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長期滞在のベースになるマンションホテルにチェックイン。ひと休みしたら、生活行動半径となる周辺の探索を始めよう。このあたりは”おもろまち”を含め新都心と呼ばれている。米軍基地だった土地で返還後再開発されたところのようだ。

それでは早速出かけて見よう。表に出て右を見ると天久交差点、左方面はゆいレール ”おもろまち” 駅方面。すぐにでも天久交差点から泊港へ行きたかったが、時間も夕刻に近くなっていることや、長期滞在には不可欠のスーパーなどのチェックのため ”おもろまち” 方面の左に向かう。

歩いて1分のところに「天久りうぼう楽市」、そこから2分で「コープあっぷるタウン」、ふたつの大型スーパーが並ぶ。この間に「無印良品」「スポーツショップDEPO」「ベスト電器」「ユニクロ」「トイザらス」に加え100円ショップまで顔を揃え、マックなど飲食店もそこそこ入ったモールショップ広場になっている。長期旅行者には願ってもないシチュエーションである。

ショップモールを出て、なおも”おもろまち”方面に歩いて行くと左側にモダン建築の沖縄県立博物館が現れる。思わず入館したくなり入口の係員に質問。鑑賞に要する時間や閉館時間を尋ねたが,後日鑑賞が賢明なようだ。”急がない旅”の言葉が頭をよぎる。入館を諦めたあと、未練がましく中を覗くとパティオに野外展示されている古建築の穀物倉庫 「高倉」 が見える。後日の訪問が楽しみだ。

博物館と信号ひとつを挟み、県下最大規模のショッピングセンター 「那覇メインプレイス」 がある。シネコンQの施設を含む複合商業ビルになっている。

この「那覇メインプレイス」の先は、”おもろまち”駅になる。空が真っ赤に染まってきた。沖縄第1日目が暮れようとしている。そろそろスーパーで買出しをしながらベースキャンプに帰るとしよう。

那覇に来て2日経った。長期滞在ながら他の所用を兼ねての旅行なので、自由気ままな時間割りにはならない。しかし許される範囲の時間は「ちょぼちょぼ旅」にすべて使うつもりである。そんな背景で迎えた探索第1日目は、歩きだけで行ける領域に決定してみた。まずは1264年に正式国港として開設されたという泊港を見たくて、その所在地の前島をめざしスタート。

プルメリア

マンションホテル ”ナムラ レジデンス” を出て右に1、2分歩くと国道58号線にぶつかる。交通量も多く、さすがに本島一の幹線道路だ。そこが上之屋の交差点になる。交差点を那覇市街の方へ左折し、500mほど続く緩やかな坂を下ってゆく。

道沿いに植栽されたプルメリアが花を付けていた。小枝の先で綺麗に白く縁取りされた黄色い花が花束のように咲いている。普通プルメリアは中木だが、ここ沖縄では見上げるほどの樹木に成長しているため通行人の頭上よりかなり上に花が付くことになる。そのためか通行人は見上げもしないで足早に通り過ぎてゆく。

坂を降りきった左手に泊高橋という橋がある。一見なんの変哲もない平橋である。後日知ったのだが、昔日にはこの泊高橋が名勝のひとつであったらしい。1699年に架けられた時は、名前のとおり船を通すため太鼓橋ような高い橋であったそうな。しかも総石造りのためかなりの人手とコストと日数をかけたようである。その名勝となった橋は残念ながら太平洋戦争時戦略のため取り壊されている


その泊高橋の前に国道58号線をはさんで泊港があった。今では泊港の顔になっているターミナルビル ”とまりん” が船客を迎えるように前面に建っている。ビルの周りはこざっぱりとした小公園だ。埠頭に出てやっと海との対面がかなった。陽光が跳ねる海面がどこまでも続いている。岸壁沿いに北側を歩いてゆくと、空から覆いかぶさるような泊大橋が現れた。歩いて巨大な橋脚の根元まで行き、しばらく海の声に耳を傾ける。

港は国港だったのかと思うほど簡素で質実な風貌をしており、今は離島への玄関口として重要な役務を黙々とこなしている。世界にも誇れる珊瑚礁の美しい慶良間諸島へも高速船なら35分で運んでくれる。ターミナルビルには各離島村役場からの出張船舶課があり、発券所も並んでいる。2階は高い吹き抜けになったトワイライトコートが船待ち時間をゆったり過ごせるように造られているし、そこから一歩外部ウッドデッキに出るとフェリーの発着はもちろん、東シナ海を一望できるベイサイドテラスがある。

少々湿度は高めだが撫でる風が快く、このベイサイドデッキにいると徐々に時間感覚が遠のいて行く。 ...まだ陽は高い、次は海岸線に近いところを南に向かってみよう。


「泊港」のガイドページへ

泊港を後にし、目標地を定めないまま市街地に向かった。海岸線からあまり離れたくなくて、西サイドへ寄りながら歩いていると 「夫婦瀬公園」 という緑地にぶつかった。迷わず中に入ると、いきなり石造りのミニチュアの家が現れた。この建造物が沖縄特有のお墓だと分かるのだが、沖縄では民家わきや町中にもお墓がある。生活する風景に違和感なく溶け込んでいる。だから公園の片隅に建てられていてもなんの不思議もないのである。しかもこの箱庭のようなお墓を見ていると、今まで見慣れてきた本土のものに比べはるかに優しい印象を受ける。

緑のアーチがかかる若狭の通り

公園を通り抜けると潮渡川という川が公園の周りを取り囲むように流れていた。橋を渡り若狭という町に入ると、豊かな緑や花のある静かな町並みが見て取れる。交通量の激しい繁華な国道58号線から少し西に入ったところとは思えないほど物静かで、古い民家と現代的な住宅が混ざりあい長い通りをおおうように樹木がかぶさる風景は心地よい佇まいなのだ。

再び海岸線に突き当たるとまた公園である。石柱には若狭海浜公園とある。公園には整備をしている係員が数名いるだけで、細長く伸びる公園内は静まりかえっていた。園内には ”サンダンカ”、”ゲンペイクサギ” などの花が精一杯咲いている。

公園の西側が海岸に面している。また東シナ海を見たくて西の縁まで行くと、海から生えたような橋脚が並んでいる。海面上の中空を走る泊港からの泊大橋である。大橋を通る 「波之上臨港道路」 が 「波之上ビーチ」 方面へと続いている。

腹へった....何か食べよう。


写真左:若狭海浜公園 写真右:公園から望む波之上臨港道路

若狭海浜公園でうろうろしていると、空腹を覚えたので時計を見るとすでに午後2時を回っている。今朝は2杯のコーヒーしか飲んでいなかったことを思い出し、早速燃料補給のため食べ物探しに出発することにした。

市街方面へ少し戻り若狭大通りを歩くうち ”沖縄そば”の 文字が目にとまり、お店の場所を地図で確認すると2ブロックほど西にある 「波之上宮」 という神社の前とのこと。ウエストサイド・ウォークが続行できる上、燃料補給もできる絶好のお店と、そこへ急行した。

大鳥居の前で ”沖縄そば” の幟(のぼり)を風にはためかせているお店の名は 「琉球麺屋シーサー」。入れ込みの座敷、テーブル、カウンターを備え、こじんまりとした清潔そうなお店である。

メニューにはシーサーそば(550円)、ソーキそば(煮込んだ骨付きあばら肉 650円)、カレーそば、もずく麺のそば...けっこうな品数が書かれている。

”沖縄そば” は初体験なので、まるで想像がつかない。イメージできるのは ”カレーそば” くらいのものだ。もっともスタンダードな”シーサーそば”を注文。待つ間に地図を確認すると、正面にある 「波之上宮」 の裏が 「波之上ビーチ」 だ。ウエストサイドをぶらついているうち、かなり南まできてしまった。 「波之上ビーチ」 は那覇からもっとも近い綺麗な遊泳ビーチと聞いている。是非とも立ち寄りたいビーチのひとつである。

沖縄そばが湯気をたてながらやって来た。どう見てもそばには見えない。食感もうどんに近い。ひと口食べての感想は正直に表現するなら、可もなく不可もないと云ったところか。しかし食べ終わる頃には薄味なのにあとをひく深みある味と ”うどん” には無いもったりとした麺の歯ごたえが馴染んでくるから不思議である。加えて煮込んだ三枚肉が旨い。これだけ”日本そば”や”うどん”と違うから”沖縄そば”のジャンルが成立するのだろう。県民食になっているのがうっすらと判るような気がする。

琉球麺屋シーサー

住所 那覇市辻2−23−10
電話 098−800−7660
営業時間 11:00〜17:00
        火曜定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩20分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車5分
 車 那覇空港より 15分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点を
    直進し左手)

とにかく暑い。 まだ6月中旬だというのに強い陽射しに焼かれた道路から暑さが這い上がってくる。那覇バスターミナルのある旭橋から国道390号線を西へ西へと歩いている。この道路を左に行けばすぐに那覇港に出るはずだが、今は前回行けなかった”波の上ビーチ”の海をめざそう。

同じウエストサイドでも、若狭とは町の様子が一変する。ここの町名はシンプルに 「西」 とだけ付けられた町で、閑散としている。昼間から開いている BAR、見るからに木賃宿のような宿泊所など、地色のままの表情には味がある。

道をまっすぐ歩いていると ”ロワジールホテル” にぶつかってしまった。歩いて来た道以外には北へ向かっている道が一本だけある。 波の上ビーチの方向をベルキャプテンスタッフに尋ねると、もう少し北にあるとのことだったので休まずその道を北上することにした。

流れ落ちる汗をふきながら、北上する露地をだらだらと歩く。歩くうちに波の上ビーチに着く手前を左折し、先に海岸線に出てから再び北上するよう進路変更をした。しばらく行くと右側に、コンクリート造りの校舎のような沖縄少年鑑別所の建物が出現。名前の持つイメージには遠く、門内にはゴミひとつ無く静かで落ち着いた佇まいを見せていた。屋上に高く掲げられたTVアンテナが抜けるような青い空を背景に浮かび上がっていたのがとても印象的だった。

やや込み入った路地を抜けると、またもや大きなホテルの前に出てしまった。今度のホテルの名は”那覇ビーチサイドホテル”という。まだ海が見えない。しかしビーチサイドというからには海が近いはずだ。そう見当をつけホテルを回り込んでみたら、思わく通りにありました! 海が。

しかし海辺の際(きわ)は砂ではなく打ち放しのようなコンクリートで、しかもその上にドミノゲームで使用する牌のような形をした大きなコンクリート・パイルが行儀よく並んでいる。波之上宮から見た波の上ビーチも工事中だったが、この一帯まで工事領域になっているようだ。いずれにせよ波の上ビーチまで行ってみよう。

波の上ビーチに着いたが、工事の大型機械に占拠されていて潜り込むスキがない。そこで高見の見物を決めこみ、波の上橋を渡ることにした。 橋へ行くにはホテル前面を回り込まなくてはならない。その前に工事関係者を捕まえて何の工事か尋ねてみよう。

若狭から那覇空港へ直行できる”西道路”の新設工事で、まだ2年もかかるという。その期間ふたつの入口を持つビーチエリアの辻側(南西区域)は閉鎖されるが、若狭側(北東区域)のビーチは通常通り利用可能とのことだった。

波の上橋は高度も橋幅もたっぷりある大きな橋だった。目の前には海岸線に沿ってクレーンや組まれた鋼材などが広がっている。最初は埋め立てなのか建設なのか分からなかったが、道路建設と分かると面白味のない工事現場にも興味が出てくるものである。完成までのプロセスが想像できるからだろう。橋の欄干にもたれ眺めているうちに思わぬ時間が経過していた。

閉鎖されていない若狭側のビーチものぞいたが、こじんまりとしすぎて解放感がなく、ガイドにあるような 「那覇唯一の綺麗な都市型ビーチ」 のようには見えない。以前の美しい浜辺に復旧するのは2年後になるのだろう。次の目的地を同じウエストサイドにある”福州園”にしたが、その前に暑さに少々バテ気味なので水分補給がてらの小休止をとることにした。

若狭と久米の町を東西に分ける若狭大通りに出たら、出会いがしらに面白い店と出会ってしまった。店の表に ”ぶくぶく茶屋 琉球珈琲館&カフェ沖縄式” と表示された どこが店名なのか、わけのわからない店だ。

このお店に入るには入口でスリッパに履き替えなければならない。やや暗めの店内に大きな窓からの陽光がほどよい照明になっている。涼をとるため ”ぶくぶくアイス珈琲” をオーダー。椅子に落ち着いても噴き出す汗が止まらない。炎天下歩き続けたため体が茹で上がっているのだ。店内にはコーヒー豆を入れたたくさんの麻袋が床に置かれ、カウンターや棚には古酒の甕(かめ)でいっぱい。奥にはプロ仕様の音響装置が設置され不思議な空間になっている。

やってきた ”ぶくぶくアイス珈琲” は、ほんわりとした泡がビールのように表面を覆っている。泡が優しいのど越しをつくり、焙煎の香ばしいコクが味わえる一杯だった。ちなみに沖縄ではおめでたい時に ”ぶくぶく茶” なるものを飲む習慣があるとのこと。沖縄の硬水を使うことによってぶくぶくと泡立つそうだ。それからもうひとつ、このお店では ”カレー” も名物とのこと。


カフェ沖縄式

住所 那覇市久米2−31−11
電話 098−860−6700
営業時間 11:00〜22:00
        不定休
交通
 ゆいレール 旭橋駅より徒歩15分
 BUS バス停 「西武門(にしんじょ
     う)」 下車2分
 車 那覇空港より 12分(国道58
    号線北上−泉崎交差点の信
    号を左折−久米南の交差点を
    右折−スグ右手)

国道331号線を西に向かって歩いている。タイミングが悪く「ひめゆりの塔前」からのバスがうまく連絡しないので歩くことにしたのだ。太陽が沈むまでまだ時間があり、糸満市の南部町を少し歩いてみたかったこともある。沖縄の日没は本土に比べるとかなりゆっくりとしていて、午後7時を過ぎても十分に明るい。その7時まで時間はまだまだある。

交通量はそれほどでもないが、長く途切れることはない。国道沿いの住宅から南国の花が顔をのぞかせ、その種類の多さには驚かされる。門柱や屋根にはシーサーがどっかりと居座り、門内の入口には ”ヒンプン” と呼ばれる塀のような魔除け板が置かれている。

目にも鮮やかな朱色の建物が見えてきた。正面に琉球漆器と大書してある。店内はアクセサリーから大物の花器まで多品種の漆器で埋め尽くされていた。案内には那覇の国際通りにもお店があり、わざわざここ南部まで出向かなくとも買物が楽しめるとのこと。またこちらでは工場見学や体験学習も可能。

表に出て国道に戻ろうとした時、左手奥に古い建物を発見。しばらく眺めていたら妙に惹かれてしまい、建物の近くまで足を延ばしてしまった。屋根に掲げられた看板には「字(あざ)伊原公民館」とあり、すっかり日焼けして褪せた色が、逆に味のある深い色合いをつくっている。経年の歳月を刻み込んだ建物には風格もあり、周りからは超然として浮かび上がって見える。

建物の脇では、ゴルフ場のキャディ顔負けの日除け重装備に身を固めた ”おばー”(意味はBLOG 18 参照)3人がゲートボールに興じていた。作業休みの楽しみなのだろう。心がなごむ情景の一枚になった。

国道331号線に戻りさらに西を目指している。両側の住宅や建物はゆったりと建っており、過疎と云ってもよいくらい地肌をみせる。風景は概して変化に乏しいが、やはり前述したシーサーと花が一番の変化をもたらせてくれた。

沖縄には古くより伝わる魔除けの慣習が色濃く残っている。シーサーは代表的なものだが、前述した”ヒンプン”もそのひとつだ。門から入った正面にぶつかるように配置された”ヒンプン”は板というより一枚岩を屏風のように置く。中国では屏風を”ひんぷん”というから、ここでも中国の影響が残されている。悪い霊や魔は真っ直ぐにしか動けないという迷信を前提に入口から入れないように正面に配置するのである。もちろん外部からの目隠しの役割も持っている。

また沖縄市街の路地でよく見かける”石敢當”(いしがんとう)も魔除けのひとつである。悪霊や魔が直情型ならぬ直線型の動きをすると信じられていたので、T字路や三叉路のぶつかった家に上がり込まれないように置かれた石標なのである。
この注釈はぜ〜んぶ沖縄の人からの受け売りであるが、信頼できると思われる。 たぶん。

そうこうしているうちに二又道路に着いた。信号のところに南波平と表示されていた。右が331号線国道、左が琉球ガラス村。右は今までの歩行距離の倍する距離を踏破すると糸満市街に至り、左は「琉球ガラス村スグソコ」の看板が出ている。
躊躇なく足は左方向へ歩き始めた。

平和祈念公園で半日以上もゆっくりしたため、予定を変更し糸満に戻ることにした。糸満BT(バスターミナル)行きのバスに揺られ通り過ぎる景色を眺めているうち、糸満市街の散策を思いついた。

今まで糸満にはBTでのバス乗り継ぎしか利用していないのである。今日残っている時間で回遊するには、ほどよいターゲットだ。終点BTの少し手前になる糸満ロータリーでバスを降りた。

そこは観光色のまったく無いさっぱりとした町並みがあるだけだった。ロータリーに面した交番が見え、その背後に小高い丘がある。丘への道を尋ねようと交番に近づくと、交番のそばに裏手へと繋がる路地を発見。やはり交番裏にその高台へと昇る階段が、25m上の頂上に向かって続いていた。

頂上は公園のようにベンチや展望塔などが設営され、近所の子供や年寄りが散見できた。旅行者や観光客らしき人など皆無で静かなものである。糸満市街地を一望する高台で、四方の様子が手に取るように分かる。

昔よりある石灰岩丘陵のこのあたりは「山巓毛(さんてぃんもー)」と呼ばれ、ここよりすこし北にある「白銀堂神社」と一緒に ”漁業漁村の歴史文化百選” に選ばれた場所であった。 「山巓毛」 の名を刻んだ石碑が根元から折れ転がっていたが、荒んだイメージはまったく無く、むしろ素朴な情景を造っている。

東シナ海側にはこの位置から撮影された戦前の写真がパネルで展示されていた。戦争で焼失する前の美しい糸満の町並みが、淡色のなかで輝いていた。

この「山巓毛」は歴史的謂われも残っており、詳細は当サイトのガイドページを参照されたいが、いずれにせよ一般の旅行ガイドには載っていないので、旅行者にとって恰好の休憩穴場と云える。

ロータリーに戻り、漁港のある西の道へ入り歩いていると、面白い看板が目に飛び込んできた。「冷し物専門店 まるみつ」とある。看板をよく見れば聞きなれない”冷し物”が”かき氷”のことだと判明。理解すると同時に手が扉を開けていた。”かき氷”フリークの筆者としては当然の条件反射的反応だ。

メニューには50以上の品目があったが、定番の ”白熊” をオーダーする。

ご存知ない方に簡単に説明をすると、”白熊” とは鹿児島で生まれた練乳をかけるかき氷。
看板にあった ”みぞれ” は、残念ながら最近消えつつある色のつかない砂糖蜜をかけただけのシンプルなもの。

”ぜんざい” と書かれているが、本土で云うところの小豆(あずき)と餅入りの熱い ”ぜんざい” ではない。沖縄で ”ぜんざい” と云えば黒糖で煮た金時豆を冷し、上からかき氷をかけたものが一般的なのである。

やってきた”白熊”は写真の通りのクリスマスツリー、テーブルにこぼさず片付けるのは至難の技だった。

身体をクールダウンさせ、再び回遊へ。かき氷屋さんからすぐのところに糸満公設市場があった。午後2時頃までにはほとんどが店仕舞いとなる東京築地に較べ、ここは夜まで営業しているらしい。しかし店に尋ねるとやはり最高潮の時間帯は朝7時頃とのことだった。

目に鮮やかな魚やフルーツが沖縄であることを思い出させてくれる。肉、野菜、総菜と何でも揃う。売り手はもちろん”おばー”がほとんどで、彼女たちの大活躍の舞台でもある。菓子類も種類が多く色や形も多彩。

質問すると誠実に答えてくれ、時には客のはずの”おばー”まで参加し補完説明を加えてくれる。餅は杵など使わず手でこねて作るといった具合に教えてくれるのである。旅行者にとって、まことに有難い人たちである。
珍しい菓子を質問しながら買い食いをする。味の散策もまた楽しからずやだ。

市場入口の戻ると道路を挟んで正面に漁協の建物があった。漁協を抜けると漁港のドックへ出た。ドックは線を引いたように真っ直ぐ北に伸びていて、”ハーレー”のレース場になるのも頷けた。年一回の”ハーレー”は、海人(うみんちゅー)である糸満の人たちにとっては重要な神事の舟競漕で、この漁港がレースの会場になるのである。

だが今は風だけが水面をすべってゆく。陽が沈む寸前の東シナ海が朱色に染まってきた。平和祈念公園で始まった長い一日も終わりに近づいた。そろそろBTに向かおう。


「糸満市街」のガイドページへ


丸三冷し物専門店

住所 糸満市糸満967-27
電話 098-995-0418
営業時間 11:00〜20:00
        日曜定休
交通
 那覇空港より20分(国道331号線を南下−糸満ロータリーを右折−スグ左側
BUS 糸満ロータリー前から徒歩3分

バスが大きく左へ曲がり国道58号線から分かれた県道6号に入った。この県道は狭いが両側には店が立ち並び、賑やかに人が行きかっている。濃厚な生活臭のある風景だ。

今日は本島の中北部西端、残波岬を訪問すべくバスに乗り込んでいる。しかし、この残波岬までたどり着くバス便はまったく無いのである。以前は岬前まで路線があったようだが今は廃線となっていた。バス旅行ではかなり不便な目的地であることはすでに予習した時に判明したのだが、あえて挑戦することにしたのだ。

岬に一番近いバス停が終点の読谷BT(よみたんバスターミナル)だった。その終点ポイントから岬まで2.5キロも距離を残している。つまり急ぎ足で50分近く、ゆっくり歩けば1時間以上かかることを意味している。ネットのガイドページには徒歩30分とあるが、走ってでも計測したのかと云いたい。

いずれにせよ沖縄本島がアメリカのような車社会地域であることを再認識させられる一事ではあった。

米軍施設 トリイステーションの入口

アメリカと云えば、途中 楚辺というところにあった米軍キャンプのゲートに鳥居が立っている不思議な光景を見た。

ゲートに鳥居を建てるのはよいとして、入口と出口にそれぞれ建っているので二つ並列で並んでしまっている。

縦列に重なる鳥居はあっても横に並ぶ鳥居など聞いたこともない。

本来鳥居は神域と俗域の境を示すもの。米国人が神にでもなったと勘違いするとは思えないので、洒落たつもりなのだろうが滑稽と云うほかない。ちなみに後日調べるとこの米軍施設は「トリイステーション」と名付けられていた。

子供のように車窓に張り付いていたことに気付き、シートに深く座り直すと、前席のシートカバーに落書きを発見した。

叶わない恋もある あきらめてしまえ

            叶わない夢はない あきらめるな と書かれていた。

感情の高ぶりのまま書きなぐったような文字だった。薄くなりつつあるその文字を残そうとでもしたのか、上から濃いマジックで重ね書きがしてあった。重ね書きの人物は別の人物と判る。なぜなら筆跡が違うことと、恋と云う字を間違えて重ね書きをしているからだ。

なかなかの名句だ。古今東西、順風満帆な時に名言なぞ生まれたためしはない。とにかくこの人には目いっぱいの声援を贈ってあげたい。

ようやくバスが終点ポイントに到着した。去り行くバスを見送ったあとは、物音ひとつしない寂然とした風景が待っていた。なにか自分ひとりだけが取り残されたような感じだ。

さあ残波岬まで一気に歩いてしまおう!バス路線の無い県道6号線をそのまましばらく進んでいると、ところどころに建っている家から門前を守るシーサーが顔を見せてくれる。単調になりがちな行程に楽しい変化をもたらしてくれた。

途中、廃線になり今は使われていないバス停まで現れた。その BUS STOP を恨めしく横に見ながら先を急ぐ。

15分ほども歩いたろうか、残波入口という信号があった。そこから真北に向かって県道から分かれる細い道路が延びていた。路側帯には植物が植えられ綺麗に整備されたその細い道路に進路を変更し踏み入った。

草原のような緑の大地が広がるこのあたりは瀬名波と呼ばれる地域だ。

あたり一面を緑一色で埋め尽くされたその先に、かすかに抵抗するように青の色が遠望できた。

わずかに臨めるその青は東シナ海である。

これが曲者で周りに建物が無いから視認でき近くに感じるが、実はとんでもなく遠いのである。

すっかり沖縄の歩きに慣れてきたので目測でおおよその見当がつくようになっている。あと最低30分は歩くことになるだろう。

そんな時、i Pod からギターの名手であるメイソン・ウィリアムスの ”Sunflower” が流れてきた。草原地を歩くには最高のBGMだ。急く気持ちを抑え、速くなっていた歩くリズムを穏やかなテンポに変えてくれた。

その後の道沿いには陶芸工房の窯所があったり、誰が来るのか居酒屋のようなスナックがあったりとポツンポツンとわずかだが人の気配のするところがあったが、それ以外は野原とサトウキビ畑がつづくばかりの道のりだった。

途中からなんとなく道草をするような歩きになり、沖縄ではウージと呼ばれるサトウキビを観察したり、工房に寄り道したりと進度がかなりスローダウンしてしまった。それでもやっと風力発電の大きな風車や岬のそばにあるはずの「残波ロイヤルホテル」とおぼしき白い建物が確実に近づいてきた....あと少しだ。

陶芸工房の個性的な看板(左) 残波岬が近い瀬名波の風景(右)

沖縄へ来て1ヶ月が過ぎようとしていた。移住したわけでもないが、すっかり沖縄の空気に慣れてしまった。まだしばらくはここ那覇にいられそうなので、バスや歩きを中心にした ”ちょぼ旅” をつづける。

本島を巡るとき幹線道路となる国道58号線だが、何度バスで往復したことか。窓外に広がる沖縄の風景のなかで、前から気になっていた広大な敷地を占有している米軍基地。

Marine Corps Air Station (普天間海兵隊飛行場)

那覇から58号線を北へ向かうと浦添のキャンプキンザー、宜野湾の普天間飛行場、北谷(ちゃたん)のキャンプフォースター、嘉手納(かでな)の飛行場と延々とつづいている。

戦後65年も経つが、多くの米軍基地が本島のいたるところを占有している限り、県民にとって忘れたい戦争の記憶も薄まりようがないのではなかろうか。

本日は日本復帰前の町並みを想起させる宜野湾の町歩きを思い立ったので、58号線沿いの大山でバスを降りてみた。

まるで米国ロス郊外に見られるような町並みだった。

出入国を繰り返す米軍駐留のアメリカ人向けのためか、店頭の看板はほとんど英語で表記されている。家具やキッチンウェアから古着まで多種の店が軒を並べていた。

戦火で荒れた町をいち早く復旧するためには、駐留米人の消費は欠くことのできない絶対条件であったろうことは想像に難くない。長い風雪を刻みながら復旧し変遷してきた名残りのようなものをこの町から感じとれる。

このあたりは観光地区ではないが、軍から払い下げられた品や古着など面白いものが多く発見できるので旅行者にとっても気軽にショッピングができる通りである。またハーレーダビッドソンや美術彫像や大型置物の専門店なども点在しているのでお好きな向きにはけっこう楽しめる穴場ではなかろうか。

                            国道から海岸へ向かう静かな横道

58号線沿いに普天間飛行場への入口を示す案内があった。

移転問題ですっかり有名になったこの長大な敷地の米軍海兵隊施設は宜野湾市の中央部をほとんど占有している。

基地はいずれもセキュリティで固められており、せいぜい広大な敷地の外周をめぐるのみであった。

外周を歩いて想い起こされたのは、東京朝霞の米軍キャンプのことだ。今は東京都に返還され 「光が丘公園」 となり、都民の憩いの場として利用されている。

朝霞米軍キャンプの跡地を歩き、その広さに改めて驚いたことを鮮明に記憶している。一日でも早く普天間の米軍施設地が返還され、県民に活用されることを願うばかりだ。

しばらく国道58号線を歩いたが変化がなくなってきたので、宜野湾警察の先を西の海岸方面に曲がってみた。

その通りは国道58号線とはうって変わって、静かで緑たっぷりの道だった。ところどころに置かれた像がポーズをとっている。

その通りの右手に県立の宜野湾高校が現れた。道路沿いに飾られている生徒の絵がどこまでも長くつづいている。グラウンドでは生徒が放課後の活動に熱中しており、どこか のどかな風景で懐かしささえ感じとれる。

『この地域は太平洋戦争後 米国に接収され、キャンプマーシーが建設された。そして30年の歳月が過ぎた昭和51年3月31日にようやく返還され、市立真志喜中学校、市立総合グラウンド、県立宜野湾高校、宜野湾警察署など公共施設がいち早く建設された』と記念石碑に刻み込まれていた。


コンベンションセンターの展示棟

宜野湾の町歩きで「沖縄コンベンションセンター」に行きあたってしまった。

通常なら前日におおよその予習をしてから出掛けるのだが、今回はただ何となく宜野湾の町をブラつくつもりであったので予習をしてこなかったのである。

通り越しに見えていた面白い景観の建物につられてたどり着いたのが沖縄コンベンションセンターであった。

敷地内に入ると会議棟、展示棟、劇場などが寄り添うように建造されており、文字通り大規模な集会や会議を万全にサポートする施設のようだ。

しかし筆者のようにふらりと現われた旅行者にとっては、あまり関心を惹かれる施設ではない。

手入れの行き届いた庭内を通り抜けるとすぐに海岸に着いた。案内板には「ぎのわんトロピカルビーチ」とあった。

案内板のMAPを見ると、コンベンションセンターに隣接してこのビーチや海浜公園、野外劇場そしてそれらを取り囲むように「ラグナガーデンホテル」、「市立体育館」、「市立野球場」、「宜野湾港マリーナ」と、巨大な複合施設を形成していた。

                           遠浅で白い砂浜のトロピカルビーチ

ぎのわんトロピカルビーチは白い砂と遠浅の典型的な人工のリゾートビーチだ。

車社会の沖縄本島にあって幹線道路の国道58号線からすぐという願っても無いほどアクセスのよいビーチで、県民にとって人気のあるビーチパーティー・スポットであるらしい。

浜辺ではビーチバレーなどに興じる若者で活気に満ちているが、惜しむらくは海に自然さがなく、表情に乏しく生気が感じられなかったことだろうか。

ビーチから早々にマリーナへ向かった。400mもつづく港内にはおびただしいほどの船舶が係留されていた。ヨットをはじめ多種なプレジャーボートが行儀よく並んで休んでいた。

県下一と云われているだけに海上係留350以上、陸上ヤード保管270以上と相当数の船舶を保守している。

2枚の写真を合成し宜野湾港マリーナの全景を再現

ときどき聞こえる水鳥の声と防波堤に寄せる涼やかな波音。400m以上もある ふ頭を歩いていると、頭の中が瞑想でもしているかのように透明になってゆく。

女性よりも圧倒的に男性が、海に強く惹かれるものらしい。海から連想させるものは個人差はあるが、”ロマン”、”冒険”、”夢”、”郷愁”、”未知” などさまざまだ。


その人たちにとって海に乗り出す船は、それぞれの強い思い入れへ直行できる云わばプレミアムチケットも同然のもの。

つまりこのマリーナには620以上もの ”ロマン” や ”夢” や ”冒険” が眠っているということなのだ。

欧米諸国の多くでは「海」も「船」も女性名詞である。男が惹かれるのも無理からぬことなのかもしれない。

外部との意識接触を遮断していたためか時間経過がわからず、時計を見ると2時間近くも過ぎていた。そろそろ58号線に戻るとしよう。

国道58号線の通る東の方向へ、おおよその見当をつけながら歩いていると「大謝名(おおじゃな)」という地区に入った。

あたりは住宅地でひっそりと落ち着いている。あまり立て込んでもいない。

それまで歩いて来た道が突然終わり、道の終わりに工事中を示す黄色と黒の斜線を描いたブロックが一列に並べられていた。

しかし工事中の気配はまるで無く、道路上に残されたチョークで描かれた絵が出迎えてくれた。

途中で切れても影響のない細い道ではない。けっこうな幅員の道路なのに唐突に終わり、そのまま放置されている。

道路一面には青や白のチョークで可愛い絵がいっぱい。子供たちの遊び場になっているらしい。

現在の東京では下町に出かけても遭遇できない風景である。記憶の向こう側にある扉を少しだけ覗いたような心地になった。

行き止まりの道から少し回り込むとすぐに58号線に出た。国道58号線を那覇方面にしばらく歩くと「牧港(まきみなと)」が見えてきた。「牧港」は宜野湾市の隣りの浦添市に属しているので、宜野湾ウォークもそろそろお終いになってきたようだ。

宜野湾市と浦添市の境を流れる「宇地泊川(うちどまりがわ)」、そしてちょっと先を流れる「牧港川」が58号線の近くで合流し、牧港湾に流れ込んでいた。

             宇地泊川                 牧港川


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沖縄本島に来て優に1か月が過ぎ、やっと北部への旅が始まった。可能な限りバスと歩きでと決めたちょぼちょぼ旅には、北部の地は 遠くて 広くて 決してお手軽ではなかった。いや旅行前の想像に反して現実の困難さを思い知ったと云う方が正直だろうか。

しかも北部への旅が始まったなどと大見得を切っても、本島の西海岸ばかりを追っかけているので、東側は手つかずなのである。筆者には昔から朝日より夕陽に引かれる性向があるためだ。

ぎらぎらするばかりの朝日より、寸刻で色を変える夕陽の方に身体や足が向くのは筆者ばかりではないだろう。

                           バス窓外に見えた名護海岸線のイルカ像

さて北部への旅だが、まず北の入口にあたる名護市街を歩くことにした。

名護市街は那覇から60kmの街だ。東京なら中央高速で八王子をはるかに超える位置である。

荒井(松任谷)由美の「中央フリーウェイ」なんて軽いものではないのだ。

名護BTに着くとにわかに空腹を覚えた。北部という身構えもあり早朝から動き始めたからだ。

バスターミナルで尋ねると近くの「ヤンバル食堂」という名の飲食店を教えてくれた。

名前の響きが心地よい。ここから先は北のヤンバルだぞと宣言しているようではないか。早速BTを出て探すと通りをへだてた向かい側にあった。

食堂に入るとガラスケースに並べられている料理をトレイに乗せキャッシャーで清算するカフェテリア・スタイルの食堂であった。

本土とは微妙に違う沖縄食を1か月も食べている筆者には好もしくも懐かしくさえある料理の数々が並んでいる。

塩サバ、肉じゃが、焼き海苔、納豆、ポテサラ、アジフライ、冷奴、玉子焼き....

看板にうたっているオフクロの味を充分に味わうことができた。


食堂を出て市街地の探索を始める。まずは目の前の名護バイパス(国道58号線)を、名護湾のある南へと向かった。

ほどなく鐘楼のような尖塔にクロスをいただいた「宮里キリストの教会」の前を過ぎると、58号線の大きくカーブしたところに野球場が現れた。名護球場だった。

名護球場のあるところは他にサッカー・ラグビー場なども合わせ持つ広大な敷地の「21世紀の森公園」で、北海道日本ハムファイターズが例年キャンプインするところとしても有名なところ。

宮里キリストの教会              名護球場

この広々とした緑を敷きつめた公園を横断してゆくと、左手に大きなサッカー場が居座りその周りの芝では三々五々人がくつろいでいた。皆のびやかな表情をしている。

なおも歩くと右手海岸側に石積みのアーチ門が見えてきた。門をくぐるとそこはサンセットビーチという浜辺であった。そこそこの広さをもつ遠浅のきれいなビーチだが、人口のためかやや生気に欠け無機質な感じがする。

波打ちぎわで遊んでいるのは2、3組のカップルだけ。

空いているビーチならどこでも気持ちがいいのだ。 少しだけ、このビーチで海を見ていよう。

しかしサンセットビーチと云ってもここの浜辺はほとんど南を向いている。

身体を西に向けてみると、本部(もとぶ)半島の山並みにさえぎられていたが、ぎりぎり海に沈む夕陽は見られるといったところか。

しばらく海を眺めたあと市街地散策を再開。58号線に出ると通りの向こうに風変わりな建物がそびえるように建っていた。

近づくに従い益々その威容の不思議さが目立ってきた。正面まで来て、その建物が名護市役所の庁舎であることが判明。テラスをいくつも積み木のごとく組み上げたような風貌をしている。

そして外壁などにシーサーが鎮座し、その数なんと30以上におよぶ。東京新宿に建つ都庁をはじめ今まで多くの庁舎を見たが、これほど個性的な建物はなかった。

三層ながら20mを超す建築で、何よりも驚くのはその開口部の多さであった。おそらく風通しは抜群で、猛暑でもエアコン要らずではなかろうか。

竣工から30年近く経っているという。外壁は白とピンクのストライプだが、30年という色彩の風化で上品な風合いに包まれている。

正面スロープのスコープ造形、ルーフやバルコニーからこぼれる緑、行儀よく並ぶシーサーたち....つい見学に夢中になり、思わぬ時が過ぎていた。


「名護市街」のガイドページへ

渡久地(とぐち)港。変わり映えのしない港だった。しかしどこか懐かしさを感じさせてくれる場所でもあった。

港から洋上を眺めると左手に国道449号線の通る本部(もとぶ)大橋が見える。その沖合 7 kmほどのところには水納島(みんなじま)が浮かぶ。

渡久地港、右に見えるのがフェリーの発着する浮き桟橋

本島から橋でつながる瀬底島の右手に位置するこの小島は形状がパンのクロワッサンに似ているところからクロワッサンアイランドとも呼ばれる。

渡久地港は遊泳ビーチを備えたこの可愛い水納島へ渡る連絡フェリーの発着港でも知られ、夏場のシーズンには混み合うという。

フェリーの券売場に行くと、水納島までフェリーで15分だとわかった。

連絡さえ良ければとその気になり、早速タイムテーブルをチェック。


ちょうど高速フェリー 「ニューウィング・みんな」が出発したばかりで、あと2時間も待たねばならない。そこで得た情報によると、水納島には50人ほどの住人が生活しており、学校と灯台と小さな牧場のほかはコンビニひとつ無い人間の手が加えられていない自然のままの小島だという。

かなり惹かれたが、2時間も待ち島に渡ればすっかり陽が傾いて、すぐに戻りの船に乗らねばならなくなってしまう。今回は見送るしかなかった。


このあとは渡久地の町に出て、そこからバスで本部半島の山間部を横断するつもりだ。

港から県道219号へ向かう途中に本部漁業協同組合の建物のそばを通り抜けた。

年輪を重ねた風貌の建物にしばしワンストップ。ここの港が沖縄の ”かつお”漁の漁業拠点であることをはじめて知った。

県道に出て道沿いにのんびり歩いていると目に飛び込んできた文字があった。「山羊(やぎ)専門料理」とある。

沖縄には個性豊かな食材や料理がずらりと並ぶ。「海ぶどう」、「島らっきょう」、「あぐー(島豚)」、「へちま」、「もずく」、「シークァーサー」、「マンゴー(青いマンゴー)」「島豆腐」....など。

本土でお馴染みになっている「もずく」だが、実は国内消費量の95%が沖縄産である。この山羊料理も沖縄特有のもの。歴史がある分、それはそれはディープなのである。

山羊はまだ未体験ゾーンだ。試食をするチャンスが無かったというよりは腰が引けていたと云う方が正直なところか。

悠々閑々といった風情の渡久地の町

琉球銀行の前にバス停留所を発見。海岸線回りではなく、名護から渡久地の半島中央部をつらぬく瀬底線に乗りたかった。

時刻表を見ると20分ほどで連絡する。お茶をするほどの時間は無いので、そのまま待つことにした。

本部半島には八重岳という山麓があり、いくつかの山塊と連山をなしている。

その連山のふもとに名護、今帰仁(なきじん)、本部などの街が形成されているのである。

だから本部半島の市街地は、こぼれるような緑の山並みを背景に前面はエメラルドグリーンの海という夢のような環境が生み出されている。

これから乗るバスはその八重岳を通り抜け名護へと向かう県道84号をひた走るのである。本部半島の高度のある道を揺られ、バスから山間風景を眺めようというのが今回の”もくろみ”なのだ。

またこの県道84号線沿いにはいくつかのテーマパークや名所があるというから楽しみだ。しかしバス旅行を基本ルールに決め込んだ身には、バスを一度降りると次はいつ乗れるか運まかせ。運に恵まれず連絡が悪ければ名護まで歩くことにもなりかねない。

したがって慎重に選定しなければならないが、今日は気の向くまま動いているので下準備などしていない。降りるポイントは直感にしたがいアドリブで決めるしかないのである。不確かな旅ほどスリリングなものはない。

バスがまだこない。20分はゆうに過ぎている。すでに不確かな旅は始まっているのだ。


渡久地港

住所 国頭郡本部町渡久地
施設 駐車場・トイレ

フェリー関連問合せ
0980−47−5179(水納海運)

交通
 那覇空港より 180分(国道58号線を北上−名護宮里3丁目の信号左折し国道449号線に入り北西へ−大浜の信号を右折し県道219号線に 入る−谷茶のバス停を左折し渡久地港へ)

BUS 那覇BT 120分(名護西線20番)−名護BT 60分(66・67番系統瀬底経由循環線に乗り継ぎ)−谷茶(たんちゃ)下車徒歩5分


    このむせ返るような緑の光景は県道84号線沿いの中山あたり

周りの景色を見ながら歩いているとジャングルにいるような気分に陥る。県道が無ければ確実に方向感覚を失ってしまうだろう。

伊豆味パイン園から県道84号線を歩き、本部町から名護市に入ったばかりの中山地区だ。大自然の中を歩いているようだが、この通り沿いには一定の間隔でショップや観光用スポットがあったりして退屈することはない。

今もまた新たな看板が見えてきた。「OKINAWA ゴーヤーパーク」とあり、水耕栽培されているゴーヤーの菜園らしい。藤棚のようなところからぶら下がるゴーヤーを観ても、あまり感動するとも思えないのでパス。

沖縄そばの前を過ぎた時、山羊(ヤギ)の鳴き声が聞こえ慌てて立ち止まった。

声のした方を振り向くと子ヤギの可愛い瞳がこちらをじっと見ている。

遠目にそば屋があることは判っていたが道の反対側を見ながら歩いていたので視野に入っていなかったのだ。

そば屋の前にまるで番犬でもつなぐように無造作につながれていた。

あまりの人なつっこさにほだされ、しばらく子ヤギ相手に遊んでしまった。

沖縄ではヤギのことを ”ヒージャー” と云う。この沖縄とヤギの関わりは歴史も古く、また深い。沖縄の食文化を語るうえで欠かせないものである。この慣習は本土には無く、日本では沖縄だけのものと云ってよい。

しかしアジア圏ではほとんどの国が常食としており、一般的でないのは日本本土くらいのようだ。沖縄では古くより良質のタンパク源として重宝され、大きい豚は売却用、小さいヤギは家庭用として飼育されてきた歴史を持つ。

しかしディープな沖縄食文化に挑戦するほど食い意地は張っていないうえに、こうやって親しく子ヤギと遊んでしまった。今回の沖縄旅行では間違いなく、この食文化の冒険はパスすることになるだろう。

可愛いので頭などをなでたりしてしまうが、しばらく放っておくと逆にいたずらを仕掛けてくる。思わず店主と交渉して連れて帰りたくなってしまう。しかし連れて返る家がない身なのだ。

名残りは惜しかったが、すっかり親しくなった子ヤギに別れを告げ旅を再開した。

しばらく歩いていると「為又北」と書かれた交差点にぶつかった。北は読めるが為又を何と読むのか。

どんなに想像をたくましくしても ”びいまた” などと読めるわけもない。

漢字をあてないで ひらがなで表記してもらいたいものだ。

左手に「名桜大学」への案内があった。 《キャンパス風景もまた楽し》 である。 「びいまたきた」を左折し寄り道をすることにした。

名桜大学の野球場に着いた頃、空模様が急変してきた。沖縄に来て1ヶ月半だが雨に降られたのは2度だけである。まったく台風にも遭遇しないというラッキーの連続であった。

だが少ない雨だが降ったらすごい。英語でどしゃ降りを 《Cats & Dogs》 と表現したりするが、ここの雨はそんな小動物の可愛らしいものではない。ド迫力のシャワーだ。

一瞬の躊躇もなくUターンし、県道84号線に戻るべく道を急いだ。青空だった中天が今は雲で覆われ白黒映画の一シーンのように見える。片道は確か10分ほどであったはずだから急げば6,7分で県道へ戻れる。交差点には雨宿りの建物が何かあったはずだ。

走ればすぐに戻れるが雨が降らないと走らない、でも雨をシャワーのように浴びるのはいや、まったく我ながら勝手なものである。生来がなまけ者なのだろう。

                          一天にわかにかき曇り大雨が落ちそう

雨が落ちる前に県道84号へ戻ることができた。

しかし空は水を吸い込んだたゴム毬が破裂寸前といった様相だ。

交差点近くにあった「OKINAWA フルーツらんど」という施設に飛び込もうと決め、歩をゆるめスナップショットを1枚。

これがいけなかった。シャッターを押した瞬間にポタ! ボタ! バタ! ザバー!...最悪の直前シーンが右の写真である。

思いっきり走ったが目の前の「フルーツらんど」に飛び込むまでの10数秒で全身が泳いだあとのようにズブ濡れになってしまった。

しばらく亜熱帯のシャワーを眺めながら、子ヤギはどうしているかと考えていた。

困っているのか喜んでいるのか想像をめぐらせていたが、いっこうに雨は止む気配を見せない。

とてもヒマなので入園することにした。入園料は800円もした。


入口を通り抜けると長い歩廊の両側には熱帯植物が空間を占有するように溢れ出していた。トロピカルフルーツばかりが大集合している。

「フルーツらんど」内をゆっくり観て歩くと小一時間ほどかかる。入口の間口に比べ、内部は奥行きも深く結構な広さだった。

パパイヤの未成熟の実がすずなりに

ドラゴンフルーツ、レンブ、パッションフルーツ、グァバ、マンゴー、スターフルーツ、パラミツなどトロピカルフルーツの果樹園が前部を占め、その向こう側に鳥と蝶のエリアがある。

存在は知っていても食べたことのないものばかりが、たわわに実っている。気が向けばこの施設にあったフルーツパーラーで試食をしてもよい。

ところで沖縄ではパパイヤを二通りの食べ方をする。ひとつ目はお馴染みの熟したものをフルーツとして、もうひとつは未熟果の青いものを野菜のように食する。

まだまだ青いパパイヤを千切りにし油で炒めると、沖縄独特の一皿となる。

パパイヤはタンパク質を分解するパパイン酵素を多く含むため、肉などと合わせると柔らかになった肉と食感のよいパパイヤの乙な料理が出来上がるという。

熟したパパイヤにはこの酵素がまったく無くなるので未熟果のみできる料理である。

ところがマーケットに並ぶパパイヤは通常オレンジ色に熟したパパイヤばかり。そのせいか沖縄の個人宅の庭にはパパイヤの木が普通に植わっている。

果園を抜けると「バタフライゾーン」という場所に行きあたり、その入口の歩廊にはおびただしい数の蝶の標本が展示されていた。

蝴蝶園の中では生きた大きな蝶 ”オオゴマダラ” が室内中を舞っている。その頼りなげに飛ぶ蝶を観察しようと、隅に置かれた椅子に座ろうと近づくとすでに先客がいた。

 自由奔放に舞うオオゴマダラ(左) SF映画に登場しそうな黄金のサナギ(右)

何匹ものオオゴマダラが椅子にとまっている。羽を休める蝶を追い立てる気にならず、他を見学するため移動した。蝴蝶園の一隅にオオゴマダラの”さなぎ”が大事に保育されていた。黄金色に輝いていた。まるでSF映画のひとコマのようだった。

バタフライゾーンの右翼にはバードゾーンがあり、フクロウの ”アオバズク” やヤンバルクイナの親戚 ”シロハラクイナ” などけっこうな数の鳥類も飼育されている。

表に出るとすっかり雨は上がっており、ちょうど手頃な雨宿りとなった。バス停に向かいかかったが、雨上がり直後の空気がとても気持ちよく、一気に名護市街地を目指して歩き始めていた。


「OKINAWAフルーツらんど」のガイドページへ


原稿の締切に追われ徹夜になってしまった。なんとか明け方に送付したが、すっかり午前中が台無しになってしまった。

淹れたばかりのコーヒーを抱え、バルコニーで意識を覚醒させていると、大きな音が耳に突き刺さった。バルコニーがら見下ろすと乗用車とバイクの接触であったようだ。でも大丈夫、幸いに両者とも無事なようだった。

                                博物館横の新都心公園へつづく道

我が宿舎にしている長期旅行者用マンションのある”おもろまち”はかなりの交通量がある。那覇の新都心として定着し最近では人の出入りが多いと聞く。

今日は午後しか自由時間がないので、今まで行けなかった近所にある博物館を訪ねることにした。

このあたりは戦後、米軍の住宅地として40年ものあいだ接収されていた地区であった。

昭和62年(1987)5月に全面返還されたが、那覇新都心開発整備事業は平成に入ってから実施されたものである。

博物館のまわりに配置された合同庁舎や新都心公園なども新しい町だけにゆとりのある区画整備がされており、道路も線を引いたように真っ直ぐ伸びている。

沖縄県立博物館は宿舎のマンションから徒歩で7、8分のところにある。今まで日々の買い物で何回通り過ぎたことか。今日初めて入館することになる。

軽い運動がてら新都心公園経由で博物館へ出発する。しっかり汗をかいたあと博物館に到着。ゲートをくぐると正面入口の手前がパティオのようになっており、そこは琉球民家や高倉を設置した屋外展示場になっていた。

琉球の古城(グスク)をイメージしてデザインされた大型建物で、左翼は博物館、右翼は美術館として使い分けていた。

前庭エリアの屋外展示場

内部展示は分野別に整理されているのは云うまでもないが、その網羅ぶりの豊かさには驚いた。

沖縄に関わる人文科学、自然科学、両系統を細大漏らさず封じ込めたように思えるほどだった。

お手軽なテーマパークもよいが、たまには真摯に博物館と向き合うのも深い。

どっぷりと沖縄の勉強をし博物館を出ると、太陽が傾き始めていた。


日が沈むまでにはもうしばらく時間がありそうなので、この近所で以前より気になっていた場所へと向かった。

博物館から”ゆいレール”のおもろまち駅方面へ歩くと6、7分で右手に小高い丘が見えてくる。丘の上には個性的な形状をしたタンクが遠目にも見てとれる。

このタンクには旅行第1日目に気付いていたので、すぐに調べて那覇市水道局の給水タンクであることを知っていた。しかしその後滞在中に調べていた沖縄戦争の資料に、この丘のことが記述されており重要な事実が浮かび上がっていた。

それからはこの丘のことが気になり、県庁前にある那覇市歴史博物館などをのぞきながら少しづつだが調べていた。

3ヶ月におよぶ沖縄戦の中盤に戦局を左右する極めて重要な戦いが、この丘で繰り広げられていたという事実である。昭和20年(1945)5月12日から1週間にわたって日米両軍がこの丘を取り合い激戦となった。

この丘を米軍は「シュガーローフ」と名付け、日本軍は「安里(あさと)52高地」とか「擂鉢山(すりばちやま)」と呼んでいた。ちなみに硫黄島で獲り合った小高い山も「擂鉢山」と云った。

  現在のシュガーローフ、頂上に造られた白い給水タンクが夕陽に赤く染まり始める

丘に着いたのでさっそく登り階段を上がってみた。下から見上げたときは小高いという表現をしたが、実際に登ってみると相当な高度があり視界域も広かった。戦時下では重要なポイントになったであろうことが理解できた。

米軍のノルマンディー上陸が世に云う ”D−デイ” だが、それをはるかに超える規模で沖縄進攻作戦の上陸 ”L−デイ” が敢行された。その沖縄戦で最も米軍がてこずり、多数の死傷者と心神耗弱者を出すほど恐怖したのがこのシュガーローフの戦いであったと米軍側の記録にある。

日本軍は硫黄島に匹敵するほどの戦いを展開し、米軍はこの小さな丘を制圧するのに1週間の時を費やし、初動に投入した中隊が小隊、分隊となり、ついには丘の土に消えていったと米軍人の手記も残されていた。

一方日本側も正確な記録こそ残されていないが多大な犠牲を払ったことは云うまでもない。

硫黄島は1949年にジョン・ウェイン主演による「硫黄島の砂」で映画化され、最近ではクリント・イーストウッドにより映画化されるほど有名だが、「シュガーローフの戦い」を知る人はほとんどいない。

シュガーローフが制圧された後、日本軍は首里を捨て南部への消耗戦へと展開し ”ひめゆり”を代表とする南部各地での悲惨な戦禍が現出してゆく。しかし実際のところ、ここシュガーローフでの決戦で事実上の決着がついていたと云えるだろう。

今は給水タンクで占められ、まわりには可愛い展望台と一握りほどの安里配水池公園があるばかり。両軍が多大な犠牲を払った丘は、今は何事も無かったように夕景のなかで静まりかえっていた。


参考文献:「沖縄シュガーローフの戦い−米海兵隊地獄の7日間」 J.H. ハラス著 光人社刊
       「新都心物語」 那覇新都心地主会発行
       「那覇市史 通史篇 第3巻 現代史」 那覇市歴史資料室 市史編集委員会


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北谷公園内にある屋内運動場

北谷(ちゃたん)の町で一番のスポットと云われる繁華なアメリカンビレッジを離れ、北谷公園の中を歩き回ってみた。

遠目ではあるが、まず目に飛び込んできたのは、宜野湾にあったコンベンションセンターのような建物と大きな風力発電施設のぷろぺらであった。

建物はまだ新しさの残る白亜の屋内運動場であった。隣地の桑江中学校の校庭グラウンドは授業中なのか静まりかえっている。

園内をひとめぐりしてみたが、公園内の施設はすべてスポーツ関連であった。

陸上競技場、北谷野球場、テニスコート、屋内運動場、ソフトボール場、プールの各施設を備えている。

野球場では中日ドラゴンズの春季・秋季キャンプで使用されるほか高校野球沖縄大会の決勝戦なここで開催される。

なかなか質実な公園でスポーツをめざす人たちにきっちり向き合う施設を提供している硬派の公園だった。別名運動公園とも呼ばれているらしい。

公園の西南へと歩くとテトラポッドを積み上げた海岸べりに出る。石塀を乗り越えてなんとかブロックの上に休憩場所を見つけた。

目の前は”青がいっぱい”の世界。青の濃淡の中に浮かぶ真っ白な雲が、ゆっくり形を変えながら流れてゆく。誰も来ない最高のシーサイド・スポットになった。

北谷町の中央に位置する北谷公園。公園から南へ向かうと「アラハビーチ」、北には観光スポットらしきものは何もない。

普通ならここは南の「アラハビーチ」への進路を選ぶ....ところだが、北へと向かうことにした。「浜川漁港」という小さな漁港があるからだ。

テトラポッドの消波ブロックでのんびりしている時、地図を見ていて漁港を見たくなり決めていたのだ。

                 アメリカンビレッジの大観覧車が遠望できる浜川漁港

近所だと軽く考え出発したのだが、歩くとこれがかなりの距離であった。

最短のルートで歩いたが、しっかり40分近くかかったのである。

しかしそのおかげで、観光地や人気スポットにはない北谷の自然な表情をした町を味わうことができた。

しかも目的地の浜川漁港もまた特別なものではなく、普通すぎるほど普通の漁港だった。

特別な施設などいさぎよいほど何も無い。

あったのは漁協婦人部が運営するという食堂がひとつあったが、それもまったく気取りのない構えをしていた。「お魚屋」というその食堂では魚介の地元料理を楽しめそうだったが、残念ながら本日は営業を終了していた。

いずれにせよ、この漁港には構えたところが無く、不思議なほど居心地がよかった。しかも散策途中に釣り人とも出会ったりなどして、この漁港で思わぬ時間を過ごしてしまった。気がつくと、陽が傾きを知らせる朱を帯び始めていた。

釣り人曰く、「この辺でもっとも美しい夕焼けが観られるのは”アラハビーチ”だろう」。 絶品の夕景であるという。これから ”アラハビーチ” へ向かっても、もはや手遅れだ。

別の日にもう一度北谷町の”アラハビーチ”を訪れ、その絶品の夕焼けをカメラに閉じ込めてみよう。凪が終わり、身体に心地よい風を受けているうちに、遠くに見えていた観覧車に灯が点った。

さあ、ゆるゆると夜のアメリカンビレッジに戻り、アメリカンキュイジーヌの食事でもしよう。ロス駐在中は味気ないアメリカンレストランの食事に飽き飽きしていたが、今ではすっかり懐かしい味のひとつになっていた。

           夜のアメリカンビレッジ


「北谷 −ちゃたん−」のガイドページへ


浜川漁港

住所 中頭郡北谷町字港4


交通
 那覇空港より 45分(国道58号線を北上−浜川交差点の信号を左折スグ)

BUS 那覇BT 45分(名護西線20番など)− 「伊平」 下車5分


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普天間の町並みは米軍キャンプ地の町らしい表情をのぞかせる

中城城(なかぐすくじょう)跡と中村住宅の見学のあと、普天間の町を少しだけ散策をすることにした。バスが中城城跡まで運行していないので、普天間近くの安谷屋(あだにや)のバス停から往復したため帰りに寄り道をしたくなったのだ。

普天間のある宜野湾(ぎのわん)市の中心に広大な面積を有する米軍施設《普天間飛行場》がドーンと居座っていた。その広さ、480ヘクタールもあるというから、ちょうど東京ドームが100個も入る巨大さだ。

そして宜野湾市の北部はやはり米海兵隊司令部などの軍中枢部があるキャンプ瑞慶覧(ずけらん)が東西に長く横たわっている。その広さ、普天間飛行場基地をはるかに上回る640ヘクタール。

このふたつの軍施設に はさまれた狭く細長い地区に、市民が密集するように形成した普天間の町がある。宜野湾市の全面積の3分の1が米軍施設だという。

                 アンティークショップなど米人向けのお店が目を引く

町を東西につらぬくメインの「でいご通り(県道81号線)」から「万年通り」、「すずらん通り」、「旧局前通り」など路地から路地へとあてもなく歩いてしまった。

町の人に町一番の高台を教えてもらい「嘉数高台公園」にも登ってみた。

悲しくなるほど日本人の土地が無かった。

現在沸騰している移転問題がいやでも想い起こされてくる。

ここで何を述べようが、決して当事者にはなりえない単なる傍観者の一意見にしかならないだろう。

一過性の旅行者が軽々に語れるほど単純ではない錯綜した年輪を、この町は重ねている。じかに普天間の町に触れ、あらためてそのことを痛感した。

普天満宮境内の様子

県道81号線に戻り、途中素通りしてしまった普天満宮に入り小休止を取った。

この社の起源は古く、沖縄特有の聖なる洞窟より始まったようだ。

全長280mにおよぶその洞窟聖域は今も残っていると案内板にあった。

15世紀中頃 熊野権現と合祀され、以来現代にいたるまで維持されてきた古社である。

街中に充満していたアメリカンテイストも、ここ普天満宮の敷地には一歩も侵入できないかのように、境内は静謐な和に包まれていた。

そんな中にも石造りのお水舎やシーサーが、沖縄であることを思い起こさせてくれる。

本殿は平成17年に改築されたばかりのものだという。


流麗な破風の下に掲げられた扁額には鮮やかな緑色で普天満宮と書かれ、白い木地と相まってとても美しかった。

普天満宮の周りを歩くとすぐにキャンプ瑞慶覧にぶつかってしまった。普天満宮の真裏には広大な米軍キャンプが広がっていたのだ。このキャンプは1972年にキャンプ瑞慶覧とキャンプフォスターが統合された施設なので、今でも両方の名が生きている。

戻りながらもう一度正面を振り返ると、まるで小さな普天満宮が巨大な米軍を一身で受け止めているようにさえ見えてくる。この勝負、普天満宮の勝ちだろう。所詮、愚かな所業を繰り返す人間が神を超えられるはずもない。


普天満宮

住所 宜野湾市普天間1-27-10

電話 098-892-3344

施設 駐車場あり/参拝自由
    洞穴見学 10:00~17:00

交通
 那覇空港より 50分(国道58号線を北上−伊佐の信号を右折スグ)

BUS 那覇BT 45分(名護東線21番など)− 「普天間」 下車3分


駐車場に停めていた車に戻ると、太陽に焙られつづけた車のドアは火傷をするほど熱くなっていた。午前中にパークし、久高島を一周して戻るまでに要した時間が6時間だった。あまりの熱さに窓を開けたまま車に涼をとらせるため、近くの食堂でひと休みすることにした。

安座真港前の食堂

幸い車を冷やすには、いい風が吹いていた。駐車場近くの安座真港前にあったお店に飛び込み ”ぜんざい” を注文。

本土の ”氷あずき” に相当するのだが、沖縄で ”ぜんざい” と云えば、金時豆を黒糖で煮て薄くかいた氷を乗せたものを指す。

小豆(あずき)ほど甘くなく氷の解け具合で何とも絶妙な氷菓となる。


本当に沖縄のぜんざいは美味い。この3ヶ月食べまくっている。そのかき氷を頬張りながら地図を眺め、日暮れまでのスケジュールを組み立ててみた。

以前バスで百名ビーチまで訪れたことがあったが、その先にあったのが橋づたいに行ける「奥武島(おうじま)」だった。その時はバス便が悪く 「奥武島」まで足を伸ばすことができず引き返した。

今日の残り時間は「奥武島」の訪問に決め、ルートはバス旅行では通らなかった二ライカナイ橋を通るドライブルートで目的地を目指すことにした。

エアコンですっかり涼しくなった車内に風を入れるため窓を全開にする。自転車よりも はるかに乗り心地の良いレンタカーで国道331号線を南下した。

太平洋に面した東海岸を一望に見下ろす二ライカナイ橋

海岸線を走っていた331号線の吉富交差点から県道86号線に入った。登り勾配のあるその県道は大きなヘアピンカーブを描いており、高度のある橋脚のような柱に支えられたドライブウェイが伸びている。

つまり今走っているのが「二ライカナイ橋」と呼ばれている沖縄南部の新名所なのだ。トンネルをくぐったあたりに駐車するスペースがあったのでパークさせた。トンネルの真上にあった展望スペースで改めて眺望の素晴らしさを知った。

二ライカナイという伝説の理想郷から名をとったこの道は太陽の昇る久高島やクマカ島などを見下ろす高台に優雅な曲線を描いている。上りでは眺望を楽しめず、下りにこそ最高のドライブウェイになるだろう。

さっそく車に乗り直し下ってみた。トンネルを出たときに目に飛び込んでくる大海原はなるほど絶景で、たった数分のドライブだがインパクトのある印象をしっかりと刻んでくれる。

                           ほんのひととき寄り道した沖縄刑務所

ニライカナイ橋を往復したあと先へと進んでいたら、左手に「沖縄刑務所」があった。つい寄り道をしたくなりワンストップをする。

建物の正面玄関には「沖縄刑務所」と「月代技能訓練所」と書かれた2枚の木製プレートが掲げられていた。

月代(つきしろ)とは地区名のことで、刑務作業として紅型の染め技法から、鯉のぼりの縫製まで多種多様の訓練をしているという。

建物からは物音ひとつ無くひっそりとして静寂に包まれていた。

正面ゲート近くにあったのは《見返りのシーサー》という獅子像。出所者の新しい旅立ちの道標になるようにとの願いをこめて職員一同が名づけて設置されたとあった。

以前、東京の府中市にある刑務所を訪れたことがあった。物々しいほどに高くそびえる外周壁が厳然とあたりを払っていた。

しかしここの空気は違っている。刑務所という名には ほど遠い幽寂の感が取り巻いていた。

同じ県道86号線沿いには航空自衛隊の駐屯基地もあったりする。南へ向かう137号線にレーンチェンジするとすぐに国道331号線に再会できた。

このまま南西方面へ進めば沖縄祈念公園へと至るが、その途中に目的の奥武島があるはずだ。


1週間ほど前に訪問した屋我地島〜古宇利島のとき、最初に通り過ぎた小島がやはり「奥武島」と云った。沖縄には喜屋武(きやん)もそうだが、この奥武島のように同じ名前の場所があるので注意する必要がある。

名護市にある方の屋我地島へとつづく「奥武島」には墓があるだけの無人島だったが、こちら南城市の「奥武島」には小さな漁村が形成されているようだ。

「奥武入口」の信号が現れ国道331号線から左へ針路を変える。すぐに「奥武橋」が出現したので一気に渡ったのだが、正面には小ぶりなビーチと軒を並べる店が目に飛び込んできた。

橋を渡りきるとT字路にぶつかり右か左を、運転しながらの瞬時判断を迫られるポイントになる。左は観光地然とした店が並び、右は地味ながら海岸沿いの外周道路だった。

奥武島の西側の海岸線は礁池(イノー)のような石灰岩礁が水上に顔を出していた

頭のどこかで簡素な漁港と思い込んでいたためか、人通りが多く雑然とした左の道筋を避け、ハンドルを右の西側に切っていた。

数分走ると海側へと降りる道があった。当然その道へと入ったのだがその先は凹凸の激しい岩場が広がっている。レンタカーで走れば間違いなくボロボロになってしまうので入口近くに駐車した。

                        あちこちにできた水溜まりは小さな水族館

徒歩でその岩礁域へと降りると、引き潮で現れたのか石灰岩礁があたり一面にとんでもなく大きく広がっていた。

あちこちにできた水溜まりには海の小動物が精一杯の活動をしている。

小魚や蟹を見ているうちに男どもは童心に戻るものらしい。

夢中に遊んでいた筆者が我に返って あわてて まわりを見回すと、子連れの父親たちが子供そっちのけで夢中になっている。

西に傾きはじめる太陽は心なしか速いような気がする。影の背がみるみる長くなってゆく。車のところまで戻ったが、車は置いたまま徒歩で散策するべく、西側から民家のある路地へと踏み入ってみた。

住宅地の道幅は広からず狭からずの、実にほどのよい幅だった。島の通りは車上で感じたほど観光地化はしていなかった。

住宅地のど真ん中にポツンと寺社があった。なだらかに本堂につづく段を登ると小綺麗なお堂が建っている。中央にに祀られていたのは彩色された観音像だった。このお堂、分かりやすく観音堂と呼ばれていた。

境内にあった説明を読むと、今から400年近く前に遭難した中国の唐船を救助し、その返礼に贈られた黄金色の観音が祀られているとのこと。ただしこの黄金観音は今は無く彩色観音に替っている。この観音堂で開催される祭は、先祖の善行を祝い敬う祭となっているという。沖縄らしい祖霊崇拝の祭なのだろう。

このあとは買い食いをしたり かき氷を食べたりと、暮れなずむ奥武島で、いつまでも ぐずぐずと遊んでしまった。

           観音堂に祀られている彩色観音像


奥武島 −おうじま−

住所 南城市玉城字奥武

交通
  那覇空港より45分(国場から国道507号線を南下−東風平南の信号を左折し県道131号線に入る−県道17号線へ乗り換えさらに南下−国道331号線左折−奥武入口の信号を右折スグ)
BUS 那覇BTから70分(百名線50番) バス停「奥武入口」 徒歩15分


那覇空港から見える離島がこんなに多いとは想像もしていなかった。空港ターミナルの3 階にはそんな眺望を楽しむことができる場所がある。

滑走路の先には東シナ海に浮かぶ島々が幾層にも重なって濃淡をつくっている。空港から南西に30 kから40 kもある洋上に見せる慶良間諸島までが視認できた。

2 階のキッズエリアから遊び騒ぐ子供たちのはじけた声が吹き抜けでつながる3 階にまで届いてくる。彼らのはしゃぐ声は、島々に見とれる筆者を容赦なく現実に引き戻す強さがあった。

滑走路に隣接する東シナ海に、ハテ島、黒島そしてその向こうには慶良間諸島の姿が

ついに沖縄に別れを告げる日がやってきた。3ヶ月近くの 長いようで とても短い時間が過ぎ去っていた。軽い寂寥感が胸をすり抜けてゆく。

沖縄に滞在中の筆者を尋ねてくれた友人と合流して一週間。この最後の一週間は怒涛のように速く過ぎてしまった。友人の第一希望だった世界遺産を中心に組み立てたスケジュールだったが、世界遺産ルートに近いスポットや経路途中にある要所を目一杯に豪遊した。

この一週間、まるで何年も住んでいたかのように得意気に案内する筆者を、友人は寛大にも文句ひとつ言わず聞き流し つき合ってくれた。その彼は今バスで糸満に向かった。東京への便が筆者より数時間あとなので、糸満港をぶらつくことにしたのだ。

帰りの便を同行するため、無理やり変更したりしない野郎同志のつきあいというのは実によい。どこかに透き間があり、楽に息づくことができる。

眺望が楽しめる3階のフロアには紫色の花が咲き乱れていた。もちろんディスプレーのため備え付けられたプラントなのだが、花は本物だ。なぜかこの花に確かな見覚えと懐かしさを感じたので調べてみた。

盛夏に咲き始め、いち速く秋の到来を知らせるコートダジュールという花だった。ブラジルが原産にもかかわらずフランス南部の沿岸地の名が冠せられている。地中海に面する紺碧海岸をイメージして付けられたのだろうか。沖縄では普通に野山に自生すると聞いた。

コートダジュールと呼ばれる紫色の花がターミナル内に咲き乱れていた

15年以上も前に出逢った花に酷似していた。場所は海外出張時の南仏でのことだった。

1週間もつづくコンベションの合間に10人以上の団体でカンヌを脱出し、モナコに向かう途中で夕食会のため訪れたレストランでこの花を見た。電気も敷設されていない地元で有名な古牧場をそのまま利用したレストランだった。

照明はすべてキャンドルである。おびただしい数のろうそくに浮かび上がる異観の風景は呼吸を忘れるほどに美しかった。晩餐会での騒がしい会話に少々疲れて 煙草を吸うため屋外に出ると、牧場の建物のまわりに咲いていた花が囲い塀の柵上に灯されたろうそくで浮かび上がっていた。

月明かりのもと、濃い紫色の花を眺めながら一服する筆者のそばで音がした。近くで休憩をとっていた使用人と思しき女性があわてて建物へ戻ろうとしたのだ。休憩の邪魔をしたようで思わず彼女の背中に声をかけてしまった。英語で....「煙草を吸ったらすぐにテーブルへ戻るんだけど!」

「好きなだけ 吸っても構わないですよ...」と国粋主義人の多いフランスで奇跡的に英語の返事が返ってきた。下手な英語で話しかける筆者に安心したのか、彼女はもとの場所に戻り腰かけた。

人生のはるかに先輩格になる年配のそのフランス女性としばらく会話を交わすことになった。その時に牧場のまわりに咲くこの花の言い伝えを聞いた。

空港内の大型水槽で泳ぐ魚たち

ふだんは濃いあざやかな紫の花だが、嘘つきがみると 紫の色がこぼれ落ちピンク色に見えるという。

しかも面白いことに他人に対してつく嘘ではなく、自己に嘘をつく人だけがピンク色に見えてしまう稀少な花だと説明してくれた。

《自己につく嘘》 つまり自分をごまかすための嘘とか現実からの逃避をすること。そんな人が見るとピンク色に見えるらしい。

人の心がもっとも弱っているときにその危険を知らせてくれる不思議な花だと信じられていた。

このややこしい伝承を理解するのに お互いありったけの英単語と時間を要したことを覚えている。今ではフランス語で聞いた花の名は忘れてしまったが、姿や色は鮮明に覚えている。

15年前のその夜、幸いにも筆者の目にはあざやかな紫色に輝いていた。そして今ここ那覇空港でも そのように見える。

沖縄に滞在したこの3か月、何とか自己に正直であったように思う。

ずいぶん横道へそれてしまった。さて沖縄旅行のことである。出発時間まで空港内をそぞろ歩いていたが、いよいよゲートへ向かう時間がきた。見送ってくれたのは水槽で悠々と泳ぐ派手な衣装をまとった魚たち。

友人と巡ったこの最後の一週間だがひとつ思うことがあった。回った地はいずれも筆者にとって再訪地だったのだが、それぞれのスポットで改めて新しい面白さを再発見できたことだ。

これまで時間の許す限りじっくりと見学したはずなのだが、ぽろりポロリと興趣のポイントを見落としていたようだ。そのため訪問地では友人そっちのけで自分勝手な行動をさせてもらった。友人もまた思うがままのコースを歩き、何となく出口あたりで落ち合い次に向かうといった具合だった。

筆者も友人も ともにB型である。世間で喧伝されている血液型判断も 的を射ていることがあるようだ。B型人間は夢中になると身勝手な行動が過ぎると、他の血液型から後ろ指を差されているらしい。

勝連城の二の郭殿舎跡をうろつく筆者

そんな旅行経緯の中で友人の撮ったという写真を旅行後に入手した。写真やカメラでは大先輩になる彼がいつ撮影していたのか思いがけない一葉であった。

A4サイズに紙焼きされたモノクローム写真、古城跡を自分勝手にうろつく筆者のロングショットである。今まで104回つづいたブログで筆者の写真は一枚もアップする機会がなかったので、最後の回に登場させることにした。(ただしこのアップした写真は筆者の粗放なスキャニングによるもの)

乗り込んだ飛行機は定刻通り那覇空港を飛び立ち東京へと向かった。窓外は小憎らしいほど上天気である。正直に告白すると心の中にはまだまだ沖縄に居たいという未練だけが残滓のように残っていた。

沖縄戦争のことも もっと調べてみたいし、名もなき戦場も訪ねてみたい。周辺の離島を ゆるりと滞在して呆けてみたい。沖縄のダムをすべて制覇したい....次々に宿題が浮かびあがってきた。

近い将来、沖縄を再び訪れる強い予感がしてきた。旅が再開されるまでこのブログ、しばらく小休止としたい。

最後にひとつご報告。実は筆者も友人の勝手な素行を写真におさめていたようで、旅行後の写真整理の際に発見した。身勝手ついでに、いまだ友人も見ていないこの写真、許可なしだが公開することにした。

....では近いうちにまた、お話をしましょう....

沖縄本島最南端に位置する具志川城壁にとりつきシャッターを切る友人



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