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本日は午後から時間ができたので、那覇バスターミナルを訪ねることにした。急がない沖縄本島の旅 「ちょぼちょぼ旅」に必要不可欠のバス。そのベースとなるバスのルートやタイムテーブルの情報集めである。ゆいレールの旭橋駅からすぐとの案内に従い、早速ゆいれーるのおもろまち駅へと出掛けた。

おもろまち駅に着いてから、目の前の大きなビル ”DFSギャラリア 沖縄” に一度も入っていなことを思い出し、ランチがてら立ち寄ることにした。かなり大きなビルなのに、3層しかない。たっぷり空間をとった贅沢な造りである。さすがに日本唯一の空港外免税店らしい構えだ。

2階南側の端が正面出入り口になっており、そこを入ると左側一列に大手レンタカー8社のレセプションカウンターがズラリ。その右手からショッピングゾーンが始まる。高級コスメがところ狭しとディスプレイされたエリアを抜けると一流ブランドが軒を並べたブティックゾーンになる。その中央にはシャンパンバーなる洒落たブレイクスポットが設けられていた。その後もラグジュアリー(時計・宝石)、レザー(バッグ・靴)と延々と続く。反対側の端に3階のフードコロシアムへ上るエスカレーターがあった。とにかく横に長〜いビルなのである。

フードコロシアムはオープンキッチン、フードコートスタイルのやたらに広い飲食スペース。中央部に集められた8つのブースではアジアンフードからイタリアンまで世界各地の料理が目の前に並ぶ。

入口で手渡されるカードを持ち、ブースを回りながら好みのものをオーダーし、カードに記入してもらう。帰りにそのカードを レジに渡し勘定する便利システム。ランチに選んだのは”ガパオライス”と云う名前のアジアンフードで、ミンチが香ばしく スパイスが軽く利いたけっこうイケる一品だった。

昼食後、一路那覇バスターミナルへと始動。那覇空港に到着した日以来の”ゆいレール” との再会だ。乗り込んだ2輌編成の小さなモノレールが旭橋に向かって動き出す。

第一印象から好感を持ったこのモノレールだったが、やはり乗り心地は良い。車内はモノレールより電車に近いレイアウトである。沖縄滞在が終わる頃にはすっかり好きになっているかもしれない。

時速50km前後で滑走する6輌編成の東京モノレールに比べ、どう測っても時速30kmくらいで走行している2輌編成のゆいレール。どことなく東京下町を行く都電荒川線の1輌電車を思わせる風情なのである。これは懐古趣味の贔屓目(ひいきめ)ではない。懐古するほど都電に乗ってもいないし年齢でもないことをお断りしておく。

ゆいレール旭橋駅から那覇バスターミナルまで歩いて数分の距離であった。まったく飾り気のない実用優先のターミナルだ。以前この場所には沖縄県営鉄道の那覇駅舎があったが、やはり戦争で全焼したらしい。敷地内の乗り場の数は多く、乗り入れているバス会社も4社あり、バスの運行経路などはかなり複雑なルートマップになっている。事前にネットで調べた時の疑問点メモを片手にターミナルオフィスに飛び込む。必要な情報を入手するのに40分ほどかかってしまったが、これで 「ちょぼ旅」 のルートスケジュールが組み上げられる。

オフィスを出ると陽はまだまだ高い。さてどこへ行こうか....旭橋から距離も近いので、3日前の孔子廟の続きをやろう。工事中だった波の上ビーチも近くで見学してみたい。 よし! 「続・ウエストサイドを歩く」 だ。


「DFSギャラリア 沖縄」のガイドページへ

単に「観光客相手の繁華な通り」というのが、国際通りに対する率直な印象である。しかし名産やお土産を買うなら大変便利な通りともいえる。沖縄の名産・工芸品から泡盛古酒(クースー)までほとんどが揃っている。

県庁前から国際通りに入りしばらく歩いたが、似たような店が並んでいるせいかすぐに飽きてしまう。ひと通り歩いたあと、国際通りに繋がっている無数の路地に踏み込んでみた。

国際通りから南へ入る”龍宮通り”

東西に走る国際通りの北側は総じて直線路が多く迷わないが、南側は曲がりくねった路が多く10分も歩いているとまったく方向感覚を失ってしまった。

向き合わないとすれ違うこともできないほど路が狭くなったり、どこへ出るのか見当もつかない。まるで那覇ワンダーランドといってもよいほど次にくる風景の予想がつかない面白さがある。

公設市場へ行く市場本通りや焼物で有名なやちむん通りにぶつかる平和通りのような大きな通りもあるが、葉脈のようにどこまでも細くつながる小路が面白いのだ。

太平洋戦争の想像を超える被災で那覇市街は全面焼け野原となった。その中でいち早く復興したのがこの国際通りと云われており、通りの距離1600mがちょうど1マイルに相当することから駐留していた米国人記者から「奇跡の1マイル」と呼ばれた。


しかしその復興の影には、近くにあった「やちむん(焼物)」の再開や闇市の発生が強く影響したという。

そのせいかこのあたり一帯はしぶとさのある生活臭が沁み込んだ町並みで、小路ぞいの住宅などはどんなに古くても風化など微塵も感じさせない。とくに壺屋近くの瓦葺きの古民家などは年輪を重ねた風格さえある。

一方国際通りに近いほど繁華街の香りが強く、竜宮通りからグランドオリオン通り、桜坂通りのあたりは戦後昭和の風合が漂っており味わい深い地域である。

名もなき小路はさらに面白く、素顔のように飾り気のない素朴さが印象に残る情景ばかりであった。

国際通りの買物は手早くすませ、あとの時間は路地探索にすべてを使おう。迷いこむのを承知で足にまかせて歩いてみれば、心ひかれる何かを発見できる。


路地探索の途中で発見したお店がある。変わった名前であることと、店の中に大きな冬瓜(とうがん)が飾ってあったことが入店のきっかけになった。名を「謝花きっぱん店」といい、300年以上つづいている沖縄の伝統銘菓の店だ。扱っているのはふたつの銘菓で、橘餅(きっぱん)と冬瓜漬(とうがんづけ)。

「きっぱん」は中国福州より伝来し琉球王府でも高位のものしか口にできなかった貴重なもので、今では作れるお店がここの一軒だけになったという。沖縄産のミカンでつくられた甘さをかなり抑えた柑橘の芳香を楽しむ上品な菓子。

「冬瓜漬」は冬瓜を砂糖煮したもので口に入れると濃厚で深い甘さが口中いっぱいに広がる。菓子には長い歴史を持つ京都からもお茶請けによいとわざわざ注文がくるとご主人が教えてくれた。

写真のお菓子は「冬瓜漬」

「国際通り」のガイドページへ


謝花きっぱん店
−じゃはなきっぱんてん−

住所 那覇市松尾1-5-14
電話 098-867-3687
営業時間 9:30〜19:00(電話での注文可)   日曜定休

交通
 ゆいレール 県庁前駅・美栄橋駅から7分
 BUS 那覇BTから7分(ルート便多数)−バス停 「松尾」 下車2分
 車 那覇空港より 20分(国道331号線を北上−国道58号線から国際通り方面へ−国際通り周辺に多数あるコインパーキング利用が便利)

国際通り周辺の路地散策についつい夢中になり、時計の針はすでに午後3時を指していた。時間が分かったとたん空腹をおぼえ、牧志公設市場をのぞくことにした。市場本通りのアーケード街はさすがに混んでおり、大半が観光客で占められゆっくりと行き交っている。

市場本通りのアーケード街

第一牧志公設市場の建物の周りにはびっしりと店が並び食材で埋められていた。まだ若い緑色のバナナが房でぶら下がり、マンゴー、パパイヤ、ドラゴンフルーツなど原色鮮やかな果実が山のように積まれ、思わず手が伸びてしまいそうな光景がつづく。フルーツだけでも何店も軒を連ねており、商売になるのかといらぬ心配までしてしまうほどだ。


あとで判ったのだが、公設市場内で売られているのは鮮魚・精肉・総菜・漬物・乾物のみで野菜・果物などは外周の店で補っているようである。その屋内の鮮魚売場にはフルーツ以上にカラフルな魚介が並び、名前も聞き慣れないものが多い。

「オニダルマオコゼ」、「オジサン」、「インディアンミーバイ」、「夜光貝」、「ノコギリガザミ」 ...??? 知っているのは沖縄県魚のグルクンとハリセンボンそして伊勢エビくらいのものだった。

「この赤い魚は何?」「インディアンミーバイさあ〜」「なんでインディアンなの?」「派手だからさあ〜」「....(ハデならインディアンなの?)」

店先で次から次へとしつこく質問しているうちにますます空腹感がつのり、2階食堂で調理してくれるという勧めに素直に乗ってしまった。

左写真:ミーバイ(中央)、赤い魚がインディアンミーバイ 右写真:ミーバイの煮付け

1階店舗で魚を選び料理の種類を決め精算をする。その店の係員が提携している2階の食堂へ案内してくれると同時に食堂へ品物を手渡し料理種類を伝えてくれる手軽なシステムになっている。

ちなみに2階のフロアは7軒の食堂が共同営業しており、その他はお菓子売場、市場管理事務所、トイレなどがある。実はこのあと食べた料理が旨くて、沖縄滞在中ここに3度も通うことになったのである。

左上:伊勢エビとセミエビ 右上:伊勢エビのバター焼 左下:オジサン煮付け 右下:伊勢エビの味噌汁


「第一牧志公設市場」のガイドページへ

牧志公設市場でレイトランチをとったあと、さらに南の奥へと探索の足を伸ばした。細い抜け道や裏道がアリの巣のように走っている。公設市場というと食材だけと思っていたが、奥には雑貨部や衣料部まであることを発見。そしてその奥には新天地市場、農連市場とまだ市場がひかえていた。

小路をめぐるうち”やちむん通り”に出た。

公設市場からほど近いところにあるのだが雰囲気は一変している。あわただしさなど毛ほどもなく、ゆるりとした空気が流れている。

沖縄では陶器焼物を親しみをこめ「やちむん」と呼ぶ。

道の両側にはやちむんの直売所や製陶工房が点々と個性的な看板を掲げている。

軒を連ねるような混んだ建て方ではなく、十分の距離を取って店を構えているので、客も落ち着いて鑑賞できる間がある。


やちむん通りに入ってすぐのところに壺屋焼物博物館がある。細長くひょろっと高い建物なのですぐに見つかる。壺屋焼をはじめ陶器焼物のことが短時間で簡潔に理解できる。

筆者のように焼物に門外漢なら格好の簡易学習センターになってくれる。知識を少し仕入れてからお店を回ると、お店からの説明まで面白くなるから不思議なものだ。

日差しの中に白く浮き上がる東ヌ窯のある建物

焼物もさることながら、製陶工房などの建物も実に個性的。新旧がうまく折り合いをつけたような独特の風情がある。

中でもひときわ年輪を重ねた外観の建物がある。「東ヌ窯(あがりぬかま)」と呼ばれる数多くの名品を生んだ製陶の窯がある建物で、私有地のため外観鑑賞のみとなっていた。

300年以上もつづいたこの焼物の町も太平洋戦争で一面焼け野原となったが、奇跡的に被災を免れたのがこの「東ヌ窯」だった。

ここに陶工が戻り、焼け残った窯で生活道具を焼き始めたのが戦後復興の端緒になったという。

1974年の廃窯になるまで活躍をつづけたこの名窯は、枯淡の瓦が美しい建物のなかで休息をとっている。

周りをぐるりと囲う石垣があるが、その中に組み入れられたシーサーが今ではすっかり風化してしまい獅子のレリーフをとどめていない。

じっくり観察すると、石灰岩の中にかすかに他と違う石が見つかり、うっすらとシーサーの姿が見えてくる...

瓦屋根のシーサーは時代がかなり下った後期に飾られたもので、それでも100年以上は経っているとか。


ひめゆり通りに接するところでやちむん通りが終わるのだが、その端に300年前に掘られたという共同井戸があった。沖縄は昔から渇水傾向にあり、ライフラインである飲料水など用水の確保は最重要事であった。そして水のあるところ必ずあるのが拝所という沖縄の風土。

今まで歩いてきた首里や南部でも、そしてここにもあった。水を享受する素直な感謝が”かたち”になっている。ここの「東ヌカー(あがりぬかー)」は本土と同じ汲み上げポンプの水場になっており、沖縄に来て初めて見たポンプ井戸だった。

今日の午後半日は国際通り、市場、やちむん街と歩き廻ってしまった。観光が前面に出された地域だが、一歩路地に入り込むと街角や路地裏にはしがみつくように生活臭が満ちていた。生活という2文字の漢字はそれぞれに「いきる」と書く。「いきる」ために費やされたエネルギーの跡がたしかにあった。

やちむん通りの案内(拡大)

写真左:ポンプ式共同井戸と拝所         右:焼物の案内板(クリックすると拡大)


「やちむん通り」のガイドページへ

沖縄へ来て1ヶ月が過ぎようとしていた。移住したわけでもないが、すっかり沖縄の空気に慣れてしまった。まだしばらくはここ那覇にいられそうなので、バスや歩きを中心にした ”ちょぼ旅” をつづける。

本島を巡るとき幹線道路となる国道58号線だが、何度バスで往復したことか。窓外に広がる沖縄の風景のなかで、前から気になっていた広大な敷地を占有している米軍基地。

Marine Corps Air Station (普天間海兵隊飛行場)

那覇から58号線を北へ向かうと浦添のキャンプキンザー、宜野湾の普天間飛行場、北谷(ちゃたん)のキャンプフォースター、嘉手納(かでな)の飛行場と延々とつづいている。

戦後65年も経つが、多くの米軍基地が本島のいたるところを占有している限り、県民にとって忘れたい戦争の記憶も薄まりようがないのではなかろうか。

本日は日本復帰前の町並みを想起させる宜野湾の町歩きを思い立ったので、58号線沿いの大山でバスを降りてみた。

まるで米国ロス郊外に見られるような町並みだった。

出入国を繰り返す米軍駐留のアメリカ人向けのためか、店頭の看板はほとんど英語で表記されている。家具やキッチンウェアから古着まで多種の店が軒を並べていた。

戦火で荒れた町をいち早く復旧するためには、駐留米人の消費は欠くことのできない絶対条件であったろうことは想像に難くない。長い風雪を刻みながら復旧し変遷してきた名残りのようなものをこの町から感じとれる。

このあたりは観光地区ではないが、軍から払い下げられた品や古着など面白いものが多く発見できるので旅行者にとっても気軽にショッピングができる通りである。またハーレーダビッドソンや美術彫像や大型置物の専門店なども点在しているのでお好きな向きにはけっこう楽しめる穴場ではなかろうか。

                            国道から海岸へ向かう静かな横道

58号線沿いに普天間飛行場への入口を示す案内があった。

移転問題ですっかり有名になったこの長大な敷地の米軍海兵隊施設は宜野湾市の中央部をほとんど占有している。

基地はいずれもセキュリティで固められており、せいぜい広大な敷地の外周をめぐるのみであった。

外周を歩いて想い起こされたのは、東京朝霞の米軍キャンプのことだ。今は東京都に返還され 「光が丘公園」 となり、都民の憩いの場として利用されている。

朝霞米軍キャンプの跡地を歩き、その広さに改めて驚いたことを鮮明に記憶している。一日でも早く普天間の米軍施設地が返還され、県民に活用されることを願うばかりだ。

しばらく国道58号線を歩いたが変化がなくなってきたので、宜野湾警察の先を西の海岸方面に曲がってみた。

その通りは国道58号線とはうって変わって、静かで緑たっぷりの道だった。ところどころに置かれた像がポーズをとっている。

その通りの右手に県立の宜野湾高校が現れた。道路沿いに飾られている生徒の絵がどこまでも長くつづいている。グラウンドでは生徒が放課後の活動に熱中しており、どこか のどかな風景で懐かしささえ感じとれる。

『この地域は太平洋戦争後 米国に接収され、キャンプマーシーが建設された。そして30年の歳月が過ぎた昭和51年3月31日にようやく返還され、市立真志喜中学校、市立総合グラウンド、県立宜野湾高校、宜野湾警察署など公共施設がいち早く建設された』と記念石碑に刻み込まれていた。




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