方へと散策をはじめてみた。民家の密集しているところは、ほんの一握りほどの地区でしかなかった。

そこを過ぎると急に視界が広がり、どこまでも一面に畑が広がっている。一瞬戻ろうかとも考えたが、さしあたって他に行くあてもなく、そのまま道なりに散歩をつづけることにした。

手づくりの果樹園 「やんばる翠苑」

畑の中を東へ歩いていると、一角に小さな植物菜園のような施設にでくわした。

入口に大きく「やんばる翠苑」と大書されており、花と熱帯果樹の楽園 入場料500円とあった。

先日、名護市の「沖縄フルーツらんど」という似たような施設を訪問したばかりだったが、かまわず入場。

苑内には他の入場者の姿もなく、静かに回遊できそうだ。

カニステル、レイシ、ドラゴンフルーツ、アセロラなどトロピカルフルーツが顔を揃えている。


苑内にはビオトープが造られていたり、山羊がいたり、小さな小さな池があったりと、顔がほころんでしまうような手づくりぶりなのだ。

果樹だけでなく相当な種類の花も目を楽しませてくれるので、花好きな人には飽きのこない小苑と云える。

苑内を見終わったあと、入口近くの休息所に入るとご主人が待っていてくれた。

テーブルにはパッションフルーツなどいくつかのトロピカルフルーツを一皿に盛ってあった。

ここで収穫されたトロピカルフルーツを来苑者の方に味わってもらうのがシステムだとご主人が説明してくれた。

パッションフルーツはスプーンですくいながら食べるなどのアドバイスを聞きながらいろいろ味見をしたが、いずれも美味で南国の味を素直に満喫できた。

これだけの果樹苑をご夫婦お二人で世話をしているとのことだった。その維持管理と育成には気の遠くなるような根気と計りきれないほどの愛情が要求される。並みの覚悟ではできないことを知った。


「やんばる翠苑」を出て東側の道路を歩いていると看板が目に入った。

看板には「慶佐次ふれあいウッパマ公園」とある。しかし道路わきに細長い緑地があるだけ。

緑地の端にはアダンの樹木が視界をさえぎっており、熟したアダンの実があちこちに落ちていた。

そのうちのひとつに取り付いて食事をしていたヤドカリ。海岸近くで陸上棲息する”オカヤドカリ”だ。

ヤシガニが好物にしているアダンの実だが、雑食のオカヤドカリも食べるようだ。

このアダンは日本では沖縄と鹿児島のほぼ中間に位置する奄美大島以南でしか自生しない。

一見パインのように見える果実だが、まったく別種の植物なので現在では一般常食していない。

沖縄ではアダンの葉を使用したパナマ帽とか強靭な繊維質を有する幹は健在にと、ひところアダン産業として隆盛だった。

またアダンは毛筆としても利用されていた。江戸時代の昔、動物の毛を使用した筆がとても高価なのでアダンの気根(地上に露出している支柱根)を利用したアダン筆が代用されたという。雨月物語で知られる作家、上田秋成も琉球から渡来したこのアダン筆を愛用したという記録が残る。

一般の毛筆が安価になり普及するとともに市井から消えていったアダン筆だったが、最近になり嘉手納町に本拠を置く”琉球大発見”という工房が復活させ、その筆の味わいが見直されてきている。

アダンのすき間から砂地が見えてきたので樹幹をくぐり抜けると、いきなり広々とした海岸に出た。誰もいない波音も届かないほど静かな海だった。予想だにしていなかったためか、突然の海との出会いに大きく胸を揺さぶられた。

適当な岩を見つけ腰をおろした。島ひとつない見渡すかぎりの太平洋の海原だった。左手に見える陸影は本島最北部のやんばる地域だろう。右手は大きくえぐれているため陸影は見えない。

よく考えればアダンの木がかたまって自生しているのだから、海岸が近いことを予告してくれていたのだろう。アダンが風防樹としても優れていることを失念していた。

おりよく散歩で浜辺に立ち寄った地元の人と話すことができ、いくつかの知識をいただく。浜辺の名前は「ウッパマビーチ」といった。ウッパマとは大きな浜を意味することも知った。沖縄方言にもうすこし明るければ、最初に見た案内看板の「ウッパマ公園」で海岸を連想できたはずだ。

しかし何であれ「ウッパマビーチ」に迷い込むことができたことを感謝しよう。凪が終わり風が吹き始めてきた。風の感触だけでなく音まで心地よかった。

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珍しくバスの連絡がよく、待つ間もなく「金武(きん)」方面へのバスがやってきた。バスは「漢那ビーチ」を離れ、一路東へと向かう。左側が太平洋になるので車内後方の左窓ぎわの席に着いたのだが、あいにくバスは海岸線をどんどん離れ内陸へと入り込んでゆく。

あとで判ったのだが、このあたりの海岸側は金武岬(きんみさき)となり、その一帯が米軍施設ギンバリー訓練所として占有されていたのだ。億首川(おくくびがわ)という大きな川に架けられた金武大橋をわたり、バスは乗車して10分くらいでバス停「金武」に着いた。

降り立った国道329号線は住宅はあるものの静まりかえり、眠っているような印象の町だった。眠ると云えば、ここ金武の町にある「観音寺」にはとんでもない数のクースー(泡盛古酒)が眠っているという。

観音寺は国道から少し北に歩いたところに、樹林に抱かれるように建っていた。

『寺の中に大量の酒を秘蔵するなど けしからん』 とお思いの方もおありだろうが、正確にお伝えすると中ではなく、地下なのだ。

『中でも地下でも同じではないか』 とのご意見もあろうが、ここはいったん是非論は横に置き 境内に入ることにする。

入口近くの参道に健気な姿を見せてくれた350年も経つフクギの古木。

それ以外はほとんどお寺にありがちな石像や石碑もなく簡素な寺院だった。

創建は16世紀で、日秀上人という僧侶が1552年に中国からの帰路で遭難し、この地に流れ着き 創ったとある。

彼が棲み布教活動に専念した拠点がこの観音寺の地下に広がる鍾乳洞だったと案内にあった。しかも大蛇退治の話まである。

マイソロジーのような民話と歴史が渾然一体となっているようだ。

この謂われの説明で、筆者が事実ではなかろうかと思うことがある。紀州出身の僧、日秀上人の漂着した年号のことだ。

16世紀という1500年代の室町幕府で、当時中国の明貿易を独占していた実力者は大内氏だが、その大内一族が滅亡したのが1551年だった。そして以降中国の明との国交が途絶えてしまったというのが歴史事実として伝わっている。

観音寺本殿、右隣りに見えるのが茶屋

僧侶日秀が翌年やむなく帰国の途に着き、遭難した可能性はかなり高いと考えられる。

事実がどうであったかはともかく、そういう由緒をもつ寺であった。

本殿には先客がいた。ひとりの参詣女性が静かに正座し礼拝していた。

真剣に集中している気配は後姿からも うかがえ、静寂を守りながら本殿には黙礼のみで離れることにした。

本堂からすぐのところに鍾乳洞の入口を発見。

見学するには境内にある茶屋で入洞料金を払うよう案内が出ていた。

さっそく茶屋に行き料金を支払い、鍾乳洞へと引き返す。入口から地下へと階段が造られており、パイプのてすり柵が設けられていた。

地上ではまぶしいほどの陽光が入口近くの階段を照らし、階段下方の洞内では闇がうずくまっている。

鍾乳洞へとつづく細い階段を降りてゆくと空気の流れが鈍くなり止まってしまった。まったく動きを止めた空気が今度は温度を下げてゆく。

洞内に入ると所々に灯された照明はあるものの、全体に薄暗く目が慣れるまでにしばらくの時を要した。

奥へと進むと、いよいよ空気がひんやりとしてきた。温度は下がっているが、滞留したままの空気にたっぷりと湿気が含まれているためか涼味は感じられない。

かなり進んだあたりに伽藍のようにやや広い場所に出た。そこにはおびただしい数の泡盛焼酎の瓶が並んでいる。

ひとつひとつにネームタグが付けられ書庫のように整理された棚ニ眠りつづけている。

これらのボトルはここを訪問した人たちが記念で購入した泡盛をクースー(古酒)になるまで醸成させている場所なのである。

鍾乳洞内が保存・醸成環境に適しているため、同じ金武町にある”金武酒造”が運営管理をしているようだ。


ちなみにボトルは5年貯蔵(1万円)と12年貯蔵(2万円)の2コースで、さきほど登場した茶屋で受け付けている。5年後や12年後に何かを期し、記念ボトルを貯蔵してもらう仕組みなのである。

評判も上々ということが頷ける、なかなか粋な計らいではないか。しかし今回 筆者は申し込みをせず見送った。

もともと気短かな性質(たち)なのか、それとも情緒が希薄なのか、飲みたくなったら待てないのである。その時は手段を選ばずどこからかクースーを見つけてしまうのである。

洞内のいたるところに小規模だが鍾乳石が観賞でき、数か所には拝所まで設けられている。地元民から聖域として尊崇されていることが十分に感じられる情景でもあった。

昔より社寺境内を浄域として飲酒を戒める傾向はあるが、ここでは大らかに大量の酒を包蔵する。その大らかさが逆に良い味を醸しており、好印象と云える。

”百薬の長”になったり、”お清め”にも利用されたり、酒は人により千変万化するもの。善悪などの概念で縛るものでもない。

ここの鍾乳洞では入洞料はとるが入口に ”もぎり” はおろか人っ子ひとりいない。チェックなど不要と云わんばかりの呑気さだ。申告し料金を払って入るか、黙って入るか、人まかせなのである。

以前ニューヨークで運転した折、ケネディ空港へのフリーウェイで料金所があった。普通フリーウェイと云うくらいだから無料なのだが、ここだけは料金ゲートが設けてあった。

しかしそこには係員は存在せず大きな袋のようなバスケットが置かれているだけであった。通行者は車の窓から、そのバスケットへコインを投げ込むのである。その大まかなシステムに感激したことがあった。

個人まかせというのは自由度が高くなる分、責任が伴う。”社会人としての良識”という銃で背中から狙われているようで、精神が引き締まってくるではないか。


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重厚な石灰岩の石壁に囲まれた古民家があった。白い石壁の上からこぼれたフクギの緑色が鮮やかだ。470坪の敷地にゆるりと建つ姿は、風格もあるがそれ以上に確かな生活臭が浸み込んでいた。18世紀中頃に建築された豪農中村家の住宅である。

門から入り石壁に沿って並ぶ偉丈夫そうなフクギを見上げていると、いきなり空から大粒の雨が落ちてきた。沖縄に来て2カ月半が過ぎていたが、今まで雨に遭ったのは3回だけであった。

HARD RAINという言葉がぴったりなほど一気に激しく降るがスコール(豪雨)ほどではない。強烈な太陽にさらされ火照った顔には気持ちよかったが、ヒンプン横の中門を抜け内庭から母屋のひさしの下に隠れた。雨の音を聴きながらしばし内庭を眺める。

中庭に面して高倉が付設されていた

内庭を挟むようにしてアシャギと呼ばれる離れ座敷と穀物収蔵の高倉が向かい合って建っていた。高倉の上部が妙に大きくアンバランスに見える。上部の傾斜をつけることによってネズミの侵入を防ぐ工法 ”ネズミ返し” のため多少大きくなっていると案内があった。

沖縄特有のヒンプン(門と屋敷の間 つまり敷地の入り口に配置する魔除けの眼隠し塀)を右手に入ると母屋の一番座(客間)に出て、そこから左へ二番座(仏間)、三番座(居間)と部屋が並ぶ。ヒンプンを左に入ると台所のあるエリアへと向かう。そのためか男性は右から、女性は左から入ると云われている。

始まった時と同じように急速に雨足が細くなった。雨を浴びたフクギの緑や遠くに咲く花の赤が輝いていた。屋内の見学を始めるため母屋に入ることにした。

一番座の奥には裏座の2部屋が

ヒンプンを配置するような本土にない沖縄民家構造の特徴がもうひとつある。

普通に一見するだけでは気がつかないのだが、実は屋内には玄関に相当するものが見当たらないのである。

この滞在中にも何度か住居に訪問する機会があったが、いずれも客間とか居間などに直接あがり込むことになった。

ほとんどが戸を開け放ち光と風を取り込んでいるので、基本的にはどこからでもアプローチ可能な造りなのである。

ここ沖縄で玄関に相当するものをあえて挙げるとすれば、敷地内に入る門とヒンプンしか見当たらないのだ。

このことに気づいたとき、またひとつ沖縄を肌で理解でき近づけたような気になった。

沖縄の民家は平屋が基本なので敷地面積の割には部屋数も少なく以外にこぢんまりとしている。

そして一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)と右から左へ並ぶ。そして台所や土間や板の間が付属する。この古民家も同様で玄関などは無く、典型的な沖縄民家を保存維持しているようだ。

母屋はこの他に裏座と呼ばれる寝室など2部屋が、勝手まわりとして台所や板の間がそれぞれ公開されていた。台所ではカマドや酒器などが鑑賞でき、屋根裏の様子も窺うことができた。

                                台所まわりにある備品の展示

この中村家住宅の由来は古く、500年以上も昔にまでさかのぼる。

1440年、読谷村の有力豪族の護佐丸が首里王府の命で、この地の中城城へと配置替えとなったことから始まる。

中村家の先祖がこの護佐丸に同行し移住したと記録にある。しかし1458年護佐丸が倒れたあと王府の手から逃れるように一家は離散している。

ところが中村家の血脈はしたたかにタフだったのか、250年も経った1720年頃 同地で地頭として復活するのである。

この古民家の建築が18世紀中頃というからちょうどその時代に建てられたのだろう。

実際にその当時の建築物は母屋だけらしく、爾後しだいに増やされていったと聞いた。

      井戸とその奥の建物はメーヌヤー(家畜舎)

勝手口から表に出ると、すっかり雨は上がり、陽が勢いを盛り返しつつあった。目の前には大きな井戸が見え、右側にはメーヌヤーとよばれる家畜舎が付設されていた。

その奥にはフール(養豚場)まであり、居住地内ですべてを自己完結する昔日の生活様式にただただ脱帽。生活をするという単純な行為が、どれほどすごみのあることなのかを改めて教えてもらったようだ。

シーサーの護る屋根では赤瓦に棲み着いた苔が雨露できらきら光り、むしょうに陽の逆光が眼に痛かった。

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やんばる ロード 3

JALプライベートリゾートオクマを離れ、国道58号線に戻り車を一路北へと向ける。10分くらいで58号線はふたたび海岸線に出た。与那と呼ばれる地区だった。

砂浜がほとんど無く、石積みの護岸になっている。しかし海はどこまでも穏やかで車を停めて眺めたくなるほど青く澄んでいる。

                       謝敷の海岸線

しばらく走ると、ありったけのテトラポッドを浜辺にぶちまけたような海岸線が見えてきた。

バス停の少し先に車を停め、停留所を確認すると謝敷(じゃしき)と書かれている。

地図でチェックすると名護市からちょうど北へ20キロ地点の海岸であった。

ビーチに出てみた。磯近くでは緑がかった海の色も20m先の沖合では泡立つ波間を境に真っ青な色へと変貌している。

波下にはサンゴの環礁ができているのだろう。

車に戻りドライブを再開していると、無意識に片手運転をしていることに気付いた。

米国では左運転席なので右利きの筆者には、左手をウインドーに乗せての片手運転が楽で、すっかりその当時の悪いクセが身についてしまっていた。

レンタカーは国産車で右の運転席だったが身体は自然に対応していた。もっとも左手一本でも楽に運転できるコースだったからかもしれない。

今日の目的地である辺戸岬の前に行きたいところがあった。観光スポットとしても知られる「茅打バンタ(かやうちばんた)」である。あたかもアミューズメントのような響きだが、実は本島でも有名な難所のことなのだ。バンタとは琉球の方言で崖を意味する。

昔から最北の地へ出るためには必ず通らなければならなかった絶壁をつたう細い断崖道。地元では「戻る道」と呼ばれ、人がすれ違えないほど道幅が無く一方が戻らねばならないほど狭隘険路であったという。

宜名真トンネル

茅の束もバラバラにする強風が断崖道を吹き上げることから「茅打バンタ」と名付けられたこの難所も、今では山塊をぶち抜く「宜名真(ぎなま)トンネル」が開通しているので山越えする人はほとんどいない。

その難所へ上がる入口を探して走っていたが、いきなり「宜名真トンネル」が目の前に現れてしまった。

「茅打バンタ」への入路を見逃したのだ。県下一長い1キロのトンネルをくぐったが、出たところからすぐにUターンをする。

バンタ探しのため58号線を戻ったのだが、右手に宜名真の漁港と防波堤が見えたのでまたまた寄り道となった。

    宜名真漁港の防波堤内

少し回り込むが防波堤にも出られる。防波堤では2組の釣り人が釣果はまだ無かったが楽しんでいた。ここは釣り客にも有名なポイントであることを教えてもらった。

防波堤で寝ころび入道雲をな眺めていたが、コンクリートから伝わってくる地熱が動悸のように背中を打ってくる。しだいにドライフルーツのような気分になってきて車の冷房が恋しくなってきた。

大急ぎで車に戻り、運転再開と同時に冷房も全開にした。好きなときに冷房に逃げ込み、好きなときに移動できる車の便利さを、つくづく再認識させられてしまう。人間も堕落したものである。

やっと見つけた「茅打バンタ」への枝道。最初こそ なだらかだった坂道がしだいに斜度を増してゆく。馬車や車が通れるほど道幅が広がったのは大正期のことらしい。かなり登ったところの崖上にその名高い難所、「茅打バンタ」はあった。

断崖の端には事故防止の柵が設けられているが、ところどころ柵の無いところから下をのぞくと、噴き上がる強い風と峻嶮な景観に思わず引き込まれてしまう。今までいた防波堤が箱庭のような世界の中に小さく収まっていた。

茅打バンタの崖上から臨む宜名真漁港

今ではこの崖上も園地として整備され東屋の休憩所やトイレなどが設けられ、観光客が訪問しやすい環境になっている。東屋から見る空も一気に近づいたのか雲もひときわ大きく見える。

この園地には遊歩道もあるので真南の宜名真漁港から北西の伊平屋島までの180度のパノラマ景観を十二分に満喫できる。

水平線が極端に丸く見えてしまうのも、屹然とそびえる断崖からの景色だからなのだろう。中天に浮かぶ白雲から足元に広がる東シナ海まで大自然が手の届くところにあった。


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やんばる ロード 4

                           童話に出てくるような可愛い辺戸岬灯台

ようやく見つけた。

細い道の先には真っ白でジオラマで見るような灯台が静かにたたずんでいた。

本島最北の半島のような海岸線西岸にある辺戸岬(へどみさき)灯台である。

かねてより那覇で知り合った知人から聞いていた灯台だ。地図にも載っていない上、現地でも何の案内板も無いと聞いていた。その通りだった。

ここに灯台があると知らなかったら、確実に見逃していただろう。

1972年5月15日、業務開始とあった。高さ11mの小さな灯台で、周りを1m半くらいの塀が取り囲んでいた。

最近塗りなおされたのか目にも鮮やかな白さである。まるでジュブナイルに登場しそうな灯台だった。

停めてある車までの戻り道が遠かった。道が細く雑草におおわれていたので、ずいぶん手前に駐車してしまったようだ。

この次のポイントはいよいよ辺戸岬である。西岸側にあった辺戸岬灯台から辺戸岬への入口となる東岸へと車を飛ばした。走ること数分で辺戸岬の看板が飛び込んできた。案内の方向へと曲がると大きな駐車場へと進入して行った。

お休み処を備えた高速道路にあるPAのような風景だった。車を駐車し、さっそく岬突端へと歩を進めた。とても広い岬でプロムナードが縦横に走っており、遊歩道沿いには多くの記念碑やオブジェが設置されていた。

辺戸岬の崖上から

石碑などの見学は後回しにして岬台地の北端まで歩きつづけた。そしてたどり着いた崖の端から見た海は青くて丸かった。薄くけぶった水平線は明らかに丸く、地球が球体であることを肉眼で見せてくれているようだった。

沖縄本島北端の岬に立っていることも手伝い、日本本土へとつづく大海原を見入っているうちに少しだけ感傷に浸ることができた。

人には《果て》という未知と隣りあわせている限界点に挑戦する本能があるらしい。エベレスト登頂、北極・南極制覇、宇宙航行、深海探査など、その本能の要求するところに従ってきた。

その未知のポイントを制覇してもおそらく何も特別なものは無いのだろう。精神的充足と記録が残る以外は。しかしこの飽くことのない本能だけは消失することはないだろう。

沖縄本島の最北端など可愛らしいものだが、最北とか最南ポイントとか聞くと無性に行きたくなってしまう行動をとるのも、そんなところに原因があるのかもしれない。

1976年4月に造られた「祖国復帰闘争碑」

プロムナードを歩いていて、檄文とも云うべき激しい論調の碑文に出会った。

祖国復帰闘争碑とあった。

『吹き渡る風の音に耳を傾けよ
権力に抗し復帰をなし遂げた
       大衆の乾杯の声だ』

で始まる文は、しだいに熱を帯び

『戦後は屈辱的な米国支配の鉄鎖につながれ その傲慢な支配は沖縄県民の自由と人権を蹂躙した...祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた』 とつづく。


日本への復帰を願いながらこの辺戸岬から灯を焚き、与論島(奄美群島)の人たちと呼応したという。双方から船に乗り海上で集合し祖国復帰を目指したと伝わっている。

与論島はひと足早く1953年に日本復帰がかなったが、沖縄の復帰はそれから19年もかかり1972年に実現する。

碑文はさらに激しさを加えてつづく。

『1972年5月15日 沖縄の祖国復帰が実現した
しかし県民の平和の願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化された』

『この碑は喜びを表明するためではなく まして勝利を記念するためにあるのでもない
生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きるための警鐘を鳴らさんとしてある』

この碑文が色あせることもなく、戦後65年も経った今も胸に刺さるのは、普天間問題で判るように沖縄の戦争がいまだ終わっていないからだろう。

祖国を慕う気持ちがまだ健在だった頃、この辺戸岬から22キロも離れた与論島の人たちと海上で落ち合う風景はどんなであったろう。映画のワンシーンのように純粋で美しかったに違いない。

                          展望台の大ヤンバルクイナの足元

岬からの絶景を存分に堪能したあと、パーキングロットへと戻ったのだが、その途中に面白いものを発見した。

遠景ながら山の中腹に巨大なヤンバルクイナが見えたのである。

岬の近くにあると聞いていた「ヤンバルクイナ展望台」だと判ったが、まさか岬から見えるとは思っていなかった。

駐車場に着いたが、レストハウスに貼られていたかき氷の字につられて水分補給をすることにした。

急いでかきこんだせいで頭の奥に激震が走り、頭をかかえながら勘定を済ませることになってしまった。

岬から展望台までやはり5、6分で着いてしまった。車もたまには爽快なものである。長い階段を登ると11.5 m のヤンバルクイナが立っていた。訪問者は誰もいない。

コンクリート造りの巨大ヤンバルクイナで胸のところが展望窓になっている。胴体内部は3層構造になっており、胴体側部に併設された階段で移動できる。

さっそく内部に入って最上部へと進入した。中はガランとして置き忘れられたように警備員の敬礼している絵看板が床に転がっている。その看板を拾い展望室のベンチに寝かせ、窓外に目をやると青を背景にした辺戸岬の全景が前方に浮かびあがっていた。

「辺戸岬」のガイドページへ


ヤンバルクイナ展望台

住所 国頭郡国頭村辺戸
施設
 駐車場無料(10台)・休憩所
問合せ
 0980-41-2101 国頭村役場)
交通


那覇空港より175分 那覇IC−許田IC 間は高速利用−国道58号線を北上−辺戸岬手前を右折スグ


MIZUNO SHOP ミズノ公式オンラインショップ

やんばる ロード 5

金剛石林山への入口に近づくと、かたわらに立っていたスタッフが屋外駐車場へと誘導してくれた。券売所で料金を払うと待機中のシャトルバスに乗るように案内される。

遊歩するためのベースキャンプとなる ”精気小屋” へと入場者を運んでくれるのだ。遊歩コースは全部で4つ設けられている。《奇岩巨石コース》、《絶景コース》、《森林コース》と《バリアフリーコース》の4コース。(詳しくはガイドページを参照)

                             奇石巨岩コースでのワンカット

動き出したシャトルバスは山道へと進入して行くが、大揺れに揺れる道でまるでシェーカーで振られる氷になったような気分だった。

なるほど一般車輛をパークさせ、シャトルバスで移動する必要がうなずける。

簡素なつくりの精気小屋に着くと迷わず《奇石巨岩コース》へと出発した。熱帯カルストが織りなす石灰岩の奇観が延々と展開する。

石を貫くほど生命力のあるガジュマルと奇石のコラボレーションは自然が創る美術品でもある。

緑と巨岩の白が混ざり合う風景に目を奪われるが、道程の斜度がけっこう厳しく、足元からも目を離せない。

大汗をかきながらコース終盤にある奇観の ”悟空岩” までたどり着くと、石灰カルストの石山が青空を背景にそびえていた。

悟空とは天竺(インド)まで旅をした三蔵法師の従者の名だが、その旅程に見るような景観を想いえがき名付けたのだろうか。

奇石巨岩コースの終わりはバリアフリーコースにぶつかっており、板敷きのなだらかなボードウォークが山裾を走っていた。

荒くなった呼吸を整えながらボードウォークを回遊。途中池を見下ろす場所があったがすこぶる景勝だった。池の名は ”鍋池” と云った。

カルスト地形の中で静かに水を湛える鍋池

池脇にあった東屋のような休憩所でしばらく眺めることにした。

小さな小さな池なのだが色は北海道の湖のように鮮やかな緑色で、白い奇岩に埋められた宝石のようだった。

ボードウォーク歩きを再開するとすぐに ”烏帽子(えぼし)岩” を発見した。

鋭利な刃物が空に向かって突き立っている...烏帽子よりそんな感じの岩が連なっていた。

そのあたりは《絶景コース》の出口にもなっていたので、そのまま逆行して大パノラマ展望台を目指し、もうひと汗流すことにした。

山肌を縫いながら細道が高みへとつづく。肩で息をするようになった頃にようやく大パノラマ展望台に到着した。

そして、そこから見下ろす眺望は息をのむほど素晴らしかった。


辺戸岬灯台や辺戸岬の絶壁を見渡せたヤンバルクイナ展望台すら、ここから見れば、まるでジオラマの小世界だった。ストレートに感じさせてくれた...今まで大汗をかきながら歩いた場所が何と小さなところかと。

まだ大学を卒業したての新入社員の頃、必死にしがみついていた言葉がある。 『 壁にぶつかったり、何かに悩んだり堂々めぐりを感じたら、2階に登って自分の居たところを眺めろ 』 すっかり忘れていたそんな言葉を思い出していた。

    かすかに丸くなった青く けぶる水平線や地表の緑に落ちた入道雲の影

ヤンバルの自然と空気を身体のすみずみまで取り込みながら、山を降りた。下りの道程は軽やかでアッという間に精気小屋に戻ることができた。

不足した水分をかき氷で補給しながらテラスへ出ると、犬の出迎えを受けてしまった。どことなく淋しげな表情をした犬だった。こちらから友好の情を表したのだが、反応も表情に似て極めてひかえめだった。

しかし筆者の移動するところにはそれとなく付いてきてくれる。ひかえめに距離をとって横たわるのだ。しかも視界に必ず入る場所にである。そしてじっと見つめられているのがわかる。

見つめ合うのも変なので、帰りを一気に走ろうとしている北部東海岸線のMAPをチェックしながらよそ見などをする。そのうち自然な空気感になるから不思議なものである。

しばらくそんな時間を愉しんでいたが、表の方で係員がシャトルバスの出発を知らせ始めた。ひと便遅らせようかとも考えたが、これ以上いれば必ず後ろ髪をひかれることになる。駆け込みながらシャトルバス最後の乗客となった。


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